シャワーから出ると、鼻歌が聞こえた。
機嫌の良い声だ。何か良い事でもあったんだろうか。
少し音程の外れた鼻歌を聞きながら短い髪をタオルで乾かしていたら、その声は微かな余韻を残して突然途絶えた。
下だけ下着とジャージをはいて、部屋の戸を開ける。
「しぃ?」
そこには暗闇の中にぽつんと布団に包まって眠る妹の姿があった。
翌日、朝(と言ってもすでに昼に近いが)目が覚めると部屋にはもう静奈の姿はなかった。
残されていたのは置手紙ひとつ。
戸神行成と会ってくる、と。
やっぱり、と思った。
昨日の鼻歌の原因はこれだったわけだ。
軽く伸びをしてソファに寝転がる。いつの間にかここが俺の寝床になっていた。
元・俺のベッドは今ではもう静奈専用だ。
俺達が本当の兄妹ではないと知ってからも、静奈はそれを受け入れて、今まで通り俺と一緒に住んでいた。
計画のため、というのもあるけど
たとえ血はつながっていなくても、静奈は俺達の大事な存在に変わりはない。
そう。静奈は大事な妹で、大事な家族で、大事な……。
ため息。
難しいこと、面倒なことを考えようとするのは性にあわず、どうも頭が痛くなる。
ジョージさんの店のバイトを終えると、夜の8時を過ぎていた。
静奈はたぶん戸神といつものようにハヤシライスでも食べてくるだろうから、今日の夕飯は俺ひとりだ。
今から帰って自炊するのも面倒くさいし、コンビニで弁当でも買っていくことにした。
温めてもらった弁当を下げてコンビニを出ると、少し気の早いクリスマスイルミネーションに飾られた駅で、二人の後ろ姿を見つけた。
足が止まる。目を凝らして見るが、やっぱり見間違いじゃない。
良家の子女のような洋服に彩られた俺の可愛い妹と、あの男だ。
静奈の隣にいる長身の男は二、三言葉を交わすと、名残惜しそうに自分の車に戻っていく。
柔らかい笑顔をたたえて小さく手を振りながら男を見送る静奈。
車が駅のターミナルを抜けて次第に夜の闇に消えていく。
静奈の手のひらが、ゆっくりと落ちる。
その瞬間、俺は悟った。
思わず弁当を投げ出して、走り出していた。
「しぃ!」
そっと、後ろから腕を引き寄せて抱きしめる。
その細い肩が震えていたのは寒さのせいだけじゃないって分かってた。
「泰兄…」
抱きしめる俺の手に、一まわり以上小さい静奈のそれが重なった。やっぱり冷たくて、震えてて。
「私、今日も嘘ついちゃった」
「家まで送ってくってきかないからさ、これから友達と会わなきゃいけないから駅まで送ってくれれば良いって嘘ついたの。だって本当の家なんて言えないもんね」
ガキの頃みたいに二人で手を繋いで、人気の少ない路地を歩く。
「アイツさーすごく親切で優しくて純粋でさ、ばっかみたいだよ。私なんか嘘ばっかりついてるのに、嘘しかついてないのに、全く疑わないんだもん」
俺の手を離して、静奈は一歩先を行き、そして振り返る。静奈は笑ってた。
「……ほんとにバカみたいだよ」
泣きそうな顔で、笑ってた。
静奈が戸神に惚れてることは薄々気がついていた。
最近のふとした時の表情とか、声とか。昨日の夜のことだって。
兄貴はまだ気づいていないけど、俺には分かる。
だって俺は兄貴が静奈を女として好きになるよりもずっと前から、静奈が好きだったから。ずっと見てたから。
それでも、俺だって静奈の兄だから。
快く静奈の恋を応援してやれたら、どんなにいいだろう。
例えばアイツが、両親の仇でさえなければ―――。
しぃの笑顔が好きなのに。しぃの幸せを守ってやりたいのに。
過去に呪われた俺達がしぃの幸せの邪魔をする。
「しぃ…」
静奈の身体を抱き寄せて、その首筋に顔をうずめた。
「消したい…」
涙が、ぽたりと零れ落ちた。
「こんな気持ち、消しちゃいたいよぉ…っ」
はちきれんばかりの想いと共に次々にあふれ出す涙を指で拭ってやると、俺は愚かなことに自然と唇を重ねてしまっていた。
甘い、唇。
静奈の瞳が見開かれる。
どくどくと体中の血液がめぐる音が聞こえた。
「俺、兄貴みたいに賢くなくて、バカだから」
こんなことしかしてやれない、なんて。
涙に濡れた指をその頬から離そうとすると、再びその指にぬくもりを感じた。静奈の震えた手だった。
「いい、よ」
「しぃ……」
「泰兄なら、いいよ。
だからこの気持ちを、忘れさせて……」
部屋に戻る頃には、いつの間にか夜空の月は重い雲に隠れて、はらはらと水滴が落ちてきた。
少しばかり雨に濡れてしまった長い髪ごと抱き寄せると、玄関のドアと俺の間に静奈を閉じ込めてキスをした。
やっぱり静奈の唇はこれ以上ないほど甘い。
「っふ、あ…」
合間に洩れる吐息に鼓膜がとろけ、あっという間に身体が痺れていく。
奪うようなキスではなくて、傷を舐めあうような優しいキスだった。
静奈をベッドまで運ぶと、覆いかぶさるように身体を重ねた。
下にひいたままの古びた毛布から、最初の所有者であった男臭い俺の匂いに混じって、静奈の甘い匂いがした。
それだけで欲に溺れそうになる俺に、突然。ほんの僅かに残っていたなけなしの理性が問う。
本当にこれが静奈を守る方法なんだろうか。
もしかしたら余計に静奈を傷つけることになるんじゃないだろうか、と。
「泰兄まで、可哀想な顔してる」
聞こえたのは、外の風に軋む窓の音にかき消されそうな声だった。
静奈は俺の胸を押して上半身を起こして、毛布をぐしゃりと握りしめる。
「ごめん。しぃがいけないんだよね」
「え……?」
「泰兄の優しさに甘えて、ひどいお願いなんかしちゃったから、はは…泰兄まで…」
俯いた静奈は、唇を噛み締めて、くしゃくしゃな顔をする。
その顔に、俺の胸の奥がつぶれそうになる。
「これじゃ本当にばかなのは、しぃだよね」
ああ――
「違う。違うよ、しぃ」
俺は静奈にこんな顔をさせたいわけじゃない。
大事なことを忘れかけていた。
静奈が寂しいなら、そばにいてその寂しさを紛らわせてやりたい。
静奈が悲しいなら、ほんの少しでもその悲しみを取り除いてやりたい。
静奈が苦しいなら、たとえ一瞬でも、その苦しみを忘れさせてやりたい。
そうやって静奈の笑顔を守るんだ。
今までも、これからも。
「甘えていいんだよ」
「泰兄?」
「……だから、おいで」
俺は笑う。ちょっとぎこちないかもしれないけど、精一杯笑う。
上半身を起こした静奈をもう一度抱きしめて、額に、頬に、そして唇に口付けを落とした。
甘えていいんだ。甘えて、何が悪い。
だって、静奈が着飾らなくても、何ひとつ嘘を吐かなくても、心から甘えて縋って弱音を吐けるのは、――俺だけなんだから。
乱れ始める呼吸。
片方の手で静奈の頬を撫でながら、もう片方はシャツの上からしなやかな身体の線を辿っていく。
甘えん坊だった妹の身体は、当たり前だけど今はもう大人の女のそれで。
布越しに触れるのがじれったくて、ブラウスをたくし上げる。
闇の中でも薄っすらと浮かび上がる白い肌。
「っや……たい、に…っ」
「しぃ、可愛いよ」
反射的に顔を隠そうとする静奈の手を押さえて、もう一度唇を重ねた。今度はもっと深く、ざらついた舌と舌を絡めて。
薄く開かれている潤んだ瞳の奥に、欲望の火がゆらゆらと揺れ始めた。
俺が上着を脱ぎ捨てると、肌と肌でお互いの体温を感じあう。
両手は柔らかで熱い肌をまさぐり、糸ひく舌は首筋を伝う。
「ふっ…ぁ」
甘い。甘い。どこもかしこも甘くて熱くてとろけそうだ。
ぎこちない指先でブラのホックを外して、露わになったふくらみを手で包み込む。
そしてふたつの頂を親指と爪先で弄りながら、片方を口に含んだ。
「ひぁ…っ!」
びくん、と震える肢体。頂を甘く噛み、舌先で転がし、強く吸う。何度も何度も執拗に。
その間も空いた掌は肌を徘徊していくと、次第に熱が全身に伝わっていく。
そして指先が腿の間にたどり着くと、そこは僅かに湿っていた。
「っあ…やだぁ!」
「しぃ、気持ちいい?」
「う、ん…っ」
布越しに秘所へ指を少しだけ差し込むと、じわり、と奥からあふれ出してくる。
濡れた下着を剥ぎ取り、膝を静奈の足の間へ割り込ませた。
俺は再び静奈の熱を確かめながらその濡れ始めた場所へ指を滑らせる。
多少性急な行為に戸惑いながらも、静奈は俺から与えられる快楽に徐々に身を委ねようとしていた。
「っしぃ…!」
気づくと、自分でも驚くほど切羽詰った声で静奈を呼んでいた。
静奈もまた情欲を煽るせつない吐息で応えてくれる。
いつのまにやら理性なんてものは跡形も無く崩れ去り、俺はただの男になりかけていた。兄でもなく、ただ静奈を好きな男に。
抜き差しを何度か繰り返し、奥へ奥へと指を進めていく間に、静奈のそこはもう十分な湿り気を帯びていた。
愛液の絡んだ数本の指を引き抜いた場所に、俺は高ぶった自分の欲望を宛がった。
「……っぅ!」
悲鳴にも似た泣き声。
少しでも静奈の負担が軽くなるよう、なるべくゆっくりと進めていくが、抗う力は強い。
生理的に溢れる静奈の涙を唇で拭った。
「しぃ、辛いよな?ごめん。一度休むか?」
「っつ…だ、いじょぶ…だから、やめないで」
「しぃ…」
やめないで、と懇願する静奈。細い指先が必死に俺の肩を抱く。微かに肌に食い込む爪は震えていた。
ほんの僅かな快楽の代償は大きい痛み。ふと、それはどこか俺達に似ている気がした。
そんな考えを振り払うように、静奈の腰を抱えると一気に奥まで貫いた。
その時。
「っ、とが―――」
一瞬、静寂が訪れる。
耳に届いたのは窓の外の雨の泣き声だけ。
お互い、奥に収まったために少し和らいだ痛みに身体の力を抜くことも、思考も、呼吸すら忘れて。
「あ……あぁ…!」
ぽろぽろとその瞳から大粒の涙が零れ落ちてくる。
「ちが…違う、の……あ、あたし…あたし…っ」
「ばか、何も考えんな!」
「最低…あ、たし、最低ぇ…ぁ、あ…ごめ…たいにぃ、…ごめ…っ!」
「しぃ……静奈っ」
せめて、今だけでも全てを忘れさせてやれたら―――
俺は静奈を力の限り抱きしめて、無我夢中で繋がった場所を突いた。
次第にあふれ出して交じり合う体液と体液。たとえ心はぼろぼろに傷ついても、身体の快楽は二人を絶頂へ導く。
やがてその時をむかえると、俺達は同時に果てた。
そして息をつく間もなくまた繰り返す。
傷を舐めあうようなキスをして、何度も………何度も。
夜明け近くになると、いつの間にか静奈は眠ってしまっていた。
それまで夢中で感じていた熱を失うと急に寒さを感じて、床に放り投げていた衣服を引き寄せる。
静奈には、汚れを綺麗にふいてから、風邪でもひかないように押し入れから新しい毛布を引っ張り出してきて被せてやった。
涙の跡を残す肌を指で擦って、触れるだけのキスを落とす。
今はただ、静奈が少しでも安らかに眠れるように。
(好きだよ、戸神なんか忘れて俺を好きになれよ、しぃ)
本当は何度も口にしてしまいそうになった俺の本心。その度に奥歯を噛み締めて必死に耐えた。
そんな言葉は、静奈を苦しめるだけだから。
汚れた毛布を浴室まで運び、ネットに放り投げてふと見ると、そこには鏡にうつった俺がいた。
『泰兄まで、可哀想な顔してる』
悲しそうな静奈の声が、蘇った。
笑う。口角を引き上げて、無理やり。……やっぱり、情けないほどぎこちない。
「あーあ、兄貴にバレたらぶっ殺されっかな」
それとも兄貴もまた、可哀想な顔をするんだろうか。
眠る静奈の傍にずるずると腰を下ろしてベッドに凭れかかる。
「明日は、笑ってくれるかな……」
なんて、都合のいいことを考えて。
でもその優しくて甘美な夢に抗うことなんてできない。
静奈が俺のそばで、大好きな笑顔で、いつもみたいに笑ってくれる。そしたら俺達はまたふざけあって……それはなんて心地いい夢だろう。
「おやすみ、しぃ」
毛布からはみ出た小さな手に指を絡めて、静かに目を伏せた。
――その手のひらがかすかに俺の指を握り返してくれたことを知らずに、俺はゆっくりと意識を手放していった。