体育館に響く、キュッキュッとシューズがこすれる音。
ボールの弾む音が私の身体の中にまで伝わってくる。
「はあっ、はあっ、はっ………!」
私の大好きな、バスケットボールの風景。
でも、今の私の気持ちは全くそこに向いてなくて………練習とは別の原因で火照る身体が、ついに言うことを聞いてくれなくなった。
「ちょっとトモ、大丈夫っ?」
「おー、ともか、おかおまっか………すごくしんどそう」
いつもの部活も終盤。
全体での実践を視野に入れたオールコートでの練習。
何年も前からやっている、いわゆる得意分野で大好きなスポーツ。何より今はそれを大好きな仲間たちとやれている。
持久力には自信があったし、体力切れで心配されることなんて今までなかったのに………。
「はあっ、はあっ、ご、ごめんね、みんなっ……」
「───智花、大丈夫かっ?!」
ぴくり、と身体が震える。
息苦しさが更に増してしまう。
少し離れたところから駆け寄ってくるのは、四月からこの女子バスケットボール部のコーチをしてくれている長谷川昴さん。
自分でもわかっている。体調不良の原因。
この人が………昴さんが、そばにいること。
それが私にとって、唯一にして最大の悩みのタネだった。
「………なぁ智花。この際、率直に聞いちゃうけど……何か悩みでもあるのかい?」
「い、いえ、そういうわけじゃ……」
せっかくのオールコートを使った実戦形式での練習も、ハーフコートの2on2に早変わり。
今は他の女バスメンバーが練習しているところを、遠くからコーチである昴さんと休憩している私で眺めている状態になっていた。
「……そっか。でも誰にだって体調が悪い時や気分が乗らない時、調子が出ないことはあるんだから全然気にしなくていいからな。
前に愛莉にも言った気がするけど、智花だって智花らしく、智花のペースでやればいいんだからさ」
ずきん、と胸の奥が強く痛む。
優しい言葉。私を励まし、見守ってくれる存在。
でもその反面、他の女バスメンバーの名前が昴さんの口から出たことに対して胸を引き裂かれるような痛みを感じる。
「うぅ……はい」
このままじゃ、本当にヘンになっちゃいそう………。
私にとっての昴さん。
最初は優しいお兄さん、そして私の願い、大切なみんなの願いを叶えてくれた恩人のような人だった。
ずっと気にはなっていた。優しくて、面倒見が良くて、バスケがとても上手で、すっごく素敵な人だなって、いつも思ってた。
それが……その思いが、いつの間にか胸のどきどきに変わって、二人きりになれると嬉しくなって、ずっと私のそばにいてくれたら………そう思うようになって。
認めるのはすごく恥ずかしかったけど、これ以上胸の中をモヤモヤさせたままでいたくなかったから。
私は、これが恋なんだ、と。
湊智花は、昴さんのことが好きなんだ、と。
あえて認めてしまうことにした。
自分の気持ちを素直に認めることで、少しはそのモヤモヤに歯止めがかかれば、というのもあったのだけど………それは逆効果だった。
ますます昴さんのことが気になって、朝早く起きるのが楽しみで、夜はスイッチを切ったように眠れるようになった。
朝になれば昴さんの家で、昴さんと会って話すことができるから。
毎朝が遠足気分。目覚めがますます良くなってしまった。
逆に授業中はとても退屈になってしまった。
休み時間はみんなとお話できるからまだ楽しい。でも昴さんのことばかり考えている最近の私にとって、全く関係のない、興味のない話を延々と聞かされるのは退屈以外の何物でもなかった。
ただ、不満を漏らしていても時間は過ぎていってはくれない。授業中は今までにあった昴さんとの出来事や、昴さんとの会話を思い浮かべて時間をつぶすことにした。
同時に部活がどうしようもないくらいに待ち遠しくなった。
昼休みが過ぎると、「あと○時間で昴さんに会える」と自然と私の心の中でカウントダウンされていくほどだった。
もう一つは、昴さんと一緒にいる時の胸の異常な高鳴りだった。
心臓がバクバク言ってるのが自分でも分かる。このままだと心臓が破裂して私死んじゃうんじゃないかな、って思ったことが何度もある。
一緒にいるだけならまだいい。
でもとなりにいる昴さんは、私に優しくしてくれたり、胸を打つような言葉をこれでもかってほどに投げかけてくる。
そのたびに嬉しすぎて泣きそうになったり、どきどきしすぎてどうにかなってしまいそうになったり。
家に帰るとその嬉しさに浸りながら心地良い眠りにつき、
朝になると寝る前のうきうきを倍にしたような胸の高鳴りを『朝練』という建前で昴さんの家まで持って行って、
授業中は昴さんとの出来事たちを思い出しながら物思いにふけり、
待ちに待った放課後、大好きな昴さんがバスケットコートで待っている。
このサイクルを毎日繰り返して、ついには部活中………大好きなバスケをやっている時ですら、昴さんのことが頭から離れなくなってしまったのだった。
「ふー終わった終わったぁー」
「終わったぁーじゃないでしょ、真帆。最後の柔軟まで気を抜かないでやること。幾ら身体が柔らかいからって油断してるとそのうちケガするわよ?」
「あんだよーサキ、わかってますよーだっ。ふん、これだからコジュウトのオツボネってやつぁー」
「ちょ、そんな言い方ないでしょーが!アンタのことを心配して言ってるのよ?!」
「アタシより身体のカタイサキさんに言われたくありませーん。まーカタイのは身体よりも頭の方かもしんないけどさ、きひひっ」
「真ぁー帆ぉー!こらー!待ちなさいっっっ!!」
と、そこに練習を終えた他のメンバーが戻ってきた。
相変わらず真帆と紗季は仲が良くて羨ましい。私にもこんな風に言い合える幼なじみがいたら、前の学校で悩んでいた時もいい相談相手になったかもしれない。
「……じゃあ智花、いけそう?」
「は、はいっ。大丈夫ですっ」
昴さんと話し合って、最後のクールダウンだけ私も加わることになった。
練習が終わってもコートを走り回る二人の風景を背に、ひなたと愛莉が私にかけよってきた。
「ふう……今日の練習はちょっとキツかったかも。智花ちゃん、大丈夫?」
「ねーともか。一緒にじゅうなんしよー」
「……うん。じゃあお願いするね、ひなた。二人ともありがとう。もう大丈夫だよっ」
一つ、心配事をあげるとするならば………ここには他の女バスメンバーがいること。
真帆も、紗季も、ひなたも、愛莉も。みんなすごくすごく魅力のある子たちで、昴さんがいつ誰に惹かれて、その子しか見えなくなってしまってもおかしくないと思う。
バスケのことなら負けない………と思う。でも私の取り柄なんてそれくらいのもので、それ以外の女の人としての魅力となるとハッキリ言って自信がない。
その………胸だって、まだまだ、だし………。
他のメンバーといると、どうしても不安な気持ちが出てきてしまう。
最近じゃ心のモヤモヤを隠すのにいっぱいいっぱいになってきてる。
負けたくない。
大好きな仲間たちだけど、昴さんをとられたくない。
もし昴さんを仲間たちの誰かにとられてしまうようなことがあったら───私は、私は………もう二度と、その相手がいる前で笑えないかもしれない。
嬉しかったり、どきどきしたり、うきうきしたり、モヤモヤしたり。
かと思うと、ふとした拍子にどん底の気分になったり。
強い感情がめまぐるしく変化していって、常に心も身体もふわふわしてる。自分が自分を保てなくなりそうな感覚。
………私、このまま、この調子だと………どうなってしまうんだろう。
※
「………はぁ」
火照りが抜けきってない身体で、ベッドの上に大の字になる。
天井を見上げながら、思わず大きなため息が出た。
宿題を終えてお風呂に入って、あとはもう寝るだけ。
でも部活の体力を使う部分を半分近く休んでしまったので、なんとなく身体がまだモヤモヤする。
「モヤモヤ………かぁ」
果たしてそれは、本当に体力が余っているという意味だけのモヤモヤなんだろうか。
「あ………また………」
ハッとして、思わず顔を力なく振る。
せっかくお風呂でスッキリして、昴さんのことを忘れていたのに。
ふと、こうやって部屋で一人きりの時………昴さんのことを思い出すとさみしくなる。
例えば………あり得ないことだけど、寝る時はいつも昴さんが隣にいて。私がこうやってさみしい気持ちになった時は、そばにいて抱きしめてくれ………たり。
「すばる………さん」
思わず私も抱きしめ返して、服の袖をぎゅっと握って。
きっと昴さんはやさしいから、私がそうやって求めるときっと応えてくれる。
よりいっそう強く抱きしめてくれて………耳元で、その、小さい声、で、
『智花………大好きだよ』って。
「ふあぁ………あっ」
気づくと、布団を昴さんの代わりに抱きしめている自分がいた。
例え自分の部屋で、誰に見られていなかったとしても………これは恥ずかしすぎる………。
「わっ、私また………ふぁうぅ………」
さっきとは別の意味で火照ってくる身体。
その中でもひときわ熱さを感じる部分───お股の間、を、掛け布団を足で挟みこむようにして押し付ける。
「昴さん、すばるさん………私、わたしっ………!」
どうしてなんだろう。
よりにもよって、なんでこんな場所なんだろう。
こういうことは少し前からあった。
同じようにさみしさを感じている夜に、ベッドの上でたまたま布団を抱きしめている時に、いつの間にかそうなってしまっていた。
「はっ、あっ」
そして………今の何倍も気持ち良くなれる方法を、私は知っている。
───この布団は、布団じゃない。
───昴さんの足で。太ももで。
私はそんなところに、はしたなく股の間を、こすりつけ、て………。
昴さんのぬくもりを感じながら、私は───
「ふあぁっ………!」
妄想と言ってもおかしくない想像をしながら、よりいっそう布団に股の間をこすりつける。
それだけなのに、さっきみたいにただ単に押し付けてる時の何倍も身体が熱くなってくる。
「あうっ、はうっ、すばるさん、すばるさんっ!」
昴さんはここにはいない。わかりきっていることなのに。
昴さんのことを想いながらこうしていると、昴さんの体温を感じる。自分の中のさみしさが満たされていく。
「すばるさん、すばるさんっ………あぁああっ!」
大事なところにヌメリのようなものを感じながら、私は深い眠りへと落ちていた。
※
「いいってそんなに気を遣わなくても。智花が先に───」
「いえっそんなわけにはいきません!ただでさえ今日は体力を消耗する指導をお願いしてしまったわけですし……!」
翌朝。
昴さんの家で、いつもの朝練を終えた後、昴さんと私はいつものようにシャワーの譲り合いをしていた。
ここ数日の朝練の主な目的は「私の攻めるパターンを増やす」ということになっている。
まだ他のみんながバスケ初心者だった頃は、ゲームの組み立てを出来るのが私だけだったということもあって私がポイントガードをしていたけれど、今は私よりも冷静沈着で的確な判断が出来る紗季がその役をこなしてくれている。
おかげで私はまた、自分の得意とするフォワードに復帰できたのだ。
でもその反面、こうやって毎朝練習していくことで、まだまだ昴さんのような熟練のプレーヤーには通用しないことが分かっていった。
昴さんが言うには、『まだまだボールさばきや攻め方のパターンが一定で、初めて当たる相手ならともかく、ある程度研究されてしまうとあっさりと読まれてしまう』………とのこと。
現に昴さんはこの課題を浮き彫りにするため、『次はレッグスルー、その後一旦間を置いてから〜』というようなことを、私がオフェンスをしている最中に指摘してくれた。
それは私の動こうと思っていた攻める時のパターンそのもので、思わず恥ずかしくなってしまうくらいだった。
毎日私の動きを見守って下さっている昴さんだからこそ分かったことだと思う。
だからその点を改善するため、私がディフェンスに回って昴さんが色んな攻め方、間の置き方、ボールの運び方を教えてくれることになった。
その上で他の仲間への適切なパスのタイミングやフェイントのかけ方まで惜しむことなく指導して下さっている。
私にとっては気付かされることの多い、有意義な練習。
でも昴さんはただ構えている私の周りを複雑なパターンの足運びやドリブルで、しかも常に話しかけながら指導して下さったのだ。
練習が終わる頃には昴さんは汗だくで、ディフェンスといっても構えをとったまま驚いたり昴さんの話にうなずいているだけの私はほとんど汗をかいていなかった。
そこまで身を粉にして指導して下さったのだから………うん!私も頑張らないと!
「……わかったよ。じゃあ今日は俺が先に使わせてもらおうかな。すぐに上がってくるから、智花は部屋でゆっくりしててね」
「は、はいっ!わかりました!」
そのような理由があったので、今日は何としても折れるわけにはいかなかった。
いつも私のことを思って遠慮しがちな昴さんだったけど、その気持ちが伝わったみたい。
着替えを持って階段を降りていく後ろ姿を見送ってから、昴さんの部屋にお邪魔する。
「ふあぁあ………」
すっかり見慣れてしまった昴さんの部屋を眺めながら、今日の昴さんのプレーを頭の中で思い出す。
忘れてしまう前に、しっかり思い出して復習しないと───あ、でも下では昴さんのお母さんが朝食の準備をしているだろうし、それをお手伝いしてからの方がいいかな?
まだまだ体力も余ってるし、うん、そうしようっと!
そう思って再びドアの方に歩き出す。
「───あれ?」
ふと、私は右足に何かが絡まっていることに気付く。
いけない、昴さんの私物なのに………足元不注意、気をつけないと。
「あっ………」
でも。
足に絡まっていたのは、なんと昴さんのワイシャツだった。
「ふぁう………すばる、さんの………」
どくん、と胸が高鳴る。
以前に昴さんのワイシャツを思わず着てしまったことがあったのを思い出す。
それに………脱ぎ捨てた後みたいに乱雑に置かれていたということは、もしかすると………昨日昴さんが来ていたものなの、かな?
「んっ………ふぁ………」
思わず拾い上げて、顔の近くに持っていく。
昴さんの匂い。
前にワイシャツを着てしまった時は、洗濯洗剤の香りに少し混じっている程度だった。
でも今は違う。ハッキリと昴さんの匂いが私の鼻に伝わってくる。
このワイシャツはきっと、昨日昴さんが着ていたもの。
男の人の、何ともいえない香り。私が大好きな人の匂い。
これが、昴さんの───
「───はっ!いけないいけないっ!!」
私ったら!
真帆や紗季にからかわれてからもう絶対にしないって決めたのに!
それにせっかく今朝はバスケのことだけを考えていられたのに、私ったらまた昴さんのことを………!
………ダメだ私、この部屋にいたらまたあらぬことをしてしまいそう。早く一階に降りて朝食のお手伝いをしないと───
「……………でも」
一旦は床に置いた昴さんのワイシャツを見つめる。
「昴さん、普段から服を部屋に放り出すような人じゃないから、もうこんなこと、ないかもしれない………」
ましてや、昴さんが一回着たあとのワイシャツなんて………。
「……………少しだけ。少しだけなら………いいよね。
みんなには言わなければいいし、昴さんは今、シャワーを浴びてるから………」
そう、今しかない。
今しかないと思ってしまうと、迷ってる時間すら惜しく感じる。
今しかない。時間がない。
そう思った瞬間、私は相手のディフェンスのスキをつく時のようなのスピードで、昴さんのワイシャツを拾い上げた。
「ふあぁ……………!」
改めてゆっくりと広げてみる。よく見ると、ところどころに土で汚れたようなあとがある。
体育の授業でもあったのかな?でもそれなら体操服を着ているだろうし、学校の友達と遊んでいた時に汚れちゃったのかも………。
───やっぱり間違いない。これは昴さんが一度着たものだ。
私は朝練の時に着ていた体操服を脱ぎ捨てて、その上から素早くそのワイシャツを着る。
「ふぁ………えへ、やっぱり私が着ると、ブカブカだ………えへへ………」
思わず顔がにやけてしまう。
久しぶりに間近で感じる、大好きな人の匂い。
「んっ………すぅーーーっ………ふあぁ……………っ」
少し顔を伏せてから、思いきり鼻で空気を吸い込む。
頭がしびれるような感覚。私が待ち望んでいた匂い。
やっぱり自分の体操着を脱いだのは正解だったかもしれない。せっかくの機会なのに、自分の匂いと混ざって何が何だか分からなくなっちゃってたら残念だもの。
「ふぇ………昴さん、昴さん───」
自分で自分の身体を抱きしめる。
昨日の夜に想像していたことだけど、昨日よりもますます想像しやすい状況に私はいた。
昴さんの部屋。
昴さんのワイシャツ。
そして、濃厚な昴さんの匂い───
「───んっ、あ………」
まるで条件反射のように熱を持つ、私の身体。
そしてその中でもひときわ強く、急かすように熱くなってくる、私の───
「……………昴さんの、ふとん」
うつろな目で部屋を見る。
昴さんがいつも使っているベッドがそこにはあった。
「すばるさん、わたし───」
おぼつかない足元で昴さんのベッドへたどり着くと、その上に座り込んで、そばにあった布団を抱え込む。
更に強くなる昴さんの匂い。熱いしびれのような感覚が、頭だけじゃなく体全体にまで広がってきた。
「ふあぁっ、すばるさん、すばるさんっ………!」
噴火前の火山のように、自分の身体中をかけめぐっていく熱さ。
もうなりふり構っていられなかった。
スパッツを脱ぎ捨てて、下着の中に手を差し入れる。
「───っ!っっ〜〜〜!っっっ〜〜〜〜〜!!!」
割れ目に指が触れた瞬間、身体中に感じる、電気のようなビリッとした感覚。思わず背筋がのけぞってしまう。
そういえばいつも自分の布団にすりつけていたけど、こうやって下着の中に手を入れるのは初めてだった。
そうだったんだ。こうやればもっと、気持ちよく───
「っはぁ!あふっ、ふあっ!」
私の股の間から聞こえてくる、くちゅくちゅという小さな音。
たぶん、ねばりっけのある液体みたいなものだと思う。でもそれが割れ目に塗りこまれて、より一層気持ちよく感じる。
どんどん加速していく指の動き。
同時にお腹の下あたりがやけどしそうなくらいに熱く、指を押し付ければ押し付けるほど熱さは強くなっていく。
「んっ!ああっ!すばるさん、わたっ、わたひっ───!」
くちゅくちゅくちゅくちゅくちゅ。
割れ目をこする音がより大きくなり、それがまた更に私を気持ちよくしていく。
このままじゃ、わたしっ─────────
「ん〜〜〜〜〜っ!っっっ─────────!!!!んう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!!」
口に手を当てて声を抑えながら、びくびくびくっと全身が跳ねる。
身体の中にあった熱さが一気に爆発したような……………そんな感じだった。
「はぁ、はぁ、はぁっ………!」
頭が真っ白になって、身体が全くいうことをきいてくれない。
ひく、ひく、と今だに震える身体で、下着の中に入れていた手を見る。
やっぱりだ。何故こんなものが出るのかはわからないけれど、私の指には確かにねっとりとした液体がついていた。
ぼーっとした頭で、その液体がついた指を、鼻の方へと近づけ───
「───どうしたの、智花?」
「ひっ!!!」
悲鳴のような声を上げて、びくり、と強く震える私の身体。
うつろな意識の中で、妙にハッキリと聞こえる声。
間違えようもない、それは………私の大好きな、昴さんの、声で。
「───っわ!ご、ゴメン!ビックリさせちゃって───ってあれ、なんで俺のワイシャツを智花が着てるんだ?
それに、さっき俺の名前を呼んでたような………階段を登ってる時に部屋の中から聞こえたような気がしたんだけど………」
まさか、夢中で昴さんが階段を上がってくるのに気が付かなかった………?
しかも、私の声まで聞こえて………?
「……な、なぁ……大丈夫か?智花……」
私のただならぬ様子を見て、おずおずと遠慮しながら声をかけてくる昴さん。
さっきまであれだけ熱かった身体が嘘みたいに冷たくなっていく。
「───こっ!こないで、こないでくらひゃいっ!!!」
上手く回らない舌で必死の声を出す。
自分の上に倒れかかってくる高層ビルのような罪悪感が、私の心に重くのしかかってくる。
「とっ、智花………?」
冷えていく頭で、現状を把握する。
部屋に帰ってみると、何故か自分のワイシャツを着て、何故か自分のベッドの上で、何故か自分の名前を必死に呼んでいる女の子がいた。
床に広がる服。私の体操服と、スパッツ。つまり今、私はワイシャツの下に下着しかつけていないことになる。
誰が、どう見ても、言い訳のしようがない風景がそこにはあった。
「………ふ、う、うううっ」
私、なんでこんなことしたんだろ?
わたし、何をしてるんだろ?
『こないで』って言ったって、こんなの言いわけのしようがない。
わたしが、かってにへやでこんなことしてるってわかったら、すばるさんは、すばるさんは───
───わたしのことを、きらいになってしまうにちがいない。
すくなくとも、いままでのように、バスケをおしえてもらったり、ふたりでれんしゅうすること、なんて───
「っう、ううっ、ううううっ………!」
───………おしまいだ。
もう………なにも、かも。
「とも、か……?」
昴さんのワイシャツに、私の涙が落ちていく。
ぽたぽたと雫のように流れてきたのは最初の数秒くらいで、
「うぅうう〜〜〜っ、ううううぅ〜〜〜っ!」
あとはもう、噛み殺すような声をあげながら、滝のような涙をながすだけになってしまった。
「ちょっ、えっ!?本当に何があったんだ、智花っ!??」
驚いて慌てている昴さんの姿を、背中に感じる。
でもそんなことを気にする余裕もなく、ひたすら昴さんのワイシャツのすそで涙をぬぐう。
「ひっく、ひっく、うううっ、うぅうううっ!」
もうきっと、こんな私に笑いかけてくれることなんてない。
私の日常の全てが、壊れていく。
何もかも。なにも、かも。
「───ッ!くそっ!」
切羽詰まったような声が後ろから聞こえた。
かと思うと、次の瞬間、昴さんの姿が私の目の前にあることに気付く。
「っ!ひいっっ!!!」
驚いた私は、少しでも今の私の姿を見られないように、身体を隠すようにしてワイシャツの上から自分の身体を抱きしめる。
「───智花っ!」
ぺたんとベッドの上に座り込んだまま、ひたすらうつむいて震える私。
その上から聞こえる、優しい声。
………見ないで、ください。
こんな、はしたなくて、どうしようもない私の姿を───
「………っ!?」
笑われるのか。
ばかにされるか。
それとも、『もう二度と家に来ないでくれ』と絶交の言葉をかけられるのか。
そう思って精一杯自分の身体を守っていた身体なのに、溶けるようにして力が抜けていく。
「ふぇっ………ひくっ、すばる、さ………」
目の前が白い。
でもその白は、昴さんが今着ているワイシャツの色だった。
「───まず、これだけは言っておく。ごめんな、智花。もし今の体勢が嫌だったら遠慮なく言ってくれ。
でも、なんで智花がそんなに泣いているのか、理由はわからないけど………どうしてもほっとけなくて。何かしてあげたいって思ったんだ」
強く、凛とした、それでいて優しい声。私を包み込んでくれる、大好きな声。
夢にまで見た、昴さんのぬくもり。
でも………夢で見るよりも、想像するより何十倍も強く感じる。
私を正面から抱きしめてくれる、本物の昴さんのぬくもりが───そこにはあった。
「だからっていきなりこれはないだろって、笑われるかもしれないけどさ───なんか、今の智花をみたらこうしてあげないといけない気がして」
「うっく、ふぇえっ、すばるさっ………!」
やっぱり、昴さんだ。
さっきまですごく辛くて、悲しくて、どうしたら良いかわからなくって、これ以上ないくらいに自分を責めていたのに、そんな自分を一瞬でこれ以上ないくらいに幸せな気分にしてくれる。
こんなこと、昴さん以外にはできない。絶対に。
「───っと、そろそろ離れた方がいいかな?
智花ももう大丈夫……みたいだしね」
あれだけ泣きじゃくっていたのに、いつの間にか泣き止んでいる自分がそこにいた。
本当に………昴さんには、かなわない。
「ゴメンな智花、じゃあ離れ───ぐえっ!」
私の背中にあった昴さんの腕が離れていく。
ぬくもりが、少しずつ薄れていく。
そう思った瞬間、私は離れようとする昴さんの身体をすがるようにして抱きしめていた。
「えっと〜………その、智花?」
「っく、お願い、しますっ、まだ、いかないで、くらひゃいっ」
気づくと私は、涙のしょっぱい味を噛み締めながら、昴さんに必死のお願いをしていた。
「わかった、わかったから………その、少し力を緩めてもらえると嬉しい、かな……?」
「………ありがとう、ございます。ごめん、なさい、すばる、さん」
力いっぱいすがりついていた腕の力を少しだけ緩めると、気まで緩んでしまった。
昴さんを何とか引き止めて、私はさっきとは違う、こみあげる嬉しさからくる涙を昴さんの着ているワイシャツに落としていった。
そんな私を嫌がることなく───むしろさっきよりも強く抱きしめてくれる、昨日の夜に想像したとおりの昴さんが、そこにはいた。
※
───そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。
同じ体勢で長時間いるものだから、足が少しずつしびれてきた。
昴さんも昴さんで、部屋を見回したり時計の方を見たりして、今の状態からどうしたらいいのか考えているのがわかる。
「───なぁ、智花。そろそろ………」
「………………っ」
きゅっ、と抱きしめる腕の力を少しだけ強めて意思表示する。
「あはは………」と、昴さんの困ったような笑い声が聞こえた。
離したくなかった。
いま離してしまうと、自分の中の全てが離れていってしまいそうで。
一瞬でも、一秒でも、昴さんとこうしていたかった。
「───でも、もう離れないと………な?」
昴さんが優しく諭すようにして、私に話しかけてくる。
それもそのはずだった。部屋の外から、少しずつ大きくなってくる、トン、トン………という、誰かが階段を登る音。
きっともう、朝ご飯が出来上がってしまっているに違いない。
その上、誰も二階から降りてこなければ、下で料理をしていた昴さんのお母さんが声をかけに来るのは当たり前だった。
「………はい」
仕方なく腕をほどいて、昴さんの着ているワイシャツ、その胸のあたりをぎゅっと握り締める。
そして間もなく開けられる、この幸せな時間の出口となるドア。
「二人とも、もう朝ご飯できて───」
「ゴメン、母さん。いま下に降りるから───」
がちゃ、と部屋のドアが開く音。
その次に、二人の声が同時に聞こえてきた。
………でも、その先が全く続かない。
どうしたのだろう、と、振り返ってドアの方を見てみると───
「───なぁ。何やってんだ、昴………?」
「ミ………ミホ、姉………っ!」
見たことないくらいにキツくつり上がった目で、こちらを睨んでくる美星先生の姿がそこにあった。