「今日、いいか?」
仕事が終わり、荷物をまとめて帰ろうとしていた時のことだった。近寄って来たヒューズが、小声でそう尋ねてきた。
何気ない風を装っているが、彼の瞳は激情を帯びてギラついている。肩に回された腕が、束縛のように感じられた。
胸が苦しい。彼の放つ鬼気迫る空気に怯える自分がいる一方で、彼の放つ熱に惹かれ、灼きつくされたいと願う自分がいる。その感情はどちらも同じぐらい強く、それがタリスを困惑させていた。
「……ええ」
掠れた声で肯定の返事を返す。断る理由も術もない。
「じゃあ、行くか」
どこへ、とは尋ねなかった。行く場所は決まっているのだから。ヒューズに肩を抱かれたまま、タリスはおとなしく職場を後にした。
部屋に連れ込まれるやいなや、タリスはヒューズにベッドの上へと押し倒された。息を荒げて彼がのしかかり、頬や額や首筋に何度も口づけてくる。
「んっ……そんな、急に……」
せめてシャワーぐらいは事前に浴びさせてほしかった。今日は暖かかったから大分汗もかいている。
「うるせえ。こっちはずっとお前をやりたい気持ちを押さえてたんだよ。とっととやらせろ」
ヒューズの手が乱暴に胸元をまさぐり、タイを引き抜いて放り投げる。続いてブラウスのボタンが外され、肌が外気に晒された。男の指が、首筋から胸のふくらみへと伝う。
「……跡はこの前俺がつけた奴だけか。他にお前を抱いている奴は、跡をつけたりしねえのか?」
黙って瞳を伏せる。彼とこのような関係になって以来、他の男に身を任せてはいない。だがそれを彼に告げたところで、決して信じてはくれないだろう。
胸元にヒューズが顔を埋めた。きつく吸って新たな赤い跡を肌に刻んでいく。
「んんっ……」
彼の行為はいつも性急で激しい。だがDr.クラインに仕込まれた自分の体は、そんな彼の行為にも応えてしまう。股間が熱く潤い、喉から甘い喘ぎが洩れる。
ヒューズの指が下着の中に潜り込んだ。やや力を込めて女の部分をしごくように愛撫される。蜜が溢れ出し、彼の指を濡らした。
「もうこんなにぐしょぐしょにしやがって、本当に淫乱な奴だな。いつだってお前のここ、濡れてんじゃねえのか?」
彼の言葉に胸がきりきりと痛むのを感じる。事実であるからこそ、その言葉が辛い。絶望にも似た想いが胸の奥からこみあげてくる。
自分はどうしようもなくいやらしい、恥ずかしい女だ。彼に軽蔑されるのも無理はない。
「うっ……ああっ……」
彼の言葉に傷つき苦しむ心とは裏腹に、体は彼から与えられる快楽に溺れていく。彼の愛撫にあわせて、腰がねだるように動いた。ヒューズが耳元に唇を寄せ、囁きかけてくる。
「我慢できねえのか?」
言葉とともに耳に吹き掛けられる息ですら、悦楽への引き金となる。潤んだ瞳で頷くと、ヒューズはタリスの両足を開かせて抱え込んだ。
「たっぷりイカせてやるから、心配すんな。お前の体、本当にたまんねえ……」
貶める言葉を口にしながら、同時に賞賛の言葉をも口にする。だがそれはあくまで体に対してだけ。彼が自分に求めているのは、体だけなのだ。
「あああっ!」
絶望に似た思いが胸のうちを満たし、心が暗く重く沈んでいく。その一方で体は激しい快楽に呑まれていく。
心と体の間で揺れながら、タリスはヒューズに犯されて達した。
いつもヒューズとの性行為は、休みなく何度も続く。終わる頃にはタリスは精も根もつき、ぐったりとベッドに伏すことしかできなくなっていた。
しばらくベッドに横たわったまま、タリスはぼんやりと天井を眺めた。こうして彼と寝るようになって、どれだけになるのだろう。
さほど昔のことではない筈なのに、もうずっと前のことのような、そんな気持ちがする。
そしてこれからもずっと、自分は彼に抱かれ続けるのだろうか。彼が自分に飽きるまで。それとも……。
「……ヒューズ?」
動けるようになった頃、隣に横たわるヒューズにそっと声をかけた。答えはない。どうやら眠ってしまったようだ。
彼を起こさないように静かに起き上がると、のろのろと浴室へと向かう。
全身が軋みをあげていた。行為の最中にきつく掴まれた部分が鈍い痛みを訴え、何度も貫かれた体の芯は半ば痺れて感覚を失っている。
浴室に入る。壁にとりつけられた鏡に映った自分は、憔悴したひどい顔をしていた。
身震いするとタリスはシャワーの栓を捻り、熱い湯の奔流に身を任せた。張り詰めていた神経が、少しずつほぐれていく。それと同時に、どっと虚しさが込み上げて来た。
ヒューズが自分に求めているのは体だけ。好きな時に抱いて性欲を解消させることのできる女。それが、今の自分だ。
何より耐え難いのは、自分が心の底では彼に抱かれることを望んでいるということだった。
どれだけ邪険にされ軽蔑され手荒く扱われても、自分の心は彼を求めている。体だけでもいい。一時の慰めでいい。彼と繋がっていたい。
自分は最低の女だと、タリスは思った。彼に抱かれたいが為だけに、おとなしく彼の言うことを聞いている。そんな束の間の繋がりは、自らをすり減らして行くだけだというのに。
溜め息をつくと、タリスは俯いた。視線が自らの胸元に落ちる。ヒューズが自分の肌に残した幾つもの跡が、視界に入った。
鮮やかな赤い色をしているものもあれば、茶がかった色を薄く残しているだけのものもある。
そっとそれに触れてみる。最近では自分の体を見ても、何とも思えなくなってきた。ただの物か何かのようにしか思えない。
体だけではない。何を見ても心が動かなくなりつつある。特に何の感慨も覚えず、ぼんやりと時を過ごすことが増えた。
そういえば、前に笑ったのはいつだったろう。もはや遠い記憶の彼方だ。最近では泣くことすらも忘れつつある。
心の働きが次第に失われていくかのようだ。もしかしたら、自分はそのうちに壊れてしまうのかもしれない。
彼が自分に飽きるのが先か、自分がおかしくなってしまうのが先か――。
湯気のたちこめる中、タリスは湯に打たれながら物思いに沈んだ。
少しうとうとした後、ヒューズは目を覚ました。薄暗い部屋のベッドに寝ているのは、自分一人。彼女の姿は無い。
起き上がり、周囲を見回す。浴室の方から、水の音が聞こえてきた。どうやらシャワーを使っているようだ。
けだるい気分のまま、煙草を一本取って口に咥える。今日は一体何度彼女を抱いたのか、その回数すら定かではない。
「俺は、思春期のガキかよ……」
相手のことなど一切考えず、ただただ乱暴に責め立てて蹂躙するだけ。最低だと思いつつも、彼女に対してそうすることしかできない。
甘い声をあげて身を捩るタリスの姿を思い描く。自分が抱くことで、彼女が感じていることは間違いなかった。愛撫に肌はじっとりと汗ばみ、秘部は潤って自分を受け入れる。あれは演技ではない。
だが……どれだけ感じていても、彼女はいつもどこか虚ろで哀しげな瞳をしている。それが変わることはなかった。
それがたまらなくて、その瞳をどうにかしてしまいたくて、余計に激しく責め立てずにはいられなくなってしまう。却って彼女の態度を硬化させていくだけに過ぎないのに。
悪循環だ、とヒューズは思った。この堂々巡りは変わらないだろう。自分が、身を引いて彼女を自由にしてやらない限り。
だがもう彼女を手放すことはできそうにない。タリスの存在は、あまりに深く心に根を下ろしてしまっている。今更ただの同僚に戻れはしない。
できることならずっとずっと触れ合っていたい。体だけでもいい。彼女を抱きたい。
苦い気持ちで煙草を吸っていると、浴室のドアが開く音がした。中からバスタオルを体に巻きつけ、髪を別のタオルで包んだ格好でタリスが出て来る。
「……起きたの?」
「ああ、さっきな」
タリスはベッドに近づくと、散らばった衣類を拾い集めて身に着け始めた。湯上がりの彼女からは良い匂いがする。白い肌がしっとりと湿り気を含み、仄かに色づいていた。
ついさっき完全に欲望を吐き出しきったのでなければ、また襲い掛かりたくなってしまっただろう。そう考え、ヒューズは自らの思考にうんざりした。これでは本当に、やりたい盛りの学生だ。
「それじゃ、私、帰るから」
……泊まっていけよ。喉元まで出掛かった言葉を、ヒューズは呑み込んだ。それはもう、口に出してはいけない言葉だ。
「気をつけて帰れよ」
頷いて、彼女は部屋を出て行った。吸いかけの煙草を押し潰して灰皿に捨てると、再びベッドの上に寝転がった。シーツに残る彼女の香りが鼻孔をつく。
「ドール……」
このまま彼に抱かれ続けたら、自分は一体どうなってしまうのだろう。
昼間の職場。タリスは机に頬肘をついた状態で、とりとめもないことを考え続けていた。
いつかぼろぼろにすりへって、何も感じなくなってしまうのだろうか。そうなった時、彼は自分をどうするのだろう。
でもまだそちらの方が良い。いつか壊れた玩具か何かのように放り捨てられるよりは、その方が、まだ。
そこまで考えたところで、タリスは小さな溜め息をついた。今の考えは、幾らなんでも我が侭すぎるのではないか?
不意に、目の前に影が落ちる。はっとして顔をあげると、そこには金髪の妖魔の姿があった。
「サイレンス……? 私に何か用?」
サイレンスは静かに彼女の左手首を指差した。いつの間にか、袖のボタンが外れて手首が露出している。
白い肌に青黒い痣が浮かんでいた。昨日ヒューズに強く掴まれた部分。タリスは慌てて袖をつかんで引き上げ、手首を隠そうとした。
「こ、これは何でもないのよ。ちょっとぶつけただけ。気にしないで」
サイレンスはゆっくりとかぶりを振ると、タリスの左手首をそっと掴み、袖をめくりあげた。柔らかな皮膚にくっきりと刻まれた、五つの円い痣。
その痣の上にサイレンスが自分の手を重ねてみせる。大きさは違えど、それが人の指の跡であることは明白だった。
彼が静かな瞳をヒューズの机――本人は席を外している――に向けると、尋ねるような表情でタリスを振り返った。
「……知っているの? 私とヒューズのこと」
問い掛けにサイレンスが頷く。タリスは肩を落とした。一体いつ気づいたのだろう。
「不可抗力だったのよ。彼が悪いわけじゃないわ」
サイレンスが得心がいかないといった表情で首を捻っている。タリスは溜め息をつくと、両手を組んで額に押しつけた。
どう説明したものだろう。この自分でも良くわからない関係と感情を。
「彼のことが……好きなのよ。離れたくないの」
声が、震えた。声だけではない。全身が細かく震え出す。今まで一度たりとも、口にしたことのない自らの想い。
「ヒューズが好き。ずっと前から好きだったのよ。
どれだけ手荒くされても、傷ついてもいいの。苦しいけれど、それ以上に彼と一緒にいたい……」
例えどれだけ辛く当たられても、性欲を解消させる為だけの相手としか見られていなくても。彼の心のどこかを占めていられるのなら、それで構わないと思っている自分がいる。
「それなのに、一緒にいられればいいって思っていた筈なのに、私はいつの間にか彼が苦しむことを望んでいるのよ。
もし私の身に何かあったら、その時は彼にも哀しんでほしいだなんて、考えてはいけないことなのに――。
私はどうすればいいの? どうしたらいいの? 幾ら考えてもわからないし、最近では考えるだけで気が変になりそうなの……」
サイレンスの手が、静かに両の肩に乗せられた。慰めるかのように、軽く叩かれる。優しく気遣う相手の手の感触に、多少心が落ち着く。
「……心配してくれているのね。……ありがとう」
妖魔の青年はその言葉に微笑んだ。男性の姿をしているが、人ではない彼からは男くささを感じない。そのせいだろうか、普段口にできないことを口にしてしまったのは。
「不思議ね、あなたが相手だと話しやすいわ」
ヒューズともこんなふうに話せれば、とタリスは思わずにいられなかった。
どれだけ抱いても、彼女は自分のものにはならない。
当り前だ、自分は彼女を脅迫し、無理矢理抱いているのだ。自分のものになど、なるわけがない。
どうにもできない苛立ちが募る。彼女と体を重ねれば重ねるほど、その苛立ちは激しさを増していくのだった。
タリスに対する強く激しい感情を持てあましながら、ヒューズはIRPO本部へと戻って来た。廊下を歩き、自分達の部署のドアに手をかける。
開けたところで、彼は凍りついた。部屋の中、タリスの机の近くにサイレンスが立っていた。彼女の肩に手を置いている。
椅子にかけたまま、彼女は安堵した表情でサイレンスを見上げていた。自分の前では決してみせない表情だ。特に、二人きりの時は。
心の中で、何かが壊れたような気がした。狂暴な気持ちが沸き起こって来る。
その気持ちをヒューズは無理矢理心の底に押し込んだ。最初に「誰とつきあおうが口出しはしない」と言ったのは自分だ。故に、自分に口を挟む権利などない。
神経がささくれ立つのを感じつつ、ヒューズは無言で席へと戻った。
「なあ、ドール」
仕事が終わった。近寄ってそう声をかけると、彼女はびくっと体を強ばらせた。こちらとしては何気なくかけているつもりの声だが、彼女にはそう感じとれないらしい。
そういった些細な事実が、自分を苛立たせているのもまた事実だった。
「……今日も、なの? 珍しいわね」
抑揚のない声で彼女は尋ねてきた。連日で彼女を抱くことはあまりない。――自らが作り出した状況とはいえ、さすがに気がひけるのだ。
「悪いかよ」
言いながらヒューズはタリスを背中から抱きすくめた。胸のふくらみに手をまわし、首筋に顔を埋める。甘い女の香りがした。
「ちょっ……やめ……」
静止の声をあげ、タリスが身を捩る。きつくかきいだきながら、ブラウスのボタンを外して胸元をはだけさせた。
手にワイヤの入ったしっかりした作りのブラジャーが触れる。強引に引っ張ってカップの中に指を潜り込ませた。
柔らかく暖かな感触を楽しみながら指を進めていく。堅くなりつつある先端に指先が触れた。
腕の中で彼女の体がびくんと震え、抵抗する腕に力が籠もらなくなるのがわかった。
「だめ……」
吐き出されるタリスの息は熱を帯びつつある。それでも彼女は必死でかぶりを振り、ヒューズの縛めから逃れようとしてきた。
「お願い、ここでするのはやめて……」
「……俺はここでお前を抱きたいんだよ」
唇を首筋から耳元へと這わせていく。柔らかな耳たぶを咥えると、軽く甘噛みしてきつく吸った。タリスの喉から悲鳴のような声が洩れる。
「いや……あっ……誰か、来たら……」
「誰も来やしねえさ」
……嘘だ。口にしながらヒューズは思った。わかっていて、自分は嘘をついている。
「誰が来るっていうんだ? 部長は出張中だし、コットンは非番、ラビットは定期メンテナンス中。……誰も、来やしねえさ」
来る可能性のある者が、一人だけいる。だからこそ、ここでこんなことをやっているのだ。
こめかみに唇をおしつけ、胸を揉みしだく。手の中で自在に形を変える柔らかなふくらみ。
自分のものだ……誰がなんと言おうと、今この瞬間だけは、彼女は自分だけのもの。
「はあっ……で、でも……サイレンス……まだ、帰ってな……」
彼の名を彼女が口にする。それだけで、胸に激情が込み上げて来る。ヒューズはタリスの体を、スチールの事務机の上に後ろ向きに押し倒した。彼女の上半身が冷たい金属の表面に密着している。
「うるせえよ。あいつどうせ喋らねえんだし、お前あいつとも寝てるんだろ? 見られたっていいじゃねえか。お前がどんだけ淫乱か、良く知ってもらえよ」
「……や、やあっ!」
抵抗する彼女を力で封じると、ブラウスをまくりあげて肌を露出させる。灰色の机の上の白い肌は、奇妙にそそられるコントラストだった。
ごくっと息を呑み込むと、タリスの滑らかな背中に触れる。背骨にそって指を滑らせていくと、彼女が身をよじり、熱っぽい声で喘いだ。
手がスパッツのラインに辿りついた。そのまま手をかけ、スパッツを引きずり下ろす。下着に包まれた肉づきの良い臀部と、張りのある太ももがあらわになった。
下着を透かして見える翳りを帯びた部分は、既に湿り気を帯びて貼り付いている。下着の脇から指を滑り込ませると、タリスの体が小刻みに震えた。
「だ、だめ……」
「もう声に力が無いぜ」
柔らかな肉の襞をかきわけ、最も感じる部分を探り当てる。その部分を集中的に攻めると、彼女は背をのけぞらせて甘い声をあげた。
「あっ……ああっ……やっ……触ら、ないで……」
唇から吐き出される拒絶の言葉とは裏腹に、タリスの秘裂は蜜を滴らせて行く。指に触れるその部分が熱い。
「ああ……」
タリスが溜め息のような息を吐き出した時だった。不意にドアが開いて、サイレンスが入って来た。中の光景を見て、驚いたように足を止める。
「……驚いたか?」
乾いた声でヒューズは尋ねた。サイレンスが訝しむような視線をこちらに向けて来る。彼女を愛撫する手を止めぬまま、ヒューズは言葉を続けた。
「こいつはこういう女なんだよ。男に抱かれるのが好きで好きで仕方がねえんだ」
タリスが何か言いたげに身を捩る。ヒューズはぐっと彼女を押さえ込んだ。下着を引きずり下ろし、柔らかい部分に指を沈める。
「ああんっ……」
「見てみろよ。こいつのここ、もういつ突っ込まれても大丈夫なぐらい濡れてやがる。男なら誰でもいいのさ。俺でも、お前でも」
見せつけるかのように首筋に唇を寄せ、舌で滑らかな肌を愛撫した。沈めた指を円を描くかのように動かす。
タリスが切なげな呻き声をあげ、背を丸めようとした。感じている。間違いなく、彼女は自分の愛撫で感じている。
勝ち誇った気持ちで、ヒューズはサイレンスへと視線を向けた。狼狽なり苛立ちなり嫉妬なり、何らかの負の感情を期待して。
それこそが、最も自分が見たかったもの。それが見たくて、今日この場所でこんな振る舞いに及んだのだ。
「…………」
サイレンスは、静かにさっきと同じ場所に立っていた。腕を組み、心持ち整った眉を上げている。呆れと憐れみを含んだ瞳の色。それが向けられているのは、彼女ではなく、自分だった。
「なっ……なんだよその態度は! てめえ、俺がこいつとこうしていても、どうとも思わねえっていうのかよ? 気にしないっていうのか!?」
妖魔の青年は答えない。瞳の憐れむような色が深くなるばかりだ。
激情に満たされていた心の中に、冷たい風が吹き込んだような気がした。一瞬で芯まで頭が冷える。
自分がしている行為を思い返す。彼に対して感じている激しい嫉妬。彼女が自分の愛撫にどんな風に反応するか、どんな甘い声をあげるのか、それを見せつけてやりたかった。
自分という男の存在が、どれだけ彼女を占めているか。故にこの場所、この時間で彼女を抱こうとしている。
冷えた頭の中に巡ったそれらの行動は、とてつもなく身勝手で、みじめで、無様としか言いようのないものであった。
タリスの体を愛撫する手が止まる。机の上に押しつけられていた彼女は、未だにとろんとした視線を宙に向けていた。周囲の状況が良く呑み込めていないようだ。
「……くそっ……」
呟くと、ヒューズはタリスから離れた。これ以上、彼の目の前で彼女を犯す気にはなれない。上着を肩に引っ掛け、カバンを手に部屋の出口へと向かう。
「帰るぜ」
「……ヒューズ……?」
背後から途方にくれたような彼女の声が聞こえて来た。視線だけをそちらに向ける。
「今日は……もう、しないの……?」
机から身を起こし、タリスがまだ少し靄のかかった瞳で、こちらを見ていた。衣服が直されていない為、はだけた部分から桜色に染まった肌があらわになっている。
「萎えちまったよ。俺は今日はもう帰る。お前、物足りねえってんのなら、そいつに慰めてもらえ」
それだけ言い捨てると、ヒューズは乱暴にドアを開けて部屋の外に出た。
これ以上、同じ空間にはいられなかった。自分が今まで彼女に何をしてきたか、それを何よりも思い知らされてしまうサイレンスの視線の前では。
「あ……は……」
ヒューズの出て行った部屋。タリスは机に手をつき、自らを落ち着かせようと大きく息を吸った。
体の内部では、ヒューズによって目覚めさせられた欲望の炎が、不完全燃焼のままくすぶっている。
体の芯が熱く疼く。自分を燃え立たせてくれる相手を求めているのだ。
「落ちつかなきゃ……」
ぽん、と肩に手が乗せられた。その感触にはっとして見上げる。サイレンスが心配そうに、こちらを見下ろしていた。
「サイレンス……」
彼の手が肩に回され、引き寄せられそうになる。彼の意図を察したタリスは激しくかぶりを振ると、身を捩って彼の腕から逃れた。
「駄目……駄目よ……」
サイレンスの腕が止まった。少し離れた位置でもう一度深呼吸すると、タリスは彼を正面から見つめた。
「慰めてくれなくても大丈夫……何とか我慢するから」
タリスの言葉に、サイレンスは納得いきかねるという表情で首を横に振った。
「あなたが私のことを気遣ってくれているのはわかっているわ。でも……ヒューズをこのままにしておけないわ。私まだ、彼に自分の思っていることを言ったことがないの
……だから、決めたわ。今までずっと彼の反応が怖くて言えずにいたけれど、彼にきちんと自分の気持ちを伝えてみる」
故に、今ここで彼に慰めて貰うわけにはいかない。そんなことをしてしまったら、またヒューズと向き合えなくなってしまう。
「もしかしたら完全に拒絶されてしまうかもしれないけど……ううん、多分その可能性の方が高いと思うけれど、言うだけ言ってみる」
サイレンスが危ぶむ表情になる。タリスは彼の手を握った。
「あなたにたくさん心配をかけたことは、済まないと思っているわ。本当にごめんなさい。……それとありがとう。私のことを心配してくれて」
「…………」
行きつけの酒場で、ヒューズはぼんやりと目の前のグラスを眺めていた。注文したものの触れられずにいるグラスの中で、氷が溶け始めている。
幾ら振り払おうとしても、頭に浮かぶのは彼女の姿だけだ。今にも泣きそうに瞳を潤ませて、じっとこちらを見つめている。
あの日から――彼女がブラッククロスに捕らわれ、Dr.クラインに犯されたあの日から、何かが壊れた。あの日から、全てが狂ってしまった。……いや。
あれだけなら、まだ良かったのだ。決定的に二人の関係を歪めたのは、自分の取った行動。
つまらない嫉妬にかられて彼女を犯した。しかもそれだけでは飽きたらずに、関係を強要しなぶるように犯し続けた。
「くそっ……俺は、最低だ……」
愛しくて愛しくてたまらないのに、彼女を傷つけるような行為しかできない。なのに彼女は何も言わず、黙ってそれに耐えている。
せめて彼女が自分を非難してくれれば、まだ違ったのに。身勝手な考えだと思いながらも、そう思わずにはいられない。
身を引くべきだ。不意に、その考えが頭に浮かんだ。彼女に対する気持ち全てを心の奥に封じ込め、ただの同僚に戻る。
何もかも全てなかったかのように。それこそが、彼女が最初に望んだことではなかったか?
暖かく柔らかな肌の感触が手に甦る。哀しげな色を瞳に浮かべ、細い声をあげる彼女の姿。駄目だ。自分は今でも彼女を抱きたくてたまらない。
ヒューズが堂々巡りをしていると、不意に隣にどさっという音を立てて誰かが座った。目線だけあげてそちらを見る。見知っている女の姿があった。
「久しぶり」
カウンターに肘をかけ、隙のない身のこなしで隣席の女は笑った。切り揃えられた前髪の下から、強い意志の光を秘めた瞳が覗いている。
「……なんだ、ライザか」
ルーファス絡みで知り合った、グラディウスのメンバーの一人。表向きはクーロンのレストランで働いている。
その店へ足を運ぶことも多く、彼女と言葉と交わしたことも幾度となくある。決して親しいわけではないが。
「随分とまた仏頂面してるわね。彼女にでもふられたの?」
カウンターの中のバーテンに酒を注文した後、ライザはそう尋ねかけてきた。何気なく口にされたのであろうその言葉が、ヒューズの胸に突き刺さる。
「……うるせ」
一言短くそう言い捨てて、ヒューズは目の前のグラスの酒を口に含んだ。正直、ライザの相手をする気にはなれない。きつい酒が、喉を灼くかのように感じられる。
人事不省になるまで酒を飲めば、少しはこの辛さを忘れられるのだろうか。
「……どうして男ってのは皆こうなのかしらね」
ライザがいまいましげに呟くと、自分の分の酒を一息に煽った。即座におかわりを注文すると、それも飲み干す。
「そっちこそどう見てもヤケ酒じゃねえかよ」
「飲まずにいられない気分なのよ。ルーファスの奴、こっちのことなんて全然わかってないんだから」
かたん、と音を立ててライザがカウンターの上にグラスを置く。その勢いの良さが、彼女の苛立ちを現していた。
「ふられたのはそっちじゃねえか」
「ふられてないわよ! とっくに私達、別れてるんだから。そうじゃなくて、仕事のことで少し揉めただけ」
ライザの言葉におそらく「少し」ではないのだろうなと思う。どちらにせよ、自分には関係のない話だが。
「うるせえ、俺にお前のあれこれなんて関係ねえだろ。どっかよそで飲めよ」
吐き捨てるようにそう言うと、ライザの瞳に面白がるような色が浮かんだ。
「珍しくかなり本気で悩んでるわね」
ついと顔を寄せ、こちらを覗き込んで来る。声を潜め、彼女は尋ねた。
「……それで結局、ふられたわけ?」
ライザの言葉にふと考えてこんでしまう。実際のところ、どうなるのだろうか。
「違う。あいつとは恋人同士とか、そんなんじゃねえ」
自分達の言葉を関係にするのなら、一体何になるのだろう? 愛情のない、体だけの関係。かといってセックスフレンドというわけでもない。
「それでもふられたことになるわよ」
「うるせえな! 別に俺はふられてねえよ!」
拳でどんとカウンターを叩く。弾みでカウンターに乗ったグラスが飛び上がった。
「少し落ち着きなさいよ、店の人が睨んでるわ。捜査官が警察を呼ばれちゃ、洒落にならないでしょう?」
ヒューズはささくれだった気分でライザを見た。彼女はあっけらかんとしている。おそらくは、先程から立て続けに空けているアルコールのせいだろう。
「そもそもお前が、俺の神経を逆撫でしてるんじゃねえかよ。大体何の用だ。俺を笑いに来たのか?」
そう言うわけじゃないけど、とライザは笑った。
「ちょっとした好奇心よ。あなたがそんな顔してるところ初めて見たから。
……ねえ、ところであなた、暇なの?」
ライザの問いに頷く。相手の意図は読めないが、わざわざ嘘をつく理由もない。
目の前の女はくすっと笑みを刻むと、カウンターの上に頬肘をついた。片方の手に酒の入ったグラスを持ち、誘うようにそれを揺らしてみせる。
「だったらこれ、しばらくつきあってくれない? 一人で飲むのって侘しいのよね」
「……お前がおごってくれるってんのならな」
やや呆れつつそう答える。その答えに対して、ライザは笑い出した。
「あははっ……ルーファスが言ってたこと本当みたいね。あなた減俸に次ぐ減俸で、いっつも苦労してるって」
「……うるせえよ」
ライザはヒューズの膝を軽く小突くと、バーテンに新たな酒を注文した。そのグラスを威勢良くヒューズの前に置く。
「いーじゃなーい。男が細かいことを気にするもんじゃないわ。そんな調子だと、いずれルーファスみたいになっちゃうわよ」
酔いが回り出したせいかやや間延びした口調で、ライザはそんなことを言った。ふっきれてないのはどっちだ、とヒューズは心の中で呟いた。
「さ〜ヒューズ、ぐーっといきなさいよ、ぐーっと」
ヒューズの肩に親しげに腕を回し、ライザは飲めと迫った。その彼女を煩わしく感じ、腕を払い除けようと体を捩る。
その時、店の入り口近くに立っていた人間の姿が視界に入った。
「……あ」
一体いつからいたのだろうか。アイスブルーの瞳を見開いて、タリスは凍りついたようにただこちらを見つめていた。ヒューズもまた何もできず、彼女を見つめかえすことしかできない。
どれだけ経過しただろうか。不意に彼女の瞳が少しばかり潤んだかと思うと、踵を返し走り去ってしまった。
タリスに向けて伸ばそうとした手は、途中で止まった。一体何を言えばいい? 散々身勝手な行為を彼女にしてきた分際で。
どうすることもできない苦い気持ちが胸に満ちる。隣のライザが、怪訝そうな表情で顔を覗き込んできた。
「さっき店を出て行った人、あなたと同じジャケットを着ていたけど……もしかしてあの人なの? あなたがふられたのって」
「ふられたわけじゃねえ」
ライザは物言いたげな表情で考え込んだ。しばしの沈黙の後、彼女はきっぱりとした口調でこう告げた。
「追いかけてあげなさいよ。今ならまだ間に合うわ」
「……何でそんなことを」
乾いた声で尋ねる。タリスは自分から逃げた。自分を拒絶したのだ。追いかけたところで仕方がない。
「あいつは俺のことなんて、なんとも思っちゃいねえさ」
力ずくで組み敷いたあげく、脅迫して意のままにしてきた相手に好意など抱けはしまい。好意を持つのは自分のような男ではなく、もっと別の、そう例えば――。
「本気でそう言っているの?」
鋭く抉るような声で、ライザは尋ねた。先程の酔いはどこへやら、瞳にきつい光が宿っている。
「ああ。あいつにとって俺は、ただの同僚……いや、それ以下だろうな」
そう答えた時だった。ヒューズはライザに強く胸倉を掴まれた。
「あなた、もしかしなくても馬鹿? なんで気づかないのよ。なんでわからないのよ。あんな胸が張り裂けそうな瞳で見られて、何も感じないっていうわけ!?」
大声で叫びながら、ライザは激しくヒューズを揺さぶった。彼女の放つ怒りに圧倒され、目を見開いたまま凍りつくことしかできない。
「お、落ち着け……」
ライザが手の力を緩めた。だが瞳には未だに険しい光が宿っている。
「あのな、あいつは俺から逃げたんだ。そもそも――」
「そ、れ、が、馬鹿だって言うのよ!」
その声とともに、ライザの肘鉄がヒューズの鳩尾に叩き込まれた。鈍い痛みと共に呼吸が苦しくなる。膝を追ったヒューズの襟首を再び掴み、ライザは強い調子でまくし立てた。
「ルーファスといいあなたといい、どうしてこう察しが悪いのよ。なんで逃げたと思っているの!? 追いかけてきてほしいからに決まってるでしょ。
女っていうのはね、愛されてる実感が欲しいのよ。追いかけて抱きしめて『離さない』って言ってあげなさいよ!」
それができたらどんなに楽だろう。こんな泥沼な関係にならなければ、できたのかもしれない。ヒューズは首を横に振った。だが今の自分にそんな資格はないのだ。
「俺には、できねえ」
「恥ずかしがってる場合!? ああもうっ!」
恥ずかしがっているわけじゃない、というヒューズの言葉は、発せられることはなかった。襟首を掴むライザの腕に力が籠もる。
次の瞬間、ヒューズの体は勢い良く宙を舞ったかと思うと、鈍い音を立てて壁に叩きつけられた。周囲からおお、という歓声にも似たどよめきがあがる。
ヒューズを投げ飛ばしたライザは軽く手をはたくと、再び襟首を掴んだ。そのまま引きずられ、出口から外へと放り出される。
「頭冷やしなさいこの無神経! 全く、男ってのはどうしてこうも鈍いのばかり揃ってるのよ。こうなったら今日はとことん飲んでやるわ」
路上に倒れたヒューズの耳に最後に届いたのは、ライザのそんな声と店のドアが閉まる音だった。