どこをどう歩いたのだろう。気がつくと、タリスは自宅の前に戻って来ていた。意図しないうちに、歩き慣れた道を歩いてしまったらしい。
自宅の前で、タリスは家の鍵を開けることもせず、その場にただ立ち尽くした。
ヒューズの行き着けの店で見た光景。あれが、頭の中から離れない。親しそうに彼に寄り添っていた見知らぬ女性。声もあげられず、ただ見ていることしかできなかった。
「もう私、必要ないのかしら……」
声すらかけてくれなかった。自分に気づいていたのに。それも仕方のないことかもしれない。自分と彼は体だけの関係なのだから。
溜め息をつくと、タリスはバッグを開けて鍵を取り出した。これ以上考え続けたら、おかしくなってしまいそうだった。
今日はもう何も考えず、熱いシャワーを浴びて泥のように眠ろう。確か睡眠薬が机の引き出しにあった筈だ。あれを飲めば、夢すら見ずに眠ることができる。
鍵を開け部屋に入ったタリスは、バッグをいつもの場所に置こうとして、軽い違和感を憶えた。上手く説明できないが、部屋の雰囲気が、どこかいつもと違う。
怪訝に思いながら、着替えようと寝室へ向かった時だった。背後に、人の気配を感じた。
「誰!?」
声をあげ振り返ろうとする。その瞬間、後頭部に重く鈍い痛みが走った。
「あ……」
一瞬で周囲の景色が回転する。バランスを崩し、タリスは床の上に倒れ込んだ。頬に触れる冷たいフローリングの感触。
それが、彼女が気を失う前に最後に感じたことだった。
「ん……」
ゆっくりと、タリスの意識は戻って来た。殴られた後頭部がずきずきと痛む。
「何が……どうなって……?」
焦点の定まらない瞳を上に向けた。見慣れた部屋の天井。ここは、自分の寝室だ。
自分の寝室の自分のベッド。そこに、タリスは寝かされていた。くらくらする頭を抱えながら、起き上がろうとする。だが、体が動かない。
「え……!?」
驚いて首だけ持ち上げ、自分の体を確認する。気を失っていた間に制服はおろか、身に着けていたもの全てを剥ぎとられていた。
代わりに着せられているのは、扇情的な淡い紫のレース地のビスチェとショーツだ。細かなレースの柄から、白い肌が透けて見えている。
ほとんど動かすことのできない両の手と足は、皮の拘束具でベッドに繋がれていた。揺すってみるが、外れる筈もない。
「な、何これ……!?」
喉から悲鳴のような声があがった。かつての悪夢が、再び甦る。ブラッククロスの基地に捕らわれ、Dr.クラインに陵辱され続けた地獄のような日々。
「いや……いやあっ! 外してえっ!」
恐慌状態になり、タリスは泣き叫んだ。身を揺するが、頑丈な拘束具からは逃れられる筈もない。
「おや、目が覚めたのか」
かけられた声に、タリスはびくっと身を竦ませた。忘れたくとも忘れられない男の声。おそるおそるそちらへと視線を向ける。
「久しぶりだな」
ドアにもたれ、冷たく笑う中年の男。多少風貌は異なっているが、見間違える筈もない。
「Dr.クライン……」
男は近づいてくると、タリスの顎に手を添えてくいっと持ち上げた。
「ど、どうして……あなたがここに……」
詳しいことは知らないが、この男は然るべき場所に送られた筈だ。それが何故、自分の部屋にいるのだろう。
「拘置所というところは、案外脱獄しやすいものだな。まあ、足の怪我が治るまでは、面倒なのでそのまま入っていたがね」
Dr.クラインの指が、肌の感触を楽しむかのように首筋を撫でる。
「相変わらずしっとりしていて、触り心地のいい肌だ。……入っている間、この肌が恋しかったぞ」
耳元に唇を寄せ、睦言のようにDr.クラインが囁きかけてくる。タリスは激しくかぶりを振り、腕を繋いでいる拘束具を揺すった。
「手首が擦れて傷がつくぞ、止めておけ」
Dr.クラインの指が首筋から鎖骨を伝い、胸のふくらみへと降りていく。触れるか触れないかの軽い愛撫。
「……あ、あなた何をしにここへ来たのよ。所属していた組織を潰された復讐のつもりなの?」
タリスの言葉に、Dr.クラインは呆れたような表情になった。
「復讐? まあそれも悪くはないな。この私をこけにした報いはたっぷりと受けて貰わねば。だが」
指がするりとビスチェを引きずり下ろした。こぼれ落ちた乳房を撫で上げ、先端をしごき始める。
Dr.クラインは身を屈めると、もう片方の乳首を口に含んだ。歯を立て、舌で丹念にその部分をなぶって行く。
「……やっ……あっ……んっ……」
男の指と舌は、タリスが感じる部分を的確に責めてきた。くすぶり続けていた情欲の炎が、激しくなって行く。
「あっ……いや……」
股間がかっと熱くなった。むずむずするその部分を押さえたくて、タリスは必死で太ももを擦り合わせる。だが努力も虚しく、秘裂は蜜を滴らせ始めていた。
「感じまいとしたところで、長くは持たないぞ。私はお前の体のどこをどうされると感じるか、良く知っているからな」
いつの間にか、Dr.クラインはベッドの上にあがり込み、彼女の上に伸し掛かっていた。全身で感じる男の体の重みと熱さ。それだけで体が反応しそうになる。
「ううっ……いやあっ……」
科学者の細いが強靱な指が、乳房を揉みしだいていた。優しく撫でるようにしたかと思うと、急に力を込めて強く掴む。
「相変わらずなんともいい声だ……さあ、もっと鳴け」
乳首をぴんっと指で弾かれたかと思うと、ぎゅっと摘まれる。その時に感じる僅かな痛みですら、快楽と同じものに変わる。
「あっ……ああんっ……」
首筋には濡れた感触。Dr.クラインがそこに舌を這わせているのだ。胸元から首筋にかけてついた赤い跡を、興味深げに押さえる。
「……他の男に抱かれたのか。まあ無理もあるまい。お前はもう男無しではいられないだろうしな。だが」
乳房を再び強い力で握りしめると、Dr.クラインは耳元に顔を寄せた。耳を咥え込み舐め回しながら問い掛ける。
「お前の処女を奪い、快楽を教え込んでここまでに仕込んだのは私だ。お前にとって、私は特別な男の筈だ。そうだろう?」
「ちっ、違う……わ……あなたなんか、別に……」
タリスは必死でかぶりを振り、否定の台詞を口にした。だがその声に力は籠もっていない。
「嘘をつくな。私の愛撫にすぐ様反応しただろう? 気持ち良くてならないだろう?」
「う……」
タリスの胸に絶望が満ちる。Dr.クラインの言うとおりだった。自分の体はあっという間に熱くなってしまっている。
「素直になれ、認めてしまえ」
「いや……いやあ……」
半泣きになりながらタリスは首を横に振り続けた。そんな様子に、Dr.クラインが片眉を跳ね上げる。
「強情なところも相変わらずか……だがそういうところもそそられるな」
右の手が滑りおり、腰を覆う薄い布の中に潜り込んだ。レース地を透かして、指が蠢く様がはっきりと分かる。
「あ……ああっ……」
タリスの背がのけぞり、甘い喘ぎがあがった。Dr.クラインがにやりと笑うと、手の拘束具が許すだけ彼女の体を抱き上げる。
「さっき、私が何をしに来たのかと聞いたな」
男の酷薄な笑顔がすぐ近くにある。顔をそむけようとしたが、男の手はそれを許さなかった。
「私はお前を連れに来たのだ」
「えっ……?」
言われた言葉の意味がわからず、タリスは疑問の声をあげていた。Dr.クラインの唇が、こめかみに押し当てられる。そのまま彼は囁くように続けた。
「わからないのか? お前は私の一番気に入っている玩具だ。だからお前を連れて行く。これからもじっくり可愛がってやるぞ」
「そんな……」
タリスは心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を感じた。この男は自分をまた、どこかに監禁して好きなときに犯すつもりなのだ。強い嫌悪感が沸き起こる。
「い、いや……あっ!」
悲鳴をあげかけたタリスの秘部に、Dr.クラインの指が入り込んだ。その指が膣内をかきまわし、別の指が肉芽を刺激する。強い快感が全身を貫き、頭の中に白い光が散った。
「あっ……あ……あ……」
とろっとあふれ出た蜜が下着に染みを作り、Dr.クラインの手を濡らして行く。体から力が抜け、タリスはぐったりと彼の腕に身を預けた。
「さてと、この下着をどうしたものかな……脱がしてしまってもいいが、着けたままというのもそそる」
タリスをベッドの上に再び寝かせると、Dr.クラインは片方の手をショーツの上に置いた。
「そうだな……」
ちょうど秘部を覆っている部分の布地を、男は引っ張った。生地が伸び、その下に隠されていた部分がさらけ出される。そのまま、Dr.クラインがそこに顔を近づけた。
「ほう……潤いすぎるぐらい潤っているな。しかもどんどん溢れて来る」
男の息が敏感な部分にかかる。それだけでタリスの体は反応し、震えた。
「や、やめ……あっ!」
「ここをこう、ひくつかせて言われても説得力がないぞ。どれ、肉を開いてみるか」
Dr.クラインの指が女の部分を開かせる。指が肉芽をこすり上げ、舌が濡れた部分に分け入ってきた。
「あっ……あっ……ああっ!」
受けた刺激で体が跳ねる。だがそこから、Dr.クラインの舌は動こうとしない。秘裂に分け入った舌は、触れたままじっとしている。
「や……」
体の中で情欲の炎が身を焦がすのがわかる。触れられているだけでは、物足りない。もっとこう、何か……。
そう思った時、舌が動いた。だがごくごくささやかな動きに過ぎず、満足させるには程遠い。それをわかっているのか、じらすように舌は緩やかな愛撫を繰り返す。
「あ……ああ……」
昇りつめたいのに、昇りつめることができない。強い欠乏感がタリスを満たした。意図しないうちに、腰が快楽を求めて動き出していた。
だがそうすると、今度は逃げるように舌が引く。諦めようとすると、また触れて来る。感じさせながら、求める絶頂は与えない。
「うっ……はあ……」
苦しくてならない。もう何でもいいから、満足させてほしかった。こんな蛇の生殺し状態では、気が変になってしまう。
「も……もう……いや……」
Dr.クラインが股間から顔をあげると、タリスの顎を捕らえてこちらを向かせた。男の瞳が、意地悪くきらめいている。
「イカせてほしければこう言え。『お願いですから、私を貫いてイカせて下さい』と。そうすれば望むようにしてやる」
さすがに言葉に詰まった。が、その間もDr.クラインの手が、タリスをじらすように愛撫し続けている。
迷うタリスを見て、Dr.クラインが残酷な表情で微笑んだ。
「言わなければ、ずっとこのままだぞ」
「う……お、お願い……ですから……」
羞恥と屈辱が胸を満たす。自分の口にしている恥ずかしい台詞。だが体の芯は耐え難い程に疼き続け、満たしてくれるものを欲していた。
「わ、私を……貫いて……イカせて……くだ……さい……」
言い終えると同時に顔をそむけ、視線をそらす。それだけが、彼女にできた唯一の抵抗だった。
「言えたじゃないか」
Dr.クラインが満足気な様子を見せると、足の拘束具の鎖を緩めて動かすゆとりを入れた。
「いい子だ。今貫いてやるからな」
両足が高く抱え上げられ、体の上に乗るような形でぐっと膝を開かされる。指が再び下着をずらした。そこに熱く堅いものがあてがわれる。
「あ……」
「ほら……お望みのものだぞ。お前が口に出してまでねだったものだ」
タリスの中に少しずつ、Dr.クラインの男根が入り込んで来る。
「あ……あああっ!」
長い間じらされ続けたせいか、タリスの体は貪欲になってしまっていた。腰がくねり、男のそれを自分から深く呑み込もうとする。
「そうだ……いいぞ……この感触だ……この感触をずっと求めていたのだ」
Dr.クラインは両の腕をタリスの背に回し、彼女を抱き上げた。体がぴったりと密着し、男のそれがタリスの中に根元まで入り込む。
「ん……ああ……ああああっ!」
憎んでも憎みきれない筈の男に、自分は今犯されている。それなのに、自分の体は好きな相手に抱かれる時と全く同じように反応している。
息もつけない程の強い快楽に身を酔わされながら、タリスは同時に深く暗い絶望も味わっていた。
約一時間後、Dr.クラインに散々なぶられたタリスは、ベッドにぐったりと横たわっていた。腕と足は未だに拘束具で繋がれ、ほとんど身動きすることはできない。
横たわる彼女を背後から抱きしめるような格好で、Dr.クラインもまたベッドに寝そべっていた。
男の手が感触を確かめるかのように、胸や腰のラインを撫で擦っている。
「良かったぞ……ますますいい体になったな。他の男がお前に触れたのかと思うと、面白くないものがあるが」
下着の繊細なレース地の上から、柔らかい部分を愛撫する。何度も達した体は、それを穏やかな刺激として受け入れた。
「こういういやらしいデザインの下着が、お前には良く似合うな」
タリスは首を捻り、半分靄のかかった瞳でDr.クラインの顔を見た。科学者は満足気な笑顔を浮かべている。
本気だ、と彼女は思った。この男は、本当に自分を連れて行く気なのだ。
ぼんやりと、これからのことを思う。悪の組織に加担し、捕縛された後に脱獄までした男だ。もう表社会には絶対に戻れまい。
ということは、また何らかの犯罪組織に加わるのだろう。一人で何かできる類いの男ではない。そして、自分もそこに連れて行かれる。
どこかに監禁されて、彼に性欲処理の玩具として扱われ続けるのだ。昼も夜もわからないあの日々が、また、始まる。
静かな絶望がタリスの胸に満ちた。この男は周到だ。もう絶対に逃がれることはできないだろう。
「ねえ……もっと、抱いて……」
虚ろな瞳と抑揚の失われた声で、タリスはそう口にした。Dr.クラインが驚いた表情になる。
「……どうした?」
「体が熱いの……ここが疼くの……お願い、なんとかして……」
Dr.クラインが嘲るような笑顔を浮かべると、タリスの頬に指を走らせてすっと撫でた。
「やれやれ、本当にいやらしい女になったようだな。あれだけイッておきながらまだ足りないか。だがまあいい」
口許を歪め、Dr.クラインがタリスの上に覆い被さろうとする。その彼をタリスは制した。
「待って……その前に……水、ちょうだい……喘ぎ続けて喉が枯れそうなの……」
「それじゃ何か? あの時お前がドールと資料室で抱き合ってたのは、別にやってたわけじゃねえっていうのか?」
ヒューズの問い掛けに、サイレンスは深く頷いた。
「けっ、そんな話信じられるかよ。あいつが錯乱して服をひきむしって暴れていたのを、お前が宥めていただけだなんて、そんな都合のいい話」
そう言い捨てるとヒューズはそっぽを向いた。ここはヒューズの家。ライザと一悶着あった後、帰って来てみれば自宅の前でサイレンスが待っていた。
追い返そうとしたものの梃子でも動かず、部屋に上がり込むと、彼は事情を説明したのである。それは到底、ヒューズには信じられないような話ではあったが。
「大体なんであいつそんなことしたんだ?」
サイレンスが首を傾げてみせる。自分にもわからない、と言いたいらしい。ヒューズは溜め息をついた。
喋らないのかそれとも喋れないのか知らないが、ヒューズも他の同僚も、誰一人としてサイレンスが口をきいたところを見たことがない。
こいつが普通に喋ってくれれば、いらない労力を使わなくて済むんだが、とヒューズは思わずにはいられなかった。
「で、お前はなんでわざわざ俺にそんなこと話に来たんだ?」
サイレンスは目の前に置かれたメモ帳を手に取ると、表面にまたしても字を綴った。
……だから筆談じゃなくて口で言えよ、とヒューズは心の中で呟いた。
サイレンスがメモを破りとると、ヒューズの前に差し出す。そこにはこう書かれていた。
『お前が誤解したままでは、ドールが不憫だ』
極々短い文面。だが彼の彼女に対する深い思いやりは、はっきりと伝わって来た。故にいたたまれなくなる。
「……うるせえっ! いちいち俺に指図するんじゃねえよ! そんなにあいつが気になるんなら、お前があいつを慰めてやりゃいいだろ!」
叫ぶと、ヒューズは無理矢理サイレンスを玄関口へと押しやった。
サイレンスが振り向き、ヒューズを正面から見据える。どこまでも真摯な瞳。
「とっとと帰りやがれ!」
彼を力ずくで家から追い出すと、ヒューズは崩れるように床に座り込んだ。
サイレンスの話には今一つ信憑性がないが、もしそれが真実だとすれば、自分は今までずっととんでもない思い違いをしていたことになる。
「俺は……どうすれば……」
呟いた時だった。携帯が軽やかな音を立てた。メールが着信したという知らせ。
送信者を見て、ヒューズは愕然となった。彼女からだ。
「あいつ……今更何だよ。俺から、逃げたくせに……」
メールの文面を見る。そこにはたった一言、こう記されていた。
『助けて』
「よくも、私をたばかってくれたな」
目の前に立ちはだかったDr.クラインは、吐き捨てるようにそう呟いた。瞳の奥に激しい怒りの炎が宿っている。
手が振り上げられたかと思うと、次の瞬間男はタリスの頬を力一杯打っていた。乾いた音がして、打たれた部分が痛みを訴えてくる。
痛みをこらえ、タリスはDr.クラインを無言で睨んだ。Dr.クラインの眉間の皺が深くなる。力任せに今度は髪を掴まれ、前に引き倒された。唇を噛みしめ、洩れそうになる悲鳴を必死で押し殺す。
子供じみてはいたが、それがタリスにできる精一杯の抵抗だった。
「ふん……」
科学者が不満気に鼻をならし、手の中の機械に視線を向けた。つい先程取り上げられた携帯電話。
快楽に狂った振りをして、意地も何もかも捨ててこの男に媚を売った。甘えた声をあげ、抱かれることを熱望してみせた。それも全ては相手の油断を誘う為。
一時的にでもいいから拘束具を外させること。そうして僅かな隙をついて、携帯から助けを求めるメールを送信したのだった。
悔やまれるのはあまりにも早く気づかれてしまった為、メールには僅かなことしか書けなかったことだ。そして携帯は取り上げられ、自分は再び拘束されてしまっている。
タリスはヒューズのことを思った。咄嗟に思いついたのは、彼にメールで助けを求めることだった。
だが……彼は、気づいてくれるだろうか。たった一言「助けて」とだけのメール。もしかしたら、悪戯と思われてしまうかもしれない。
それに……彼は自分を助けたいと思ってくれるとも限らない。こんな汚れきった、あさましい女を。考えれば考える程、望みは儚くなってくる。
これは賭けだ、とタリスは思った。自分は賭けをしたのだ。こんな局面だというのに。ヒューズが自分を助けてくれることを願っている。
助けに来てくれるのなら、彼はまだ心のどこかで自分のことを思っていてくれるということなのだから。
Dr.クラインがタリスの前で、取り上げた携帯を操作している。おそらく、メールの履歴を確認しているのだろう。
「送信先は『ヒューズ』か……こいつか? お前にこの跡をつけた男は」
携帯の画面を見ていたDr.クラインが、手を伸ばしてタリスの胸元の跡に触れた。白い肌の赤い跡。ヒューズが昨夜自分に残した跡だ。
「…………」
タリスは貝のように口を閉ざし、答えなかった。Dr.クラインの顔が怒りで歪む。
「気に入らんな」
吐き捨てるように、彼はそう口にした。お気に入りの玩具を取られそうな子供の眼だ、とタリスは思った。この男にとっては、自分は玩具に過ぎない。
ヒューズは……どうなのだろう。彼にとって、自分は一体なんなのだ?
Dr.クラインは、テーブル近くに置かれた黒いカバン――おそらく、彼が持ち込んだものだろう――を引き寄せた。カバンを開けて中を探し回る。
しばらくして、彼はカバンの中から小さなケースを取り出した。いつしか顔から不機嫌そうな表情は消え、笑みが浮かんでいる。それを見たタリスは身震いした。
かつて捕らわれていた時に、何度となく見た表情。いかなる手段を用いて、自分をいたぶろうか考えている時の表情だ、あれは。
Dr.クラインがうっすらと口許に笑みをはいて、こちらを見る。ぱちんと音がして、手の中のケースの止め金が外れた。
「私に逆らうとは悪い子だな。そんな悪い子には、お仕置きが必要だ」
ケースの中から出てきたのは、注射器と濃い色の薬瓶だった。それが意味するものを察知したタリスは、背筋にぞくっとくる寒気を感じた。自分の予測が外れていなければ、あれは……。
「それ……まさか……」
「お前は捜査官だから、当然良く知っているだろうが」
薬瓶の中の液体を注射器に移しながら、Dr.クラインは楽しげともいえる声をかけてきた。
「私はブラッククロスで、新種の麻薬の開発も行っていた。麻薬の売買は、ブラッククロスの資金源の一つだったからな」
震え出したタリスの腕を掴むと、Dr.クラインは浮き出た血管に注射針を押し当てた。
このままでは麻薬を射たれてしまう。仕事上彼女はその恐ろしさを嫌というほど良く知っていた。
必死で身を捩り逃れようとするが、頑丈な拘束具でまたしても拘束された身では、逃れられる筈もない。
「これはその頃に私が開発したものの一つで、なかなかに面白いシロモノだ。事情があって売り物にはならなかったが、実にいい夢が見られるらしいぞ」
「い……いやあっ! お願い、そんなもの射つのは止めて!」
恐怖に耐えられなくなり、タリスはついに悲鳴をあげてしまった。Dr.クラインが満足気に笑う。
「……きけんな」
注射針が突き立てられ、鋭い痛みが走った。Dr.クラインがわざとらしくゆっくり、注射器のシリンダーを押し込んで行く。
「あ……あ……」
麻薬が自分の体の中に入り込んで来る。もうどうすることもできない。今まで以上に体が震えるのがわかった。
Dr.クラインが身を屈め、耳元に囁きかける。
「速効性の薬だからな。すぐに効いて来る。一時的にだが、何もかも忘れられるぞ」
しばらくするうちに、タリスの視界にピンク色の靄がかかり始めた。体がひどく軽くなり、ふわふわと浮かぶような感覚がする。
「あ……」
Dr.クラインの言ったとおりだった。今までにない程気分が明るく浮き立っている。楽しくてならない。くどくどと悩んだり、絶望していたのが愚かしく思えて来る程だった。
くすくすと声を立てて笑う。それきり、タリスは快楽以外何もわからなくなった。
「気分はどうだ?」
注射器をかたづけながら、Dr.クラインはタリスに尋ねた。目の前の女は、焦点のあわない瞳を宙に向け、楽しそうに笑い続けている。
「効いているようだな」
その声に答えるかのように、タリスはまたしても笑った。その様子を満足気に見守っていると、離れたところに置いた携帯から電子音が鳴り響いた。
携帯を拾い上げ、かけてきた相手を確認する。「ヒューズ」と液晶の画面には映っていた。
ふっと口許を歪めるとDr.クラインは受信ボタンを押し、携帯を笑い続けるタリスの耳元に押し当てた。
携帯から低い男の声が微かに聞こえる。喋っている内容までは判別がつかないが、やや苛立っているようだ。
「……ヒューズ……?」
タリスが首を傾げ、男の声に呟く。彼の名を口にしながら、タリスはうつろな笑い声をあげた。
洩れ聞こえる声の苛立ちが激しさを増していく。それも無理からぬことだろう。
助けを求めるメールに不審を憶え、連絡を取ってみれば、当の本人は電話口で笑うだけなのだから。
頃合を見計らい、Dr.クラインはタリスから携帯を取り上げた。にやっと笑うと電源を切り、遠くへと放り投げる。
「さて……」
背後から腕を回し、彼女の体を抱きしめた。首筋に唇を這わせながら、胸のふくらみをゆっくりと撫でさする。
最初はごくごくささやかな愛撫だったが、次第に力を込め彼女の肌を堪能する。この柔らかな肌は自分を飽きさせることがない。
「んっ……あっ……」
タリスが感極まった声をあげ、身を震わせた。力の抜けた体が、ぐったりともたれかかってくる。
「感じるか?」
耳元に唇を寄せ、音の一つ一つを耳の中に吹き込むように尋ねる。息がかかる度、タリスの体がびくっと震えた。
「いいの……凄く気持ちいいの……」
幸せそうに彼女は頷くと、身を捩ってDr.クラインの胸に体を押しつけてきた。感触を確かめるかのように、何度も顔をその胸に埋める。
「もっと、触って……ヒューズ……もっとして……」
タリスの唇から愛しげにもれた呟き。その呟きが、Dr.クラインの神経を逆撫でした。
「……何の夢を見ているんだ」
髪を力任せに掴んでひっぱり、顔を上向かせる。タリスが痛みに顔を歪めると、途方にくれたように尋ねてきた。
「ヒューズ……痛いの……引っ張らないで……」
その瞳はさっきからずっと焦点があっていない。彼女が見ているのはおそらく、先程の電話の相手なのだろう。
「その男が好きなのか?」
尋ねると、タリスはこくりと頷いた。幸せそうに微笑むと、彼の名を何度も愛しげに口にする。
「ふん……」
苛立ちながらDr.クラインはタリスの体を抱き上げた。そのまま、ベッドの上にどさりと放り出す。だがそうされても彼女は、白痴のように笑うだけだ。
「……正気に戻った時が見物だな」
そう呟くと、Dr.クラインは自分の持ち込んだ荷物の中から、ビデオカメラを取り出した。電源を入れ、ベッドが映るよう調整してテーブルに置く。
「ヒューズ……どこ……?」
「少し待ってろ。お前の痴態を記録する為に、ビデオを用意しているのだからな。お前が正気に戻ったら見せてやる」
残酷な気持ちが込み上げる。この女はその時、どんな顔をするだろう。
ほくそ笑みながらDr.クラインはベッドの上に上がり込むと、タリスの上に覆い被さった。
「ヒューズ……抱いて……」
嬉しげに彼の名を口にするタリスに、またしても苛立ちが込み上げる。彼女の肌を愛撫しながら、Dr.クラインは思った。
いずれそんな男のことなど、口にする余裕もないくらいにしてやろうと。
「……あいつ、何考えていやがるんだ」
ヒューズは苛立ちながら、手の中の携帯を眺めた。さっきから何度もかけ直してはいるものの、流れて来るのは「電源が入っておりません」という、機械的なメッセージだけだ。
もう一度先程のメールを表示させる。何度見ても変わらない「助けて」の文字。
見た時はさすがにぎくりとした。彼女に対する負い目だけは嫌というほどある。
だがこれだけでは何のことかわからない。故に確認しようと電話をかけてみたのだが、彼女は電話口で意味不明なことを口走りながら笑うだけだった。
苛立ち、問いただそうとしたものの、突然通話は断ち切られた。その後はいくらかけてみても、上記のとおりである。
「……からかわれているのか? いや、あいつに限って……」
タリスがそういうことをする人間ではないことは、良く知っている。
だが、彼女がブラッククロスに捕らわれてからというもの、全く彼女の考えていることがわからなくなってしまったのも、事実であった。
考えれば考える程わからなくなる。そして、苛立ちが募った。こんなメールを送ってよこす彼女に対して。
考えるのに疲れたヒューズは携帯を放り投げ、ベッドに寝転がった。シーツから微かに甘い香りがする。昨夜の香りが、まだ残っているのだ。
「……くそっ……」
その香りを嗅いだだけで、またしても彼女の暖かく柔らかな体の感触が甦って来る。
ヒューズは頭から毛布を被ると、彼女の面影を振り払い、眠ろうと努めた。
「……どうだ、面白いだろう?」
ビデオが終わると、Dr.クラインは電源を止め、満足気にタリスにそう問い掛けて来た。
ベッドに横たわるタリスは、黙って視線を逸らした。先程使われた薬のせいか、全身に激しい倦怠感がある。体を動かすだけで億劫だ。
ついさっき、Dr.クラインの開発した麻薬を使われた自分は酩酊状態になった。そして、この男に抱かれながらヒューズの名を口にしたのだ。
とはいえ、自分には全くその記憶が残っていない。全身の強い疲労感と、たった今見せられたビデオがなければ、Dr.クラインが嘘をついているのだと思っていただろう。
あのビデオ映像……自分は恍惚の表情で、ヒューズの名を呼びながらDr.クラインに抱かれていた。恥ずかしく情けない姿。
「後でこいつをヒューズとかいう男にも見せてやらないとな。さぞや楽しんでくれるだろう」
残酷に吐き出される言葉に、タリスの心が凍りつく。
「やめて……」
そう口にしたところで、この男は止めないだろう。だが口にせずにはいられない。
「悪いがそれはきけんな。……それもこれも、お前が私に逆らうからいけないんだぞ」
Dr.クラインがにやりと笑うと、タリスの頬に手を当てて顔を自分の方へと向けさせた。
「それにどうせ、お前にはそんなことを気にする余裕はなくなる」
タリスは瞳を閉じると、顔をそむけた。この男の顔を見ていたくはなかった。
「……まだ逆らうか」
不満気にそう口にすると、Dr.クラインはタリスの腕をむんずと掴んだ。嫌な予感に目を開ける。またしても注射器を握った手が、視界に入った。
「……い、いや! 薬はもうたくさんだわ」
「私を怒らせる悪い子にはお仕置きが必要だ。懲りないお前が悪い」
そっけない口調で答える。腕に針の刺さる痛みが走った。注射器の中の液体が、またしても自分の中に流れこんで来る。
「……ひどい……」
瞳から涙が零れる。涙を流せばこの男が喜ぶのはわかっていたが、抑えることはできなかった。
しばらくするうちに、体が熱く火照りはじめた。何もされてないのに、股間が潤い出して来る。
「な……何……?」
「さっきのとは違う奴を射った。またあの男の名を呼ばれたのでは、私が萎えるからな。どれ」
Dr.クラインがタリスを抱き寄せた。熱く火照る肌はひどく敏感になっており、男の肌が触れ、僅かに動くだけで電流が走るかのような刺激を感じてしまう。
「あっ……あっ……駄目っ……」
全身が熱くて熱くてたまらない。断続的な喘ぎを洩らしながら、タリスは身を捩り続けた。
「随分とまた良く効いているな。少し量が多かったか。さて、ここをこうすると……」
男が乳首を口に含み、舌で執拗に舐め上げた。ぬるっとした舌の感触。頭の中で幾つも激しい火花が散った。
「さらに、こっちも……」
指が膣内に挿入され、かき回される。最も敏感な部分を同時に攻められ、タリスは一気に昇り詰めた。
「あ……あ……ああああっ!」
甲高い悲鳴と共に、タリスの体がびくびくと痙攣し、ぐったりと力が抜ける。
「これだけでイッてしまったか。……だがこの薬はそう簡単には抜けんぞ」
冷たい声と共に、Dr.クラインの手が肌を撫で回す。その言葉のとおりだった。体内の熱は少しも治まる気配がない。むしろどんどん激しくなっていっている。
「う……あ……」
言葉にならない声が喉から洩れた。男の手が顎を捕らえる。霞む視界の先で、科学者は笑っていた。
「止めてほしいか? だが放置されたらされたで苦しいぞ。大人しく抱かれていろ」
Dr.クラインの執拗な、ねっとりとした愛撫が続けられる。肌を這い回る男の指や舌の動きが、熱をかきたてていた。
「この分だと十回ぐらいは連続でイケそうだな。さあ、いい声でなけ」
「や……あっ……ああっ! あああっ!」
的確に感じる部分を刺激され、タリスは激しく喘いだ。気も狂わんばかりの、強い悦楽。
「いやっ……イキ……たく……ないっ……あああんっ!」
ぼろぼろと涙を零しながら、タリスはまた達した。達する間も男は手を休めることがない。すぐに次の絶頂へと押し上げられて行く。
残酷な愛撫は、いつ果てることなく続いた。
どこかわからない場所に、ヒューズは立っていた。少し離れた場所に、タリスの姿がある。彼女は半ば靄のようなものに包まれていた。
声をかけたい。だがなんと声をかければ良いのかわからない。
タリスがこちらを見た。アイスブルーの瞳が、哀しそうにこちらをみつめている。その唇が微かに動いた。
「……なんて言ったんだか、聞こえねえよ」
どうしてほしいのか、はっきり口にしてほしい。自分は不器用な男で、相手の感情を読むのに長けているとはお世辞にも言えないのだ。
だからこそ、今までずっと彼女を傷つけ続けてきた。もうこれ以上、傷つけたくない。
「…………」
辛そうに、彼女が何か口にしている。やっぱり聞こえない。何を言っているのかわからないのでは、自分には何もできない。
靄に包まれたタリスの姿が、少しずつ遠ざかっていく。ああ、やっぱり、と心のどこかが呟いた。彼女は自分から去ろうとしているのだ。
そう思った時、タリスが自分に向けて手を伸ばした。何かを求めるかのように。
「あ?」
怪訝に思った時だった。彼女の姿が背後へ引っ張られ、靄の中に消え失せた。最後に残ったのは、その唇からほとばしったあらん限りの絶叫。
「助けて!」
ヒューズはがばっとベッドの上に身を起こした。妙に生々しい夢だった。呼吸がまだ荒い。
サイドテーブル上の時計を見る。蛍光塗料を塗られた針は、夜中の三時を示していた。
「くそっ……真夜中じゃねえかよ……」
こんな変な夢を見たのも、彼女が妙なメールを送って来るせいだ。
苛立ちを押さえきれないまま、ヒューズは立ち上がった。精神がたかぶって眠れそうにない。
部屋の空気がひどく澱んで重く感じられる。息苦しくてならない。
「少し夜風に当たるか……」
呟くとヒューズはベランダへと向かった。窓のカーテンを勢い良く開ける。その瞬間、ベランダに立つ黒い人影が眼に入った。
「……な!?」
一瞬物取りか強盗の類いかと身構えたが、次の瞬間相手が身動きし、背中の薄い翅が見えた。何のことはない。サイレンスだ。何故か、自分の家のベランダに立っている。
「……てめえ、そんなとこで何してんだ!?」
サイレンスはこつこつと窓を指で叩いた。どうやら「入れてくれ」と言いたいらしい。ヒューズは腕を組み、半眼で彼を睨んだ。
「今何時かわかってやがんのか?」
妖魔は答えず、再び窓を軽く叩いた。硝子のせいで聞こえないのか、それとも梃子でも動く気がないのか……。
ヒューズは溜め息をつくと、鍵を外して窓を開けた。深夜でなければ怒鳴りつけてやるんだが、と内心で呟く。
サイレンスは無言で部屋の中に入って来た。静かに窓を閉め、ヒューズと向かい合う。ヒューズはまたしても溜め息混じりに尋ねた。
「……で、お前ずっとあそこに貼り付いてやがったのか?」
彼の問いにサイレンスが頷く。ヒューズは呆れずにはいられなかった。妖魔の考えることは、どうもよくわからない。
「ドールとのことだったら、今は話す気分じゃねえ。とっとと帰れ」
そう口にした時だった。サイレンスがぐっとヒューズの腕を掴むと、顔を近づけてきた。真摯な瞳で正面からじっとヒューズをみつめる。
その眼差しの真っ直ぐさに、ヒューズは一瞬たじろがずにはいられなかった。
「……なんだよ」
サイレンスは何も言わず、ただただこちらをみつめ続けている。その視線が、ヒューズの中の罪悪感を募らせた。
悪いのは、自分。彼女の心を深く傷つけておきながら、詫びの一言も言わずに無理矢理自分を正当化し続けてきた。
「止めろ。そんな瞳で俺を見るんじゃねえ……確かに俺はあいつを無理矢理抱いた。けどあいつも、ずっとどこか変なんだ……。
さっきだって、わけのわかんねえメールを送って来るし、その後電話かけたら笑ってるばかりで……」
弁解めいた言葉に、ますます罪悪感が募る。自分は一体、何から逃げているのだろう。
サイレンスが、視線をテーブルの上のヒューズの携帯に向けた。その後で首を軽く傾げてみせる。
「メールの内容が知りたいのか?」
頷く。ヒューズは携帯を手に取ると、タリスから送られて来たメールを表示させてサイレンスに手渡した。
「これだよ」
メールの文面を見たサイレンスの眉間に、深い皺が寄った。そのまま彼は深く深く考え込む。
「わけわかんねえだろ? さっきも言ったけど、その後あいつは笑ってばかりで……」
そう尋ねた時だった。サイレンスがゆっくりと首を横に振ると、自分の左の手首を上向けてヒューズに差し出した。
「ん?」
サイレンスが静かに右手の指を、左手首の上に走らせる。手首の上の血管を横切るような形で。
その動作を見た瞬間、ヒューズは全身に氷水を浴びせかけられたかのように感じた。信じられないものを見る表情で、サイレンスの顔を見る。
「……そんな馬鹿な。あいつが自殺なんてするような奴か? ありえねえ、ありえねえよ……」
サイレンスがまたしてもかぶりを振り、じっとヒューズの目を見すえた。ずっと様子がおかしかったタリス。最後に見た時の辛そうな表情と、電話をかけた時の異様な笑い声が脳裏に甦る。
死ぬと決めたが怖くなってメールを打ち、その後精神的に追い詰められてああなったのだとしたら……?
「まさか……そんな……」
ヒューズは愕然とその場に立ち尽くした。彼女がこのメールを送ったのはいつだ? 既にかなりの時間が経過している。おそらく、今頃は……。
「……ドールっ!」
床を強く蹴り、ヒューズは脱兎のごとく玄関へと向かった。向かう場所はただ一つ。
祈るような思いで、ヒューズは夜の街を駆けた。
タリスの自宅の前で、ヒューズは乱れた息を整えた。夜の街はしんと静まり帰っている。それは、目の前の家も同じだった。
ここへ来る迄の間、必死で打ち消しつづけた想像が再び甦る。
「頼む、間に合ってくれ……生きていてくれ……」
彼女を諦めようかと思った時もあった。だがそれは、彼女が生きて、幸せでいてくれるならのことだ。
「くそっ……やっぱ鍵、かかってやがる……」
ドアは当然ながら施錠されていた。何度も何度もドアに体当たりする。何度目かの体当たりで、ドアが外れ、ヒューズは家の中に転げ込んだ。
「ドールっ! 無事なら返事しろっ!」
答えはない。ヒューズは舌打ちした。彼女はどこだ? 浴室か、それとも寝室か……。わからない以上、手当たり次第に行くしかない。
入ってすぐの廊下の奥のドア、それを開ける。そこはリビングだった。彼女の性格そのままに、綺麗に片付いている。奥にもう一つ、ドアが見えた。
奥の部屋を確認しようとリビングに足を踏み入れた、その時だった。ヒューズの全身に、何かねばねばしたものが絡み付いた。
「な、何だ!?」
絡み付いたそれは、粘着質の網のようなものだった。外そうとするものの、触れればその部分が貼り付き、更に身動きが取れなくなってしまう。
「何だよこれはっ!」
わけがわからず、ヒューズは大声で絶叫した。しばらくして奥のドアが開き、思ってもしない人物が姿を現した。
「随分と遅い登場だな。来ないと思ったぞ」
「……てめえ!」
眼帯をした中年の男。忘れる筈もない。こんな状況を作った張本人だ。
その時、ヒューズは何が起きたのか全ての推測がついた。タリスはこの男に襲われたものの、どうにかして隙をつき、救援を求めるメールを送ったのだ。
その後の妙な反応は……おそらく、Dr.クラインが何かを彼女にしたのだ。あまり、考えたくはないことを。
自分があの時、すぐに助けに向かっていれば……苦い後悔が、ヒューズの胸を満たした。
「ヒューズとかいうのはお前だったのか。……まあ、そうではないかと思ってはいたがね」
見下しきった態度に、ヒューズの中に再び怒りが沸き起こる。
「ドールはどこだ!?」
Dr.クラインは自分のでてきたドアに視線をやった。その顔に、面白がるような笑みが浮かぶ。
「あの女ならそこの部屋だ。久々なものでな、つい可愛がりすぎてしまった」
ヒューズはぎりっと奥歯を噛みしめた。タリスがおとなしくこの男に身を任せる筈がない。きっと散々ひどいことをされたのだろう。
「てめえ、復讐のつもりか!? だったら、逮捕した俺を直接狙えばいいだろ。ドールを巻き込むんじゃねえ!」
Dr.クラインが近づいてくる。悪に魂を売った科学者は、嘲るような笑顔を浮かべた。
「君達IRPOの人間はそういう発想しかできないのかね? 私は私のものを返してもらいに来ただけだ」
冷たい視線が後ろのドアにまたしても向けられる。ヒューズははっとなった。
「まさかドールを……?」
「君は、彼女を抱いたらしいな。良かっただろう? だが彼女は私のものだ。処女を奪い、快楽を教え込んだ私のな」
一瞬だが言葉に詰まる。目の前の男のあまりに身勝手な理屈。助け出した直後の、憔悴しきったタリスの顔が脳裏に浮かんだ。
「勝手なことを言うんじゃねえっ!」
絶叫し、ヒューズは自由になろうと力を込めた。だが粘着質の網は、もがけばもがく程体に絡まってしまう。暴れるヒューズを見て、は楽しげに笑った。
「威勢がいいな。だがその状態では何もできまい。大人しく事の次第を見ていろ」
そう言うとDr.クラインはヒューズに背を向け、奥の部屋へと姿を消した。しばらくして、がたごとと何かを動かすような音が聞こえて来る。
「……あいつ、まさか……」
やがてドアが開き、鎖を手にしたDr.クラインが姿を現した。ヒューズを見てにやりと笑う。嫌な笑い方だ、とヒューズは思った。
「さあ、こっちへ来い。お前の恥ずかしい姿をあいつにたっぷり見て貰え」
Dr.クラインの手がぐいと鎖を引っ張ると、よろめく足取りでタリスがドアの向こうから転がり出て来た。
その両腕は拘束具で後ろ手に拘束され、首には頑丈な首輪が着けられている。Dr.クラインの手にした鎖の反対側の端が、その首輪に繋がっていた。
「……て、てめえ!」
ふらふらと歩くタリスの瞳は焦点があっていない。扇情的なレースの下着と拘束具だけを着けた姿で、彼女はヒューズの前まで歩かされた。
「さあ、ここへ座れ」
Dr.クラインがタリスを自身の膝の上に座らせる。彼女は状況がわかっていないのか、生気の抜けた表情でおとなしく男の膝の上に座った。
「よしよし、ようやく素直に言うことをきくようになったな」
我が物顔でタリスを抱き寄せると、Dr.クラインは彼女の白い肌に手を這わせた。首筋に顔を埋め、豊かな胸を揉みしだく。タリスの喉から熱い吐息が洩れた。
「や……止めろ! 何しやがる気だ!?」
男は答えず、嘲るような笑顔を浮かべた。手がタリスの纏うビスチェを引きずり下ろし、白い乳房を露出させる。
既につんと尖り、上を向いていた乳首を、Dr.クラインは指で挟んでこすった。彼女の背がのけぞり、甘い声をあげて体をくねらせる。
「止めろ! 止めろつってんのが聞こえねえのか、この外道!」
ヒューズは叫んだ。彼女のこんな姿など、見たくない。こんな変質者に抱かれて喘ぐところなど。
「うるさい外野だな。大人しく見ていろ。折角彼女の濡れ場をナマで見せてやろうというんだ、有り難く思え」
とりつくしまもない様子でそう答えると、Dr.クラインはタリスの肌を撫でさすった。既に全身が性感帯と化しているのか、タリスはどこに触れられても悩ましげな声をあげた。
「そら、ここを見るがいい。こんなに濡れそぼっているぞ」
Dr.クラインの手がタリスのショーツを引きずり下ろす。男の指摘どおり、太ももを伝う程にそこは愛液で溢れていた。
「……くっ!」
見たくなどないのに、どうしても視線がそこに向かってしまう。ぐっしょりと蜜を湛えた彼女の秘部。男の指がその部分を開かせ、中の肉をヒューズの前にさらけ出した。
「ここを見ろ。物欲しそうにさっきからひくひくしているだろう。男を待っているのさ。だが、ここに今入り込めるのは私だけだ」
言うやいなやDr.クラインはタリスの腰を抱え直し、自らの膨れ上がった男根をそこにあてがった。
「……あんっ……」
タリスがいやいやをするように首を振る。だがそれは嫌がっているというよりは、むしろじらさないでくれと望んでいるようであった。
「可愛い奴だな。だがもう少しじらしてやるか。こうするとな、この女は自分から腰を沈めて来るぞ。その後は必死で腰を振って、甘えて来る……」
「うるせええっ! 黙れこの変質者!」
喉が涸れんばかりの大声で、ヒューズは絶叫した。
「ドールっ! ドールっ! お前、どうしちまったんだよっ! 俺に助けてってメールくれたんじゃなかったのかっ!? どうなんだっ!? ドールっ! しっかりしろっ!」
その時だった。不意にタリスの瞳の焦点があった。彼女の瞳がヒューズの瞳を真っ直ぐに捕らえる。
「え……あ……ヒューズ? 来てくれ……い、いやああっ!」
自らの状況に彼女が悲鳴をあげる。Dr.クラインは忌ま忌ましげな様子で舌打ちした。
「ふん、正気に戻りおったか。……だが、これはこれで面白いかもしれんな」
そう口にするやいなや、Dr.クラインはタリスを床へと押し倒した。タリスの顎に手をかけ、ヒューズの方へと向けさせる。
「惚れた男の前で犯されるのはどんな気分だ?」
「いやっ! 止めてえっ! ヒューズの……ヒューズの前で抱かれるのだけは嫌っ!」
タリスが逃れようと身を捩る。Dr.クラインは酷薄な笑顔を浮かべると、タリスの肌を舐め回した。タリスの体がびくっと震え、力が抜ける。
「いや……あっ!」
「本当に感じやすいな。さあ、もっと足を開くんだ」
抵抗も虚しく、タリスは両足を開かされてしまった。瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、床を濡らす。
Dr.クラインがタリスの太ももに手を当て、股間に顔を埋めた。舐め回される音が聞こえて来る。
「いや……うっ……あっ……ああっ……」
体が否応無しに反応してしまうのか、タリスは顔を歪めながら甘い声をあげた。何度も聞き慣れた声。それを今、彼女はあの男に愛撫されてあげている。
「あんっ……いや……いやあ……」
タリスは喘ぎながら力無く否定の言葉を口にした。Dr.クラインが顔をあげると、不快そうな表情でタリスを見る。
「お前は私を怒らせる気か?」
男の手が再び彼女の顎を捕らえ、ぐいとヒューズの方を向けさせる。ヒューズと視線があった瞬間、タリスは哀しげな表情で視線を逸らした。
Dr.クラインの口許に嗜虐的な笑みが浮かぶ。タリスの髪を愛しげとも言える手つきでかきあげながら、彼は歌うようにこう口にした。
「あの男がどうなってもいいのかね?」
タリスの体がびくっと強ばった。怯えた視線が、Dr.クラインに向けられる。
「あやつはな、以前私の足を撃ち抜いたあげく、その傷を踏みにじってくれたことがあってな。
何ならここでその時の怨みを、たっぷり晴らしてやるのも面白いかもしれん。お前の見ている前でな」
束縛され身動きの取れないヒューズは、内心で地団太を踏んだ。まただ。また自分は助けたい相手を追い詰めてしまっている。
「ヒュ……ヒューズを巻き込まないで!」
彼女が悲痛な声をあげる。Dr.クラインはうっすらと笑いながら、彼女の顔を自分の方へと向けさせた。
「……だったら、私の気にいるようにしてみせろ。ん?」
タリスの全身がわななくように震えた。屈辱とも悲哀とも取れる表情。その表情を見ているだけで、ヒューズは胸が締めつけられた。
「ドール……止せ、馬鹿な気起こすんじゃねえ!」
「彼に手出しをしないで……何でも……何でもあなたの言うことを聞くから……」
消え入りそうな声で、彼女はそう口にした。瞳の端に透明な雫が盛り上がり、頬を伝って転がり落ちる。
「そうかそうか、何でもするか」
笑いながらDr.クラインはタリスの上から下りた。ぐいと彼女の体を引き起こし、床の上に座らせる。
「ではこれからは私をご主人様と呼べ。そしてまずは私の足許に膝まづいて許しを乞うのだ」
Dr.クラインの言葉にヒューズは激怒した。束縛されているのでなければ、飛び掛かって怒りのたけをぶつけていただろう。
そんなヒューズに勝ち誇るかのような一瞥をくれると、Dr.クラインはタリスの頭をぐっと床に押しつけた。
「そら、どうした?」
「ゆ……許して下さい……ご主人様……」
唇を白くなる程噛みしめ、絞り出すようにタリスがそう口にする。男が満足気に彼女を抱き上げた。
「よしよし、いい子だ。おとなしく私の言うことを聞く限り、悪いようにはしないからな」
近くの椅子にDr.クラインは腰を下ろすと、タリスを自らの膝の上に向かい合うように座らせた。男の屹立した一物が、タリスの秘裂にまたしてもあてがわれる。
「言うことをきく証に、自分で入れてみせろ」
歯を食いしばると、タリスは言われるままに腰を沈めていった。頬が紅潮し、唇からは熱い息が洩れる。
「あ……はあ……」
背がぴんと弓なりにそり、長く切なげな吐息がこぼれ落ちた。中に根元まで収まったのだろう。感じたくないのか、きゅっと眉根を寄せて小刻みに首を振っている。
「動け。自分で動いて気持ち良くなるんだ」
残酷な声がかけられた。男の膝の上で、タリスが腰を揺すり始める。湿った肉と肉の立てる音が、ヒューズの耳にも届いた。
「あっ……うあっ……」
最初はゆっくりだった彼女の動きは、抑えが効かなくなったのか次第に激しくなっていった。全身の肌が紅潮してじっとりと汗ばみ、開いた唇からは激しい喘ぎが洩れ続ける。
「そうだ……いいぞ……もっと腰を振れ……振ってよがり狂え……」
Dr.クラインの残酷な声が響く。その声に呼応するかのように、タリスは高い声をあげ、男の膝の上で自らの体を弾ませた。
「ああっ……ああああっ!」
達したタリスは体を震わせると、がっくりとDr.クラインに身を預けた。男が満足気に彼女の体を膝から下ろす。太ももをとろりと白濁した液体が伝っていた。
ヒューズは言葉もなく、床の上に力無く横たわるタリスを眺めることしかできなかった。荒い息を吐く彼女の頬には、涙の筋が乾かぬまま残っている。
みつめるうちに、タリスのまぶたが僅かに震えた。ゆっくりと瞳が開かれる。寂しげな色のそれが、こちらの姿を捕らえた。
彼女の唇が僅かに動く。読み取れた言葉は「ごめんなさい」であった。
「馬鹿野郎……なんでお前が謝るんだ……俺がお前を追い込んじまったっていうのに……」
自分がこんな無様な姿を晒すことがなければ、タリスはDr.クラインにあんなことを言わされることもなかった筈だ。
「いいの……来てくれただけで……満足だから」
かぶりを振りそう口にする彼女の表情は、不思議な程澄んでいた。何もかもを諦め、静かに覚悟を決めた、そんな表情。
「ば……ばっか野郎っ! そんな簡単に諦めるんじゃねえっ!」
「本当にもういいのよ……だからもう……何も言わないで。……お願い」
真摯な瞳がみつめて来る。その瞳は語っていた。「あなたが傷つくところを見たくない」と。
またしても自由になろうとしてあがくが、偏執狂の科学者の仕掛けた網は彼にべったりと付着したままであった。
「……何の話をしている」
不意にDr.クラインが割り込んできた。不機嫌そうな表情で、タリスの腕を乱暴に掴むと上体を引きずり起こす。
彼女は痛そうに顔を歪めたが、苦痛の声はあげなかった。
「まだ自分の立場がわかっておらんようだな」
タリスは俯いて視線を逸らした。Dr.クラインが無造作に手を離し、軽く突き飛ばす。彼女はフローリングの床に音を立てて倒れた。
「ドールっ!」
「奴隷というものはな、主人の許可なく口をきくものではない。さて、またお仕置きをしなければな……」
Dr.クラインは部屋の中を見回すと、近くのテーブルの上に置かれていたケースを取り上げた。中から取り出されたのは、注射器と幾つかの薬瓶。
「さてとタリス君、またお薬の時間だ。今度はどんな麻薬を射たれたいかね?」
タリスは自らを庇うかのように身を丸め、かぶりを振った。その体が細かく震えている。
「やめて……もう薬はいや……」
ヒューズは愕然となった。彼女がたった今、口にした言葉。ではこの男は、彼女を犯すだけでは飽きたらず、麻薬まで射ったというのか。
「……てんめええっ! 許さねえからなっ! 絶対に絶対に許さねえからなっ!」
「威勢がいいな。だがどうせ何もできまい。どんなに力を込めたところで、その網は切れんからな。
大人しくそこで彼女の痴態を見ていろ。もう二度と見ることはできないだろうからな」
冷たくそう言い捨てると、Dr.クラインは薬瓶の中身を注射器に移した。タリスの腕を掴み、注射器の針をその肌に押しつける。
「いや……いや……」
「そうだな……二種類一度に射ってみるか」
哀願も虚しく、タリスは薬を射たれてしまった。彼女の全身が激しく震え、喉から苦痛の呻き声が洩れる。拘束されたまま、彼女は床の上でのたうち回った。
「おやおや、変わった効き方をしているな。苦しいか? それとも気持ち良いか?」
実験動物のことでも話すかのような口調だった。ヒューズの全身が、激しい怒りで震える。どうして自分はこんなにも無力なのだ?
諦め切れず、ヒューズは自由になろうともがき続けた。その時、背後に誰かの気配を感じた。はっとして振り向くが、誰もいない。
気のせいかとまたDr.クラインに視線を戻した時だった。
ぶんっと鈍い音がしたかと思うと、焦げるような匂いと共に網が断ち切られ、ヒューズは自由になった。一体何が起きたのかと、またしても振り向く。
「…………」
背後に音もなく立っていたのは、自宅に残して来た筈のサイレンスだった。手にはブラスターソードモードのハンドブラスターが握られている。これで網を焼き切ってくれたらしい。
いつまでたっても連絡がないので、様子を見に来てくれたようだ。おそらく相手に気づかれないよう、保護のルーンを使って姿を隠していたのだろう。
サイレンスが無言で視線を前へと向ける。了承した証に頷くと、ヒューズはDr.クラインに飛びかかった。
「覚悟しやがれこの変質者っ!」
叫びにDr.クラインが振り向く。その横面を、ヒューズは渾身の力を込めて殴り倒した。Dr.クラインの体が勢い良く宙を舞い、リビングのテーブルに衝突して動かなくなる。
「……てめえはっ! てめえだけはっ!」
叫ぶと、ヒューズはDr.クラインに詰め寄った。彼の胸倉を掴み、壁に叩きつける。
「てめえだけは許さねえっ!」
獣のような叫び声を、ヒューズはあげた。Dr.クラインの顔面に二度、三度と拳が振り下ろされる。
「てめえさえ……いなけりゃっ!」
どれだけ殴っても飽きたらない。この男だけは許せない。死んだところで、構うものか。
殴り続けるヒューズの腕が、不意に背後から掴まれた。振りほどこうとするが叶わない。
腕を掴んでいたのは、サイレンスだった。静かにヒューズをみつめている。
「離しやがれっ! 俺は……俺は、こいつが許せねえんだっ!」
サイレンスが首を横に振った。自分のしている行動が、正しくないことはわかっている。
「ああ、俺は捜査官だよっ! だけどこいつだけは許せねえんだ……こいつさえいなけりゃ、ドールと俺はもっと普通でいられたんだっ!」
タリスが心身共に深く傷つくことも、自分達がこんな変な関係になることも。そして彼女が薬を射たれてしまうことも。
サイレンスが顔を寄せ、ヒューズの目を真っ直ぐに覗き込んで来た。その落ち着いた静かな瞳に、ヒューズの中の怒りが幾分冷める。
妖魔の青年は、続いて指をすっと伸ばした。伸ばされた先にあるのは、床の上でもがき続ける彼女の姿。
ヒューズの肩にサイレンスの手がかかる。サイレンスはそのまま、ヒューズをタリスの方へと押しやった。
「ドールの……面倒を見てやれ……?」
こくっと頷くと、サイレンスは倒れたDr.クラインの襟首をつかみ、ずるずると引きずり出した。この男は然るべきところに突き出すから、心配するなと告げたいらしい。
「いや、サイレンス……そいつは俺が連れて行く。お前がドールを病院まで連れて行ってやってくれ。そっちの方がいい」
きっとその方が、彼女の為にもいい。ずっと、彼女を追い詰めることしかできなかった自分。そんな自分より、サイレンスが彼女を見るべきだ。
だがサイレンスはかぶりを振ると、またしてもタリスを指差した。その瞳には、断固としてそれは譲らないという強い決意が現れている。
「……わかった。ドールを病院に連れて行くよ」
その言葉にサイレンスが安堵した表情で頷く。そしてそのまま彼は、Dr.クラインを引きずりながら部屋を出て行った。
ヒューズはタリスに近づいた。ほぼ裸同然の格好で、彼女はその身を激しく痙攣させていた。瞳は靄がかかり、焦点があっていない。唇からは苦しげな呻きが洩れていた。
「ドール……」
一体どんな薬を射たれたのだろう。ヒューズは拘束具を外すと、もがき続けるタリスを抱き上げた。手に触れる彼女の肌は燃えるように熱い。震える腕には、幾つも針の跡が残っていた。
「今病院に連れて行ってやるからな」
苦い後悔が胸の内に渦巻いている。どうしてこんな、限りなく最悪な結果を迎えてしまったのだろう。
歯を食いしばり、ヒューズは苦しみ続けるタリスを抱いて、彼女の家を後にした。
クーロンの裏通りにある、不気味な病院の待合室。そこで、ヒューズは鬱鬱とした気分で椅子に座っていた。
麻薬を射たれ、様子のおかしくなったタリスをこの病院に担ぎ込んでから、今日で五日になる。
その間にDr.クラインは厳重警戒のもと、拘置所へと戻された。今度はさすがに逃げられないだろう。更生の見込みのない悪質な犯罪者を、放置しておく程リージョン界は甘くない。
またヒューズとサイレンスは相談し、報告書には真実を伏せた。
即ち――タリスがレイプされ、薬を射たれたことを。
それが正しいことではないことはわかっていたが、これ以上彼女を疲弊させたくはなかった。そのことで、二人の意見は一致していた。
レイプされ散々弄ばれたあげく、薬まで射たれた事実が判明すれば、彼女は二度と職場には戻れない。それだけでなく、一生悪い噂がつきまとうだろう。
故に報告書の中身は殆ど嘘だ。Dr.クラインは脱獄した後、ヒューズのもとにお礼参りに来たこと。その日はたまたま、ヒューズとサイレンスは彼女の自宅を訪れていたこと。
そしてタリスは巻き添えをくらい、重傷を負って入院することになったこと。全ては彼女を守る為に。
「今日で、五日か……」
汚れた天井を見上げ、ヒューズは溜め息をついた。五日の間、タリスには一度も会っていない。彼女はずっと、面会謝絶の状態が続いている。
その間、ヒューズはずっと尽きることのない後悔と罪悪感に苛まれていた。何かある度に、最後に見たタリスの痛々しい姿が思い起こされる。
火傷しそうな程に熱かった肌。絶え間無く身を震わせ、もがき続けていた細い体。その体には、幾つも跡が残っていた。薬を射たれた跡、拘束具の跡、あの男の口づけや暴力の跡……。
苦しいのか、彼女は呻きながら身を捩り続けていた。周囲のことなど、何もわかっていなかったに違いない。
暴れないように必死で彼女を押さえ込み、ヒューズはタリスをここへと連れて来た。決して「然るべきところ」に通達したりはせず、話によっては偽の診断書も書いてくれる、この病院に。
医師である妖魔ヌサカーンは担ぎ込まれたタリスを見るやいなや、集中治療室へと運び込ませた。彼は何も口にしなかったが、彼女の容体が決して芳しくないことだけは伝わって来た。
「ドール……」
ヒューズは俯き、低い声で彼女の名を呟いた。
あの時、あの変質者の口にした言葉。自分を彼女の惚れた男だと、そう口にした。それだけではない。
彼女の部屋に転がっていたビデオ機器。その中に収められていた映像では、薬を射たれ恍惚となった彼女が、自分の名を愛しげに呼びながらあの男に抱かれていた。
苦い思いが胸を満たす。どうして自分はもっと早く、彼女の気持ちに気づいてやれなかったのだろう。ライザはすぐに気づいたというのに。
深い後悔にかられていると、同じ室内にいる骸骨――この病院の名物でもある――が声をかけてきた。
「ヒューズさん、心配しなくても大丈夫ですよ。ヌサカーン先生は名医です。あの人はきっと助かりますよ」
「……だといいけどよ」
ヌサカーンからは助からないかもしれないと言われている。悪い方向へ悪い方向へと傾く自らの想像を、ヒューズは必死で打ち消した。そして同時に強くこう思う。
タリスが助かってくれれば、他にはもう何も望むまいと。他の何であれ、彼女自身の命と引き換えになる筈もない。
ヒューズが待合室で悶々としていると、ドアの向こうからヌサカーンの呼ぶ声がした。
「ヒューズ、話がある。こっちへ来い」
言われるままに、ヒューズは診察室へと入った。妖魔医師ヌサカーンは、後ろ手に腕を組んで落ち着かなげに部屋の中を歩き回っていた。
「ドールはどうなったんだ?」
勢い込んで尋ねるヒューズを、ヌサカーンは落ち着けと手で制した。その顔には複雑な表情が浮かんでいる。いかにして告げればショックが和らぐか、それを考えている顔だ。
ヒューズの希望は打ち砕かれた。助かったのなら、あんな顔はしないだろう。
「……駄目だったのか……」
ヌサカーンはヒューズに「ついてこい」と手招きすると、奥のドアを開けた。診察室の向こうは短い廊下になっており、そこに幾つかのドアがあった。どうやら、入院用の設備のようだ。
ヒューズは一言も発さず、ヌサカーンの後に続いた。ヌサカーンがドアの一つを開け、ヒューズをその中へと押しやる。
ベッドが一つあるだけの、小さな部屋。そのベッドの上に、タリスはいた。乱れた髪が顔に被さっており、表情は見えない。
「ドール……」
吸い寄せられるかのようにヒューズはタリスに近づいた。おそるおそる手を伸ばし、彼女の頬に触れる。柔らかく温かな感触。
「……ドールっ!」
力一杯彼女を抱きしめる。彼女の温もりと心臓の鼓動が伝わってきた。生きている。彼女は確かに生きている。
……だが、それだけだった。彼女は全く反応せず、されるがままになっている。
「ドール……お前……?」
体を離し、髪をかきあげて彼女の顔を覗き込む。その瞳は、ヒューズを見てはいなかった。顔の前で、手を上下に動かす。瞳は動かない。
ヒューズはタリスの細い肩を掴んだ。激しく揺さぶりながら呼びかける。
「ドール? ドールっ!? お前、どうしちまったんだ!? なあ、なんで返事してくれねえんだっ!? ドールっ!」
幾ら呼びかけても返って来る答えはない。彼女の体はヒューズの動きに呼応して、力無く揺れるだけだ。
「……見てのとおりだよ」
ヌサカーンの静かな声が響く。ヒューズは弾かれたように振り向き、妖魔の医者に詰め寄った。
「なあ、何がどうなってるんだ!? ドールはどうしちまったんだ!?」
医師はヒューズを手で制すると、静かにベッドの傍らへと歩み寄った。
「ここへ運び込まれて来た時、タリス君はひどく消耗していた。肉体的にも、精神的にも……その上にあの薬だ。調べてみたが、彼女に射たれた薬は極めて強力なものだった」
ヒューズは手をぐっと握りしめた。
「それで……結論から言ってくれ。ドールはどうしてしまったんだ?」
「端的に言えば、こうだ……心が壊れてしまったんだ。体は生きているが魂が入っていない。そこにいるのは脱け殻だ」
その言葉の意味を、即座には理解できなかった。心が壊れた。壊れてしまった。
ここにあるのは彼女の体だけ。心は彼岸に飛び去ってしまったのだと、医師は言う。
「……そんな……」
ふらふらとタリスに近づくと、その体を再び抱きしめる。自らの体に伝わって来るのは、良く知っている彼女の柔らかく温かな感触。それはどこも変わるところがないのに。
額に触れ、顔を覗き込む。焦点のあわない硝子玉のような瞳と、能面のように表情の拭いさられた顔がそこにはあった。
「原因は残念ながら良くわからない。何度にも渡る望まない性交渉か、あまりにも強力すぎた薬か、それとも他の物か……だがこれだけは確かだ。
彼女の精神は完全に崩壊してしまった。おそらく、もう元には戻るまい」
それから後のことを、ヒューズは良く憶えていない。何か大声で叫んだような、そんなことだけを微かに憶えている。
気がつくとヒューズは病院の個室で、全く反応のないタリスの手をただ握りしめていた。だらんと力の無く、決して握り返しては来ない手を。
どれだけの間、そうしていたのだろう。いつの間にかヌサカーンは姿を消していた。
ドアの開く音がして、誰かが部屋に入って来た。のろのろと振り向く。そこにはサイレンスが立っていた。
「お前か……あの医者から事情は聞いたか?」
同僚の妖魔は頷くと、静かな視線をベッドの上のタリスに向けた。
「なあ……なんで、こんなことになっちまったんだろうな……」
心の壊れたタリスの髪をそっと撫でながら、ヒューズは呟くようにそう口にした。
彼女の表情は変わらない。魂が抜け落ちたかのような無表情も、何も映さないうつろな瞳も。そんな有様を見ているだけで、胸がしめつけられる。
サイレンスは答えず、ただタリスとヒューズの二人を見ている。ヒューズもまた、答えを期待して喋っているわけではなかった。
「わかってるさ……全部、俺のせいだ……あの時、ライザの言ったとおりすぐにこいつを追いかけてさえいれば……。
そうでなくても、あのメールを貰った時にすぐに助けに行ってれば……そうすれば、こうはならなかったんだ……」
彼女をここに運び込んでからずっと後悔し続けている。いくら悔やんでも悔やみきれない。
何故、彼女の後を追わなかった? 何故、すぐに助けに行ってやらなかった?
どちらかでも行ってさえいれば、こんな事態は防げたかもしれない。助けを怠ったのは、こんな状況を招いたのは、他ならぬ自分なのだ。
いつしか、瞳からは熱い雫がこぼれ落ちていた。人形のように無反応なタリスを抱きしめ、ヒューズは慟哭した。
「咎められるべきは、罰を受けるべきなのは、俺なんだ……なのに……なのになんで、こいつがこうなっちまうんだよっ! こんな、生きたお人形にっ……。
誰でもいいから、こいつを元に戻してくれ……どんな代償を払ってもいいから……」
ヒューズの肩に、サイレンスが静かに手を置いた。ゆっくりと首を横に振る。言葉を使わない彼は、このように仕草で意を伝えて来る。
それを振り切り、ヒューズは再びタリスをかき抱いた。
「ドール、返事をしてくれよ……お前が答えてくれるんなら、俺は何でもしてやる……なあ、何か言ってくれよ……」
その後の静寂は、今までに聞いたいかなる音よりも残酷だった。
そうして、一年の月日が経過した。
腕に花束を抱え、ヒューズは裏通りの病院の入り口をくぐった。すっかり顔馴染みになってしまった例の骸骨が、静かに声をかけてくる。
「こんにちは、ヒューズさん。久しぶりですね」
ヒューズは頷き、軽く手をあげて挨拶した。
「ここのところちょっと仕事がたてこんでて、やっと暇になったよ。ヌサカーンの奴は?」
「先生はただいま往診で留守になさっています。御自由に入られて構いませんよ。ヒューズさんですから」
頷くと、歩き慣れた廊下を通って奥の病室に入る。小さな病室のベッドの上に、いつものように彼女はいた。
「……よう」
返って来る筈の答えはない。一年という時が経過しても、その事実はヒューズの胸を強く苛んだ。
そっと花束を近くのサイドテーブルに置く。明るいピンクのカーネーションと白い霞草。ここに来る前、花屋で選んで貰ったものだ。
タリスにおそらくこの花は見えていまい。だが、例え彼女が何もわかっていなくとも、何かしてやりたかった。
「ずっと来れなくて悪かったな。凶悪犯を追いかけ回していて、時間が取れなかったんだ。そうそう、ちゃんと逮捕したぜ。珍しく始末書も無しだ」
話しながら、以前だったらここで何かきつい一言を言われただろうな、と思う。そのきつい一言ですら、欲しくて仕方がない。
寂しさを抱えつつ、ヒューズはポケットからすべすべに磨かれた白い小石を取り出した。
「コットンがさ、見舞いに行くんだったらこいつを渡してくれって。ティディの間に伝わるおまじないで、願いが叶うんだってさ。あいつ、結構迷信深いんだよな」
花と同じく、彼女がこれを見ることはない。ヒューズはタリスの手を取ると、開かせてその中に小石を握らせた。
「ほら、ちゃんと渡したからさ。お前、あいつの願いが何か、知ってるか……?」
ヒューズにはわかっていた。コットンはいつもその願いを口にしているからだ。
「お前に戻って来てほしいんだよ、あいつは。お前がいないと寂しいって、そればっかり言ってやがる。
……でもな、コットンだけじゃねえ。ラビットだってサイレンスだって、お前に戻って来てほしいって、そう思っているよ……」
話し掛けながら彼女の瞳を覗き込む。そこに何らかの反応がないかと、僅かな期待を抱いて。
残念ながら、反応はない。軽い落胆を憶えつつも、ヒューズは言葉を続けた。
「今回かなりハードだったからさ、少し休みを取ろうかと思っているんだ。部長も珍しくいいって言ってくれてるしさ。
休みが取れたら、旅行に行かねえか? ずっと病室じゃあ退屈だろう? どこか景色と気候のいいところにでも……」
途中で胸が詰まり、ヒューズはそれ以上喋れなくなった。押さえる目頭が熱い。
答えてくれることはないのに、それでも自分は彼女に話しかけることを止めることができない。
一年前のあの日、ヌサカーンから回復の見込みはないという無情な宣告を告げられた、あの時。ヒューズは彼女を諦めることができなかった。どうしても、首を縦に触れなかった。
彼女の体を心と同じ場所へと送ることを望めなかった。脱け殻であることを知りながら、それでもヒューズは彼女の生存を望んだのだ。
呆れつつもヌサカーンは了承し、この一年の間彼女をここで生かし続けてくれた。
考えようによっては、それはひどく無意味かつ残酷なことかもしれない。だがヒューズは、一縷の望みにすがらずにはいられなかったのだ。
いつか彼女が元に戻るかもしれないという、極めて僅かで些細な望みに。
「ドール……」
柔らかな体を静かに抱きすくめる。一年の間、ヒューズはできる限りこの病室を見舞った。かつて自分のしてやれなかったことを悔やみながら。
「すまねえ……俺がもっとお前のことを思いやってさえいれば……」
触れる体の柔らかさと温もりは変わることはない。だが欠けているものがある。彼女の体は決して自分から動くことがない。それに……。
ヌサカーンから以前告げられた事実。心が壊れた状態で、体だけをずっと生かし続けておくことはできないと。
ヒューズにはわからないが、タリスは少しずつ弱っていっているらしい。そのことを思うと、ヒューズはいたたまれなくなった。
「なあ、ドール……俺はな、お前に生きていてほしいんだよ。死んでほしくねえんだよ。俺にとって、お前は……大事な奴……なんだよ……」
しばらくの間、ヒューズはタリスを抱きしめながら、想いのたけを呟き続けた。ここへ見舞いに来る度に繰り返される、二人だけの儀式。
「……大分時間が経っちまったな。そろそろ帰るよ。心配するな、明日は大した仕事入ってねえから、急な事件が起きねえ限りまた来てやれるからさ」
軽く彼女の肩を叩き、ヒューズは立ち上がろうとした。その時だった。ヒューズの手の上に、何かが落ちた。
「……あ?」
手に視線を落とす。自らの手にかけられた白く細い手。それをまじまじと眺めていると、今度は微かな声がした。
「……行か……ない……で……」
はっとして彼女の顔を覗き込む。すぐ近くにある瞳が揺れていた。
「ドール? ……気がついたのか!? 気がついたのかっ!? なあ、俺がわかるかっ!?」
少しずつ、少しずつ彼女の手が動き、ヒューズの背に回された。唇が動き、先程よりもはっきりした声が洩れる。
「ヒューズ……行かないで……傍にいて……」
「……ドールっ!」
次の瞬間、ヒューズはタリスを強く抱きしめていた。彼女が驚いたような声をあげる。その反応が、何よりも嬉しかった。
「そう……私、一年も眠っていたの……」
ヒューズから事情を聞き終えたタリスは、複雑そうな表情で俯いた。
「ヌサカーンが言ってた。お前はもう元に戻らないだろうって」
今もまだ、目の前で起きたことが信じきれずにいる。だが彼女の心が戻って来たことは、紛れもない事実であった。
「……気分はどうだ? どこか具合悪かったりしねえか?」
タリスの瞳が落ち着かなげに揺れる。かぶりを振ると、彼女は自らの肩を抱いた。
「大丈夫よ。……ただ、なんだか体が重いの。力がうまく入らなくて」
「ずっと寝たきりだったから、筋肉が衰えてしまったんだろう。ヌサカーンの奴が相談に乗ってくれるさ」
彼女を眺めながら、言われてみれば少し痩せたのかもしれないと思う。
「ところでお前、どこまで憶えているんだ? 前にあったこと」
それを尋ねた瞬間、タリスの表情がさっと曇った。
「あ……わ、悪い。無理に思い出さなくていいからな……」
考えてみれば、ショックで壊れてしまったぐらいの出来事だ。思い出すだけで辛いに違いない。
ヒューズは内心、自分の頭を殴りつけたい衝動にかられた。どうしてこう、自分は気配りというものに欠けているのだろう?
「大丈夫……でもあんまりはっきり憶えていないの。あの男に無理矢理抱かれたことと、薬をたくさん射たれたことと、あなたが来てくれたことぐらいしか……」
辛い記憶に、彼女の声が震える。タリスの腕が、再びヒューズの背に回された。ぎゅっとしがみついてくる。
「ドール……すまねえ……」
詫びる言葉を口にすると、ヒューズは彼女の腕を離そうとした。だが彼女は激しくかぶりを振った。
「このままでいさせて……」
その言葉に動きが止まる。タリスは彼の背に腕を回したまま、黙って肩に顔を埋めていた。ヒューズもまた手を伸ばし、彼女の背を宥めるように優しくさする。
どれくらいそうしていただろうか。タリスが顔を上げ、涙で濡れた瞳をこちらに向けて来た。手をゆっくりと伸ばされ、ヒューズの頬に触れる。白い指が、頬に残る涙の跡を静かに辿った。
「……なんだよ」
「あなたも……泣いてたの?」
真っ向からそう尋ねられ、ヒューズは返事に詰まった。涙を流したのは確かだが、改めてそれを認めるのは照れくさい。
どう答えればいいのかわからず、ヒューズはただ横を向いた。タリスがその様子を見て、顔を綻ばせる。
「何がおかしいんだよ」
「ごめんなさい……少し嬉しかったの。私のことを……気にかけてくれてたのね」
アイスブルーの瞳がこちらを真っ直ぐにみつめて来る。それが嬉しい。
「そこの花、あなたが持って来てくれたの?」
「……まあな。見舞いにはやっぱり花だと思うし……」
もごもごと口の中でそう呟く。彼女がくすっと笑った。思わずその顔に見入ってしまう。彼女の笑顔を前に見たのは、一体いつだったろう。
「どうかしたの?」
「お前が笑ったところ……久しぶりに見たなと思って」
もともとタリスは、感情を表に出したがらない人間だった。つきあいの長い自分ですら、笑っているところを見た記憶はあまりない。
それに加えてあの男に犯されてからは、見ているこちらの胸も痛くなるような、そんな沈んだ表情しかしなくなっていた。
……そして自分が、彼女から更に笑顔を奪った。
「すまねえ……俺は何もわかっちゃいなかったんだ。お前がどれだけ苦しんでたのか……。サイレンスから大体の事情は聞いてる。……本当にすまねえ」
許してくれ、とは口にできなかった。そんなことを言う権利は、今の自分にはあるまい。
「……ヒューズ……」
「俺はお前を力ずくで犯し続けた上に、お前の気持ちを少しも思いやってやれなかった最低の男だ。あの変態科学者があんなことを言わなけりゃ、お前の気持ちにもずっと気づかなかっただろう……」
それでも、言っておかなければならない。この言葉だけは。
「でもな……俺は、お前が好きだ」
何度となく意識のない彼女の前で口にした言葉。だが今ここで、あらためて口に出すとひどく気恥ずかしい。ヒューズは思わず横を向き、彼女の顔から視線を逸らした。
それでも、言わなくてはならない。
「俺にとって、お前は……その、なんていうか……」
何度となく揉めつつも、心の底では密かに彼女に惹かれ続けていた。それに気づいたのは、彼女があの男に犯されたのを知った時だ。
「かけがえのねえ……奴なんだよ……」
それなのに、様々な感情が邪魔して素直に認めることができなかった。あげくの果てに、嫉妬に狂い彼女を暴力で犯した。
「正直もう、こんなこと言えるような立場じゃねえんだろうが……」
不意にヒューズの顔に手がかかった。怪訝に思う間もなく視界が塞がれ、唇に柔らかく温かい何かが押し当てられる。ふわっと甘い香りがした。
「んっ……」
タリスの方から、自分に口づけてきたのだ。唇と唇を軽く重ね合わせるだけの口づけ。だが今までにしたどんなそれよりも、優しい気持ちになれる。
「ドール……」
唇が離れると、ヒューズは掠れた声でそう呟いた。すぐ近くに彼女の顔がある。じっとこちらをみつめる瞳に翳りや揺らぎはない。
「あなたが好きよ」
切なげにそう呟くと、彼女は再び口づけてきた。深く考える間もなく、ヒューズは彼女の背に腕を回し、細い体をぐっと抱き寄せた。
ついばむように、何度も何度も唇を重ねた。その合間に洩れる吐息が熱い。
知らず知らずのうちに、体が反応を始めていた。ベッドの上に膝をつくと、彼女を抱きすくめたまま、その上へと押し倒す。
柔らかい音を立てて、二人はベッドの上に倒れ込んだ。そこではっと我に返る。
「あ……ドール……その……」
ついつい流されるように彼女を押し倒してしまったが、考えてみれば向こうは目覚めたばかりだ。体の状態も万全とは言い難いだろうし、何より精神的な打撃のこともある。
何をどう口にすれば良いのかわからないまま、ヒューズは口ごもった。
「ヒューズ……いいのよ」
かけられた言葉に彼女の顔を見る。タリスは手を伸ばすと、ヒューズの頬に静かに触れた。
「……したくなったんでしょう? いいのよ、来て」
熱っぽく潤んだ瞳がこちらを見上げている。その瞳を見ているだけで、ヒューズはたまらなくなった。抱きたい。彼女を、今すぐに。
「本当にいいのか?」
「何度も同じことを言わせないで。私も……全身であなたを感じたいの」
切なげに愛しげに、吐き出される言葉。もう我慢することはできなかった。
彼女の上に伸し掛かり、顔や首筋に何度も口づける。彼女の全てに触れたい。全てを味わいたい。
「んっ……あっ……」
白い喉がのけぞり、甘い声が上がった。抱きすくめながら、寝間着の上から細い体を撫で回す。一年前と変わらず、その体は柔らかかった。多少筋肉は落ちたのかもしれないが……。
病院で着せられた寝間着は、簡素な作りですぐに脱げるようになっている。紐をほどき、ヒューズはタリスの肌をあらわにした。
透けるような白い肌。滑らかでしっとりしていて、指を這わせてみたくなる。
「綺麗だ……」
思わず呟きが洩れる。タリスが頬を僅かに紅潮させ、俯いて視線を逸らした。
「……どうした?」
「変なのよ。あなたとは何度も寝た筈なのに、急に恥ずかしくなってきたの」
落ち着かなげに視線を彷徨わせ、タリスは答えた。
「……一年の間、意識がなかったせいかしら。自分の体がどうなっていたのか、あなたがどうしていたのか、全く知らないわけだし……」
その言葉に改めて流れた時間の長さを実感する。一年の間、ヒューズがタリスを抱くことはなかった。
それだけでなく、他の女性にも触れていない。彼女の置かれている状況を思えば、そのようなことはできなかった。
「お前は綺麗だよ。心配すんな」
そう口にすると、ヒューズはタリスの額に口づけた。そのまま唇を下へと這わせる。すべすべした温かな肌。懐かしい甘い香りと味に陶然としてくる。
タリスが手を伸ばし、ヒューズの服を引っ張った。
「……あなたも脱いで」
言われるままに身に着けていたものを脱ぐと、無造作に床の上に落とす。彼女とずっと触れ合っていたい。僅かな時間であれ、肌を離したくない。
両手で彼女の両の頬を挟み込むようにすると、唇を重ねた。閉じていたそれを開かせて舌を差し込むと、彼女も舌を絡めて来る。
「んっ……」
温かな口内の感触を楽しみながら、手を背の方へと滑らせ、抱きすくめながらベッドの上に押し倒した。肌と肌とがこすれあい、その感触にタリスが小さく喘ぐ。
その喘ぐ声がもっと聞きたい。ヒューズは手を下へと滑らせると、存在を主張し始めていた乳房の先端を口に含んだ。
柔らかな胸のふくらみに指を沈め、堅くなり始めた乳首を舌でこする。
「ん……あっ……」
タリスの喉から甘い喘ぎがあがった。
「感じるか?」
尋ねると、彼女は潤んだ瞳でこくりと頷いた。どこか困ったような、恥ずかしがっているような、そんな可愛らしい表情。
悪戯心を起こして、少し強めに歯を立ててみた。先程よりも高い喘ぎをあげ、彼女が体をびくんと痙攣させる。
「あ……痛かったか?」
「平気よ……気持ち良かっただけだから……もっと強くしても……私なら大丈夫……」
その言葉に僅かだけ胸が痛む。かつて自分が行ってきた行為。今は少しでも、優しくしてやりたい。
ヒューズはタリスのきめの細かい肌に舌を這わせた。どこに触れても柔らかな肌。まるで何もかも受け入れてくれるかのようだ。
その全てを味わいたくて、ヒューズは丹念に舌を這わせた。
「んっ……あっ……ああっ……」
彼女が身を捩り、甘く切なげな声をあげた。肌がじっとりと汗ばみ、淡い桜色に染まっている。
「あっ……ね、ねえ……」
不意にタリスがヒューズの手を掴んだ。驚いて彼女を見る。彼女はヒューズの手を静かに導いた。自らの秘部に。
「……どうした?」
その行為に驚く。今まで、いつも彼女はされるがままだった。タリスがヒューズを見て、静かに微笑む。
「触ってみて……」
押しつけられた指に、温かな液体が絡み付いた。まだ触れていなかったその部分は、既に蜜をいっぱいに湛えている。
「あんっ……ね、わかるでしょう……んっ……もっと……触って……」
言われるままに濡れたその部分を指でまさぐる。どこが感じる部分なのかは手が憶えていた。
最も敏感な突起をめくりあげるようにしながら、指を内部へと滑り込ませる。温かくじっとりと湿った肉が、指を包んだ。
「……はあんっ!」
タリスが激しく喘ぎ、背をのけぞらせた。豊かな胸のふくらみが目の前で揺れる。その先端を再び口に含みながら、ヒューズは秘裂に入れた指を動かし続けた。
「……あっ……あんっ……いい……いいの……」
呟くように喘ぎながら、タリスはヒューズに体を押しつけた。腕がヒューズの背に回される。
「ね……えっ……そろそろ……入れて……ほしいの……。……あなたを……感じたい……」
そう言ってくれたことが、嬉しかった。彼女の両足を抱えて開かせると、腰を持ち上げる。
「入れるぞ……」
男根をあてがうと、ヒューズはゆっくりと腰を沈めていった。濡れた秘部の肉が、男の分身を呑み込んで行く。彼女の中はかつてと変わらず、熱く濡れていて気持ちが良かった。
「んんっ……あっ……あはあっ……!」
タリスの背がぴんと弓なりにのけぞった。腰がなまめかしく動き、ヒューズのそれをぎゅっと締めつける。
「ああっ……あああっ……好きよっ……好きなのっ……!」
背に回された彼女の腕に力が籠もった。何度も何度も、喘ぐ間にその言葉を繰り返す。
「俺……だって……!」
強く抱きしめ、ヒューズはそう口にした。今こうして腕に抱いている彼女が愛しくてならない。どれだけ触れても飽きたらない。もっと彼女を感じさせたい。
絶え間無く彼女の肌を愛撫しながら、腰を何度も突き上げる。タリスの体ががくがくと震え、ヒューズにぐっと腰を押しつけて来る。
「んんんっ……イキ……そう……」
タリスが呟く。汗で貼り付いた髪を優しくかきあげ、ヒューズはその耳元に囁いた。
「俺も……そろそろ……」
「んんっ……きて……私の……中に……ああああっ!」
タリスが一際高い叫びをあげると、全身を強く震わせた。背に爪が食い込み、膣が激しく収縮する。
その動きに呼応するかのように、ヒューズも達し、彼女の中に精を注ぎ込んだ。体からぐったりと力が抜け、彼女の上に伏す。先程までと同じように、彼女の体は柔らかく彼を受け止めた。
終わってからしばらくして、ヒューズは静かにタリスの上から下りた。そのまま隣に寝転がると、彼女の体を優しく抱きしめる。
先程までの行為のせいで、彼女の肌はまだ熱く火照っている。その熱さが心地好かった。
タリスがゆっくりと横を向くと、ヒューズにまた自分から口づけてきた。肌と肌とがこすれあう。
彼女が唇を離すと、ヒューズはタリスの顔を間近からみつめた。彼女の瞳に、今までずっと見てきた色は無い。寂しげで哀しげでどこかうつろな、彼の心をかき乱したあの色は。
今の彼女は微かに笑みを浮かべ、その瞳も真っ直ぐにこちらを見ている。幸せそうなこちらを愛おしむような、そんな瞳で。
愛しさが込み上げ、ヒューズはタリスの髪を優しくかきあげた。さらさらとした髪は軽く指の上を滑る。
彼女が手を伸ばし、ヒューズの額に触れてきた。お返しのように、指を髪にくぐらせ、頬を撫でる。その瞳は先程と変わらず笑っていた。
ああそうか、とヒューズは思った。自分はずっと、彼女のこんな顔を見たかったのだ。こんな風に、穏やかに幸せそうに笑ってくれる顔を。
そんな些細なことに気づくまでに、どんなに長くかかったことか。
「ドール……」
「こんな時ぐらい、タリスって呼んで……ロスター」
「ああ、わかったよ……タリス」
普段呼びつけていない彼女の本名を呼ぶのは、どこか恥ずかしくぎごちない。つくづく、自分は不器用だと思う。
彼女は静かに頷くと、ヒューズの胸にそっと自らの顔を埋めた。
「ねえ……」
躊躇いがちに、声がかけられる。
「どうした?」
「……私達、たくさん回り道をしてしまったわね。私はあなたの気持ちに気づけなかったし、あなたは私の気持ちに気づかなかった」
淡々と彼女はそう口にする。顔をヒューズの胸に押しつけているので、表情はわからない。
「そうだな……」
「どうしたらいいのかわからなくなって、それでも離れられなくて、私もあなたもひどく傷ついたわ……それこそ、お互いにボロボロになるまで」
彼女の声が震えた。静かに背に腕を回し、撫でさする。
「お前のせいじゃねえ……お前は何も悪くねえ……」
ヒューズの言葉にタリスはゆっくりとかぶりを振った。顔を上げ、こちらをみつめる。瞳には涙が浮かんでいたが、それと共に強い光が宿っていた。
「違うわ……そういうことが言いたいんじゃないの。
私達、お互いに至らなくて傷つけあった。でも……ねえ、やり直すのに、遅すぎるなんてことはないわ。いくらだってまだやり直せるの、きっと」
ヒューズは彼女を抱く腕に力を込めた。柔らかな髪に顔を埋め、力強く囁いた。
「ああ……遅すぎるなんてことはない。やり直そう、これから」
狂ってしまった運命。壊れてしまった関係。
それでも、望み求めるかぎりきっと希望は見いだせるだろう。