プロローグ
『僕に文学は向いてない』
作家、新井輝は相変わらずだった。
けれど、どういうわけか世間では自分の作品の評価がうなぎのぼりで、自覚はなくても今や
日本を代表する文豪の一人として祭り上げられているらしい。先日も『裏切り』という題名の
作品で直木賞を受賞したばかりで、今日はそのお祝いをしたいからと九条鈴璃に呼び出された
のだ。
「直木賞、おめでとう。それと久しぶりね」
九条鈴璃もあの頃とちっとも変わっていなかった。『ROOM NO.1301』を書いていたときか
ら時間が止まってしまったかのように。
「ありがとう。でも皆のおかげだし」
「そういうとこ、相変わらずね。でも凄いよね。文学史上に不滅の光を放つ歴史的傑作だって。
私、読んでて鳥肌が立っちゃったわよ。人はこんなにも残酷に仲間を裏切ることができるのか
って。あれ、実体験を基にしているんでしょ?」
鈴璃は読んだときの興奮が蘇ったみたいに手振りを交えて話し出した。そんな彼女の仕草に
新井は懐かしい思いに浸らずにはいられなかった。
「私、たまに自慢しちゃうこともあるんだよ。私はあの新井輝の書いた作品に出てたんだぞっ
て。あとがきで作者を撲殺しておいて、なにを今更って思うかもしれないけど。私は『ROOM
NO.1301』に出ていたことを誇りに思っているんだよ」
遠い昔を慈しむように鈴璃は遠い目をする。外見はあの頃と全く変わらないくせに、そんな
表情をみせる彼女がとても不思議に思える。
「だけど直木賞をとってから身に沁みて分かったことが一つあるんだ。僕に文学は向いてない」
「えっ、それってどういうこと?」
「結局、良くも悪くもラノベ作家ってことかな。僕には『ROOM NO.1301』を書いていた頃が
一番楽しかったんだ。だからもう、文学はやらない」
固い決意の込められた新井輝の言葉を聞いて、鈴璃は微かに蒼褪めたみたいだった。
「あんなに素晴らしい作品が書けるのに。『裏切り』を読んだ後、私は一晩中震えが止まらな
かったんだよ。どうしてこんな凄い小説が書けるんだろうって何度思ったことか」
「あれは、私怨で書いたから」
未練など全くない表情で、いや、正確にはあるのだろうけれど、少なくともその未練は文学
を書くことへの未練ではなく、ライトノベルを書きたいという気持ちによるものだ。
そのことを感じ取ったのか鈴璃はかえって清々しい表情で微笑んでくれた。
「そっか、書きたいものを書くのが一番だよね。でも、がっかりする人もいるんじゃないの。
私の周りでもあんたのファンは結構いたんだから」
「やっぱりこれも裏切りってことなのかな。でもま、ライトノベル作家としての新井輝を
待っていてくれる人もきっといると思うんだ」
「そこまで決心が固いなら私はもう何もいわない。ううん、むしろ応援させてもらうわ。
それで、次はどんな作品を書くの?」
「うん。『ROOM NO.1302』っていうマンションの一室を舞台にしたちょっとHな話」
「数字変えただけだしっ!」
「一応前作と舞台はほとんど一緒なんで健一とか、綾さんとかも出る予定だから」
「あ、それじゃ私にも出番があるってこと?」
「八雲とかシーナも出そうと思ってるんだ、もちろん有馬冴子も」
「ねえねえ、私は?」
「あとは千夜子にホタルに、ツバメ」
「ちょっと私・・・・・・」
「それからもちろん九条さんにも出番ありますから」
「ほんと!? やっぱ当然よね!」
「うん、あのあとがき、結構人気あったから九条さんはそこだけ登場します」
「そこだけ?」
「うん。そこだけ」
「それはつまりあれか? 本編には一切出せませんってことかぁああ?」
「・・・・・・そうなるんですかね、あはは」
「きええーーー」
「ぐぎゃー!」
新井は痛恨の一撃を喰らった。新井は死んでしまった。
担当K「これ、ぷろろーぐって書いてあるんですが」
新井輝「ま、たまにはあとがき風のぷろろーぐなんてのも斬新で良いんじゃないかなと」
何よりもシーナのことを応援しようと心に決めておきながら、千夜子に贈る曲の相談を
シーナに持ちかけるというのも何だかあつかましい感じがした。
しかし、自分ひとりの力でどうにかなるわけでもないので健一はハーモニカ片手に1305を
訪れる。前回の過ちを繰り返さないように扉を開ける前にきちんとノックをし、返事を待つ。
幸い着替え中ではなかったらしく、返事はすぐに返ってきた。
「おう、健一か」
シーナは相変わらずヤクザの事務所みたいな部屋ですっかり寛いでいた。
足を組み、ソファの背もたれに腕を回した姿勢で首だけをこちらに向けている。
柄の悪い大男がそういった格好を気取るならともかく、小柄なシーナがそれを真似ても
今ひとつ似合っていない。
それはそうと、健一はここに来た用事を思い出し、気を取り直した。
「実は相談があってきたんだけどさ」
健一はシーナの向かい側のソファに腰掛けて、千夜子に曲を贈るという約束したことを話し
始めた。
「それで、何かいい曲がないものかと思って相談に来たんだけどさ」
「くわー!」
シーナが仰け反って絶叫した。
「な、なに」
「それはあれか、君のために曲を作ったんだよ、なんて言って一気に彼女をその気にさせて
やろうってあれか」
「その気ってのがなんなのか分からないけど、たぶん違うと思う」
「いいや、違わないね。ちくしょう、のろけやがってっ」
まあ、のろけ話に聞こえてしまうのは仕方がないのかもしれない。それにやっぱりシーナに
頼ろうとするのは無神経だったと反省する。本当に千夜子のために曲を贈ろうというので
あれば、自分の力だけでするべきなんだろう。人を頼って事を済ませようとするのは真剣さが
足りていないせいだと思えた。
やっぱり僕に恋愛は向いていない。
健一は肩を落として力なく立ち上がった。
「どこ行くんだよ、健一」
「どこって、綾さんのとこだけど。綾さんがせっかく水着買ったんでプール行こうって
言い出して。今日はシーナに相談があったからプールに行くのは明日にしようと思ってたけど
今日の予定が空いちゃったし別に今からでもいいかなあと思って」
「プ、プ、プール!」
「なんでそこまで過剰反応するんだかわかんないんだけど」
「だってプールだろ、綾さんの肢体が拝めちゃうんだろ。健一、頼むから俺も連れてってくれ」
シーナは驚きのあまりソファから転げ落ちて、そのまま健一の脚に縋りついて来た。
「どうしようかな」
なにせ前回、綾さんと風呂に入ったときは悲鳴を上げて逃げ出してしまった。
まあ、綾さんにはシーナの胸を触らないようにと注意しておけば良いだろうけど。
「頼むぜ健一」
シーナは震える子犬のような目をしてじっと健一を見上げていた。
「プールに連れてったら相談に乗ってくれる?」
「むっ、取引か」
「まあ、そうとってもらっても構わないけど」
こういう言い方をすると八雲さんみたいだなあと思いつつ、健一はシーナの反応を窺って
みる。シーナは顎に手を当てて数秒考え込む素振りを見せたが、考えるまでもなく答えは
出ていたようだった。
「分かった、最高の一曲を提供してやろう。だからプールに連れて行ってくれ」
こうして、健一は明日、綾とシーナを連れてプールに行くことに決まった。
「それじゃあ明日、学校が終わってから1301に集合ってことで」
「ちょっと待った。俺、水着持ってないんだけど」
「家に取りに帰れば良いんじゃないの」
学校でもプールの授業はあるし、日奈だって水着の一つや二つ持っているんじゃないだろうか
と思う。
「持っているわけないだろう」
「佳奈に借りるってのは?」
「なんでそこで佳奈ちゃんの名前が出て来るんだよ。男と女じゃ体型が全然違うし、
水着の貸し借りなんてできないだろ」
ああ、そういうことか。健一はようやく合点がいった。つまり家に日奈の水着はあっても、
シーナの水着はないということだ。そうとなるとシーナの水着を買いに行かなければならない。
「ようし、決めた。今から俺の勝負水着を買いに行くぞ!」
シーナが拳を振り上げ叫ぶ。それに対して健一は自分でもなんだかよく分からない
テンションで応えた。
駅前でストリートライブをやるにはまだ時間がある。健一は一応ハーモニカとバケツを
持っていくことにし、二人で神宿のデパートまで水着を買いに出かけた。
ライブの時間には充分間に合うはずだ。
デパートの水着売り場に着くと先頭をシーナに譲る。シーナが男物と女物の水着のどちらを
買うか分からないからだ。
そうは言っても結局は女物の水着を買うしかないのだろう。それではただの窪塚日奈に
なってしまうかもしれないが、そういうことを実際口にしてはいけないと思う。
意外にもシーナは男物の水着売り場に向かった。
「やっぱ男の海パンったらコレだろう」
シーナが広げて見せたのは布面積の少ない逆三角形の海パンだった。さすがにそれはどうか
と思う。隠すべきものは隠してもらわないと色々な意味でまずい。
「トランクス型のほうが、ごまかしが効くんじゃないの」
「ごまかしってなんだよ。俺は正真正銘の男だぞ」
「そうだね、ごめん」
「本当、健一って時々変なこと言うよな」
シーナはむくれた口調でそっぽを向くが、忠告を聞いて気が変わったようだった。
さっきの水着を戻して今度はトランクス型のものを手に取る。しかし、しばらく眺めてみて
納得がいかなかったのか今度は別の水着を選ぶ。シーナの水着選びを黙って見守っているうち
、健一はシーナが段々と女性水着売り場に近寄って行ってるのが分かった。
さっきから目線もチラチラとそっちに向いている。だが、いざ女性水着売り場に突入すると
なると踏み込むのに躊躇してしまうようだ。健一はそんなシーナのために助け舟を出す。
「シーナ、こっちにも水着が売ってるよ」
率先して女性水着売り場に乗り込み、何気ない調子で呼びかける。
女性用とはいえ、ビキニと短パンを合わせたようなのもあり、シーナでも着れなくは
なさそうだった。
「そ、そっか。こっちにも水着が売ってたなんて気付かなかったぜ」
シーナが少し赤らんだ表情で女性水着を手に取る。パーカーとビキニが一緒になっているタイ
プでこれなら胸を隠すことができる。
「こっちのはどうかな」
健一はベストと一体になった水着を差し出す。ライフセーバーが着用するようなやつで
ベストを着たままでも泳げるタイプだ。
「そっちもいいな。よし、試着してみる」
そう言うとシーナは水着を両方手に持って試着室に向かった。
程なくして、シーナが水着に着替えて試着室のカーテンを開けた。野球帽を被ったままで
上には白のパーカー、下半身は橙色のビキニタイプの水着を穿いている。まあ、上半身に
目を向ければ普段どおりのシーナに見えなくもない。
「良いんじゃないかな。似合うよ」
健一が素直にそう褒めるとシーナは真っ赤に染まった顔を慌てて隠し、
再びカーテンを閉めた。
その後はレジで会計を済ませ、ライブの時間までカフェで暇を潰し、地元の公園で
ストリートライブを披露して幽霊マンションに戻った。
次の日、健一は学校から帰ると一旦家に水着を取りに帰り、それから1301へ向かった。
部屋に居たのは私服に着替えた刻也だけだった。
「ごきげんよう、絹川君」
「あ、こんにちは、八雲さん」
健一は普段どおりに挨拶を返すが、刻也は続けて質問をしてきた。
「ところで君が手に持っているのは何かね?」
「あ、これですか。実は綾さんたちとプールに行くことになりまして・・・・・・」
そう答えながらも、次第に声が小さくなってしまう。刻也は生活費を稼ぐために毎日のように
労働をし、さらには司法試験のために寸暇を惜しんで勉強をしているのだ。
そんな刻也の前で遊びに行くとは面と向かって言いにくい。
「どうかしたのかね?」
刻也は健一が言葉を濁したので気になったらしい。心配そうな表情が眉に表れている。
「いえ、八雲さんが勉強しているのに、僕はなんだか遊んでばっかりで情けないなと思いまして」
「君は自分が今していることが悪いことと認識しているのかね?」
無表情な目で刻也が健一を見る。
「良くないですよね、やっぱり」
「そういうことではない。私は決して君を責めるつもりで言ったのではない。すまない。
君が誤解を受けたのならきっと私の言い方が悪かったのだ。私が言いたかったのはつまり
価値観についてだよ」
健一がわずかに肩を落としたのを見たからか、刻也はやや早口になって言葉を補った。
「価値観、ですか」
「そうだ。私個人の価値観では君のような生き方が羨ましく思える」
突然にそんなことを打ち明けられた健一は、驚きのあまり二の句が継げなくなってしまう。
「もちろん、君は君なりに深い悩みを抱えていることも知っている。ここの住民である以上、
皆それなりの理由があるのだろう。そうした日々を送りつつも、君はきちんと実りある生活を
送っているように私には見えるのだよ」
「そうでしょうか。それを言うなら八雲さんのほうが・・・・・・」
言いかけて、健一は口を噤んだ。刻也は初めから価値観という言葉を口にしていた。
要するに刻也にとっては、自分よりも健一のほうが充実した生活を送っているように思えると
いうことだろう。
「私がバイトをしているからといって、それは生活費を稼ぐためで大した貯蓄にはならない。
そして前にも少し話した通り、私が司法試験に向けて取り組んでいる勉強というのも他人から
見れば無意味なものと映るだろう」
この間のお祭りのときも刻也は試験勉強を前倒ししてまで遊ぶ時間を作っていた。
逆に言えばそうでもしないことには、刻也が彼女と一緒に居られる時間は本当にごくわずか
しかないのだろう。現在、健一は千代子と付き合っている。それが将来的にどれほど価値の
あるものになるかは分からないが、刻也は健一のこうした日常を素直に羨ましいと認めている
のだ。それでも試験勉強を疎かにせず、彼女のことも大切にしている刻也はやっぱり立派だと
思う。
「敵いませんね、八雲さんには」
お互いの価値観を尊重しあった結果、ひとまず話が落ち着き、刻也はバイトに出掛けた。
それと入れ替わるようにして入ってきたのは綾だった。
「あ、健ちゃん帰ってきた」
健一を目に留めるなり、嬉しそうに手のひらを合わせる。
「さっそくレースクィーンに着替えてくるね」
「いえ、別にここで着替える必要はないですし、出かけるんですからまともな服装をして
ください」
加えてもう一つ、あの水着はレースクィーンの衣装に似ているというだけで、アレを着た
からといってレースクィーンになれるわけではないというツッコミも入れようとしたが、
台詞が長すぎてどう言えばいいのか良く分からなかった。
「うん、それじゃ健ちゃんと前に買いに行った服でいいよね」
「はい、それとシーナも来るんで、三人で行きましょう」
「わかったー」
綾は嬉しそうに頷いて1304に戻る。健一も着替えるために1303に戻ることにした。
「ただいま」
扉を開けて中に入っても人の気配はしなかった。まだ冴子は帰ってきていないらしい。
健一は自分の部屋に入って私服に着替え、1303に戻ろうとする。すると、ドアノブに
手を掛ける直前、向こうから扉が開き、玄関の前で冴子とばったり出くわした。
「あ、おかえりなさい、有馬さん」
「ただいま、絹川君」
健一は一歩後ろに下がって冴子のために通路を空ける。
「絹川君、今日どこか行くの?」
「あ、はい。綾さんとシーナと三人でプールに」
「そう。楽しんできてね」
健一は冴子と一緒に外を出歩くことはできないので、プールに行くということも
まだ話していなかった。話をする機会はいくらでもあったがそれを話題にしたら冴子に
気を使わせると思い、話さずにいたのだ。
「それじゃあ、私は着替えてくるから」
もしかして自分に何か用事でもあったのだろうかと健一は思ったが、冴子が部屋に行って
しまったため何も聞けなかった。
仕方なくそのまま1303を出ると、階段を上る足音が微かに響いてきた。階段を上ってくると
いうことはきっと日奈だろう。
案の定、程なくして制服姿の日奈が廊下に現れ、二人して会釈を交わす。
「こ、こんにちは」
「こんにちは、窪塚さん」
長い階段を上ってきたばかりだからか、日奈は息を切らしていた。制服のブラウスが汗で
ほんのり湿っている。
「暑いですね、汗掻いてるならシャワーでも浴びていきますか?」
自分と日奈はそんな会話ができる関係なのかなと疑問を感じつつ、汗びっしょりな日奈を
見かねて尋ねてみる。
「あ、大丈夫です。どうせすぐプールに入りますし」
どうせプールまでの道程でも汗は掻くだろうから、健一もすぐに納得した。
そういえば、さっき冴子ともあったが彼女はほとんど汗を掻いていなかった。そういう体質
なのかもしれないなあとも思ったが、エッチのときは肌が汗でしっとりと潤っていたから、
どこかで涼んでからここへ来たというだけかもしれない。
「わかりました。それじゃ1301で待ってますから」
健一が1301に戻ってきたすぐ後に着替えた綾がやってきた。
「健ちゃん、それじゃあプールへGO! だねっ」
健一の顔を見るなり、綾は無邪気な微笑を浮かべて拳を突き上げる。
なんだかいつも以上ににこやかに振舞っているが、レースクィーン水着を健一に披露できるの
がその理由だというからなんだかなあと思う。
「もうすぐシーナも来るんで待っててください」
「うん、健ちゃんがそういうなら待つよ」
日奈もどうせすぐに着替え終わるだろうから、健一も綾も一足先に廊下に出ていることに
した。忘れ物がないか確認してシーナを待っていると1305の扉が勢い良く開かれ、パーカー姿
のシーナが姿を現した。良く見るとそれは昨日買った水着で、下には短パンを穿いている。
更衣室で着替える手間を省くため、予め下に水着を着込んでいるのだろう。手には着替えと
思しきバックを持っている。
「じゃあ、皆揃ったことですし、行きましょうか」
「おう!」
三人が向かったプールは市民プールのような安っぽいところではなく、ウォータースライダ
ーや飛び込み台のある大きなプール施設だった。
値段も高いので健一は市民プールで済ませようと思ったのだが、シーナが荒波のあるプール
で泳いでみたいと言い出したので、そちらに向かうことにしたのだ。途中、綾が街の電柱とか
に気をとられて到着が遅れたが、幸い目を惹くものが少なかったのか、さほど遅くはならなか
った。
入場料は市民プールの五倍もするのだが、遅くなったお詫びといって綾が入場料を出して
くれた。厚意に甘えるのも多少気が引けたが、遅れたことを気にして綾が楽しめなくなるよう
では意味がないと思い、素直に申し出を受けることにした。
一旦、更衣室の手前で別れて水着に着替え、それから集合場所に向かう。
集合場所に指定したパラソルの下では他にも何人か待ち合わせをしている人がいた。自分と
同じ年頃の人が多い。
五分ほど待った頃、女子更衣室から綾が姿を現した。その後にシーナも続いている。
シーナは下に水着を着ていたので着替えにそれほど時間は掛からなかったはずだが、綾が
着替え終わるのを待っていたのだろう。そのせいかどうか知らないが、かなり目つきが怪しい。
「健ちゃん、お待たせ!」
綾がこちらに向かって手を振ってくる。水着に押し込められた胸が弾けるように揺れ、
周囲から軽いどよめきが起こる。
綾が着ているのは胸元がハート型に開いたレースクィーンぽい水着だ。
だからかどうか知らないが、レースクィーンという単語が周囲で囁かれる。
「綾さん、思いっきり注目を浴びてますね」
後ろを歩いていたシーナが視線に気付き、綾に耳打ちする。
「『茶髪レースクィーンにブッカケまくれっ!』だね」
「意味が全然違いますし、『茶髪家庭教師にブッカケまくれ!』と『ブッカケGPクィーン』
を混同してます」
健一はさりげなくツッコミを入れたが綾は気にしていないようだった。
「このレースクィーンの水着、胸がきついんだけど健ちゃんのために我慢する」
「えっと、それじゃまずはどれから試しますか」
入場料が高いせいかプールは広々とした割に人が少なかった。施設をざっと見渡すとまず
目に付くのは高い飛び込み台だ。
「健ちゃん、あれやってみようよ」
綾は飛び込み台を指差して健一の手を引く。
「飛び込みは危険ですから別のものにしましょう。シーナはどれにする?」
「男はウォータースライダーだろ!」
シーナは拳を突き上げ、力説する。というか、シーナがプールに来たのは今日が初めてなん
じゃないかと思ったが、それは言わないことにする。
「綾さんはそれでいいですか?」
「私はなんでもいいよ」
話がまとまったので三人でスライダーの順番待ちをする。シーナ、綾、健一の順番だ。
まずはシーナが歓声を挙げて滑り落ち、数秒後に盛大な水飛沫が上がる。
「それじゃあ、健ちゃん。私も行ってくるね」
「はい、気をつけてくださいね」
綾一人だとなんだか危なっかしいが下にはシーナが待っているので大丈夫だろうと考え直す。
綾が滑り降りたのを確認して、健一もそれに続く。前回、海に行ったときには千夜子にも
ホタルにも悪いことをしてしまった。それが分かっていながら、なんでまた別の女性とプール
で泳いでいるんだろうと思いながら健一は水の中に潜った。
プールの水は温かくて、三十分くらい水に浸かっていても体が冷えることはなかった。
ウォータースライダーを楽しんだ後は競泳プールでシーナと競い、綾はその横で
レースクィーンよろしくチェッカーフラッグを振り下ろす真似をしていた。
改めて思い返しても抜群に注目を浴びていたように思う。
さすがに泳ぎ疲れてきたので健一はひとまずプールからあがることにした。綾のことは
シーナがついていれば心配要らないだろう。
健一がトイレで用を足して、再びプールサイドに戻ってくるとシーナが見知らぬ男に
話しかけられているのを目撃した。なんだか言い争っているように見えたので声を掛ける
ことにする。
「シーナ、何かあったの?」
「?」
帽子を被っていない時点でもうちょっと頭を働かせるべきだった。振り返ったのはシーナ
ではなく、窪塚日奈の双子の姉、窪塚佳奈だった。
「あっ、えっと、窪塚さん?」
「絹川君がどうしてここにいるわけ?」
佳奈は言い争っていた男を無視して健一に突っかかってきた。お陰で健一がその男に
睨まれてしまう。
「えっと、僕はただ泳ぎに来ただけですけど」
「この人は絹川君の仲間ってわけじゃないのね」
佳奈は見知らぬ男を指差して言う。男の額に青筋が浮いているような気がするが気のせいと
思うことにしよう。
「ところで、この人は誰ですか。窪塚さんの知り合いでもなさそうですし、僕の知り合いでも
ないみたいですけど」
「私だって知らないわよ、いきなり馴れ馴れしく声を掛けてきたんだもの」
そうこうしている内に、佳奈の連れらしき少女が監視員を呼んできたらしかった。
男はかなり険悪な目つきでこちらを睨んでいたが、監視員に指導されて更衣室のほうに
歩いていく。どうやらもう帰るみたいだ。
「じゃあ、そういうことで」
「待って!」
事態の収拾を悟ってさりげなく退散しようとした健一だが、佳奈の制止にあって敢え無く
歩みを止める。
「えっと、なんでしょう」
「絹川君がなんでこんなところに来ているのか、まだ答えを聞いてないわよ。言っとくけど、
泳ぎに来たなんて質問の答えになってないからね」
佳奈に詰め寄られて、健一は考えてしまう。ここに来た理由自体はなんらやましいことなど
ないが、シーナと同一人物である窪塚日奈と一緒に来ているのが知れたらタダじゃ済まない
予感がする。かといって綾と来ていたこともあまり言い訳にできない。自分は大海千夜子と
付き合っているし、祭りのときに佳奈と千夜子はお互い顔見知りになっているので下手な
ごまかしは利かない。それにシーナと佳奈をこのまま出会わせるのもまずい気がした。
「今、なにか考えてるでしょ?」
目が宙を彷徨っていてせいか、佳奈の厳しい追及が飛んでくる。
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、この状況をどう説明すればいいか困っていまして」
「どういうこと?」
「つまり、僕は姉と姉の友人とで来ているわけです」
結局、苦し紛れにホタルの名前を出す。それに綾はホタルの同級生だし、全くの嘘という
わけでもない。
「お姉さんはどこにいるのよ」
「それが、遊んでいるうちにはぐれちゃいまして」
「嘘臭いわね。説明に困るってほどの理由でもないし」
佳奈の疑いはなかなか晴れない。
「えっとですね、この歳で姉と一緒にプールに来て、しかも迷子になったというのはなかなか
格好悪い状況だと思うんですが」
「ふん?」
「と、それより窪塚さんは日奈さんと一緒じゃないんですか」
「どうして、絹川君が日奈のことを気にするわけ?」
「あ、その、姿が見当たらないのでなんとなく」
「学校の帰りに日奈も誘おうとしたけど、今日は一人で先に帰っちゃったから一緒じゃないわ。
というより、日奈は絹川君と一緒に来ているんじゃないかと私は疑っているんだけど」
ほぼ図星といったところだ。ここまで洞察力が鋭いと、ばれるのも時間の問題だろう。
けれどシーナの覚悟がままならないうちに事情を明かすわけにはいかない。
再び言い訳に困って健一が視線を宙に浮かせていると、知らぬ間にニアミスしていたシーナ
とばったり目があった。互いの間には佳奈の友達が立ち塞がっていて、シーナにはきっと佳奈
のことが見えていない。次第に近づいてくるシーナに警告を発することもできず、いよいよ
進退窮まった健一は派手に宙に躍りあがってレミングの如く水面に飛び込んだ。
盛大な水飛沫をあげ、バタフライ泳法で佳奈からぐんぐん遠ざかっていく。
「あ、待ちなさい、逃がさないわよ!」
鋭い声が耳に届いた直後、後方で水飛沫が上がったのがわかった。佳奈が健一を追って
飛び込んだらしいが、そのスピードが尋常じゃない。シャーク窪塚の異名は伊達じゃなかった!
健一の顔は恐怖で蒼白に染まり、必死に逃げようとする。もう駄目だ、追いつかれる。
そう思った次の瞬間には水中でがっちりヘッドロックをかまされていた。
「どうして逃げたのか、きっちり説明してもらうわよ」
水から上がった佳奈は相当いきり立っていた。健一はプールサイドにぐったりと横たわり、
今は反論する気力も失っている。
「何とか言ったらどうなの!」
口も利けないくらい疲弊しているのだが、佳奈は健一が隠し事をして黙っているのだと
思い込んでいるのだろう。そんなぐったりした健一の耳に懐かしい声が響いてきた。
「やれやれ、全く世話の焼ける奴だな」
一瞬、幻聴かと思った。薄目を開けるとプールサイドに蛍子と綾、それと確か
一度だけ会った覚えのある姉の友人が佳奈の背後に立っていた。
「誰ですか?」
佳奈が突然の声に驚いて振り返る。
「絹川蛍子。そこに寝ている奴の姉だよ」
蛍子が以前と変わらぬ、けれどほんの少しだけ涙を滲ませた表情でそこに立っていた。
わずかな一言を発したのみで口を噤む蛍子の様子が、健一には再会の喜びに浸っているように
も感じられる。
「え、それじゃあ絹川君の言ってたことは本当なの?」
「何を揉めてたんだか知らないけどな、そいつが私とここに来たって言うのは本当だろうぜ」
「あ・・・・・・そうだったの」
蛍子の言葉に佳奈は言葉を失う。
「ごめんなさいね、絹川君」
佳奈が全然済まなさそうに言う。健一もようやく立ち上がるだけの体力が回復して、佳奈の
謝罪を制止する。
「いえ、そんな謝られるようなことじゃないです。誤解させるような行動をとった僕のほう
こそ謝らなくちゃ」
「私は謝るって言ってるの!」
「えっと、あの、すいません」
キレながら謝っている人に謝罪するというのも奇妙な関係だなあと思いつつ、今度は蛍子に
目を奪われる。聞きたいことはあるけれど、佳奈の前では迂闊に話すことも出来ない。
佳奈はなんとなく自分が入っていけそうにない空気を感じ取ったのか、別れの挨拶を残して
その場を去っていく。
「健一、元気にしてたか」
佳奈が完全に立ち去ったのを見送って、ホタルが素っ気無く言う。
「うん、まあね。ホタルのほうは?」
「ま、いつもどおりだ」
「そうか、良かった」
何が良かったのか、自分でもちっとも分からないが蛍子は確かに以前とそう変わらない。
黒の水着に身を包んだそのスタイルはあの時、記憶に焼きついたままの姿だ。
「不思議そうだな、私がここにいることが」
「うん、まあね」
本当に、どうして蛍子がこの場にいるのか。嬉しいけれど、一緒にいることが許されない
ような罪の意識が心を繋ぎ止めている。
「私がここに来たのは本当に偶然だ。宇美がせっかく水着を買ったんでプールに行こうと
言い出して」
「そうなんだ。でも、助かったよ。ありがとう、ホタル」
健一が素直に喜びの言葉を口にすると蛍子は赤く染まった頬を隠すようにそっぽを向いた。
それがいつものホタルらしくて、ようやく実感が湧く。ホタルと再びこうして話すことの
できる当たり前のようでいて、とても深い感動。
帰りの電車内で健一はホタルと隣り合って座っていた。シーナと綾は寝こけている。
蛍子の連れて来た友人は別の電車で帰った。
話したいことはいくらでもあったが、二人でいられる時間はあまりに短すぎる。
「その、なんだ。健一はPHS欲しくないか」
だから、蛍子がそんな話題を真っ先に口にしたことが、なんだか勿体無いような気がした。
互いの気持ちを見つめ合って、語り尽くしたいのに。
「えっと、PHS?」
「そうだ、私は二台持っているから、欲しければ健一にひとつやる」
蛍子はこれまでPHSなんて持っていなかったはずなのに、どうして二台もあるのか
不思議に思ったが、蛍子の言わんとしていることは伝わった。
PHSでなら二人きりで、繋がっていられる。健一はもう一度、蛍子の瞳をじっと見つめた。
この瞳を、この表情をしっかりと目に焼き付けておくために。
「うん、俺もホタルと繋がっていたい」
健一は蛍子を見つめながら、蛍子の耳元でそう囁く。健一の目に蛍子の澄んだ瞳が映る。
透き通る白い首筋と、幾度も重ね合わせた唇も。
健一は思い出すだろう。
声だけで繋がっているときも。
蛍子の美しい眼差しを。
FIN