「一体、どれだけいるんだい…っ」
べっとりと付いた血糊と脂とが切れ味を殺いでいる刀身を振り払い、シフは苦しそうに呟く。
これもサルーイン復活の影響とでもいうのだろうか。
バルハラント中の獣と魔物が終結しているのではないかと思う程の大群だった。
斬っても斬っても次々と現れる彼等は、容赦なくシフへと牙を剥く。
ザン、とガーゴイルの首を跳ね飛ばし、倒れた胴体に剣を突き立て。
間髪入れずに次の敵に斬りかかろうとしたその脚を、突然襲った激痛に目の前が真っ赤に染まる。
「うああああっ!!」
思わず大剣を手放して、シフは雪の上を悶え転がり回る。
ギリギリと万力で締め上げるような力を加えられ、肉が裂け骨が軋む。
痛みで涙が滲む目で見れば、つい今さっき切り落とした筈のガーゴイルの首が右の脹脛辺りに喰らい付いていた。
「くっ、しつこいねぇっ!」
咄嗟に手元に転がっていた敵の武器を取ると、渾身の力でそれを振り下ろす。
骨を貫く嫌な感触がして、数度貫き引き抜くを繰り返すと、ドロリと首が溶けるように歪みやがて消滅した。
「さすがに、キツイねぇ…」
こんな時、体力回復の術法を会得していれば、どんなに良かっただろうか。
性に合わないからって突っぱねてたけど、人の忠告はちゃんと聞くもんだね。
気休め程度に喰い付かれた箇所をさすりながら、シフは自嘲気味に唇を歪める。
そして這いずるように自分の剣を掴むと、それを支えにしてようやく立ち上がった。
このまま、死ぬのかもしれない。
ぼんやりと霞がかった頭で、そう思った。
周囲をぐるりと囲まれ、その輪は徐々に狭まってきている。
それに対して、あたしは後何回この剣を振るえるのだろう。
汗と血とで滑る手のひらを服の裾で拭って剣の柄を握り直すが、その感覚すら最早危うい。
あたしは、負けるのか?
ドクドクと心臓の音がやけに響いて、他の全ての音を掻き消してゆく。
負けたくはないと、死にたくはないと、全身全霊が叫ぶ。
まだ死ねない、まだ負けられない。
まだやりたい事、やらなければならない事、また会いたい人、これから出会う人。
ふと脳裏に浮かんだ影がはっきりとした姿を映し出す前に、シフは頭を振ってギッ、と前を見据える。
「あたしは死なないよ!…負けて、たまるもんかぁっ!!」
そう叫ぶと、大気を震わせる声で咆えた。
「くっそ、この役立たずが!切り落としちまうぞ、こんちくしょうめ!」
ガトの村を出て、雪溜まりに嵌まる事はや数回。
顔面から勢いよく突っ込んだ雪の中から這い出たホークは、もう殆ど言う事を聞かない自分の脚に向かって罵声を上げる。
罵声を上げてから、自己嫌悪に陥る。
「……なんて、な。はっ、歳はとりたくねぇよな、全く」
よっこいしょ、と声を出して座り込んで、荒い呼吸を繰り返す。
そして手元に転がっていた氷の塊を口に放り込んで噛み砕くと、バタリと仰向けに倒れ込んだ。
限界など、とうに超えていた。
不慣れな雪道は容易に足元を掬い、その度に体力を削り取ってゆく。
寒さは最早感じなくなっていたが、長時間冷気に晒され酷使され続けてきた喉は、息を飲み込む度に錆びた鉄の味がした。
「やべぇ、マジやべぇ…」
ゴクリ、と溶けた水を飲み下す音が、やけに大きく聞こえた。
乱れた息遣い、激しく胸を打つ心臓、吹き荒ぶ風、砕け散る波。
様々な音が入り乱れて煩いくらいなのに、それ以外はやけに静かだ。
まるでこの広い雪原で、自分たった一人取り残されたような、そんな静寂。
ああ、嫌だ、嫌な予感がする。
腕で目を覆い犬のように口で息をしながら、ホークは胸を締める焦燥感に眉を顰める。
早く、シフの元へ駆け付けなければならないのに。
気だけが焦り、空回る。
「大体、こう全部が真っ白じゃ、目印も何もあったもんじゃねぇ」
方向感覚には自信があったが、やはり海と陸とでは勝手が違う。
完璧に道を見失った事を認めざるを得なくて、悔しさと情けなさに舌打ちをする。
その時、風の音に乗って、獣に似た咆哮が聞こえたような気がした。
しかしその声は、何処か懐かしく。
ガバッ、と飛び起きると、ホークは声の聞こえた方向を凝視する。
「…どこだ?どこにいる?」
そしてどれだけ走っただろうか、向かい風の中に生臭い血の匂いが混じってきたように思う。
鼻を突くそれは次第に濃さを増し、遠目にも魔物の残骸が確認出来る所まで辿り着く。
「……こりゃぁ」
その余りの凄惨さに、ホークは言葉を失った。
白の大地は見る影も無く、そこに広がるのはドス黒い血と肉塊に埋め尽くされた赤の大地。
一体どれだけの数がいるのだろう、そう考える事自体が無意味に思える程の惨状。
「シフ!おい、シフーっ!」
足に絡みつく生き物の残骸を蹴散らしながら、ホークはシフの名を呼び続ける。
生きていて欲しいと、無事であってくれと切に願う。
しかしそう思う反面、また胸に重く圧し掛かる嫌な予感に心ががバラバラになりそうになる。
「…シ、フ……?」
ようやく視界に捕らえたその姿は、地に突き刺した大剣に寄り掛かり動く気配すらなかった。
それはさながら、一枚の絵のようで。
口を半開きにした間の抜けた表情のまま、ホークは目を奪われて立ち尽くす。
無事なのかそうでないのか、この距離からではまだ判別する事は出来ない。
が、尋常ではない状況である事は、容易に判断出来た。
「何が起こってやがるんだ、一体!」
そう吐き捨てて、ホークはがむしゃらに走る。
そして事態の深刻さを改めて確信した時、今度こそ本当に言葉を失う。
シフの周りでは、未だ十数体の魔物が攻撃の機会を狙っている。
ピンと張り詰めた空気は侵入者を拒絶し、迂闊に動く事が出来なくなったホークはジレンマに舌打ちをする。
と、前触れも無くその均衡が破られる。
野犬がシフに喰い掛かろうとしたその刹那、突然彼女が顔を上げた。
そして両手で持った剣を力任せに引き抜くと、そのまま勢いをつけて体を反転させる。
斬る、というより剣の重量で叩き潰すように野犬を撃ち落とすと、シフはまた剣を地面へと突き刺す。
顔を伏せ、激しい息遣いで呼吸を繰り返し。
体力も気力もとうに尽き果てているだろうに、それでもシフは剣を握り敵を薙ぎ払う。
もうどれ位そんな戦い方を繰り返してきたのだろうか、明らかに敵に恐れと躊躇いが見え始めていた。
獣は耳を伏せ尾を巻き、獣人は互いの顔を見合わせ武器を下ろす。
「うぉぁああああーっ!!」
その時を見計らったようにシフがギンと顔を上げ、勝ち鬨の雄叫びを上げた。
それを合図にして、敵が蜘蛛の子を散らすように四方に逃げ去ってゆく。
シフは決して深追いはせず、その様子を見届けるともう一度だけ天に向かって咆えた。
その声は幾重にも木霊し、余韻を残して消える。
そして突然シフを襲った異変に、ホークははっと我に返った。
「いけねぇっ、痙攣起こしてやがるっ!」
ガクガクと全身を襲う痙攣に、シフは地に突き刺した剣に縋り付く事でようやく体を支える。
限界を超えて戦い続けてきたツケが、一気に押し寄せてきたのだ。
それなのに全く手を出せなかった自分の不甲斐無さを呪いながら、ホークは全力で彼女の元へと走る。
「大丈夫か、シ……!」
最後の言葉を飲み込んで、ホークは足を止める。
そして次の瞬間真上から振り下ろされた大剣を、両手で支えた片手斧で受け止めた。
「ぐっ!」
余りの衝撃に、頑丈な筈の片手斧がミシリと悲鳴を上げる。
そのまま圧力を加えられ、ホークは耐え切れずガクリと片膝を折った。
力負けしている?この俺が?
信じられなかった。
自分が片膝を着かされた事も、自分がシフに攻撃されているという事も。
到底信じる事も、認める事も出来ない、驚愕と屈辱と。
「何のつもりだぁっ、てめぇっ!」
ギリギリと大剣で圧され、ホークは体を仰け反らせながら絞り出すように叫ぶ。
これが今の今まで痙攣を起こし、そのまま倒れてしまいそうだった人間の力なのだろうか。
「…っ、調子こいてんじゃねぇっ!」
渾身の力でシフごと大剣を弾き返すと、ホークは雪の上に落ちたその剣を更に手の届かない場所まで蹴り飛ばす。
武器を失ったシフは低く唸り、四つ這いになって間合いを取る。
「正気、じゃねぇよな…」
もしかしたら、さっきの妙な魔物か。
チラリと浮かんだ不吉な予感に、ホークはじっとシフの影を凝視する。
しかしその影は自分のそれと大差無く、僅かな落胆に息をつく。
「操られていた方が、まだマシだったんだがなぁ」
雪を蹴り飛び掛ってきたシフがホークの肩を掴み、そのまま勢いよく雪原へと押し倒す。
獣じみた荒い呼吸に、目だけが異様にギラギラと輝いていて。
『狂戦士』、咄嗟に頭を過ぎった言葉そのものだと、そう思った。
そして確実に喉笛を狙ってきた牙を寸でのところでかわすと、ホークはありったけの力で肩に食い込む手を振り払う。
「トチ狂いやがって、この阿呆が!」
そう叫んでシフの後頭部を鷲掴むと、ホークは自分の肩にその顔を埋め込ませるように彼女を強く抱き締めた。
グゥ、と喉の奥で唸ったシフが犬歯を剥いて肩へと喰らい付いたが、腕の力を込める事で痛みを堪える。
「大丈夫、…もう終わった。大丈夫、大丈夫だ」
ぽんぽんと子供をあやすように背中を叩いてやりながら、ホークは大丈夫と繰り返す。
腕の中の体は何とか逃れようともがき続け、一向に大人しくなる気配は無い。
それでも根気よく宥め続けると、やがて少しずつだが喰い付かれた肩の痛みが和らいでくる。
「よく頑張ったな」
そう笑ってホークは2,3度背中を摩り上げると、唐突に固めた拳をシフの鳩尾へと食い込ませた。
その痛みに息が止まり、シフは驚愕に目を見開く。
そして瞳が輝きを失い、力の抜け切った体がガクリとホークの上に圧し掛かる。
ホークはそんな彼女にすまねぇな、と短く詫びると、ぎゅぅっと傷だらけの体を抱き締めた。