その夜、今やロアーヌ王となったミカエルの居城はいつになく静まり  
返っていた。  
昼間、ミカエルの妹姫であるモニカがシノンの一角に新しい屋敷を与  
えられ、僅かな供を引き連れて愛する人の元へと発ったばかりである。  
それだけでこんなにも城全体の雰囲気が変わってしまうのか、彼女の門  
出を祝い、もっと明るくて然るべきなのに、と、ミカエルの婚約者であ  
るカタリナは思う。  
――それとも、自分が一番の理解者だと思っていたモニカ様を、別の人  
間に取られてしまったからそう感じるのかしら。  
 カタリナは一人ごちた。  
 
 彼女は認めたくなかったが、実は暗い思いにはもう一つ理由がある。  
 ミカエルの求愛に答えてから既に数週間。未来の夫は未だ彼女の素肌  
には触れていないのだ。  
 時折彼女を抱き寄せてキスを求めることはあっても、それ以上は何も  
して来ようとしない。おそらく結婚の誓いをして、初夜を迎えるまでは  
このような関係が続くのだろう。  
それが彼流の礼儀であり筋なのだと頭で理解してはいても、積年の思  
いがやっと通じた今、愛する人に全てを捧げたい、そう思うのは当然の  
ことだ。  
 要するに、カタリナはモニカに嫉妬しているのだった。  
男を知らぬ筈のモニカがこれからあの青年と毎夜皆に隠れて何をするのか。 
それに引き換え我が身は既に穢れてしまっている。 
たった一度の裏切りを薄々と感じ取られて、それ故に相手は自分に手を出さないのかも知れない。  
 そんな恐れと、はしたないとは思いつつも自然と湧き上がってくる嫉  
妬と羨望に、頭の奥が熱くなるのを、カタリナは抑えられなかった。  
 
 王の執務室へ辿り付くと、そこには誰もいない。借りていた本を返し  
に来たのに、途方に暮れて、部屋を見渡す。  
贅を嫌う主の人柄を反映して、部屋の様子は王を名乗る前の部屋と殆ど  
変わっていない。侍従の一人も残しておかないとは無用心に過ぎるので  
はないかと心配になってくるほどだ。  
 と、執務室から続くミカエルの私室の方から声が聞こえてきた。  
「誰か! いないのか?」  
 まさに今思いを馳せていた相手の声だ。何事だろうと、カタリナは部  
屋の奥の扉へ向かった。  
 
「ミカエル様? 失礼致します」  
「何だ、カタリナか」  
 入って来た相手を見て、ミカエルは意外そうな声を漏らした。  
 彼は広い寝室の一角にバスタブを運び込ませ、湯浴みを楽しんでいた。  
ミカエルの風呂好きは知っていたが、こうして現場に遭遇するのは当然  
初めてである。引き締まった裸身を目の当たりにして、カタリナは慌て  
て目を逸らした。  
 真っ赤になったカタリナを見て、ミカエルはおかしそうに目元をほこ  
ろばせる。  
「そんなに照れずとも、私達は近々夫婦になるのだよ。様付けだってや  
めろといつも言っているではないか。  
……ところで。侍女の真似事などさせて悪いのだが、隣の部屋へ行って  
戸棚の一番上のワインを取って来てくれないか。すっかり人払いをして  
しまってどうしようかと思っていたところだ」  
「畏まりました。ただ今」  
 先程まで考えていたことを見透かされたようで、カタリナは慌てて元  
いた部屋へと戻った。  
 
「……こちらでようございましたか?」  
 高級品であることを表すようにガラスの瓶に入れられたワインは、ま  
だ封を解かれていない。  
「ああ、ありがとう。ついでにこれに注いでくれないか」  
 ミカエルはバスタブの端に載っていたガラスの杯を差し出す。落ち着  
いて彼の様子を伺うと、既に視点が定まっていないらしく、吐く息から  
も相当酒精が入っていることが察せられた。  
確かにミカエルはよくワインを嗜むが、決して酔ってみっともないと  
ころは見せたことがなかった筈だ。らしくない彼の様子に、カタリナは  
眉をひそめた。  
「もう随分飲んでいらっしゃるのじゃありません? ご入浴の時のお酒  
は回りが早いと言いますし、お体に障りますわよ」  
 封を解いた瓶を差し出しかけた手を止め、カタリナは諌めた。  
「何、自分の限度は知っているつもりだよ。お前も一緒にどうだ」  
「結構です。……一杯だけになさいませ」  
 仕方なく赤い液体を注ぐと、ミカエルは杯をカタリナの方へと軽く傾  
けてから、口元へ運んだ。  
 カタリナがその仕草に見惚れていることに気付いて、ミカエルは動き  
を止める。何を思い付いたのか、かすかに笑うと、カタリナの頭へ素早  
く腕を回した。  
「な……っ」  
 そのまま唇を寄せて、中に含んだワインを口移しで注ぎ込もうとする。  
咄嗟のことに反応できず、カタリナの唇から赤い雫が滴り落ち、ドレス  
に染みを作った。  
 カタリナが何とか口の中に残った液体を飲み下したのを満足そうに見  
届け、ミカエルは口を開いた。  
「おや、勿体無いな。ロアーヌ産の最高級品を」  
「いきなり何をなさるんです、やっぱり酔っていらっしゃるじゃありま  
せんか!」  
「私は酔ってなどいないよ。それより服が染みになってはいけない、洗  
わないと」  
「そうですわね。では私はこれで失礼させて頂きますわ」  
 これ幸いと踵を返そうとするカタリナを、ミカエルは肩を掴んで引き  
止めた。  
「その必要はない、ここで洗えばいいではないか」  
「きゃ……っ!」  
 愛する人の腕の感触に抵抗できず、次の瞬間にはカタリナの体はミカ  
エルの上に腰掛けるような状態で、浴槽の中にあった。  
 元々細身のデザインのドレスが水を吸って、体中に張り付いてくる。  
浴槽からはカタリナの体に押し出された湯が溢れ、絨毯に染みを作って  
いる。  
不快感と周囲の惨状に、カタリナは顔をしかめた。  
「どこが汚れたのだったかな、見せてみなさい」  
 そう言って、ミカエルはカタリナを自分の方へ向かせた。今更ながら  
に裸の男に抱きかかえられていることに気付いて、カタリナの心臓は一  
気に早鐘を打つ。  
「ふふ、未来の我が妻は、何と美しいのだろうな」  
 冗談とも本気ともつかぬ口調で、ミカエルは呟いた。まとわり付いた  
ドレスが、豊かな体の線がくっきりと浮かび上がらせ、その下の素肌を  
薄く透かしている。  
恥ずかしさにカタリナは男の腕から逃れようともがくが、狭いバスタ  
ブの中で溢れる湯を気にしながらでは、思うように動けない。  
「からかうのもいい加減になさって、ん……っ!」  
 強引に唇を塞がれ、カタリナの動きが止まる。入って来た舌の動きに、  
体中の力が抜けていく。いつもはミカエルからかすかに感じるだけの、  
湯に混ぜられた香水の強烈な香りに、頭がぼうっとなる。  
すぐにカタリナは自分を抱える腕に体重を預けきって、ひたすら相手  
の舌に応えるのに夢中になった。  
「……はぁっ。次はこちらだな」  
「何、を……」  
 いぶかしむ声はあげても、既に抵抗する気など微塵もない。それに気  
をよくした様子で、ミカエルはカタリナの背に手を回し、ドレスのボタン  
を外し始めた。  
 元々大きめに開いていた胸元を少し下にずらすと、豊かな双丘が露わ  
になる。僅かに残る赤い液体の伝った跡に、ミカエルは唇を寄せた。  
「あ……っ」  
 雫が辿った軌跡を舌で撫でられ、カタリナの全身を痺れるような感覚  
が襲った。  
「では洗うから、じっとしていろ」  
 それが口実でしかないことはもう百も承知だ。ミカエルはカタリナの  
乳房におざなりに湯をかけてから揉み始めた。指の動きに緩急をつけ、  
時折口も使い、両の胸を交互に攻め立てる。巧みな指の動きに、すぐに  
カタリナの息は上がってきた。  
 今まで幾人の姫君がこの指と唇の動きに翻弄されたのだろう、頭の片  
隅にそんな考えが浮かんだが、勘繰っても詮無いことだ。頭の芯が熱く  
なり、すぐにそんな思いは霧散してしまった。  
「はぁ、はぁっ、ミカエル様、嬉し……」  
「ふ、私もだよ……」  
 ミカエルの半身が下から押し上げてきているのがドレスの布越しから  
もわかる。初めて本当に求められているのだとの悦びと期待に、カタリ  
ナの胸は一層高鳴った。  
「もっと、もっと触れて下さい……!」  
 
 と。急にミカエルの体から力が抜け、カタリナに絡んでいた腕は湯の  
中へと音を立てて沈んだ。  
「……? ミカエル様!?」  
 飲み過ぎて意識を失ったのかと慌てて口元へ耳を寄せると、規則正し  
い呼吸が聞こえてきた。  
「寝て、しまわれたのですね。飲み過ぎるから……」  
 安堵と寂しさに、カタリナは深い溜め息をついた。期待が音を立てて  
しぼんでいくのがわかる。  
 が、こんなにらしくない姿を見せられる相手も自分だけなのだ。そ  
れに、チャンスは今夜に限ったことではない。カタリナは努めて明るく  
考えようとした。  
 ともかくこのままでは自分もミカエルも風邪をひいてしまう。ドレス  
の裾を絞って体を拭く布を探そうとしたカタリナの耳に、こんな言葉が  
届いた。  
「モニ、カ……。私を置いて、行ってしまうなんて……」  
 
 数秒ののち。  
「この酔っ払いのシスコンがぁっ! 龍神烈火拳ッッ!!!」  
 そんな叫びが城中に響き渡ったとか、渡らないとか。  
 
                         ――終――  
 

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