左右異なる色の目が、ゆっくりと閉じられていく。質素ではあるが、エドと二人で作ったしっかりとした造りの小さな寝台でセーディラは瞼を閉じた。
「セーディラ、寝たよ」
夕食の片付けをしてくれているエドの背中に言うと、こっちも終わった、とのことだった。
愛らしい我が子の頬に口付けをして寝台を離れ、温かいお茶を淹れてくれているエドの元へいく。
「わあ、このお茶好きなんだよねえ」
嬉しそうな声をあげるカリエを見下ろし、エドは自分でも気付かないまま少し微笑する。
こうして、ゆっくりと過ごす時間の有り難さがじんわりと二人の胸に広がった。
カリエは海に逃げるようにして辿り着いた時、不思議と不安を感じなかった。以前海賊として海神ワーデンに荒々しい洗礼を受けていたし、そして何より今はエドが隣りにいてくれる。
いつだってエドは自分の側にいてくれて、多少憎まれ口をきくが、心の底からセーディラを愛してカリエとセーディラの生活を支えてくれている。
二人で住居をととのえ、やっと落ち着けるようになったエドとカリエの日課は、夕食後セーディラを寝かしつけ、エドの淹れてくれたお茶を飲みながら今までの経験を語り合うのだ。
エドにさらわれる前、ヤンガの村でどんな生活を送っていたのかとか、エドにしごかれたとき殺したいほど憎んでいたことも。
ほとんどカリエが、あんなこともあった、こんなこともあったよね〜というのを、
エドが、そうだなと静かに相づちを打つ形ではあったが、ときどき話の内容によっては気まずそうに顔をしかめたり、
カリエの向こう見ずな行動に今更ながら青ざめたり憤慨して顔をまだらに染めもした。エドもまれではあったが、自分の想い出をぽつりぽつりと語ってくれた。
「…本当に有難うね、エド」
昔は、こんな風に過去のことを語ろうなんて思わなかった。そうする時間もなかったし、神に翻弄され激動の人生にしがみつくのに精一杯だったからだ。
けれど、この自由な海賊島で暮らす日々には、お互いの記憶を共有しあう時間が必要に思われた。最初は、ドーン兄上の近況やルトヴィアの状況を心配する時間だったが、この島から動けない以上情報は限られており、自然と昔を語り合うことになったのだ。
開放的な南国仕様の家には波音が絶えず届けられ、森生まれのセーディラも二人の心配をよそに子守歌がわりにすやすやと寝入っている。
「エドがいてくれたから、ここまで来れたし、ここまで頑張れた」
二人で長椅子に腰をおろし、大きな風入れから夜空を見上げながら、語りかける。昨日はバルアンとの別れ、そして擦れ違いをエドに語ったのだ。
もう平気だと思ってあえて自分から話出したのというのに、まだチリチリという胸の痛みに少し泣いてしまった。そんなカリエの背中を温かく大きな手で優しく撫でながら『ゆっくりでいい』と言ってくれた優しさに甘え、今夜もゆっくりと語る。
「……というわけで、アフレイムが生まれたことも嬉しいし、バルアンさまとの出会いは私にとって…良かったものだと思う。…色々な物を彼から学んだし、与えられたから。今も気にならないと言えば嘘になるけれど、今はエドがいてくれるから平気」
なんか気恥ずかしいわ、とえへへと笑う。
…エドに気付いて欲しかった。上手く言葉にはできないけれど、今自分が最も必要としているのはエドだということを。
すると、飲み干したカップを静かに机に移したエドの指が、カリエの目尻に浮かんだ涙をすくい取った。
「泣くな」
分かっている、だから心配するなという優しい言い方に、カリエの涙腺がさらにゆるむ。
…今、側にいてくれるのがエドで良かった。エドならどんな自分でも受け止めてくれる。
「以前お前は『生きろ』といってくれた。アルゼウス様が亡くなって生きる意味がなくなった私に。セーディラに会わせてもらったことも、本当に感謝している」
ゆっくりと、そして噛み締めるようにエドは言った。
「今、生きていて側にいられるのが、本当に幸せだ」
あまり喋るのが得意でなかったエドが真摯に、カリエを見つめながら語りかける。
胸が熱くなる。
全てを捨てて、自分とセーディラの元に来てくれたエドに心の底から感謝した。
熱い感謝の念につき動かされるようにして、長椅子に押し倒さんばかりにエドに抱き付く。
「…エド、本当に有難う。私も今、エドといられて幸せ」
謝罪ではなく感謝の気持ち。
この気持ちが伝わるように、首元にかじりついて耳元でささやく。瞳を閉じると涙がエドの首筋につたった。
「…エド。ずっと一緒にいてね」
きっとエドは、いつの日か約束してくれたように、きっとセーディラの良い父となってくれている。
感慨深げにしみじみとしていたカリエへの返事のかわりに、エドはカリエの頬に触れ、顔を近付ける。
「…エ、エド?」
あまりの顔の近さに困惑し、カリエは少し身を引く。
「……お前が悪い」
―こんなに近くにカリエがいるのに、今まで触れずにいたのが不思議だったのだ。サルベーンやラクリゼたちのような遠くで想い合うような愛の形もあるだろう、けれどエドは想う人とは手をとり、触れ合っていたいと思う―
低く呟くエドの水色の瞳はカリエの青い瞳からそらさないで、ぐいっとカリエの腕を強く引き寄せた。体勢が逆転し、エドがカリエに覆いかぶさるような格好になる。
ひゃっ、と情けない声を出したカリエを受け止めて、エドはカリエの濡れた頬に唇を落とす。
涙の筋をなぞるように。柔らかく。カリエのなめらかな肌に、少しでも多く触れていたいかのように。
「エ、エドっ!?」
エドは湯沸かし器のように赤くなるカリエの顔にかかる髪を、優しく掻きあげて言った。
「…ずっと待ってきた」
その言葉の意味が分かるとカリエはさらに頬を赤く染めた。
―よく似ていると言われたことはあるが、兄と思ったことはない。けれど…いわゆる恋人という風にエドをみたこともない。そう言う関係より先に『かけがえのない人』としてカリエの心を占めていたからだ。
今、エドはカリエを求めている。冗談ではなく(普段からめったに言うこともないが)、偽りなくカリエを求めている。
「……ずるいわ…」
そんな言い方をされては、抵抗することなどできない。ずっとずっと待ってくれたんだ。
どちらからともなく、唇が触れ合う。静かに、優しく、ただ触れるだけのキスだった。
お互いの熱を移すように、ゆっくりと。
しばらくすると、舌がすべりこみ、熱い熱のやり取りが始まる。
「…んんっ」
酸素が足りず、思わず喉を鳴らすが、その声に煽られたかのように、エドは舌を深かめた。
全てが優しかった。
全ての行為は、欲望のままにつき動かされるだけでなく、その裏に深い愛情がある。
今まで、他の人と肌を合わせたことはあるが、あの時のように意味の分からないままでなく、勢いに呑まれたものでもなく、乱暴に痛めつけられるのでもなく、多少荒々しさはあれど、エドの唇や指先は優しい。
呼吸のために唇を離し、深く息をつくと、気遣うようにエドがカリエをうかがう。
「……なんかびっくりしちゃったわ」
まさか彼がこんな風に求めてくるなど、出会った時は考えもしなかったし、今でもまだ信じられない。
けれどまだ口内にエドの温かさが確かに残っているような気がして、真っ赤になる顔を背けながら照れ隠しで呟く。
「何がだ」
応じるエドもいつものように無愛想だったが、彼も照れているのかもしれない。
「いやっ、あのね…エドにも人並みにそうゆう欲があるのかと……」
「……」
生真面目さゆえか、カリエの正直な感想に固まってしまう。
「ごっごめんねあはは。でもね、ほらサルベーンは結構経験豊富だから分からなくもなかったけど…あの堅物のエドが…と思うと」
甘い雰囲気はどこに行ったのか、必死にまくし立てる照れ隠しのための言葉はエドの沸点にふれたようだった。
「お前、まさかあの男と?」
剣呑な光がエドの瞳にやどる。
「えっ?」
かつて後宮にいた二児の母とはいえ、情事における駆け引きなど実践できるはずもなく、
ただでさえエドの対抗心を煽ってきた他の男の名を、このような場で言う危うさをカリエは知らなかった。
「…来い」
エドはカリエの腕を掴むとズルズルと引きずるようにして寝所へと向かう。
「ちょっ!エド!?」急展開した状況に目を白黒させながら、何やらまずい事に自分は彼を怒らせてしまったらしいと、あわあわとおののく。
ぽすんっ、とエドの寝台に引き倒され、やっと彼の行動の意味を知る。
(…これは、やっぱり…そういうコトをするのよね)
何をいまさらとせせら笑われそうだが、キスまでしたのに、いまだにあのエドとコトに及ぶのに驚きを隠せない。
「するの?」
驚きはあっても恐怖はない。上着を脱ぎ、鍛えられた上半身を天窓からの月と星の光に照らされたエドはカリエの問いに途端に不安げになる。
「…嫌か?」
「ううん、でもびっくりしてるだけ」
驚き隠さずに言うと、答えに窮しているようだった。
しばらくして、照れるようにしてボソリと呟く。
「…セーディラは弟か妹が欲しいと思うのだが」
明らかに言い訳だったが、カリエはくすりと笑ってやった。
「しょうがないわね。娘思いのお父さんに付き合って、ひと肌脱ぎますか!」
先程の甘さを放り投げ、文字どおり、色気もなく衣服を勢いよく脱いでいくカリエに、エドは苦笑しながら、白い鎖骨に唇をおとした。
こんな始まりが自分達らしいのかもしれない。
しかし、再び甘い空気に溺れるのに、そう時間はかからなかったが。
「…っエド、ゆっくりにしてっ…セーディラが起きちゃうっ」
喘ぎ声が我慢できず、頼みこむが
「セーディラは良い子だから、夜はぐっすり寝ている」
と言って、とりあってくれないままカリエの体を求め続ける。
(親バカすぎんのよ、このバカっ)
確かにセーディラは海辺での生活がお気に召したのか、夜泣きもせず本当に良い子に育ってくれた。
「…んぁっ、…あっんんっ、あっ」
それでも、こらえられない声を唇でふさいでくれる所は優しい…のかもしれない。
体を満たすのは熱さだ。エドを受けいれている自分もさらに彼を求めている。エドの息遣いすら愛しく思う。
エドの肩越しに天窓を見上げると、満天の星が広がっていた。
…快い痛みに霞む瞳から涙がこぼれ、星空が滲む。エドの背中にまわされた手をさらに強く抱き締める。
(きれいだわ…)
まるで星々が優しく見守っているように感じる。
……今日という日を忘れないだろう。この星空はきっと大切な想い出になる、そう確信してカリエはゆっくりと瞼を閉じた。
全てが終わり、気怠そうにしているエドの背中の傷を人差し指でたどりながら尋ねる。
「ねぇ、いつから私のこと好きになったの?」
わくわくと期待に満ちた目でうかがうが、エドはそっけない。
「分からん」
えぇ〜!何それ〜!?と非難するとくるりとカリエと向き合い、至極真面目な顔で
「気付いたら、お前無しで物事を考えられなくなっていた」
とさらりと吐く。
あまりの甘さと、さりげなさに唖然とし、続いて顔を赤くしてカリエはたじろぐ。
「…エ、エドってさー、時々すごい事をさらりと言うよねぇ…」
エドの照れる姿を見たくて訊いたのに、逆に自分が照れるハメになってしまった。
案外エドの方が、すごい甘い言葉を言えるのかもしれない。
昔、カリエがマヤラータだった頃『其は我が血』と言ってくれていたではないか。
なんだ、思い起こせば、意外とエドとの甘い思い出もあるではないか。
うんうん、とうなづきき、自然とゆるむ口元に、エドはもう一度くちづける。
「顔、ゆるんでるぞ」
「いいんです〜、素敵な回想してたんだから」
今は、マヤラータでもなく、王子様の影武者でもなく、ただのカリエ・フィーダとしてエディアルドといられるのが幸せだ。
しかし、考えてみれば、自分は亡国の皇女で、エドはその国の滅亡を共にした、かの有名な傭兵王の息子だったのだ。
「運命だったのかしらね?」
茶化したように、その実、少し本気でシーツごしにエドに尋ねると、彼は出会うべくして出会ったんだろう、と少し掠れた声で呟いた。
その答えに、えへへと照れた笑いを返し、抱き付いて言った。
……ねぇ、エド。私たちずっとずっとずっと一緒にいようね。約束よ…
終わり