空も白み始めた頃。周りで寝ている者を起こさぬ様に、バーバラはこっそりと  
ある場所へ向かうために馬車から抜け出した。  
手には小さな包みを持ち、腰には使い慣れた長剣を下げた姿で。  
 
 
予定通りなら、ウエストエンドまで出て宿に泊まれている筈だった。しかし  
何があったのか、クジャラートの関所が見たことも無い様な込み具合で、  
長時間留まらざるを得なかった。  
結局関所を抜けたのは日が傾きかけた頃。ウエストエンドまで出るには  
出る事ができるが、闇に包まれたクジャラートからウエストエンドまでの  
ニューロードの危険さを、彼女は身をもって知っていた。  
魔物が徘徊するだけでなく、時には旅人を襲う盗賊までもが出る事もある。  
自身の身は守れても、連れの者の身まで守れるかは分からない。そんな  
危険を冒すよりもクジャラートに留まった方が安全だと判断し、宿はここで  
取ろうとしたのだが、悪いことは重なるもの。生憎宿は満室で、仕方無く  
関所の近くに馬車を止め、そこで一晩過ごすことになってしまった。  
 
 
(たまにはこんな事もあるさ)  
旅芸人という生業上、こんな事は常に付きまとう。その様な面を知った上で、  
自分はこの生業を選んだのだ。  
はたから見れば、何故旅芸人でなければならないのか? と思われているだろう。  
(雇われるのはちょっとねぇ……)  
自分の性分に雇われるという事は到底合わなさそうだった。籠に入れられて狭い  
世界の中で生きるよりも、自由に飛びまわり色々な物に触れていたかった。  
そのため、その手の話が何度来ても全て頑なに拒み続け、旅芸人という形を  
貫いていた。  
それに加えて、  
(単に『踊り子』として見てくれるなら、いいんだけど……ね)  
好色な貴族に捕まったら最後、夜ごとに体を無理にでも開かされ弄ばれてしまう  
事も少なくない。  
そのせいで体はおろか精神を病んでしまった者の話を聞いていた。そんな事に  
なるのは絶対に自分は嫌だった。  
 
色々と考えをめぐらせているうちに、気付けば目指していた場所へとたどり着く。  
そこには緩やかな流れを見せている川があった。ニューロードを少し逸れて  
小道を抜ければ、この場所に出ることができた。こっそりと抜け出して  
きたのは、ここに来る為だった。  
「このぐらいなら平気、かな」  
流れに手先を入れて、温かさを確かめる。  
川、と言っても完全に水が流れているわけではない。温められた地下水が  
湧き出ていて、ほどよく温かい。  
確認した後に手に持っていた包みと提げていた長剣を適当な場所に置くと、  
辺りを一度見回してから、おもむろに服に手を掛けた。  
「さすがに湯につかれないのはねぇ」  
汗でべたついた肌に、ごわついた髪――せめてさっぱりしてから、ウエストエンドに  
入りたかった。  
衣擦れの音と共に、上半身が露わになる。脱ぐ前に外し忘れていたアメジストが  
胸の谷間で揺れているのを見て、外そうと首の後ろに手を伸ばした。  
その時だった。  
「――!?」  
さっきは感じなかった何かの気配を感じて、とっさに長剣を手に取った。人か、  
あるいは魔物か? 息を潜めて気配を彼女は探った。  
「これは失礼。あなたでしたか」  
こちらの緊張感とは裏腹に、柔らかい口調の男の声がした。声がした方を見れば、  
長い金の髪に、擦り切れた外套、そして変わった形のリュートを背負った男  
――詩人がいた。  
今、自分の胸元に下がっているアメジストのペンダントはこの男から貰ったものだ。  
本人曰く『踊りを見せてくれたお礼』としてくれた物だが、心に何か引っかかるものを  
感じていた。また石だけでなく、彼自身にも引っかかるものを感じて、その一件以来、  
少し警戒して距離を置いていた。  
 
「ホントに失礼だねぇ。覗きだなんて」  
「いえ、そんなつもりでは」  
いつも話す時となんら変わりのない穏やかな口調で、詩人は言ってくる。  
「そ。じゃあなんでこんな所にいるんだい?」  
万が一のために、と長剣を鞘から抜き、一方の腕では胸元を隠しつつ彼に  
切っ先を向けた。  
「散歩がてらに歩いたら、そこの小道を見つけて入ってみただけですよ」  
口調と同じ、穏やかな瞳でこちらをじっと彼は見てきた。  
「あなたこそ、一人で何をしてるんですか。こんな早くに」  
こんなに早くに散歩してるあなたも何なの? と思いながらも答える。  
「見て分かるでしょ。湯につかりに来ただけ」  
だからあっちへ行って――言葉の先をくんでくれる事を期待していたのだが、  
彼はこちらが思ってもいない返し方をしてきた。  
「女性一人で、ですか」  
「……何が言いたいんだい?」  
詩人の口調に何か含みがあるのを感じて、聞き返す。  
「いえ、危険なのではないかと思って」  
「今までずっとこうだったし、何かあっても自分の身は自分で守れるよ」  
そのために武芸も一通りやってきた。人に頼らずに、自分の身は自分で守れ  
――そんな念が、常に自分の中であった。  
「そうですか……」  
呟くと、ゆっくりと彼はこちらに向かってくる。  
(何考えてるの!? あの人)  
思わず後退りをして、長剣を下げてしまう。しかし後ろには何本もの木立があり  
これ以上は下がれない。その状況の不利さに、バーバラははっきりと舌打ちをした。  
「実を言うと、私はあなたの後をつけてたんですよ」  
「冗談はやめて」  
自分の後ろには誰もいなかったはずだ。小道は足元に枯枝や枯葉があり、踏み  
しめれば必ず音が立つ。それすらしなかったのだ。  
 
(それすらしなかった……?)  
自分で思った事に引っ掛かりを覚えた。足音すらしなかったのはどういう  
事なのか?  
アメジストを貰う前は『ただの詩人』、貰った後は『妙な男』という印象が  
強くはなっていた。  
しかし、その印象が三度変わりつつあった。現在進行形で。  
(足音すら立てないのは『妙』どころの話じゃないよ……)  
背中に冷や水でも掛けられたような寒気を覚え、肌が粟立つ。  
(怖い。あたし、とんでもない男と知り合ってしまったかも)  
自分の力でどうにもならないものへの恐怖心というものを、この時初めてバーバラは  
抱いていた。  
この男から離れろ――本能が叫びを上げ、体を動かさせる。だが……  
(!?)  
足元は何故か地面に吸い付いたかの様に動かない。上体も一切動かすことが  
できず、手も力がみる間に抜けてしまい、長剣を持つのがやっとな状態に陥って  
しまった。  
(どうして!?)  
焦りを表情にできるだけ出さない様にしながら、両の目でしっかりと詩人の動きを  
逃すまいと見捉える。  
「自分で自分の身を守る――そんな芯の強いあなたが、私は好きですよ。  
好きだから、後をつけたんです」  
こちらの状態とは逆で、ゆっくりとした動作で手を伸ばせば互いに触れる事ができて  
しまうぐらいまでに詩人は近づいてくる。  
「冗談はやめて」  
「冗談ではないよ」  
長剣をあっさりと取り上げられ、あげくの果てには胸元を隠していた腕も掴まれて、  
彼の前に全て晒されてしまった。  
詩人は胸に一瞬視線を落とした。しかし、すぐにこちらの顔へと視線を戻す。  
「あなたの全てを求めてしまうぐらい、好きなんですよ」  
「好きなら、やめてくれない?」  
 
にべなく言い、場に相応しくない微笑を見せると、彼の唇がこちらの唇に  
重ねられた。  
(あ……)  
それは温かくて、こちらを包み込むような口付けだった。唇の感触も  
柔らかい。  
無理矢理なはずなのに、その感触は愛しさに溢れていて体が勘違い  
しそうになる。  
(どうしてっ……!?)  
乳首が彼の服と擦れるだけでじわじわと疼く。それと同じく体の最奥  
にも疼きを覚えて、愕然とした。  
(欲情してどうするの!!)  
しばらく男に抱かれてなかったとはいえ、こんな状態で欲情してしまって  
いる自分を責める。しかし、体は言う事を聞いてくれない。逆に疼きは  
激しくなるばかりだ。  
「――感じてるんですか?」  
「誰がっ……!!」  
反論しようと口を開くが、再び彼の口付けで口を塞がれてしまう。  
「っ!?」  
ぬるりと彼の舌が口内を犯してくる。柔らかい舌にこちらの舌が無理矢理に  
絡め取られてしまい、否が応にも舌の感触を味わわされた。しかもわざとらしく  
音を立てて、羞恥心も煽ってくる。  
「やめてっ……んん……っ」  
唇が離れた隙に顔を背けて手を振り解こうとするが、やはり体は動かない。  
「口付けを受け入れておいて、やめてはないでしょう」  
低く掠れた声が耳元で響き、鼓膜から全身を官能的に刺激してくる。  
「これも、受け取っているのに」  
詩人は耳朶から首筋そして鎖骨あたりを舌で辿ると、胸の谷間で動きを止めて  
ペンダントのヘッド部分に口付けを落としていた。  
「それはあなたが……」  
「そう。私があなたに渡した。あなたの力を見込んで」  
でも、それだけじゃないんです――そう言うと、まっすぐにこちらを見据えてきた。  
「あなたを娶るための、前準備です」  
娶る? 前準備? それはどういう事なのか? バーバラは一瞬では意味を  
解りかねた。  
 

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