エレンと出会ったのは、嵐の夜だったと思う。  
以前、モニカ姫が駆け込んできた夜も、獣一匹駆けぬ日だった。  
遠い目をした彼女が、そう話したからだ。  
辺境の開拓村からミカエル侯の下へと馳せ参じ、やがてはそれが思いもかけぬ長旅へと拓けた…。  
知らぬ町へ足を向けた童女のように、彼女はそれは活き活きと話を続ける。  
 壮健な顎を窺わせる引き締まった頬。笑い癖のついた口元。  
的確な言葉を思索しくるくると踊る、竜鱗で切り開いたかのような切れ長の瞳。  
 極めつけは亜麻色のポニーテイルだ。  
彼女の躍動を表すそれは、ともすれば至高の美姫にも思える彼女の魅力を  
私達に親しみやすく実感させる。  
 旅すがら多くの話を交わした身だが、彼女ほど表情豊かに話され、  
あれほど気分の良かったことは記憶に薄い。  
 
 だが、それほど嬉しげに昔懐かしむ彼女も、必ず終わりには俯きがちに押し黙る。  
旅の仲間達と別れ、独り開拓村に帰ってきた…と語る直後だ。  
 シノンというこの村は、今や何人か老人がいるだけの寂れた開拓地跡。  
うら若い女の身に相応しくはない。  
殊更、それが魅力的な娘であったなら。  
 
 行き倒れて次に目がさめた時、私は天に召されたものと確信した。  
視界に映る彼女は、その寸前までの闇とは対照的に、生に満ち溢れすぎていたからだ。  
 
洒落たキッチンから唄が聞こえる。  
筋の通った小鼻から漏れる音は、彼女の高ぶりの声と音域がちかい。  
私がここへ来たころは、彼女はキッチンに立つことすらなかったようだ。  
まともな食事を摂るのが自分だけでは仕方もあるまい。  
 もっとも、肉塊にかぶりつく様は、奔放な彼女の魅力にあって野蛮とは感じず、  
ただ危うい魅力のある辺りに背徳的な気品さえ覚えた。  
 
 妙な感覚だ。  
肩はなだらかに張っているが、二の腕は市井の娘とどう変わるものでもない。  
だがあの腕は、かつて魔王の遺した戦斧を掴み、かの魔貴族を刈り取ったのだ。  
豊かな胸丘をとどめる、起伏に富んだ背筋。  
異性の目に驚きをもたらさんと、人形師が捩じりとったような腰つき。  
子を産む女としての成熟を誇るかのような尻。  
太股はその名通り肉厚な弾力を見せ、双子弓の弦を思わせる脛へつづく。  
 関節と手足の首は見事に引き絞られていた。  
目を這わせるだけで驚きに満ち溢れる躯だ。  
大気に晒しても、薄く絹を掛けても、その肢体の魅力が全て漏れることはない。  
 これは今日の彼女でしかないからだ。  
日々細部を愛でなければけっして気付かない小さな変革が、今も彼女の中を静かに伝う。  
 
 
熱い肉汁にジリつく猪肉が、鮮やかな小麦色のタレで彩られる。  
味の深い野菜スープは、口の中で雪を踏むような気分良い音を立てた。  
 考える間もなく、私はうまい…とつぶやいている。  
口元を綻ばせつつ、照れたようにスープを掻きまぜるエレン。  
言ってよかったと思える。  
もし心にもない事を口にすれば、以前の彼女なら憤慨して口を利かなくなるだけだった。  
それが今では、表面上おどけてみせながら、夜中にそっと起き出し、  
死蝕の起きない蒼月の下でじっと佇んでいるから性質が悪い。  
 
食事を終えて間もなく、私達は赤い果実酒をグラスに注ぎあう。  
きつい辺境の酒。くだらない悩みがひと時霧散する濃度の毒。  
彼女は毎夜これを呑んでは噎せ、首筋に血の涙を伝わせていたのだろう。  
今は私も、同じ苦行を分かち合う。  
鮮烈な朱が、私達の血肉を同じ色に染め上げる。  
 
私は手を伸ばし、傍らの端正な肩を引き寄せた。  
 
エレンの薄い花びらのような上唇を吸い、ふわりと尖った下唇に舌を触れさせる。  
粘質な音が響き、私はより口戯を深めるために顔を傾けた。  
 竜翼を思わせる我の強そうな眉。理想的に目線を際立たせる二重。  
しかしその挑発的な美貌は、横目にこちらを向く濡れた瞳で年頃の少女の背伸びになる。  
彼女はもう三十路ちかいのではなかったか。  
どうやればこの段を以って、青臭い少女よりも初初しく、またそれが決して持ちえぬ艶かしさで  
相手を臓腑より震え立たせることができるのか。  
 同じ物を食し、同じ酒に酔いしれたにもかかわらず、彼女の唾液は別格に甘かった。  
その蜜の出処を求め、私はいつも、強く彼女の吐息を吸い尽くす。  
口を離したとき、一筋伝い落ちる雫が官能を彩る。  
 
私は彼女を背後から抱き寄せる。  
浮いた鎖骨に腕を埋め、その小耳に、項に、首筋に口付け、果実の紅い噛み痕を連ねる。  
初め唇を噛んで前を睨んでいる彼女は、やがて目を閉じ、  
花のような香りを吐いて眉を寄せた。  
鍛え上げられた肢体は細胞の一つ一つまで酸素を含み、活性化する。  
 類稀な美貌などトドメに過ぎない。  
彼女はさばけた性格や深すぎる母性、そしてこの快活な生理反応こそが真の魅力だ。  
その気取らない触れ合いは、モニカ公爵妃との対極に位置すると言っていい。  
 
彼女に貼りついたチュニックをたくし上げ、その体の唯一柔らかい膨らみに、  
心臓ごと包み込むように指を這わせた。  
尖端はすでに屹立しかかっており、谷間をゆらすと人好きのする匂いが立ち込める。  
彼女の感応の証だ。  
 別の手を彼女に沿わせて撫で下ろした。  
脇腹の反りを確かめ、子を歓待するまろみを押し込む。  
彼女が小さく仰け反るのを感じつつ、その手をついに肉厚な太股へ添えた。  
すこしずつ、内側へ。  
天下のロアーヌ公すら触れることを許されない、まさに禁断の秘所。  
腰に巻いた刺繍入りのスカーフを除け、スパッツに引き締められた局所をなぞる。  
 
その時、私の腕が金縛りに遭ったように動かなくなった。  
一回り小さい細腕が、私の手首を掴んでいるのである。  
 情けない話ながら、こうなると完全に進退窮まる。  
鍛え鍛えて円熟の極みに達した格闘家が相手では、一介の旅人になす術などない。  
ただ腕がひしゃげないことを祈るばかりか。  
私はエレンのトレードマークを撫でながら、大丈夫…と繰り返す。  
ふっと力が緩まった。  
 
「ごめんなさい」  
エレンは自分の身をかき抱き、泣き出す子供のようにこちらを振り仰いだ。  
 
私達はいつもこの調子で、心は重ねあってもその前に戻れない。  
かといって、私が彼女を責めることはない。  
旅の仲間が揃って一角の人物になり、護るべき存在だった妹が『神王』で、  
今や世界中で噂されるようになった。  
だが、彼女だけは辺境の開拓地で、人知れず穀物の世話に明け暮れ、  
春を知らぬまま又とない美貌を朽ちさせようとしていた。  
   
永遠とも思える孤独の中、彼女の苦しみはどれほどのものだったろうか。  
もしもエレンが許すなら、私が彼女を求めよう。  
私にも拘るべき世間体は確かにあったが、もはや未練はない。  
 
時間はある。  
これからどれほどの年月が経とうとも、もう死蝕によって、私達の子が奪われる事はないのだから。  
 
 
                            END  
 

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