いつになく明るい夜だったのを覚えている。
花火やざわめきのせいだけでなく、空気のなかにある闇が少しずつ
薄まってゆくような――――優しい、夜だった。
荘厳な雰囲気のなかにあたたかさを感じながら、背筋を伸ばして
空を見上げる。静けさが広まりつつある人ごみの中、火のはぜる
ほんのかすかな音が、それでも確かに耳に入っていた。
悲しみは極力、忘れるようにしていた。意識して、考えすぎていては
進むことも戻ることも出来なくなってしまうから。自分の立場も
自分自身も、立ち止まること、回顧することを拒絶していた。
悲しすぎて泣きたい時でも、笑みをもっていればいつかは憂鬱の
色は薄まる。そう何の疑いも持つことなく、信じていたのだ。
「あ――、」
けれど、その時は本当に自然に涙が流れていた。
まぶたに溜まった涙が徐々に冷えて結合を解き、頬から顎へと伝いはじめる。
凝り固まっていたはずの悲しみが、少しずつ少しずつ、ほぐれていく。
見れば周囲の人々も、同じような透明な表情で涙していた。
悲しみは絶えることがないのに、憂鬱は風化することがないのに、
どうしてこうもゆがみ無く泣けるのかが分からなかった。
「パブロ……」
押し込められた声の方を顧みると、彼女もまた涙を拭わずに、泣いていた。
血のように薔薇のように紅いくちびるを動かし、石碑の方に向けて
なにごとか呟いた後、こちらの視線に気がついてぎりと奥歯をくいしばり、
「……さぁ、行くよ」
体温の分からない手で強引に自分の腕をとる。
強く食い込んだ指に、痛いなどとはとても言えなかった。
ざあぁあと、雨が降る。細かな雨が木々の分厚い葉にすべり、
それがいくつも積み重なって艶やかで激しい音を奏でている。
何もかも終わったはずなのに、何故か心は晴れなかった。
誰も何も言わないまま、ただ気の抜けたような顔をして歩いていた。
幼いジュディですら張りつめた周りの空気を察して、落ち着かない
釈然としない素振りで黙っている。整備のなされていない街道に
つまづきかけたのを、忘我したままのフランシスが支えた。
その光景を横目で見ながら、アンリはべたりと肌に張り付いた
赤い血でまだらになった青い服をつまみあげる。
いつまでも雨は、止みそうにになかった。
***
……戦っている最中は、何も考えずにすんでいたのだ。
伯父のようにも思っていた彼が何を思っていたのか、何をしようと
していたのかも、結局自分の命の前には霧消していたのだから。
本当の意味で父母の仇をとれたのだとしても、のしかかる重圧は消えなかった。
はりつめていたものが瞬間、はじけそうになってしまう。
「ほら、ぼうっとしない」
「! っす、すみません……」
肩をこづかれて振り返る、その先にいるのは赤い服をまとった
女性だ。戦いの衣装ではない絹のすべらかなドレスをいかにも
邪魔くさそうにしつつも、綺麗に計算して着流している。
「これから国をしょって立つ王子様が、その復興を誓う凱旋の
ときにそんな顔をしちゃいけないよ」
彼女の深い瞳の中には、空虚な顔つきの少年が映っていた。
辛辣にも聞こえる言葉をつむぎながら、彼女はぎこちなく唇を
ゆがめてアンリの肩に手を置いた。
「みんなにちゃんと、元気な顔を見せてやりな」
はい、と返事をする間もなく、ぐるりと向きを変えさせられる。
そうされるうち、頬に笑みが刻まれてゆくのがとても鮮明に感じられた。
ざあぁあと、木々が風に押しつぶされて形を変える。
雨のようなその音は、あの夜のざわめきにどこか似ていた。
透きとおる風をはらんで、丁寧な刺繍をほどこされた外套が
ばたばたと音を立てた。
城を出て少しした森の奥に建てられた石碑の下で、両親は
永遠の眠りについている。アマリリスの花が誰かの手によって
手向けられていて、細く紅い花びらがさらさらとなびいていた。
最後に顔をあわせたときから少しずつ伸びはじめていた背を
すっとのばして、ややくすんだ白の石碑を凝視する。
別れやとむらいの言葉など、もはや要りはしなかった。
枝々の間隙からもれる月明かりを頼りに、苔むした石畳の上を歩く。
林を抜けると、そこは形ばかりの復興がなされた中庭だ。ひび割れの
目立つ二階のテラスに向けて、もう蔦が伸び始めている。矢の突き
立った跡が補修された廊下を横切って、アンリはそこに足を伸ばした。
「ローラ……さん、」
結い上げた金の髪が、つぶやきに反応するようにわずかに揺れる。
すすりあげるような呼吸の後、ややあって声が響いた。
「アンリ? ……もう、夜も遅いよ、何をしてたんだい」
心なしか鼻にかかっているように聞こえるのは、きっと気のせいだ。
「父上と、母上のところに。ここに帰ってから色々とあって、
行きそびれていましたから」
「そう、」
「風もでてきましたし、そんな薄着じゃ体によくないですよ」
「分かってるよ、そんなこと」
ありふれた言葉の応酬に、徐々に違和感を感じ出す。
「あの、ローラさっ……」
「ごめん。いまの顔、死んでもあんたには見られたくない」
途方もなくきつく、アンリは彼女に抱きすくめられていた。
落ち着いたと言ったはずのローラは、まだどこか茫洋としたままだった。
アンリはそんな彼女をどうしても放っておけずに、力の入らない
腕をなかば強引にひいて自室に入った。「大丈夫ですか?」
「ああ、……ごめん。もう平気さ」
胸をくすぐるような響きの声は、正体なくひび割れてしまっている。
「一体何を考えていたんです、あの場所で」
抱きしめられる寸前の一瞬だけ目にした、切なそうな、痛みをこらえて
いるかのような表情が、彼のまぶたにはっきりと焼き付いている。
「あんたには関係――「なくなんか、ない」
思ったよりも強い調子の声に、自分でもおどろきを隠せなかった。
「アンリっ、」信じられないような様子で、ローラが目を見開く。
「ローラさんはあの時、私のことを大事だと言ってくれました。私は――、
……ローラさんも、同じように私を頼ってはくれないのですか?」
言おうとした台詞を途中ですり替えた少年に向けて、ローラは
さびしげに微笑した。「ねえ、アンリ――」
血のように赤い、紅をひいた唇がゆっくりと動く。
「しようか」
有無を言う間もなく天蓋のついた寝台に、彼は勢いよく引き倒されてしまった。
「ローラさ…んっ、」
「なんだい?」
はだけた胸に唇を這わせながら、彼女はゆっくりと顔をあげる。
「ごまかさないで、ください」
アンリは怒りのにじんだ表情で、言葉をことさらに区切って口にした。
「あたしは何にも、ごまかしてなんかないよ」
瞳の奥にある真剣さとはうらはらに、言葉の端々には諧謔が混じっている。
徐々に体を覆う布が取り去られていくのに、恐れとともに期待を
抱いてしまう自分が許せずに、アンリは無意識に歯をくいしばっていた。
「ローラ、さんっ、もう、こんなことはやめ……っ、」
「そんなことを言ってても、体は正直じゃないのかい?」
つぅ、となめらかな動きを見せて、無骨な戦士の指が少年の体を
まさぐる。最初は確かに感じていたはずの憤りも釈然としない気分
も今はあやしく、どんどんとおぼろげになってきていた。
反り返ってひくつくアンリ自身を、ローラはかるく押しつぶすよう
にして弄んでいる。ぐりぐりと指をうごめかせつつ、覆い被さるのに
近い体勢で首筋に息を吹きかけ顎のラインを舐めあげる。
こまかなざらつきを薄い皮膚で感じて、アンリは息が弾むのを
抑えられなかった。さらと耳もとで髪が揺れる音がして、直後に
激しく下腹部を愛撫される。
「ぐっ、っ……は、あぁっ……」
「ほら、もう楽になっちゃいな」
そんな台詞とともに包皮がめくりあげられ、先端部を押し込まれる
ようにいじられる。「うわ、あぁっ!」
こみあげる衝動をとめることができずに、彼は達してしまった。
薄闇のなかでもひときわ鮮やかだったドレスに、白濁した液体が散る。
つややかな布の上で粘るそれが少しずつ水のように垂れていく
光景を、アンリはうるんだ眼で注視していた。
やりきれない思いと、脱力感が体の中心に厳然と存在している。
「どうして、こんなこと」
ぽつりと自然に口にした台詞に、視界の隅で金の髪が揺れた。
「頼るっていうのは、――こんなかたちじゃいけないのかい」
「え……」
硬質な声におそるおそる視線を上げると、ローラは存外に優しさの
にじんだ顔をしていた。ぎこちなさも硬さもなく、微笑んでいる。
「私が言いたいのは、そんなことではなくて」
またしても、言葉が中途のままでふさがれる。アンリの体が
瞬間緊張して、糸が切れたかのように脱力する。
「アンリ、……大人にはね、言葉なんか要らないと思うときがあるのさ」
密着したくちびるをゆっくりとずらして、彼女はそう吐息混じりに言った。
彼女のその言葉を耳にして、アンリは数瞬逡巡するような
素振りをみせていた。はぐらかされたのではないかという
思いと、このまま誘惑にのっても構わないとする気持ちと。
――――先刻目にした彼女の顔が、胸中で渦巻いている。
「どうしたの、」
疑問形の語調とは裏腹に、ローラの声は全て分かっているとでも
言いたげであった。普段と違ってしっとりとした声色を、今度は
はっきりと認識するにいたって、アンリはふっきれた。
「分かりました、ローラさん。私とこうすることで、あなたの
迷いがわずかでも解けるのなら、――私はなんでもします」
真摯なその口調は、全裸で斜めに寝台に横たわる彼の風体に
まったくといってそぐわなかった。
「アンリ――」
生真面目なその顔に、こらえきれぬとばかりにローラは苦笑する。
一転してその表情が真面目なものに変わり、彼女は寝台をはなれて
衣服の前をはだけた。ランタンの灯ではなく青白い夜の光のなかで、
凝視するアンリの視線を意識して帯を解く。冷たい空気をはらんだ
布は、まるで重さを感じさせないゆるやかさで彼女の周囲に落ちた。
「……だからね、」
かすかにつぶやいた言の葉は、振り切るようにおとされた袖の
立てた音のまえに容易にかすれてかき消えていた。
くぐもった声が、下半身の方から聞こえた。顔の上でぱっくりと
開いている花びらが、濡れそぼってひくりとうごめく。同時に
縋りでもするかのようにこちらの剛直に舌がからめられて、
アンリは愛撫の手を止めてうめいた。あたたかく濡れた感触がに
すっぽりと包み込まれていて、二度目なのにもかかわらず
股間のものはすでに痛いほど勃起している。
びくびくと痙攣するのを終わりに近づいた印だと分かって、
ローラはいったんそれからくちびるを離した。
「まだまだ、……終わるのは早すぎるよ」
挑発するようにそう言って、手が内腿をなでまわす。肝心な場所を
紙一重ではずしたその仕草に、アンリの中に焦りと余裕が生まれた。
快感の楔がなくなった、それゆえに冷静になれる。
両の腕をまわして太股を固定し、彼は独特の薫りをまとう彼女の
秘所に顔をうずめるようにして愛撫をはじめた。
「ん……っふ、うぅぅ……っ」
じっくりと彼女が快感をあらわす箇所を逃さないように、反応を
みながら舌をおどらせる。快感に開きつつある入り口から興奮に
肥大した花びらに舌を這わせると、それだけでローラは声をあげた。
「アンリっ、そんな――じらさないで……」
ひらめく舌先は先刻ローラが行なったように、微妙に快感の
核をそれながらうごめいている。もどかしさと焦りがくすぶって、
彼女のなかではじけてしまいそうだった。
全て分かっているとでも言いたいかのように、アンリが彼女の
こわばった陰核に触れた。「ひ…ぁっ、ぃやぁっ……」
「嫌だなんて、体は欠片も思ってないみたいですよ」
皮肉が利きすぎている台詞をおくびにもださずに、乱れる自分を
抑えるようにこちらの体を愛撫する彼女をアンリはたまらなく
いとおしいと思えた。「っあ、ンリっ、もうだめっ……我慢できない」
そんな必要などないとばかりに、さらに舌が激しく動く。
「あぁあっ!!」
びくびくと肉がふるえて、透明な液体がどっとあふれた。
しとどに潤ったローラの奥深くに侵入して、アンリはたまらずに
あえいだ。こなれてはいるものの内部は灼けるように熱く、
きつく締め付けてくるそこはどこか懐かしかった。
ごく自然に、腰が前後しはじめる。襞とこすれた部分がそこと同じ
ように熱を持ち、独特の感覚に気が狂ってしまいそうになる。
「あ、ああ……っ、アンリ、アンリっ……」
ありえないほどに切ない彼女の声が、断続的に耳朶を叩く。
背をかき抱かれ、腰にすらりとした脚がからみついた。
快感を貪欲にすすろうと、襞はますますきつく彼自身を圧迫する。
「ローラさん、もう、……いきますっ」
耐え切れずにそう口にすると、駄々をこねる子供のように
彼女は激しく首を振った。「いや、待って!」
……その顔にひかったのが、汗なのか涙なのかわからない。
考えることを極力避けるようにして、アンリは体勢をかえるべく
彼女の中から勢いよく自身を引き抜いた。
***
翌朝、あらためて城に集まった民衆の前に凛々しく立った
アンリの姿を見て、ローラは満足そうにひとつうなずいた。
いまだ幼いながらも、彼はフランシスや少ないながらも逃げ延びて
いた臣下の意見をよく聞いて、うなずきや意見を交し合っている。
その光景を焼き付けるようにもう一度眺めて、そっときびすを返す。
――――必要なものは、すべて自分の中にあった。
ゆえに黙ったまま、街路に出ようとする。
けれど。
「どうしたのです?」
そんなときに限っていつも、彼は自分の姿に気がつくのだ。
「エスカータは、元にもどります。時間はかかるでしょうが、
皆で協力すればいつかきっと、その日はやってくるでしょう」
そんなことを言ってのけた顔が、今は悲しいまでにゆがんでいる。
「ローラさんもここに、……私のそばに、いてください!」
涙は流さずとも、その顔は確かに泣いているようだった。
そんな少年に向かって、ローラはわずかに顔をしかめる。
ぎこちない笑みが、頬にはきざまれていた。
「あたしはあんたに、救われたよ」「ならどうしてっ……」
確固たる感情のにじむその顔に、無駄だと思いながらも
アンリは納得できずに思いのたけを込めて『叫んだ』。
――――それでも彼女の表情は、変わらない。
「自分が自分で立てるような、引き金をもらえたからね。必要な
ことはしてもらったし、あたしもそれに十分応えたつもりさ。
……あたしもあんたと同じように、"一人"じゃなくなったんだよ」
釈然としなかった。間違いなく理不尽だった。なのにそれは
そう感じることを許さないような強さのある台詞だった。
唐突に顔が近づけられて、そっと囁かれる。
「あたしのことなんか忘れて、さっさといい人…見つけるんだよ」
そして疾風のように、彼女は駆け出してゆく。
「ローラさんっ!」
アンリの呼び声に、ゆがむその影は一度だけ振り返った。
「あんたがいないと思うと、せいせいするよ!」「っ……、」
のどに丸い球がつまったように、息が苦しい。瞳は怖いくらいに
乾いているようなのに、とめどなく涙があふれていた。
間違えようもなくその声は、途方もない慈愛に満ちていた。
「王子、涙はいけません」
気遣いの見える臣下の台詞に、透明な笑みを浮かべてみせる。
「いいんだ、ローラさんには見えないから――」
ざあと音を立てて、雨足が風のように近づこうとしていた。
fin.