ヒューズの行き着けの店で思いもしない光景を見た後、タリスは行くあてもなくふらふらと街を彷徨い歩いた。頭の中では、先程の光景がずっと巡っている。  
声をかけることもできず、ただ見ていることしかできなかった。ヒューズと親しげにしていた見知らぬ女性。  
どれくらい歩いただろうか。気がつくと、タリスは自宅の前に戻って来ていた。意図しないうちに、歩き慣れた道を歩いてしまったらしい。  
「……あ」  
タリスは思わず足を止めた。家の前に、黒い人影が立っている。  
「……遅かったな。どこで油売ってたんだ」  
ヒューズだった。塀にもたれて、こちらを見ている。タリスは歩みを進め、彼の前に立った。  
「どうしてこんなところにいるの? さっきの人は?」  
「それは今重要な問題じゃねえ。お前に話があんだよ」  
瞳を逸らし気味に、淡々と語る。普段の彼らしくない喋り方に、タリスは嫌なものを感じた。  
「今じゃないと駄目なの?」  
「ああ」  
頷いたものの、ヒューズは先を話そうとしなかった。話にくい話なのか、さっきからずっと視線をあわせようとしない。  
「……ここにずっと立っていると寒いわ。中で話さない?」  
口にしながら、誘っているような台詞だとタリスは思った。いや実際のところ、誘っているのかもしれない。  
「いや、それは止すよ」  
しばしの沈黙の後、ヒューズは意を決したようだった。  
「なあ……こんな関係、もう終わりにしよう」  
一瞬だが言われた意味がわからなかった。わかった後も頭の中が真っ白になり、言葉を出すことができない。タリスは無言でその場に立ち尽くしていた。  
「俺が言うのもなんだが、やっぱり良いもんじゃねえ。お前の言うとおり、なかったことにすべきだったんだ。  
今からでもいい、ただの同僚に戻ろう。俺はもうお前を脅したりはしねえし、体も抱かせろって言わねえ」  
 
一度口に出すと舌が回りやすくなったのか、ヒューズは先程よりも流暢に喋った。喋った後、尋ねるかのように彼の瞳がこちらを見る。  
「……そう」  
タリスは感情の完全に抜け落ちた声で、それだけを口にした。喉の奥がからからに乾き、後の言葉が続かない。尋ねたいことは、たくさんあるというのに。  
それを了承と受け取ったのか、ヒューズは頷いた。  
「今までずっと、悪かったな。本当はお前に何かしてやるべきなんだろうけど、これ以上お前の傷を広げたくねえから……」  
その後の言葉は良く聞き取れなかった。自分でも何を言えばいいのか、よくわかっていないのだろう。  
「……じゃあな」  
ヒューズは背を向け、去って行った。一度も振り返ることは、しなかった。  
 
自宅のリビングで、タリスはぼんやりと椅子にかけていた。視線は一応テーブルの上に向けられているが、そこにあるものは全く意識に入っていない。  
先程のヒューズの言葉が、何度も耳の中で繰り返される。あまりにも唐突に切り出された関係の終焉。突然の話だったが、それが意味することは嫌というほど良くわかっていた。  
店でヒューズの隣にいた女性のことを思い出す。彼女が理由なのだろうか。  
物思いに耽っていると、呼び鈴が鳴った。立ち上がり、レンズで外を確認してドアを開ける。  
「……入って」  
勧められるままに、妖魔の青年は部屋の中に入った。リビングの椅子の一つにかけると、物問いたげな瞳でタリスをみつめる。  
「突然呼び出してごめんなさい。何か飲む?」  
ちらとキッチンの方に視線をやる。が、サイレンスはゆっくりとかぶりを振ると、身振りで彼女に向かいの椅子に座るよう促した。  
タリスは一つ溜め息をつくと、その椅子に腰を下ろした。サイレンスの静かな瞳が、じっとこちらをみつめている。  
 
責めるような、瞳ではなかった。こんな夜更けに呼び出されたというのに、彼は全く怒っていない。  
「……本当にすまないと思っているのよ。でもあなたくらいしか、事情を知っていて話を聞いて貰えそうな人がいなくって」  
サイレンスがすっと手を伸ばすと、タリスの手首に優しく触れた。安堵させるかのように、静かに頷く。  
「ヒューズにね、別れを切り出されたわ」  
軽い驚きを憶えたのか、彼の片方の眉が跳ね上がった。タリスは自嘲気に頷いてみせる。  
「もうこんな関係、終わりにしようってはっきり言われたの。私、何も言えなかった……」  
胸の奥に乾いた感じがする。きっとひどく苦しいだろうと思っていたのに。  
全くと言っていい程、何も感じない。砂か何かを噛んでいるような、そんな感じだ。胸の中を乾いた砂が流れて行く。  
サイレンスが気遣うように手を伸ばし、テーブルの上の自分の手に静かに触れて来た。少し冷んやりとした手の感触。  
「何か変な感じよ。全然哀しくないの。言うべきことがたくさんある筈なのに、何も出て来ない。自分自身が空っぽになってしまったみたいで」  
俯くと、テーブルの木目が視界に入った。何とはなしに、その流れを追う。  
「なんだかもう何もかも、どうでも良くなってきてしまったわ……」  
目を閉じて眠ったら、二度と目が覚めなければ良いのに。何もかもわからない深い眠りの中ならば、このうつろさ虚しさを感じずにいられるだろう。  
妖魔の青年がゆっくりとかぶりを振った。立ち上がると、静かに背後に回る。  
「……サイレンス?」  
振り向こうとしたその時、サイレンスは腕を回してタリスを抱きしめた。  
「あ……」  
労るような、優しく包み込むような抱擁だった。性的なものは殆ど感じられない。  
 
乾いた心の中が、ほんの少し潤うように感じられる。タリスは体の力を抜き、サイレンスに少しばかり身を預けた。  
「ごめんなさい……」  
良くないことであることはわかっている。彼はただの同僚に過ぎない。だがタリスは彼の優しさに甘えずにはいられなかった。  
サイレンスの手が、タリスの頬を掠めたかと思うと、顔の前で静止した。指先に、光る小さな雫。  
そうされるまで、タリスは自分が泣いていることに気づかなかった。サイレンスの手が子供をあやすかのように、タリスの背を撫でる。  
「……そんなに優しくしないで」  
俯いてタリスは呟いた。自分には優しくされる理由などないのだから。  
「…………」  
サイレンスがまたしてもかぶりを振る。抱きしめられたまま、タリスは尋ねた。  
「どうして……私に優しくしてくれるの?」  
語ることをしない妖魔は答えない。ただ抱きしめる腕に僅かだけ、力が籠もった。  
ヒューズの抱きしめ方とは全く違う、とタリスはふと思った。彼の抱擁は骨が砕けてしまうのではと思える程、力強い激しいものだった。  
その瞬間、彼の体の感触が甦った。筋肉のついた逞しい体躯。太い腕で自分を逃すまいとするかのように、強く強く抱きしめてくる。  
思わずタリスは身を震わせた。瞳から熱い雫がとめどなくこぼれ落ちる。  
「わ、私……」  
ついさっきとは打って変わって、胸の奥が締めつけられるかのように苦しい。体を折り、床に頽れそうになる。そんなタリスの体をサイレンスの腕が支えた。  
「ごめんなさい……」  
顔を伏せてそう呟くことしかできなかった。放り出された辛さと、それをこうして今目の前にいる相手に支えて貰っている不甲斐なさ。その二つが心の中で渦巻いている。  
サイレンスの手が伸び、タリスの顎に添えられた。顔を上げてそちらを見る。彼は気に止むなと言いたげに、首を横に振っていた。  
「サイレンス……」  
そろそろと、彼の胸に顔を埋める。今だけは、こうして甘える自分を許してほしい。  
「ねえ……一つだけ、頼みがあるの」  
先を促すかのように、目の前の青年は首を傾げた。タリスの声が震える。  
 
「私を……抱いて。できるんでしょう? 私が壊れるくらいに、激しく抱いて」  
サイレンスがさすがに驚いた表情になった。首を横に振り、タリスを窘めるかのように額に指を当てる。  
喉の奥から乾いた笑いが込み上げて来た。ぎゅっと目の前の妖魔にしがみつく。  
「自分を大事にしろって、言いたいの? いいのよ。もう何もかもどうでもいいの。お願い、私を抱いて。滅茶苦茶にしてほしいの……ヒューズのこと、忘れられるぐらい……」  
笑いたいのに、瞳からはまたしても涙が零れ落ちてくる。その涙が青年の胸を濡らした。  
どれくらい、そうしていただろうか。不意にサイレンスが腕を回すと、タリスを抱き上げた。溜め息をつきたそうな表情で、それでも彼は頷いた。  
「ありがとう……」  
首を傾げて彼がこちらを見る。「どこへいけばいい?」と問いたいのだろう。  
「あっちが……寝室よ……」  
 
見慣れた部屋の見慣れたベッド。だが、今日は何かが違うように感じてしまう。いつも一人の部屋に、自分以外の存在がいるせいだろうか。  
サイレンスは落ち着いた様子で、タリスをベッドの上に下ろした。そうして、自らも隣に座る。  
「…………」  
彼の手が伸びて来る。押し倒されるのかと思いきや、彼はタリスの手を掴んだ。  
「……え?」  
引き寄せられた手の甲に、サイレンスが唇を押し当てる。昔話の騎士の誓いのような、そんな口づけ。  
「サイレンス……」  
サイレンスの唇が手の甲の上を滑った。くるりと手が反転させられ、今度は手の平に口づけてくる。意図がわからず尋ねようとした時、不意に彼の舌が手の平の溝を舐め上げた。  
「……あっ!」  
その瞬間に快感が体を走り、タリスは小さく喘いだ。サイレンスの舌はゆっくりと、触れるか触れないかの微かな愛撫を同じ場所に繰り返している。  
 
サイレンスが唇を次第に指先へと移動させたかと思うと、手の指を口に含んだ。爪の周囲や指の溝、指と指の間を丹念に舌がなぶっていく。  
「あ……あ……」  
手を舐められているだけだというのに、信じられないくらい気持ちがいい。  
今までにも、愛撫されているうちに全身が性感帯と化し、どこを触れられても感じてしまったことはあった。だが、最初から手だけでこんなに感じてしまったのは初めてだ。  
「ん……あ……」  
瞳を伏せ、熱い吐息を吐き出す。サイレンスがタリスの手を咥えたまま、指を彼女の腕に添って肩へと走らせる。軽く撫でられただけなのに、やはり震えるくらいに感じてしまう。  
「はあっ……」  
肩へと走った手が顎に触れた。軽く持ち上げられる。手を愛撫する舌の動きが止まった。  
瞳を開くと、彼がじっとこちらを見ていた。その瞳が語っている。止めるのなら、今だと。  
タリスはまたしてもかぶりを振った。  
「続けて……構わないから……」  
サイレンスは溜め息にも似た息を吐くと、腕を回してタリスを抱き寄せた。こめかみに唇を寄せ、短い髪の中に指を滑り込ませて何度も梳く。  
「あ……」  
彼の唇がこめかみから頬を掠め、手が背を優しく擦った。壊れ物を扱うかのような、優しく繊細な愛撫。こんな風に触って来る相手は、彼が初めてだ。  
「無理しないで……もっと手荒くされても、私は構わないから」  
むしろそうしてほしいとタリスは思った。壊れるくらいに滅茶苦茶にされたい。  
サイレンスが首を横に振った。それはきけないと言わんばかりに。腕を背に回すと、優しく抱きしめてくる。彼の唇が額や頬や髪を滑る。彼の愛撫は風のように軽く、柔らかい。  
「ん……」  
少しずつ、体が反応し始めた。力が入らなくなっていく。タリスは息を吐くと、彼の体に自身の体を預けた。  
男にしては繊細な指が、タリスの肌を優しく撫でさすっている。首筋や頬、腕や背を。労るかのように、慰めるかのように、その愛撫はどこまでも優しい。  
「そんなに優しくしてくれなくてもいいのよ……」  
 
優しくされればされる程、辛くて切なくてたまらなくなる。彼の優しさにすがってしまっている自分。そんなことは、すべきではないのに。  
胸の奥がしめつけられるように苦しい。瞳から熱いものが込み上げて来る。  
サイレンスの手が、優しくおとがいを持ち上げた。潤んだ瞳でみつめる先で、彼はまた首を横に振っていた。気にしなくていい、その瞳が語っている。  
「サイレンス……ごめんなさい……」  
彼の顔が近づいてきた。瞳から零れる熱い雫を舐め取って行く。腕が背に回され、元気づけられるかのように軽く叩かれた。  
「ねえ、どうして……」  
言葉は途中で途切れた。彼の腕が、力の抜けたタリスの体をベッドの上に横たえさえる。そのままサイレンスはタリスの上に覆い被さって来た。  
「あっ……」  
器用な指がブラウスのボタンを次々と外して行く。あらわになった白い肌を、サイレンスの唇が優しく這う。  
「んっ……あっ……」  
心が浮かび、溶けてしまいそうな、そんな錯覚に襲われる。サイレンスが首筋に舌を這わせ、僅かに浮きでた鎖骨に口づける。  
彼の手が胸のふくらみをかすめた。肝心な部分には触ろうとしないまま、その周辺だけに優しい愛撫が繰り返される。  
タリスは熱い息を吐き、すぐ近くにある彼の顔を見上げた。端正な顔立ちの妖魔は、静かな瞳でこちらを見ている。そこにあるのは、こちらを気遣う、そんな色だけだ。  
「サイレンス……私……」  
彼の指が唇に押し当てられる。何も言うなと言わんばかりに。そのまま手が下の方へと滑りおり、ブラジャーのホックを外して乳房を解放した。  
「あ……」  
既に乳首は存在を誇示するかのように立ち上がっている。彼の指がふくらみの上を滑り、乳首そのものにはまたしても触らぬまま、乳輪だけを撫でさする。  
「あ……あ……」  
敏感になってきていた部分への愛撫に、タリスは声をあげた。じらされているような感覚がする。意識しないうちに体が跳ねた。  
 
「あ……や……」  
しばらくの間、彼の指はそこだけを撫で続ける。気が変になりそうだと思った瞬間、彼が乳首を口に含んで軽く歯を当てた。  
「……ああっ!」  
それだけで頭の中に白い光がともり、体が激しく痙攣する。体の奥からじんわりと蜜が染み出して来るのがわかった。  
「あ……はあ……」  
サイレンスの舌が優しく乳首をなぶる。手が胸のふくらみを撫で回し、タリスの中の熱を煽り立てて行く。  
「んんっ……」  
胸を撫で回していた手は、次第に下の方へと下がりはじめていた。服の上から足を撫で回される。慈しむように、何度も何度も手が行きつもどりつする。  
「……ああっ……」  
手がスパッツと下着を引きずり下ろした。解放された肌は、部屋の空気を感じない程に既に熱く火照っている。  
太ももに、彼の手が触れた。ゆっくりと、ゆっくりと上の方へと向かって撫で上げていく。タリスは身を捩り、声をあげた。  
「んっ……あっ……」  
サイレンスの指が、秘裂に到達した。濡れた部分をかきわけて、奥へと潜り込む。  
「ああっ……」  
タリスは腰を浮かせ、激しく喘いだ。だが彼の指はそこで止まってしまう。  
「サイレンス……」  
力の籠もらない声で、タリスは彼の名を呼んだ。淡い色の妖魔の瞳が、こちらを見る。それにはあやぶむような色が浮かんでいた。  
タリスの胸に、どっと切なさと哀しみが満ちる。どこまで、彼は優しいのだろう。  
「いいの……最後までして、お願い……」  
それでいいのかと尋ねたそうな表情を、彼は浮かべた。潤んだ瞳で、それでもタリスは頷いた。  
「ごめんなさい……でも、最後までしてほしいの……舌や指だけじゃなくて、きちんと……」  
瞳にじわっと涙が溢れた。サイレンスが手を伸ばし、涙を拭ってくれる。  
「本当にごめんなさい……こんなことを頼んだりして……」  
サイレンスは静かに一つ頷くと、自らの衣服を緩めはじめた。妖魔である彼の肌は透き通るように白い。だが体は紛れも無く男性のそれであった。  
 
「……きて……」  
それだけ言うのがやっとだった。サイレンスがタリスの体を横向きにすると、片方の足を抱え上げて開かせる。  
絶え間なく蜜の溢れ出してくる部分に、男の分身があてがわれた。彼の瞳を見て、しっかりと頷く。サイレンスも頷き返してくれた。  
「んん……ああっ……」  
体の中に少しずつ彼が入って来る。奥へと入り込むと、彼はそのまま動きを止めた。  
「あ……ああっ!」  
一瞬怪訝に思ったが、次の瞬間タリスの全身を激しい快感が走り抜けた。快感は彼女の中を満たし、タリスはそのまま達してしまった。  
今まで以上に力の抜けた体を、サイレンスの腕が支える。  
「ああ……ああっ……」  
サイレンスが動き始めた。擦りつけるようにしたかと思うと、次の瞬間突き上げられる。全身がとろけてしまいそうな、甘い悦楽。  
一度達した体は、易々と二度目の絶頂へと導かれた。達する瞬間に彼と視線があう。抱いている最中だというのに、彼の慈しむような優しい瞳は変わらなかった。  
「ごめんなさい……ごめん……なさい……」  
詫びる言葉を口にするタリスの唇を、サイレンスの唇が塞いだ。手が髪を優しく撫でる。彼に対してすまなく思いながらも、その優しさに安堵したのも、また事実だった。  
「本当に……ごめん……なさい……あああっ!」  
頭の中が白い閃光で満たされる。その閃光に意識を灼きつくされながら、タリスはサイレンスの優しさを痛いくらいに感じていた。  
 
 
 
サイレンスはベッドの上の同僚を見た。ほぼ全裸に近い格好で、彼女は静かに眠っている。  
「…………」  
手を伸ばし、頬を伝う乾いた涙の跡に触れる。抱かれながら、彼女はずっと泣き続けていた。泣きながら、自分に対して詫び続けていた。  
謝られるようなことをした憶えはない。ヒューズと彼女の関係がこじれてしまったのには、自分にも要因があるのだから。  
考え込む。自分のしたことは、正しかったのだろうか。彼女を抱いてしまって良かったのだろうか。  
深く傷ついていた彼女。放っておけば、今にも壊れてしまいそうだった。その上、彼女は壊れることを望んでいた。  
ヒューズに別れを切り出され、彼女は自暴自棄になっていた。でなければ、あんなことを言い出したりはしないだろう。  
だが、自分は彼女に壊れてほしくはなかった。彼女を抱いたのも、その気持ちを伝えたいが為。  
その気持ちが伝わったのか……それは、今のところはわからない。もしかしたら、却って傷を中途半端に広げてしまったのかもしれない。それに……  
抱かれる彼女がこぼした涙。それを思い出す度、なんともいえない気分が胸に満ちて来る。  
サイレンスは一つ息を吐くと、静かにベッドを滑りおりた。毛布を手に取ると、それで彼女の体をしっかりとくるみこむ。  
柔らかい髪を撫でると、眠る彼女の額にそっと唇を押し当てた。そうして、彼は部屋を出て行った。  
 
 
「誰かと思えば、サイレンスか。こんな夜更けにどうした? 人間の間に混じって生きるのに疲れたのか? 話があるのなら聞いてやらんでもないぞ。  
……人間の女に惚れた? 悪いことは言わん。止めておけ。  
私もこんなところで医者をやっているくらいだから、人間のことを軽蔑したりはしていないがな。我々妖魔と人間では、生きる世界や時間が違いすぎる。  
例えその女がお前を想っていてくれたとしても、いずれは一緒にいることが辛くなる。そのままの関係に留めておけ」  
 
その翌日。職場に出勤したサイレンスが見たのは、自らの机の前に座っているタリスの姿だった。  
「……サイレンス」  
呼び止められ、彼女の近くへと赴く。彼女は彼を見上げ、静かに微笑んだ。  
「昨日は、ありがとう」  
その声にも笑顔にも、力強さはなかった。だが彼女の瞳は、まっすぐ自分をみつめていた。  
その視線は何よりも語っていた。少しずつとはいえ、彼女は傷を癒し、前を向いて行こうとしているのだと。  
「もう大丈夫だから。……本当にありがとう」  
静かに告げられた言葉。彼女は壊れなかった。その言葉と事実だけで、彼には充分だった。  
 
 

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