『零』
蒼い月の夜、京の神宮はしんとした静寂に満ちていた。
闇に啼く鳥の声も、噂に昇る魑魅魍魎の気配もない。
平穏な夜。
だが、その静寂は突如、空間の歪みに乱された。
場を越える法術が無理やりに空間を引き裂き、時と空をうがつ。
反発した重力がはじけ、ひずみは何かを吐き出した。
白い玉砂利の上に投げ出されたのは、齢十五にも満たぬであろう一人の少女だった。
雪白の肌に藤色の髪、その美しさゆえに人とは異なる生き物。
淡いすみれ色の妖かしの瞳は茫洋とし、わずかに焦点をずらしていた。
少女は息を切らし結い上げた髪を乱したまま、しばらくその場にうずくまる。
彼女を狩るもの達もここまでは追ってこられまいという算段だった。
今の彼女の妖力ではこの程度が限界であったが、それでも並みの者ども…
下級妖魔や中級妖魔『下賎なる者』たちよりは遥かに強い力がある。
彼女の妖力に匹敵するものがあれば、それは『妖魔の君』以外にはありえない。
乱れた呼気を整えて、彼女はすっと背筋を伸ばして立ち上がる。
妖魔の君以外にはありえない、そのはずだ。
だが、彼女の妖魔としての感覚はそれ以外の者の追撃を感じていた。
まだ追っ手はくる。
彼女以外に妖魔の君にも匹敵する力を持つ存在。
彼女はその者の名を知っていた。
虚空をにらむ少女の瞳が月の光に鮮やかな菫青色に輝く。
手負いの獣が最期の一撃を見舞おうとでもするかのように
危険で凶暴な美しい瞳だった。
空気を震わせることもせずに、その場に一人の男が唐突に姿をなす。
この京の町には不似合いとしかいいようのない男だ。
面妖な衣装にいかにも妖魔らしい顔立ち、鋭い目元は少女を捉えてかすかに笑う。
少女にとって見覚えのあるその顔はファシナトゥールの黒騎士筆頭、
もっとも妖魔の世界では魅惑の君オルロワージュの後継者と言った方が話は早い。
少年の面影をわずかに残した紅い髪の妖魔。
「…そなたか、ゾズマ」
凛とした少女の声が、思いもよらぬ重厚さで闇の静寂に響く。
「やあ、零姫様、久しぶり。そんなに警戒しないでよ」
対して男の声は軽薄そのもので、友好的ですらある。
少女…零は、無言でその手を中空にかざす、しゃん、と鈴の鳴るような音が闇を切り
その手の中には一本の榊の枝が収まった。
「わらわは戻るわけにはゆかぬ、そこを退け」
「そんな怖い顔しないでってば。
それに僕は亭主の浮気に愛想つかしたお母さんを連れ戻すような鬼息子じゃないよ」
途端、零はなんとも脱力したような表情を見せた。
「そなたのいうておることは意味がわからぬ」
「わかりやすく言ったつもりなんだけどなあ、零姫がお母さん、
僕が義理の息子でオルロワージュさまが浮気亭主、ほらぴった…」
「もうよい、黙れ。…とにかく、そなたはわらわを連れ戻す気はないのじゃな?」
零はゾズマを睨みあげたが、何しろ身長差のせいで
頭が胸よりも下なのでただ見上げただけにしか見えなかった。
「まあ、追えっていわれたから追っただけで、連れ戻せとは言われてないし」
「…そなたらしいといえば、そなたらしいな」
オルロワージュは激怒するだろうが、ゾズマはそれを怖れるようなものではない。
むしろ面白がるのだろう。
零は少しだけ胸のすくような思いに、くすりと笑う。
「ならばよい、わらわもいささか…」
安堵とともに小さなめまいがした、やはりこの体ではまだこの程度の力にも耐え切れない。
「零姫?」
きょとん、としたようなゾズマの声が響く。
足元がふらつき、体を支えていられない。
虚脱感と浮遊感が同時に襲ってきて、零は意識を手放した。
妖魔の見る夢、それは。
零はどんよりとした暗雲の立ち込める、ばら色の空を見た。
永遠に続く夕暮れの刻、彼女の愛した男はよどんだ世界の中でいまだ孤独だ。
苦痛を苦痛と知らぬ者をなんと哀れめばよいのだろう。
「…あ、気づいた」
零が目を覚ました時、気だるい体は相変わらずでまぶたも大分重かった。
柳眉を寄せて眉間に皺を作る、無論気分がよいはずがない。
「大分無理してるんだね」
記憶が鮮明になってくる、黒騎士に追われ逃げきったと思ったところで
ゾズマの来訪、そして自分は意識を手放したのだ。
「…黙れというておるに」
無理は承知なのだ、だが彼女は逃げ続けなければならない。
わかりきっていることをいわれ、零は少々腹を立てた。
「…?」
声は真上から降ってきた、間近にあるゾズマの顔にぎょっとする。
零は気を失っている間ゾズマに抱きかかえられていたらしかった。
確かに零のまだ幼い少女の体は、対して重くはないだろう。
床にそのまま置かれたり、地面に投げ出されたりするよりは遥かにましであった。
社の段に座ったゾズマは動く気配がなかったので、零も動かぬことにした。
とにかく疲れていて、手足ひとつ動かすのも億劫だったのだ。
夜の京の神宮に奇抜な衣装をまとった男が、年端もいかぬ美少女を恭しく抱きかかえている。
それはなんとも奇妙な光景であった。
かつて二人は針の城で、互いの存在を見知っていた。
まだ零が今のような少女の姿ではなく、天女のような、と称された
蕩ける美貌の妙齢の女性の姿であったころだ。
零は針の城の秩序を嫌い、城の上部の高台にこもっては変わらぬ町を見下ろしていた。
城主の最愛の寵愛を受ける姫。
彼女の立場はともすればややこしいもので、さまざまなものの思惑に零は辟易していたのだ。
愛する者をただ愛すること。
それだけが零の心からの望みであった。
主の後継者候補と見なされているゾズマも似たようなものだ。
ある日ゾズマが、零のテラスに忍び込んできたのもただの偶然とはいえない。
二人にとっては針の城はあまりにも瑣末ごとに溢れていた。
「ねぇ、零姫はなんでオルロワージュ様から逃げたの?」
かつてのようにゾズマは何気ない話を始める。
だが、その問いは零にとってはとても重いものだった。
「オルロワージュさまのこと、好きなんだよね」
こんな時のゾズマは子供のようだ、言葉にまるで実感がない。
「そなたに申してもわかりはしまい」
「ずいぶんひどい言い方をするんだね」
ゾズマが興味をそそられた針の城で唯一といっていいほどの人物、
それが零だった。
彼女は時に気だるげでなげやりでさえさえあったが、
その魂に宿る苛烈な炎はくすぶり続けることをやめない。
いつか零がその炎ゆえにオルロワージュを殺すのではないか。
それはゾズマが抱いた予感であり、今もその予感を抱き続けている。
彼女の行く末を見てみたい、と思う。
好奇心こそがゾズマの行動動機であり、生きる目的ともいうべきものだった。
「そもそも妖魔の男は、女心というものを解せぬからのう」
零は薄く微笑む、あどけなさはけれど一瞬で消えてしまう。
彼女の体に宿る成熟した女の魂は、その少女の肉体とはまるで釣り合いが取れていない。
しぐさも表情も言動も何もかもが少女ではなく女なのだ。
いっそ、愛らしいほどの外見にそぐわぬそれは妖しい魅力をかもし出す。
「そなたもしょせんはあやつの眷属じゃ」
「そんなふうに言い切られるのも微妙なんだけど」
零の宣告にゾズマはわずかに不快感を覚えたようだったが、
それを面に出しはしなかった、代わりにひとつ提案をしてみた。
「じゃあ、試しに僕と一緒に逃げてみる?」
零は驚愕すらせずにつまらなそうに返しただけだった。
「なるほど、面白い提案じゃな」
なんだか気を引きたくて、ゾズマは零の髪にかろうじて引っかかっている
解けかけの飾り紐を抜き取り、はらりと落ちる藤色の髪にそっと手をやった。
「ねえ、零姫、ちゃんとこっち見なよ」
少女の知性的な目元を彩るまつげが重たげに2度ほどぱちくりする。
夜露を帯びた薔薇の色のぽってりと小さな唇に唇を寄せた。
ゾズマの腕の中で少女はとがめるように身じろぎする。
唾液の絡まる音が、静寂の中の違和感になる。
到底生易しいものではなかった口付けに、零はのけぞらせた白い喉を震わせた。
荒げた呼吸に少女の胸と肩が激しく上下するのをよそに、
ゾズマはその細い喉に舌の先端を這わせる。
「…っ、悪ふざけはやめぬか」
少女の声にわずかに艶めいたものが宿る。
だが言っていることは子供のいたずらを叱る程度のことだ。
「悪ふざけじゃないよ」
道化の仮面をつけたまま、ゾズマの瞳が倣岸で不遜な光を帯びる。
「逃げてるふりをして見せても、あなたは誰よりもあの人に縛られてる」
愛を愛と知らぬ者をどう愛してやればよいのだろう。
だから零はあの男に憎悪と執着を与えてやった。
そうしてとても愛に似た、けれど決して愛ではない妄執が男を絡み取った。
上等な獲物を演じてみせて追い続けるように仕向けたのは、零自身だ。
それこそが零の魂が奏でる、誰よりも孤独な男への愛情だった。
「…そなたはやはりあやつの子供、傲慢で残酷な男じゃ」
ゾズマに胸のうちを見抜かれた零は、その心情を吐露するようにぽつりとつぶやいた。
高まる動悸をおさえるように胸の前で手を握りしめ、薄い肩を震わせる。
「そういうの、好きなんでしょ?」
「もう思い出せぬ」
傲慢で残酷で美しく愚かしくそして余りにも孤独な、
その存在の全てを零は文字どうり自らの命を掛けて愛した。
だからこそ零は、自らの余りにも激しい愛するという感情にひどく疲れていたのだ。
「僕が思い出させてあげるよ」
どうでもいいといわんんばかりに投げ出された手を救い上げる、その仕草に。
「全部」
零は、瞳を見開いた。
まるで心まで少女に戻ってしまったかのようだった。
ゾズマが零の小さな手を取り手首に口付けるその姿に、かつて愛した男の幻が確かに重なっていったのだ。
激しく波打つこの感情が、まだ名づけられぬものだとしても。
ゆっくりと離れていくその傲岸な唇が嗤う。
零はその小さな手のひらを、男の冷たい素肌にゆるゆると這わせた。
「その口が、よくもいう。そなたが何を識るというのじゃ」
細められた瞳がふいに不埒な光を宿す。
するりとゾズマの腕から逃れた零は足音もなく宮に立った。
祭壇の大鏡の前で零が着衣を開くと、まだ膨らみも薄い胸が闇夜に白く浮かび上がる。
その頂にある突起も淡い紅色で小粒なものだ。
そしてそこには自ら胸を突いた、魂の傷跡とでも呼ぶべき赤い線が痛々しく斜めに走る。
「…わらわの愛は醜くかろう」
零は自嘲気味に笑い、その線をなぞる。
そしてゾズマは零の指を追うようにその傷跡に繰り返し口付けを降らし、
薄く柔い皮膚に舌を這わせて吸い上げた。
「…っ」
零が体を震わせると、そのこわばりをほどくようにもう一度口付けに返る。
初めて体を重ねるような慎重さだ。
「もっと乱暴なほうがイイ?」
ゾズマが零の腰に引っかかっていた着衣を落とすと、少女のすべてが顕わになる。
女らしい丸みのない腰、ほっそりとした手足、恥毛はあるかなきかのごとく薄い。
未分化の美しさを持った体を、零はしなやかに仰け反らせさらけだした。
ゾズマの酷薄な唇が薄い脇腹をなぞり落ちていく。
挑戦的な笑みを浮かべたその目は、零の表情の変化を見逃すまいとしていた。
少女の細い脚の片膝が持ち上げられる、
その中心に位置するあえかな桜色をした二つの花弁は、丁度ほころびかけたところだった。
「ちと、性急にすぎぬか…?」
零はその露な姿勢にとまどいをこめて、男の肩に小さな手をかけた。
「怯えてる?」
白い太ももの間から覗く、したたるように淫秘な紅色。
男の意外にも繊細な指がかすめるようにして、そっとそこを撫でる。
「…あ…」
零は唇をかみしめて次の刺激にそなえ、待ちわびる。
柔肉を撫でつまみ、もてあそびながら、男は焦らしているようだ。
肝心な部分には触れもしない。
うつむいた拍子に緊張で硬くとがった乳首に髪が触れ、零は切なげな吐息を漏らした。
じわじわと体の芯が熱く、うずく。
「…稚戯は好かぬ」
零はその吐息の熱さを悟られぬように顔を背ける。
ゾズマはそんな零の顔を上向かせ、その表情を見逃すまいとしながら、つぷ、と指を沈める。
そこを何度かこすってやると、とろりとした露が指に絡みつく。
「ん…」
零は眉根をよせてむずがるように小さく呻いた。
「ねぇ、零姫様。まだ何もしてないのに」
その指をちろと舐めて見せるとゾズマは嗜虐的な笑みを浮かべながら、零の小さな真核を捉え、
そのとがった爪の先でひっかくように包皮を弾く。
「やっ…あ…!」
ゾズマはその性急なまでの刺激に耐える零のそこをぐりぐりと押しつぶすと、
両膝をまとめて持ち上げ、内股の間に顔を鼻がつくほどに近づけた。
そうして溢れる蜜を掬うように舌で舐めとる。
ぴちゃぴちゃといういやらしい音に、聴覚を犯され、
零は体をよじらせながら、いやいやをするように首をふった。
「はぁ、あっ、ああ…んん…」
少女の喉があげる艶声は、酷く不埒で淫靡なものだ。
零は自らが女だということを知っていた、いっそ滑稽なほどに。
だからこそ、この空虚な心は刹那の快楽に満たされるのだ。
上気した頬に、濡れた眼差しで零はゾズマを詰るように見つめた。
そして息を弾ませたまま、床の上に鮮やかに髪を散らし人形のように力なく横たわる。
なまめかしいその生き物は、体の奥に炎を飼っている。
そして自らその炎に焼かれながらも、再生する。
「…零姫」
始まりでも終わりでもないその名を呼ぶ。
零は躊躇うように唇に指をあて、艶を滲ませて誘うように哂った。
ゾズマがその細い足首をつかみ膝を胸につくほど折り曲げると骨のきしむ音がした。
そうして、ゾズマは零の耳に唇を寄せる。
「…」
何か言おうとしたのか、言えなかったのか表情のない顔からはその意図はわからない。
ただゾズマはしばし零の淡いスミレの瞳を見つめていた。
そして零はその腕をそっと男のしなやかに引き締まった背に伸ばした。
昂ぶるものが入り口に押し当てられて、小さな裂け目に強引な進入を開始する。
ゾズマの背にはその小さな細工物のような爪を立てたけれども、
零は薄い腹がもちあがるほどに貫かれ引き裂かれるその痛みを受け入れた。
切なげに眉を歪ませながらも、幼い唇はきつくきつくかみ締められる。
転じて、肉の交わる音が静寂に異様な響きをもたらした。
離すまいとするかのように腕の中に閉じ込められて、零は己の胎を満たすものを慈しむ。
かつて愛した男の魂の子供とでもいうべき男、受け入れることが至極自然に思えた
愛しい人を求めるような切なさと、わが子を抱くような愛しさで、少女は男を抱きしめる。
「ねぇ、零姫」
果てたのち。
ゾズマは初めて、その灰青の瞳に本気の色を滲ませて零を見据えた。
口の端だけは相変わらずに、笑いをたたえていたけれど。
「あの人を殺すんでしょ」
零は、まるでその言葉を待ちわびていたかのように、自らの魂が激しく脈打つのを感じた。
どんな快楽よりも体を高揚させる、その秘密。
あいしている。
零は、人としての己を殺し、妖魔としての己を殺した。
この身に残るは女の魂のみ、そしてそれは愛した男を殺すのか。
「…わからぬな」
答えに不満そうな顔をしたゾズマに向けて、零は何もかもが曖昧な微笑みを見せる。
そしてゾズマの赤い髪を、その小さな手で幼子にするように撫でてやった。