アニーは、月明かりの中を走っていた。道を塞ぐ瓦礫に往生し、周囲を、そしてふと、
頭上を見上げた。月は中天にあり、昼かと紛うほどの光を地上へ投げかけている。
(綺麗……月の光って、こんなにも明るかったんだ。あの日の月は何となく嫌な感じがし
たけど。こんな風にしみじみと月を見上げるのは何年ぶりかしら)
双子の術士の対決から数日後。満月は今夜もまた煌々と辺りを照らしていた。あの日と
月の色ばかりか受ける印象までもが違うのは、ここがあの場とは違うリージョンであるば
かりではないだろう。
あの日の月を思い出すと、自然と震えが襲ってきた。ジャケットを羽織らぬ姿にはこの
地の夜気は冷た過ぎる。我に返ったアニーは、また青い光の中を歩き始めた。
力の中心たる地獄の君主を失い、消滅してゆく地獄より脱出して丸一日。仲間を先に
キングダムへと送り届けてから、ブルーは生き残った術士達と共に地獄の封印の儀式に
入った。彼らが最後の大仕事を終えて戻ってくるまでの時間は途方もなく長く思えたが、
新たな犠牲者を出すこともなく、術士達は無事に戻ってきた。
キングダムの地下最下層で彼の生還を待ち続けていた仲間達に、ブルーはただ一言
「これで終わりだ」
とだけ言った。
その後も比較的破壊を免れていた、元は学院だったという建物に場所を移して、疲れも
見せずに他の術士達と今後について協議する彼を、他の皆はただ唖然と見守るだけだった。
警察機構の一員であるヒューズや医師であるヌサカーン、子供の世話に慣れているアニ
ーは何とか助言をすることはできた。が、地獄へ向かう前とはうって変わって落ち着き払
った、否、鬼気迫るほどに何かをしていなければ気が済まないとでもいった彼の様子に、
誰も口を挟むことはできなかった。
だが、施設育ちだと言うアニーの口添えも功を奏して子供達の受け入れ先も粗方決まり、
大まかな相談も終わって一段落ついた頃だろうか。アニーの姿を認めて声を掛けようと椅
子から立ち上がった途端、ブルーはその場にくずおれてしまった。その彼を手分けして医
務室のベッドへ運び込んだのは夕刻、もうだいぶ暗くなってからだ。
緊張が解けて疲れて眠っているだけだ、無理もない。そう、妖魔の医師は言った。
そして医務室のベッドで眠り続けている筈の彼の姿がないことに気付いたのはつい先刻、
月が傾きかけてからである。
最強の術士たるブルーを助け、キングダムを救ってくれた礼にもならぬが、せめて休ん
で行ってくれと簡単な食事と毛布を供されて横にはなったものの、固い床の上では満足に
眠ることも叶わない。何度も寝返りを打ち、やっとまどろんだのは夜中になってから。結
局すぐにまた、疲れもろくに取れないままに目が覚めてしまった。
ふとブルーの容態が気になって一人仲間の元を離れて様子を見に行ったところ、そこに
彼の姿はない。
(……まさか、自分の生まれを呪ってどっかで死んでたりしないでしょうね)
不吉な考えが胸をよぎり、よもやそんなことはと思いつつも完全に否定することもでき
ず、アニーは今こうしてブルーの姿を探しているのだった。仲間達に黙って出て来たこと
は気掛かりだが、疲れ切って休んでいるのを起こすにも忍びなくて、そのまま一人外へと
飛び出してしまった。
武器も持たずに無用心とも思ったが、今のこの地は全リージョン界で最も安全な場所の
筈だ。――そう、あの男がしたのだから。
いつも神経を尖らせてばかりいる自分が見知らぬ土地でこんな風に感じるのがおかしく
て、彼女はくすり、と笑った。
その建物はすぐに見付かった。学院の裏手に隠れるようにして建っている、数階建ての
建物。窓の配置から、同じような作りの部屋が幾つもあるのであろうことが見て取れる。
こちらも作りが丈夫だったのか、はたまた幸いにも破壊を免れたのか、外から見た限り
建物には大きな損傷はなかった。そしてその最上階にある窓の一つから、薄く明かりが漏
れている。
確か全ての生存者は学院内に泊まっていた筈だから、いるとしたらここだろう、否、絶
対ここにいる筈との確信を持って、アニーは窓から差し込む月明かりを頼りに暗い階段を
上った。
「ブルー」
目的の部屋の前で、小さく声を掛ける。聞く者はいない筈なのに小声になってしまうの
は、月があまりにも明るくて、何者かに見られてでもいるかのように感じたからだろうか。
中からいらえはない。つい好奇心で細くドアを開けると、ランプの弱弱しい光に照らさ
れた室内が目に入った。
机とクローゼットにベッド。それだけの殺風景な部屋だ。そして、ベッドの上に探して
いた人物はいた。医務室を抜け出してきたままの格好なのだろう、複雑な装飾品の種々は
外し、法衣の襟元を緩めたくつろいだ格好だ。寝転んで、両の手で顔を覆っている。
(この人にも流す涙があったんだ。……ううん、一夜にして帰るべきところも自分の存在
意義も、ひょっとしたら家族や友人も失ってしまったんだもん、当たり前よね。
あたしが親を亡くした時も、一人で隠れて泣いたっけ……)
いても立ってもいられなくなり、先程の何倍もの声を出しつつドアを開ける。
「ブルー? 入るわよ!」
(全然断りになってないじゃないの)
そう付いたのは、扉を全て開け放ってからだ。
「誰だっ」
部屋の主は突然の出来事に飛び起き、誰何の声を上げる。
「アニー……」
「いつの間にかいなくなるんだもん、心配したわよ」
「……何しに来た、帰ってくれ」
ブルーは言いつつ体の向きを変え、アニーからは見えないように顔を背けてしまった。
「ご挨拶ね。心配して探しに来たってのに」
声はいつも通りの彼のものだった。だが先程の疑問は確信に変わり、尚のことこの場を
去りがたくなる。できうる限りの平静を装い、アニーは構わず室内に進んでブルーの隣に
腰掛けた。
「体はもう大丈夫なの? さっき、倒れる前に何か言い掛けてたみたいだけど」
「……ああ、随分と面倒をかけたみたいで……情けないな。
さっきは……色々とありがとう、と。アニーの助けがなくては……俺達だけではきっと
途方に暮れるばかりだった。それを言いたくて」
彼女を追い出すのは諦めたのか、アニーの方を見ようとはしないまま、ブルーはぼそぼ
そと言葉を続ける。いつになく素直な彼の言葉に、アニーは喜ぶより前に驚きを覚えてし
まった。
「いいのよ、困った時はお互い様じゃない。戦闘や資質集め以外でもあたしに役立てるこ
とがあったんだもん、嬉しかった。
……ここは?」
「学生寮の、俺の部屋だったところだ。……家は跡形もなくなっていたけれど、ここは無
事に」
「ふぅん、そっか。……でもね、話すときは相手の顔を見なさいよ!」
頑なに面を背け続ける相手にじれて、アニーはブルーの顔に手を伸ばして強引にこちら
を向かせた。泣きはらしてひどい顔をしていると笑い飛ばしてやれば、普段の怒った彼が
見られるかと思ったのだ。
――いつも通り、どこか不機嫌そうな顔。だが、拭われないままに乾きかけている涙の滴
がまだ目のふちに残っている。ブルーが目を伏せると、それは流れ出して頬を伝った。
何だか泣き顔以上に見てはいけないものを見てしまったような気がして、アニーは振り
払おうとするブルーの顔に口を寄せ、優しく滴を啜った。次いで、唇に長いキスを贈る。
相手は突然のことに暫し戸惑っていたが、やがて自分からアニーを抱き寄せ、その唇を
吸った。貪るようにお互いの唇を求め、合い間に僅かに息を継ぐだけの激しいキスの応酬。
だが。
「何やってるんだ!」
法衣の合わせをくぐり抜け、腰帯に隠された下をまさぐろうとした手を振り払い、ブル
ーはアニーの体をもぎ離す。意外な反応に、アニーは目を丸くした。
「なぁに、ひょっとして初めてだから怖いの? 完璧にして最強の術士がねぇ……」
「ちが……っ、そんなんじゃない」
「じゃあ何よ」
「その、お前は、俺を好いているのか? それとも好きでもない相手とも同情で寝るの
か? そんなのは……」
大の、しかも普段冷血漢だの薄情だのと言われている男の口から出た似合わぬ初心な言
葉に、アニーは吹き出してしまった。
「あたしはそんな軽い女じゃないわ。ブルーのことは好きに決まってるじゃない、仲間だ
もん」
仲間と聞いて、ブルーの面にちらりと落胆の色が走ったのを、アニーは見逃さなかった。
「じゃあブルーはあたしのことを、女として好き?」
「…………わからない。
大体、人を好きになんて……」
「そう、あたしもあなたを好きかなんてよくわからない。そんなに簡単に結論の出ること
じゃないと思うわ。
でも今、傷ついているあなたを包んで慰めてあげたい、そう思うんだ。それとも……あ
たしが欲しくないの?」
猫のようにくるりと動く大きな瞳に見据えられて、ブルーは視線を逸らした。視線を下
げると、大きく開けた胸元、更にはいつもはソックスに覆われている、滑らかな白い脚が
目に入る。
ごくり。ブルーの喉が動き、やがて、掠れた声が絞り出された。
「欲し、い……」
(それにしても、あんなに複雑な服じゃきっとあたしには脱がせられなかったわね)
ブルーが自ら法衣を脱いでいくのを見ながら、妙な感慨を抱く。凝視されていることに
気付いたのか、訝しげな表情を向けられてアニーは慌てた。
「え、っと。ブルーは顔だけじゃなくて体も綺麗なのね」
細身ながらも均整のとれた裸身を見て、咄嗟にそんな言葉が漏れた。
「もっとガリガリかと思ったのに」
照れ隠しから出た憎まれ口には答えず、ブルーはアニーの腰に手を回し、ゆっくりとその
体をベッドに組み敷く。
「……お前の方が、美しいよ」
かすかに揺れるランプの炎に照らされたアニーの肢体は、確かに美しかった。普段から
鍛えているためだろう、仰向いていても天井へ向かって張ったままの白く豊かな乳房、細
く引き締まった腰、そして、褐色の繁みへと落ち込むなだらかな曲線。
「ん、くすぐった……」
ブルーがその曲線をなぞると、甘い溜め息混じりの声が漏れる。既に手の平の下の恥丘は
激しく脈打ち、熱を帯びていた。一方の手では、その弾力を確かめるように乳房を弾き、
中心を軽く捻り上げる。
「柔らかいな……もっとゴツゴツのムキムキなんだと思ってた」
「ん……、もう、口が減らないんだから。……あんまり見ないでよ。日焼け跡とか、細か
い傷跡とかあるし。
……こうすれば隠れるかしら」」
鑑賞でもするかのように見下ろす視線に耐え切れず、アニーは抗議の声を上げた。そう
してブルーの首に腕を回し、唇で唇を塞ぐ。
そのまま唯一身に着けていた髪留めを素早く外してしまった。
途端に金糸の滝が流れ落ちて、アニーの体にも、ベッドの上にも降りかかる。
「ふふ、髪を下ろしたところも初めて見るわ」
「…………」
構わずブルーはアニーの体に指と唇を這わせ始めた。男の唇が首筋、鎖骨、胸と女の体
を撫でるに従って、豊かな金髪もまた白い肌の上を滑っていく。こそばゆさに耐え切れず、
アニーの口から笑いがこぼれた。
「く……っ、くくくっ」
「何だよ……自分でやっておいて」
「ご、ごめん。続けてよ」
そう言いながら、自分でも流れる髪を掬い取り、その感触を楽しんだ。
くすぐったさの方が勝っているようではと、ブルーの指にも力が入る。繁みに隠された
線をなぞっていき、火照る花弁を探し当てると弄び始めた。熱い蜜を滴らせながら、次第
に蕾の芯が開いていく。同時に口でも弾力を持った乳房を吸い、その頂点を舌で転がす。
羞恥と快感に震えて自然と閉じようとする膝を押さえ、太ももの内側を柔らかく食む。
「ん、はぁ……っ」
深い吐息と共にアニーの体は仰け反り、両の脚はだらしなく開かれた。
目の前に投げ出された花弁に躊躇いがちに舌を突き出すと、堪らず相手は腰を引こうと
する。
「やだ、そんなとこ舐めないでよ……」
制止の声に舌の動きは却って激しさを増し、花びらの内も外も余すところなく舐め、啜
り上げる。蜜はそれより早くに止め処なく溢れ出し、ブルーの顔を濡らした。
頃合いと見てブルーは既に今や遅しと鎌首をもたげている己の半身を、花の芯にあてが
う。
「……行くぞ」
アニーがこくん、と頷く間もなく、ブルーはゆっくりとその中へ分け入ってきた。
「は、あぁぁっ」
窮屈さに身じろぎすると、アニーは更にきつく彼を締め上げる。
「そのままあたしを突いて……!」
言われるまでもなく男の体は動き出した。初めはぎこちなく、だがすぐに動きはリズム
と激しさを増していく。それでも決して腕の中の人に体重をかけまいとしているのがわか
って、愛しさに、アニーは自らも積極的に動いた。
いつの間にかにランプの日も消え、月明かりの差し込む室内に、荒い息遣いと粘液と肉
の立てる妖しい音だけが響く。互いの熱が、脈が、接点を通じて伝わってくる。しっとり
と汗ばみ火照る体。
長い髪が、絹の強さとしなやかさをもって、まるで生きているかのように二人の体に絡
みつく。
(ブルーの中に取り込まれてでもいるみたい……)
そう思うと、頭の芯がとろけた。
ブルーは昇りつめようとする己を必死で制していたが、ついに限界を感じて呻いた。
「駄目だ、このままじゃ、出……っ」
「大丈夫、中に……んんっ」
その了の言葉を、聞いたのか聞かぬのか。
「くっ、……あああっ!」
アニーの中で、ブルーは己を解き放った。
何度目かの睦み合いののち。月はすっかり傾き、薄いカーテンを通して部屋の隅々まで
もを照らし出している。その青い光の中、疲れきった恋人達は狭いベッドで身を寄せ合い、
まどろみとの境を楽しんでいた。
「ブルーの体は、もっと冷たいのかと思ってた」
ふと、何かを思い出したようにアニーが口を開く。
「……悪かったな冷血漢で」
ブルーの言葉を聞いていないのか、アニーは独り言のように言葉を続けた。
「けど、全然そんなことなかった。温かい、ううん、あたしには熱過ぎるほどだった。
あたしに見せてくれた温かさの、かけらでもいいから他のみんなにも見せてあげ
て……」
「……………………」
「お休み、ブルー」
ブルーが何か言いかける前に、腕の中の人はすぅ、と安らかな寝息を立て始めている。
「……お休みアニー」
そして、部屋には静寂だけが満ちた。
翌朝。アニーが部屋の明るさに目を覚ますと、既に隣にブルーの姿はなかった。起き上
がって見回すと、彼は既に髪も衣服もいつも通りにきちんと整え、机に向かって何やら一
心に本を読んでいた。
「お早うアニー。服は枕元にある。着たらすぐみんなのところへ帰れ」
気配で気付いたのか、アニーが口を開くより先に事務的な言葉が投げかけられる。確か
に床に脱ぎ散らかしていた筈の服も靴も、綺麗にまとめてあった。
「お早う……ブルーはどうするの?」
「あとでちゃんと戻る。心配するな」
逆光で表情はわからないが、あまりに沈着な態度に、昨夜の優しげな彼の様子は夢だっ
たのだろうかとまで思えてくる。それ以上の会話もないままに、アニーは急いで服を身に
着け、昨夜月に見守られながら歩いた道を苛立ちながら逆に辿った。
(何なのよ、バカッ)
全身に鈍く残る彼の感触が、ひどく悲しかった。
数刻ののち。クーロンの一角に突如青い光が現れ、それが消滅すると、そこには十数人
もの男女、否、メカやモンスターも含んだ一団が現れた。
最初に口を開いたのは、長い金髪を高く結い上げた、一目でそれとわかるマジックキン
グダムの術士である。
「ここでお別れだ。本当はそれぞれのリージョンまで送っていくべきなんだろうが、すぐ
戻らなくてはならないし。
シップが復旧したら、またキングダムに来てくれ。できる限り歓迎するよ。その頃には
……色々と、よくなっている筈だから」
かすかに憂いを含んだ、柔らかな笑顔。今までにない程の穏やかな表情と素直な彼の言葉
に、皆の表情も和らぐ。
「ブルー様もお元気で。ボロにも是非いらして下さい」
「おうよ、あそこはいいところだぜ! 俺もそっちにいると思うしな」
「たまには食事にも来なさいな。負けておくわよ」
「そうそう。こんな美人がウェイトレスをやってるんだから、来ないと損よ」
「勝手なことを言うな。来るのは構わんがお代はちゃんと貰うからな」
「今後はお役に立てなくなるのが残念です」
「お別れ? ブルーと会えないなんて、ボク寂しいな」
「……………………」
「キュキュキュー、キューキュキュキュキュ」
「困ったことがあればいつでも言えって言ってるぜ。勿論俺もサイレンスもそのつもりだ
からな!」
「高貴なお方、あなたの前途に幸多からんことを」
「往診ならいつでも引き受けよう。小児科は専門外だが、何、心配は要らない……ク
クッ」
口々に別れの言葉を述べる仲間達。
「……今までありがとう。みんなの助けがなければ……俺一人ではキングダムを救えな
かった。
これからはもう仲間ではなくなるけれど……皆よき友人であると、俺は、思ってる」
訥訥と言い馴れない言葉を紡ぐブルーの様子は、誰が見ても昨日までの自信家で尊大にし
て冷静、本心を他人に見せようとしなかった彼とは違っていた。
「それから、アニー」
「……何よ」
ブルーは拗ねたように一人輪から外れていたアニーに歩み寄ると、その頤を持ち上げ、
唇に軽く口付けた。
「会いに来るよ、ゲートで」
それは、彼女にだけ届いたかすかな囁き。
「! ……うん。待ってる」
「……ゲート!!」
呆気に取られるかつての仲間たちをあとに残し、照れくさいのだろう、すぐに彼の姿は
青い光の中へと消えてしまった。幸せそうに微笑むアニーが皆に質問とからかいの集中砲
火を浴びるのは、それから数秒のちのことである。
―― 了 ――