沙耶は友人と二人でランジェリーショップを覗いていた。
以前、一緒に援助交際をしていた友人である。彼女は沙耶が辞めると共にあっさりとやめた。あの時、桐生に沙耶のことを頼んだのも彼女だった、と事件後、本人から聞いた。
「ねえ、沙耶も何か買ったら?」
「お金ないし……やめとく」
「でも、最近きついって言ってたじゃん。サイズだけでも測ってもらえば?」
「タダだし?」
「あ、すみません」
沙耶が返事をしたとたん、友人は店員を呼んだ。
店員の案内に従って、沙耶は試着室へと入る。メジャーが体に巻きつけられ、店員が沙耶のバストサイズとカップを口にした。
「えっ、本当に?」
「ええ、本当に。今の下着だと窮屈なんじゃないかしら?」
「ちょっと……」
「合ったサイズを持ってきましょうか?」
「あ、お金がないからいいです」
お金のない時はこういう手合いは断るに限る。制服を着た沙耶は試着室から出た。
「どうだった?」
「一つ、カップが上がってた」
「よかったじゃん、沙耶」
「まあ……ね」
興味がない風を装ってはいたが、沙耶は内心で少し喜んでいた。胸の大きさにコンプレックスはないが、大きくなったと言われるとやはり少し嬉しいのだ。
「マッサージでもした?」
「してない」
「揉むと大きくなるんだって……」
「ふーん……」
下着を手に、買ってくる、とレジへ向かった友人の後姿を見ながら、沙耶の脳裏には桐生の顔が浮かんでいた。
(まさか……ね)
桐生の手で大きくなったのか、と自分の胸を見て考え、直後、そんなわけはないと振り切る。
それでも、沙耶の口からはわずかに笑みが洩れたのだった。
沙耶は桐生を探して神室町の通りを歩いていた。
桐生は極道である。表通りを探すよりも裏通りの怪しい店に出入りする確率のほうが高い。彫師がいることで有名な龍神会館のある裏通りへ入ろうとした時、後ろから腕をつかまれた。
「女子高生が何の用だ?」
「離してよ」
振り向いた沙耶は、だが、抵抗することなく相手の顔を見つめていた。
沙耶の腕をつかんでいるのは――桐生。
逃げないとわかったからなのか、桐生が沙耶の腕を解放する。
「探してたの」
「俺を、か。だが、なぜここを?」
「有名な彫師がいるって聞いたから」
「色は入れ直してもらった。とうぶん、ここに用はねぇ」
胸が大きくなったのは桐生のせいかもしれない。ただ、それだけを言いたくて沙耶は桐生を探していたのだが、もう一つ口実にできそうなネタが彼の口から出た。
いや、口実などではない。
もう一度見てみたいのだ、桐生の背に広がる龍を――。
「ワタシ……見てみたい」
「何を?」
沙耶の気持ちを知ったうえで彼は言葉を引き出そうとしているのか。それとも、本当にわからずに聞いているのか。
大人であり、口数の少ない桐生の本心はいまだ沙耶にはわからない。ただ、沙耶にできることといえば、『子供』であることを逆手にとって素直に気持ちをぶつけるだけだ。
「桐生さんの背中」
ここで脱ぐわけにはいかない。桐生もそれはわかっているだろう。そして、沙耶もわかっていた。わざと言った。
しばらく睨みあうように見つめ合った後、
「手は出さねぇ」
短く、桐生が言った。
彼の言葉の続きを沙耶は知っていた。
「わかってる」
「先に行く。後から来い」
羽織っていたグレーのジャケットを脱いで、桐生は沙耶へと差し出した。
「なに?」
「制服よりはましだ。タクシー代も入ってる」
沙耶が受け取るのを見届け、桐生は歩き出した。
ホテルに制服で入るのはまずい、という桐生なりの配慮だった。
大きめのジャケットに袖を通し、沙耶はそこに残された匂いを鼻腔へ入れた。
争いごとの耐えない極道の世界に住む桐生。そんな彼のジャケットはもっと血なまぐさい匂いを放つものだと沙耶は思っていた。だが、鼻を通る匂いは父のスーツとあまり変わらない。
袖は沙耶の手を十分に隠している。
「……目立つし」
愚痴りながらも、沙耶の頭に脱ぐという選択肢はない。
ポケットを探ると、乾いた血のついた一万円札が三枚出てきた。全てを広げてみたが、飛び散った血の痕は生々しい。
「どこで手に入れたのよ……」
今はいない持ち主へのむなしい疑問を口にし、結局、沙耶はその三枚をポケットに戻す。
表通りへと戻り、止まっていたタクシーへと乗り込んだ。
バッティングセンター前にあるせいで人通りは割と多く、沙耶は周りを入念に見回してホテルへと入った。女子高生にとっては入るだけでも一苦労である。
ホテルに入ると、大きなソファに桐生が座っていた。ただ座っているだけなのだが、醸し出す貫禄は並ではない。さすがは元極道だ、と妙なところに沙耶は感心してしまった。
沙耶が入ってきたのを確認し、桐生が立ち上がる。部屋はすでにとってあるのかエレベーターへと乗り込んだ。
ホテルへ入ってから部屋へ着くまで、二人の間に言葉はなかった。
「桐生さん……これ」
着ていたジャケットを脱ぎ、沙耶は桐生へと渡す。
ああ、とだけ答え、桐生がそれを受け取り、ポケットの中へ手を入れる。
「使ってねぇのか?」
「使えるわけないじゃん」
「遠慮か?」
「お札、広げてみた?」
ポケットから取り出した一万円札を桐生は広げ、納得したように頷き、また戻した。
「これは……使えねぇな」
沙耶は自分のバッグを桐生へ示す。
「タクシー代を払えるくらいには入ってるから」
お金を払おうなどと思わなくていい。そう、言いたかったのだ。
沙耶の小遣いはそれほど多くない。タクシー代は財布へ多少の痛手を与えていた。だが、桐生からお金を受け取れば今後も『そういう関係』になってしまう。お金のことなど気にせず、恋人同士が会うように会いたかった。そんな淡い夢と期待を沙耶なりに抱いていた。
桐生がシャツのボタンを外す。背中を見せるためだ。
沙耶は鞄を放り投げ、桐生の手をつかんだ。
「ワタシが……外したい」
何か言おうと桐生が口を開いたが、沙耶の目を見て、ゆっくりと頷いた。
沙耶の指が桐生のシャツのボタンへかかる。
シャツのボタンなど制服を脱ぐ時に何度も外している。だが、桐生のボタンは外すごとに彼の厚く逞しい肉体が露わになっていく。平静を装いながらも、沙耶の目は桐生の肌に惹かれ、手は触れてみたい衝動にかられていた。
桐生が勢いよくシャツを脱ぎ、沙耶へと背を向ける。
珠を持った龍が鮮やかな色を放ち、桐生の背から昇ろうとしていた。手を伸ばせば、むきだしの牙が喰らいつき、鋭い爪が離さないだろう。そんな想像さえ抱いてしまったのは、桐生に対する想いのせいか、龍が与えてくる威圧感のせいか――。
「ねえ、桐生さん。ワタシのも見る?」
振り向いた桐生の顔は、緊張感に包まれていた。沙耶に、彼がこんな形相を浮かべるようなことを言った覚えはない。
「墨、入れたのか?」
「入れる? 墨?」
沙耶が問い返したとたん、桐生は安堵のため息をついた。
その瞬間、桐生が何を誤解したのか沙耶にもわかった。
刺青を入れたのか、と桐生は勘違いしたのだ。話の流れを考えれば無理もない。
「胸、大きくなったの」
自分の誤解を笑うかのように桐生が苦笑する。
「手術でもしたか?」
「そ、そんなわけないじゃん! 普通に大きくなったの!」
「それは俺が見るようなことか?」
沙耶の胸の大きさなど、桐生は気にしていなかったようだ。胸が大きくなるメカニズムなど桐生が知るはずもない。自分と何の関係があるのかと思うのも無理のないことだ。
「友達が言ったのよ」
「何を?」
「揉んだら大きくなるって……」
「それが、俺のせいだ、と?」
「桐生さんにしか、触らせたことない」
桐生が体を沙耶へと向けた。
胸がまともに沙耶の眼前へ迫る。思わずうつむいた。
「手は出さねぇ。……言ったはずだ」
沙耶の顔がこわばる。胸を見せた先にそういう展開を期待していなかった、と言えば嘘になる。シャツのボタンを外し、桐生の肌を見た時から体の奥は熱くなっていた。冷ませるのは桐生だけだと気づいていた。
沙耶は、ジャケットのボタンを外し、ネクタイを解き、シャツの胸元を広げた。自信のある下着ではなかったが、見せられないほどひどくはない。
「これでも? ワタシは桐生さんになら手を出されてもいい」
「お前はどう思ってるか知らんが、性欲なら俺にもある。普通にな」
「だったら……!」
「処理に使え、と言うのか? 安売りするのもいい加減にしろ」
桐生が自分のシャツを沙耶に向かって投げつけてきた。彼の語気は荒くない。だが沙耶は、殴られたかのような衝撃と、桐生のかすかな怒りを受け取った気がした。
幸か不幸か、沙耶は桐生の低い声や鋭い目で引いてしまうような女ではない。出会った時のように、強気な態度で投げつけられたシャツを投げ返した。
「性欲があるなら抱けばいいじゃん。大人ヅラしないで」
「性欲処理の女なら俺は金を払う。……いくらだ?」
桐生が財布を広げる。それなりの現金を持ち合わせているようだ。
「お金に換えるなんて……最低」
「だから言ったはずだ。安売りするなってなぁ」
「……あっ」
桐生は財布を投げて、自分もソファへと座った。
彼に抱いてもらえればどんな存在でもいい。それなのに、どうして彼はこんなに怒っているのだろう、と思っていた沙耶の中で『性欲処理』と『安売り』が結びついた。
そして、桐生の中で沙耶は決して『安くはない』ということにも気づいた。沙耶を性欲処理にしようとは思っていないのだ。
制服を元通りに直し、沙耶はベッドへと座る。
「大切にしろ、って言われたのに……」
「伊達さんが泣くなぁ」
冗談かと思ったが、意外と桐生は真顔だ。
「こんなところでお父さんのこと言わないでよ」
沙耶は笑おうとしたのだが、懸命に涙をこらえようとしていた父の顔を思い出すと笑えなかった。父の震える声はもう聞きたくない。
「桐生さん、背中に触りたい」
龍を見た時、素直に言っておけば、あんな暴走を生むこともなかった。全ての始まりは、この言葉を言えなかったことにある。
無言で立ち上がった桐生は、ベッドへ歩み寄り、足をわずかに広げて背を向けた。
足が踏ん張られているせいか、龍も引き締まって見える。
沙耶も立ち上がり、指を伸ばした。龍の口へと指を添える。
桐生の背に飲み込まれた龍は、沙耶の指を食いちぎることもなく、ただ黙って受け入れている。
手で触れているだけでは物足りなくなり、沙耶は頬を龍へと押し付けた。腕が自然と桐生の腹へと回った。
桐生は微動だにしない。沙耶を受け入れた龍のように威風堂々とそこにいる。
沙耶の心に温かな充足感が広がる。桐生に抱かれているわけではない、愛を囁かれているわけでもない。だが、確かな満足感と桐生の空気が沙耶を包み込んでいた。
しばらくした後、桐生の背から離れる際、龍へとそっと口付けた。ぴくりと背が動いたので、慌てて唇を離す。
沙耶が口付けた箇所は不似合いな艶を放っていた。唇に塗っていたグロスが移ってしまったのだ。
「気は済んだか?」
上体をかがめた桐生は、落ちていたシャツを拾い上げて羽織る。
ついてしまったグロスのことを、沙耶は黙っていた。少しの痕跡を残すくらいは許されてもいい。
「桐生さん、ワタシの胸を見ても本当になんとも思わなかった?」
ボタンを留めていた桐生の手が止まった。
「……よく見てない」
曖昧な返事を残し、桐生は再びボタンを留めていく。シャツをスラックスの中へ入れ、ジャケットを羽織った。こちらのボタンは留めない。
鞄を取った沙耶へ、あの汚い三万円を渡す。
「イヤ、受け取らない」
「俺のせいじゃねぇのか?」
「えっ……?」
「確かに、大きくなったようだな」
新しい下着のことだと気づいた沙耶は、素直に三万円を受け取った。どんなに高い下着を買ってもおつりがくる。下着が窮屈そうなことに桐生は気づいたのだろう。
そこまで考えて、ふと、一つの言葉との矛盾に気づいた。
「見てないって……言わなかった?」
「さあなぁ」
ドアのノブへと手をかけた桐生の口の端は明らかな笑みを浮かべていた。
◇終◇