「ぬぅ、逃げたか」
「いや、そうじゃないだろ」
月曜日の放課後。今日は慧心女子ミスバス部の練習日だ。
昨日の宣言通り、今日はミホ姉が練習を見に来ている……のだが、肝心の目的がここにはいなかった。
言うまでもなく、部外者で男でしかも成人である一条さんは、小学校の体育館までは入りにくい。
今日は万里と葵と一緒に、公園に行ってもらっている。
「昴、隠したな」
「いや、隠してないって、なんでこっちに来ると思うんだよ」
一条さんを目当てで部活に来たミホ姉は、終始ご機嫌ナナメだった。
「どうすっかな、部活中に顧問から学校から離れるのも問題だし、終ってからじゃ向こうもいないかもしれないし」
「ミホ姉、一応部活中は学校にいようとか、そのあたり考えてたんだな」
「あん?」
「いや、なんでもない」
鋭い眼光で睨まれた、余計なことは言わないでおこう。
「おー、みほし、いおりに会いたい?」
「なんだなんだ、みーたんにもついにそんな相手が現れたのか!?」
「はうっ、み、美星先生が?」
「トモ、こういうのに年齢は関係ないわ、片想いの経験者としてみーたんを全力で援護するわよ」
「ふぇ!? か、片想いって、べつに、わたしは、その……」
そんなところに、ウォーミングアップを終えた5人が集まってきた。
みんなこういう話好きだなぁ、そして智花、片想い中なのか、一体どんな相手なのか……少し気になるな。
「ばか言うなって、私はその一条ってのがどういう奴か見に来ただけだ、昴の奴が隠したせいで会い損なったけどな」
だから、俺のせいじゃないって……。
「おー? おにーちゃん、いおりをみほしから隠した?」
「ははー、すばるん、最近ますますいおりんと仲いいもんな」
「ま、まさか長谷川さん、一条さんとそんなただならぬ関係に!?」
だから隠してないって、そして紗季さん、ただならぬ関係て一体どういう関係ですか?
「ま、いないなら仕方ないか」
下手に矛先が向くのが嫌だったのか、ミホ姉があっさり引き下がった。
「それより昴、一応聞いておくが……勝てそうか?」
「そればかりはなんとも言えないな、でも負ける気はしないよ」
「よし、いい返事だ、ビシッと決めていいとこ見せろよ」
にかっと笑ったミホ姉が、満足そうに俺と智花たちを見渡して体育館を出て行った。
「さて、私は私のできることをするとしようか」
ぼそっと、そんなことを言い残して。
□視点変更 〜 一条伊織
それは、見ようによっては小学生にも見える女性だった。
「はじめまして、一条伊織と申します」
「こちらこそはじめまして、昴の叔母の篁美星です、お時間を取っていただきありがとうございます、いやー間に合ってよかった」
香椎万里と萩山葵の練習に付き合い、片付けをして帰る直前、この女性は現れた。
高校生2人は先に帰し、場所を普段長谷川昴と打ち合わせをするために利用する喫茶店に代えた。
思えば、女性と2人きりで同席することなどいつ以来だろうか、と具にもつかないことをぼんやりと考えた。
「いやー、昴から聞いてはいましたが、本物だったんですね」
「元プロですよ、残念なことに来期の契約はありません」
「いえいえ、いっつも昴の奴が凄い凄い言ってます、あいつも一応県下では名の知れた選手だったんですから、まだまだできますよ」
「……、私は投手でして、少々肩を痛めてしまったんです……幸いにして他の部位は無事ですがね」
……、よく喋る女だ。
おかげであまり語りたくない内容まで語る羽目になってしまった。
肘も腰も足も無事、肩も投げられない程ではない。
けれど、投げられたとしても、それはもうプロの球ではない。
140kmの棒球、と嘲笑された苦々しい記憶が脳裏をかすめた。
「やっぱり、小学生くらいから野球一筋だったんですか?」
「ええ、まぁ、昔から野球は好きでした」
「ん? でしたって、ことは、今は?」
「今ももちろん好きですよ、ですがプレーヤーとして以前のように愛することは出来なくなってしまった」
会話の止めどころが掴めない。
楽しそうに笑顔で話されては、断ち切るわけにもいかない。
それどころか、ずるずるとこちらの事情まで話してしまっている。
別れ際に萩山葵が言っていたが、確か小学校の教師か、職業柄話すことは得意なのかもしれない。
「じゃあ、指導者か何かになるんですか?」
「……、なれたら、ですけどね」
「プロになるくらいの選手なら、どこでも引く手数多でしょう」
「一流の選手ならそうでしょうが、あいにく私は三流です、明日をも知れぬ身ですよ」
「へぇ――」
気づいた。
表情は笑っているが、この女の目は、笑ってない。
「そうですよね、確か先月くらいでしたっけ? 自由契約になったのって」
「……、そうですが、それが、なにか?」
「いいんですか? 高校生のバスケットなんかに付き合っていて、しかもせっかくの母校への就職活動をふいにしてしまって」
――。
一瞬、思考が停止した。
この女と会うのは、間違いなく初対面だ。
だというのに、ここまで推測されてしまうものなのか?
なまじ、客観的な情報だったために疑いをもったのか?
「……確かに、安穏とはしていられません、早く次の仕事先を見つけなければいけませんね」
「にゃはは、プロ野球なんて華々しい世界も、内情は大変ですねぇ」
「ええ、正直、野球にこだわってもいられないかもしれませんね」
混乱に近い頭で、なんとか野球から話題をそらそうとする。
「ああ、それは無理ですよ、一条さんは昴と同じ匂いがしますから」
「え?」
長谷川昴と、同じ匂い?
あの純真の塊とも言えるような高校生と、汚い手段をもちいる私が?
「昴はバスケ中毒、そして一条さんは野球中毒、なんていうか、すっごく似た者同士ですよ」
猫のような印象を与える瞳が、やけに獰猛な色をもって見つめてくる。
思わず、傍らに置いた鞄に視線を向けた。
中に入っているのは、契約書。
覚悟を決めるために、危険だと承知で常に持ち歩いている自分への戒め。
まだ取引の条件が達成されず、未記入のままの空手形。
「だから、多分一条さんは、野球に関することしかできない、やろうとしない、すべては野球のためであり野球がすべての元になってる。
昴もバスケのために赤点取らないよう勉強してるくらいですからね」
当たっている。
そして、すでに疑われている。
この女は、私を周到に調べてきている。
「それは、一条さんもわかっているんじゃないですか?」
わかっている。
だからこそ、こんなえげつない茶番を演じている。
じっと、篁美星がこちらを見つめてくる。
違うとはいえない、野球を否定することは魂に賭けても言えない。
「……ええ、その通りです、私は……昴君がバスケットを愛するのと同等か……それ以上に野球を愛している」
「おお、やっぱりそうなんですか、流石はプロ選手……でも今バスケをしてますよね? どうしてですか?」
当然、話はこういう流れになってくる。
「もしかして、野球と関係あるんですか?」
一息、コーヒーを飲んで間を空ける。
さて、どう切り返すべきか――
□視点変更 〜 篁美星
「詰めが甘かったか」
自宅に戻って、着替えもせずにPCを立ち上げる。
「まぁ、なにか裏があるっぽいのはわかってたが、それを確認できただけでも収穫か」
結局、最後は「競技は違えど、高校生や小学生を指導できるのはいい機会ですから」と、応じられて、こちらの攻め手もそこで尽きてしまった。
「ま、野球が死ぬほど好きってのは間違いなかったか」
ディスプレイに表示されているアイコンは、ネット上で集めた新聞や個人ブログなどの情報をまとめたものだ。
国公立大出身の選手として、ドラフト当時は少し注目を集めたらしく、思ったよりも情報は多く残っていた。
小学校の卒業文集には自分がどれだけ野球が好きかが書かれていた。
中学高校と野球を続けながらも、母子家庭の事情で強豪校に進むことが出来なかった。
プロテストと社会人野球のテストにも落ち、学力試験を受けて学費の安い国立への進学を決めた。
大学時代に母親が亡くなった。
「まったく、なんて強烈な生き様だ」
何度も、野球を断念しなくてはならないような状態に追い込まれている。
にも関わらず、ついにプロ野球にまで上り詰めた。
それらの断片を繋ぎ合わせると見えてくるのは、恐ろしいまでの野球に対する執念。
「なにか……なにかあるはずだ、あんな奴が、ただバスケの手伝いしてるはずがない」
嫌な予感が、もう確信に近い状態まで上がってきている。
昴にとってバスケは、言いすぎではなくすべてだ。
あいつは決してバスケには手を抜かない、まさにすべてを賭けて戦う。
だから、私はバスケに関しては誰よりも昴を信じている。
そして、バスケを奪われた時の脆さも、昴は同時に併せ持っている。
もし相手が、昴と同等かそれ以上のものを賭けて、それも勝つためではなく昴を倒しに来ているのだとしたら。
「まさか、とは思いたいけど……本当に敵じゃ、ないよな、一条さん」
それは願望にすぎないことはわかっている。
バスケ部を手伝うメリットが、一条にあるはずだ、指導経験などではない、もっと大きな具体的なメリットが。
「冗談じゃないぞ、あれでも可愛い甥なんだ、万が一にもあんたなんかの食い物にさせてたまるかっ!」
□視点変更 〜 永塚紗季
「紗希〜、表にもうお客さんいないわよね?」
お好み焼き屋『なが塚』の閉店時間まであと少し。
今日は月曜日なせいもあって、夜のお客さんはやや少なめだった。
「うん、もういな……って、うわぁ」
お客さんはいなかった。
その代わり、泥酔したスーツ姿の男の人が看板近くにもたれかかっていた。
「え、っと、もしもし? こんなとこで寝てたら風邪をひきますよ? もう秋も終盤なんですから」
一応声をかけてみる。もし面倒になりそうならすぐお父さんを呼びに行かないと。
「んっ、あぁ」
幸いにも、酔っ払いは私の声に反応してくれた。
「……え? い、一条さん?」
その顔は、最近よく見るようになった男の人。
といっても、いまはアルコールが入って酩酊しているため、普段の紳士然としたイメージはまったくなくなってしまっていた。
「んぁ、これはこれは、さきすわん」
「どうしたんですか、こんなふらふらになるまで」
しかも、こんな早い時間に。商店街を行きかう人たちを見渡しても、アルコールの気配がする人はほとんどいない。
明らかに1人だけ異常な酔い方をしている。
「わたしはね、やきゅうを、したいんでふよ」
「はい?」
酔っ払った一条さんが、焦点の合わない目で、やけに真剣に語りかけてきた。
「でも、もうできないんです、だから、だからなんでもやきゅうにかかわって、いたかった、やきゅうはわたしのたましいです」
「え、ええと」
独白は止まらない、どうすべきか悩みながら、私もそのまま聞いてしまっている。
「たましいをすてるか、それいがいをうりとばすか……わたしは、あくまになることにしました」
「そ、そうですか」
「すべてをかくごしてました、けれど、ついさっき、そのことにちかいところまで、してきされまして、こわかった、おぞましいおこないをする、みにくいわたしがこわかった、かくごはしていたのに、おろかなことです」
「はぁ……」
そこまで言ったところで、突然一条さんはスッと立ち上がった。
「そういったりゆうで、ここにすわりこんでしまいました、おじゃましてもうしわけありません」
カクンッと頭を下げ、酔っ払いとは思えない足取りで立ち去っていった。
「なんだったんだろう……?」
大人には、時にお酒を飲まなければやっていけない時があるらしい。
何があったかはわからないけれど、一条さんにとって今日がそんな日だったのかもしれない。
と思いながら店の中に入ろうとして、さっきまで一条さんが座り込んでいた場所にある物体に気が付いた。
「鞄? 忘れ物かしら? って、うわわわ!?」
どうやら口が開いていたようで、持ち上げようとした瞬間、中身がぶちまけられてしまった。
「あっちゃー、しまったわ」
急いで拾い集める。書類がほとんどだったが、ファイルに纏まっていたおかげで散らばらずに済んだ。
「えっと、ああ、やっぱり一条さんのね」
悪いとは思いつつも、持ち主確認のためその書類に少しだけ目を通す。
「七芝高校、教師採用に関するご案内?」
それは、七芝高等学校の体育教師採用書類。
そして――野球部のコーチへ就任する約束手形。
「なに、これ……」
一条さんの、七芝高校への就職活動は、失敗になってしまったと聞いていた。
長谷川さんの味方をして、ダメになってしまったと。
「じゃあ、この書類は、一体なんなの?」
判子も署名もされていない空手形。
けれどそれは、採用者にしか本来渡されないはずの書類だった。