何かがそばを動く気配に、目が覚めた。  
 
シャールの目の間に、さらさらとカーテンが流れ、夜風が部屋に入ってくる。  
窓から差し込む青白い月光に、目がくらむ。  
 
横の寝台の上には、誰もいない。  
開いた窓の外には、人影が1つ。  
月の女神が地上に降り立つとしたら、こんな光景なのだろうか。  
「ミューズ様?」  
 
「あら、シャール。起きちゃったのね」  
薄手の部屋着に身をまとい、かつては病床にふけっていた令嬢が答える。  
「私も今夜はどうも寝つけなくて。シャールもこちらへ来ない?月が綺麗よ」  
ベランダへ招く令嬢を見つめ、従者ははあ、と息をつく。  
 
立ち上がり、ソファーの上に小奇麗に畳まれていたブランケットを手に取る。  
ミューズの肩にブランケットをかけ、シャールがいつもの調子で小言を言う。  
「またそんな格好で……御風邪を召されたらどうなさるんですか」  
「だってもうこんなに元気なのよ、私。嬉しくって」  
ミューズが柔らかな笑みをこぼす。  
 
ミューズが夢魔の呪いから解き放たれてからまだ間も無い。  
それまでの反動なのか、ミューズは最近とても活発だ。  
ずっと寝台の上で、外の世界に憧れていたその姿を見てきたシャールには、  
それが嬉しい事でもあり、そして頭を悩ませることでもあるのだが。  
 
遠くからしゅうしゅうと、湯の沸く音が聞こえる。  
無言で、シャールが火の元に向かう。  
こぽこぽこぽ、と湯を注ぐ音と共に、辺りに甘酸っぱいカモミールの花の香りが漂う。  
寝つけない夜に、ミューズが好んで口にする薬湯であった。  
 
「ありがとう」  
シャールの注いだ薬湯を、ミューズが口に運ぶ。  
冷ややかな空気の中、カップから一段と白い湯気が、ベランダに広がる。  
「ひとまず……騒ぎも落ちついたわね。心配をかけて、ごめんなさい」  
 
「ミューズ様がご無事で何よりです」  
テーブルの向かい側で、シャールも薬湯を口にする。  
ベッドの横でミューズに何度も飲まされる内に、その味にも慣れてしまっていた。  
夢魔の呪いから開放された今では、もうそのような事は無いだろうが。  
 
「シャールを、こんな事に長い間巻きこんでしまった事が……。私のせいで」  
幼い頃から、我が身を犠牲にしてまで自分を護ってくれた従者に、伝えたい事が沢山有る。  
今までの事。これからの事。  
もうミューズは病弱な身では無い。シャールを引きとめる物は、何も無い。  
自分から離れ、自由な生活を送る事もできるのだ……。  
そう思うと、とたんに胸が絞めつけられそうになる。  
もはや、病など、患っていないはずなのに。  
 
「私達クラウディア家に関わらなければ……危険な目に遭わなくて済んだのに」  
うつむきがちに、ミューズが言葉を搾り出す。  
「ずっと、そう思って……」  
「例えこの身がどうなろうとも構いません。ミューズ様の為であるならば腕の1本や2本……」  
「シャール、やめて!」  
珍しく声を荒げるミューズに、シャールが耳を疑う。  
 
「貴方はもう、動物や奴隷なんかじゃ無いのよ。れっきとした、1人の人間なのよ」  
この主人は、たおやかな外見とはうらはらに、強い意志を持っている。  
改めてそう思い知らされ、シャールは言葉を失った。  
無論、シャールを突き動かす物も、もはや主従の義務感だけでは無かったのだが。  
 
「無茶は止めて……私を、これ以上悲しませないで……」  
主人のその言葉に、凍て付いた感情が、胸の中で緩やかに溶け出す。  
いや、自ら凍て付かせていた感情、持ってはならないと、言い聞かせてきた感情が。  
 
 
しばらくの沈黙を破ったのは、ミューズであった。  
立ち上がり、部屋の中へ向かう。  
「これを渡したいの」  
ベランダに戻ったミューズは、一抱え程有る布の包みを手にしていた。  
シャールがその包みの布を開くと、中から銀色の手甲が鈍い光を放った。  
「はめて見て、そっちの手に」  
 
ぴたりと手に吸いつく、冷えた感触。  
「意志を持つ武具。所有者を選び、……選ばれし者には大いなる加護を与えるそうね」  
「…………!?」  
まるで自分の皮膚の一部となるかのような一体感が、単なる小手では無い事を伺わせる。  
「トーマス様もおっしゃっていたの。聖王の遺物、銀の手……  
負傷した聖王のもう1つの腕として、込められた力を発揮したらしいわ」  
 
信じられない光景が目の前に広がる。  
「動く……!?」  
ルートヴィッヒに負わされた傷のため、何年も動かなかったシャールの手が、今、動いているのである。  
驚くほどその動きは軽やかで、小手をつけている事を忘れるかのようだった。  
 
「もしかすると、と思っていたのだけれど。シャール」  
誇らしげに、そして穏やかにミューズがその様を見つめ、微笑む。  
「貴方も、どこかに……聖王の血脈を受け継いでいるのかもしれない」  
 
 
「ずっとシャールの腕が元に戻ったら、と思っていたわ。  
私の夢がきっかけになるなんて……聖王様が、私の我侭を聞いて下さったのかしら。」  
「私には……勿体無い、……お言葉です」  
研ぎ澄まされた月明かりの下、白磁のようなミューズの頬が、一層柔らかく浮かび上がる。  
シャールは無意識に惹きつけられ伸ばした手を、思い直しまた元に戻す。  
持ってはならないのだ……このような卑しい感情など。  
「この腕にかけて、貴方をお護り致します……  
いつか必ず来る、混乱の世が治まる、その日のためにも」  
 
「ええ、シャール」  
すっとミューズがシャールの体躯に、身を委ねる。シャールが慌てる間もないうちに。  
影が1つに溶け合う。  
冴えた空気の中、互いの体温がやけに熱を帯びて感じられる。  
 
 
「これからも……よろしくお願いね」  
 
<完>  
 

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