「ありがとう」
カリエが針を片手に少しくたびれた子供服と奮闘していると、不意に名前を呼ばれ、エディアルドがおもむろに言葉をかけてきた。その服は、隣人からのお古だったが仕立て直せば成長の早いセーディラの服に十分代用出来る。
いきなりの言葉に吃驚したせいか、カリエは針を指に刺してしまった。小さく呻いて、その指を口に含む。血の味が口内に広がった。
「急にどうしたのよ」
エディアルドの手元には、アルゼウスから下賜されたという剣。ユリ・スカナで漁村シジコフに行く途中、イーダルに見つかった折に返されたらしい。
海賊島に移り住んでからというものカリエはエディアルドが剣を振るっているところを見たことが無かった。
漸く島の生活にも慣れてきたかと思う最近では、夜にアルゼウスの剣を磨くことが彼の日課になっているようだった。
毎日丹念に磨いているからか、昔よりもその刀身の輝きは増している様に見えた。
エディアルドは、その剣の塚に視線を落とし懐かしそうに目を細める。そこには、アルゼウスの紋と今では名前だけとなってしまったゼカロ公爵家の紋が入っている。
「お前がいなかったら、今私はここにいなかったと思う」
剣に固定していた視線をゆっくりあげてカリエに向けた。思いもかけなかった事を言われ、カリエは目を瞬かせる。
エディアルドの薄い青色の瞳は静かな湖面をカリエに思い出させた。
「あの時、お前は私に共に来いと言ってくれた」
彼がいつのことを語っているのかカリエは瞬時に理解した。カデーレでの寂しい冬の森が脳裏に過ぎる。灰色の湖を渡る冷たい風と目の前にいる男の生きながらにして死の淵に足を突っ込んだかのような顔。
「私は生きる意味を失っていた。生きようとすら思っていなかった」
今思い返せば、あれだけアルゼウス至上主義だったエディアルドが、どうしてカリエの手をとってくれたのかが不思議だった。
あれから、色々な人に出会った。中にはもうこの世にはいない人もいる。生きながらにして会えない人間もいる。それを思うと胸の奥が少し疼く。
「私は今までお前に礼を言っていなかったからな」
いきなり畏まるエディアルドにカリエは少し照れる。
「な、何今更そんなこと言ってるのよ」
「お前のあの言葉が無かったら、私はセーディラに会うことも出来なかった」
エディアルドは既に寝台で熟睡している小さな顔に目を向ける。
彼の目元は以前より少し柔らかい。その微かな変化が判るのもカリエがエディアルドを長年知っているからだ。
その変化に気づけたことが嬉しく、カリエも娘に視線を向ける。友人という言葉に括り切れない大切な人に似たその寝顔を見ると自然と微笑が浮かんでしまう。
昼間にその人――ラクリゼと出かけたからだろう、セーディラははしゃぎ疲れていたのか帰ってきたときには既に船を漕ぎ始めていた。
「セーディラがいて、お前がいる」
軽く息をついて、胸の内にある想いを実感するように、そして確認するようにエディアルドは言葉を続けた。
「お前達の傍にいることが出来て私は幸せだ」
エディアルドが己の心情を語ることなど滅多に無い。カリエは静かに彼の言葉に耳を傾けていた。
アルゼウスのためだけに生きてきた人、そしてその後はカリエの為にその生き方を捧げてくれた。
彼には何度も救われてきた。エディアルドがいなかったら、カリエもそしてセーディラも生きてはいないだろう。感謝してもしきれなかった。
どうしてそこまでしてくれるのかが解らなかった。彼自身の為に生きるという選択も出来たのに。
しかし、そんな想いとは裏腹、彼が自分の傍を離れてしまうことが考えられなかった。いや、考えたくなかった。彼の傍にいると不思議と心が落ち着いた。安らぎを覚えることが出来た。
バルアンに感じていたような炎の様な激しい感情は無い。けれど、胸の奥に静かにある暖かいもの、胸を締め付けるような切なさをカリエは知っていた。
だから、言えなかった。「自分の為に生きて」と口に出すことが怖かった。
「ねぇ、エド・・・」
エディアルドはセーディラから視線を戻す。
「――今、エドは・・・、自分の為に生きてる?」
カリエの質問にエディアルドは少し怪訝そうな顔をする。
「普通生きるのは自分の為だと思うが?」
その言葉にカリエは込み上げてくる何かを感じた。鼻の奥がつんとする。息が詰まる。
「お前達がいるから――、お前達の傍で私は生きて行きたい」
カリエは膝の上で止めていた針と衣服を投げ出した。そして、エディアルドに力いっぱい齧り付いた。首に回した腕に力を込める。
エディアルドは体制を崩すことなくカリエを受け止めた。落とさないように、アルゼウスの剣を横に置く。それを霞んだ目の端に捕らえたかと思うと、暖かい腕が彼女の背を包むのを感じた。
「昔はこんなことを自分が思うということさえ思わなかった」
カリエは知らない。アルゼウスが望んでいたことを。彼はエディアルドが新しい世界を見いだすことを願っていた。
「生きることが苦しいとは思わなかった」
カリエはエディアルドの言葉に頷くことしか出来なかった。涙が次から次へと溢れて来る。嗚咽を殺すので必死だった。
暫く、カリエの小さくしゃくりあげる音だけが部屋に響いた。エディアルドは彼女が落ち着くまで、ただ優しく抱きとめてくれた。
カリエが少し落ち着き始めた頃、エディアルドは静かに口を開いた。
「――ここまで自分が欲深いとは思わなかった」
エディアルドは軽く嘆息する。
「そうよ、人間は欲深い生き物だもの。全然不思議なことじゃないわよ。エドも何か欲が出来たの?」
カリエは尋ねてみる。しかし、エディアルドの欲求なるものが想像出来なかった。
微かに身体を離して彼に向き直る。涙で霞んだ視界を服の端で拭うと、彼の瞳に自分の青い瞳が移っていた。
そこにエディアルドの欲なるものを見出そうと凝視するカリエは、エディアルドの手が自分の片頬を包んだのに気づかなかった。