ある日曜日の早朝。
香椎家に、インターホンが鳴り響く。
「…え?誰だろう?」
愛莉がその対応をするため、玄関まで足を運び、ドアを開けた。
「…葵さん…それに、美星先生…」
「おはよ、愛莉ちゃん」
「よっ、愛莉!今日何があるか、忘れてないよな?」
微笑みと挨拶を返す二人。
愛莉も笑顔と元気な声で答える。
「はい!勿論です!…でも、今日はどうして?」
当然の疑問だった。今日の事について、伝えるべき事は全て先日に伝えてあるはず。
それに対し、葵が済まなそうな顔をしながら返した。
「…ごめん、愛莉ちゃん。万里くん呼んでくれる?」
「え?お兄ちゃん…?分かりました」
愛莉が玄関から覗ける部分から姿を消すとほぼ同時に、
「お兄ちゃん、葵さんと先生が呼んでる」という声。
それから余り間を置かずに、愛莉が万里を連れて戻る。
事情の想定が出来ず、戸惑っている万里に、
葵は両手を合わせて頼み込んだ。
「ごめん!今日一日だけでいいから、昴の代わりしてくれない!?」
明らかに抜けている単語があり、横で美星がため息をつく。
当然、万里が理解できている筈がなかった。横の愛莉もハテナマークを頭に浮かべている。
「…ええと…昴の代わりに何を…?」
聞き返した万里に、今度は美星が説明する。
「…今日さ、他校との試合があるんだよ。それも、所謂ライバルってとこと。
おまけに、こっちまで出向いてくれるから、
今日は何があってもキャンセルする訳には行かない…んだけど、
昴の奴が今日に限って強烈な風邪引いちゃってさ」
「その他校の子に感染したらやっぱまずいし…
それにやっぱ、私だけじゃ不安なとこもあってさ。
それで昴の代わりが務められそうな人っていうと…万里くんしか思い当たらなかったの」
美星の言葉に繋げるように、葵も事情を説明した。
納得した万里が、すぐ横に居る妹を見る。
その表情に少しの陰りがあるのを見て、決心をした。
ライバルとの試合。それがどれだけ重要な物か。
それを「コーチ不在」なんて下らない理由で、妹を、そして妹の仲間を負けさせる訳には行かない!
「…俺で良ければ喜んで!」
「よく言った!」
「本当!?ありがとう万里くん!」
これも、妹の為。
…心の中には、このままコーチになって愛莉にとっての昴の立ち位置を奪ってやろうか、
なんていう思いも僅かに生まれた万里であった。
竹中夏陽は、いつもは平日に通る道をそのまま辿っていた。
いつもならばべったりとくっついている妹達は、彼の言葉で先に学校へ向かっている。
内容は教えていない。夏陽自身の判断だった。
ただ現地についてそれを知っても、拒む事は無いだろう。
そんな事を考えながら歩いていた彼の目に、一つの車と、それの回りに何人かの男が立っている姿が入る。
あまり都会していないとはいえ、この辺りに車が通る事は対して珍しくない。
夏陽も対して気にせず、そのまま通りすぎようとした。
そのうちの一人の男が、よく知った少女を抱えているのを見るまでは。
「…真帆っ!?」
三沢真帆。夏陽の幼なじみである少女。
夏陽の呼びかけに反応して、声を上げた。
「…ナツヒ…?ナツヒッ!助けっ…!」
その途中で乱暴に車に投げ込まれる。
そして、一人の男を置いて車が走りだす。
夏陽はそれを目で追いながら、残った一人へ乱暴に問いかけた。
「おい!あんたら真帆を…!」
言いかけた所で、男の鉄拳が幼い夏陽の顔に飛ぶ。
小学生が受けるにはあまりに重たい拳。そのまま夏陽は体勢を崩し、仰向けに倒れこんだ。
男が懐に手を入れながら近づく。
「…ボクチャン。もしこの事を誰にも話さないと約束するんなら、助けてあげるよ?」
優しい声で、物騒な内容を口にしながら、男は懐から、光る鋭利なものを取り出す。
銀に光るそれを見て、夏陽はそれが何か理解した。
それでも夏陽に、従おうなどという思いは浮かんで来なかった。
「うるせえ!真帆をどうする気だ!」
猛る夏陽。男も激昂を見せた。
「…クソガキがっ!」
振り上げられる腕。その先には、先程取り出したもの。
襲い来る衝撃を想像して、夏陽は目を瞑った。
「…おい。小学生相手に何やってんだ、オッサン」
男とは違う声。年齢的には、高校生ぐらいの物が響く。
そして、いつまでも襲ってこない衝撃。
恐る恐る目を開けると、振り上げられた腕は、新たに現れた男の手に掴まれていた。
そして、掴んでいる手とは反対方向の腕で、関節部分を殴る。
「がっ…!」
男の悲鳴と同時に、鉄が地面に落ちる音。
それを拾い上げて、新たに現れた方の男が呟いた。
「けっ。全然鍛えてないのな、アンタ。だから小学生にこんな事やってたのか?」
「んだとテメ…ぇ…」
怒りの矛先をその男に向けた、その声の力がなくなっていく。
それは。その男の圧倒的な気迫、威圧感による物だった。
まるで肉食獣のような、今にも殺してやらんという気迫。
少し離れていた夏陽ですら、それを十分に感じ取れていたのだ。
それを真っ直ぐ受けていた男は、言葉を発することさえ出来なかった。
そして、僅かの間の後。
「ひ…ひいいいいいいい!」
男は怯えきった悲鳴を出して、全速力で逃げ去った。
「チッ。せっかくあの口だけ先輩どもと合わずに済む日だったってのによ…
何でこの日に、おまけにこんなとこまで来て、口だけ野郎を見なきゃいけねえんだよ」
悪態をつく、その顔。
夏陽は見覚え、そしてこの声には聞き覚えもあった。
たしか…
「…たしか、リュー…」
「ん?よく見りゃお前、長谷川とやりあった場に居た奴じゃねえか。
妙な縁だな…須賀竜一だ、覚えとけ」
竜一は軽く己の名を述べると、その場を後にする。
夏陽も立ち上がり、車の向かった方向へ歩みを進めた。
「…おい。どうするつもりだ?」
その背中に目も合わせないまま、竜一は尋ねる。
「…決まってる。真帆を助ける」
「ハッ。何言ってる。誘拐事件だぜ?ガキ一人でなんとか出来る代物じゃねえぞ。
おとなしく警察に言ったほうが確実だと思うがな」
嘲笑するような、竜一の言い草。それでも夏陽は声のトーンを変えずに言う。
「分かってるなら…あんたが警察に言ってくれよ。俺は止まってる訳には行かない」
「…分からねえな。何でそんな強情になってる?たかが知り合いだろ?」
一呼吸の間。
決心と共に、夏陽は告げた。
「「助けて」って言われたんだ、真帆に。引き下がったら男じゃねえ」
再び一呼吸の間。
次に決心したのは、竜一の方だった。
「…面倒くせえ奴だな」
懐から携帯電話を取り出し、番号を入力しながら夏陽に問う。
「…フルネーム教えろ、その…真帆、ってやつの」
「え…?あ、三沢真帆」
端末を三回タッチし、携帯を耳に当てる。
そして、小さな声で話し始めた。
「…あんた…?」
話終えた竜一が、夏陽に向き直る。
「捜索はするらしい…どうにも曰くつきのナンバーみたいでな。
確か…三沢っての、あの有名な三沢か?」
「ああ…そうだけど…曰くつきって?」
一単語が引っかかり、夏陽が問い返した。
「…アレだ。ヤのつく無職の奴等っぽいぜ。
そりゃ、それだけの資産家の娘なら狙われてもおかしくないな。
すげえ強気で「この事は我々にお任せ下さい」とかなんとか言われてたが…ま、聞くまでもねえな」
そう言い切って、竜一が夏陽の横に並ぶ。
「…胸糞悪い思いをしないで済む筈の日に、スッキリできねえのは癪だからな」
その言葉で、夏陽は竜一の思いを受け取る。
二人が駆け出すのは、ほぼ同時だった。