「ねえ、シャール、あなたは雪を見たことはあって?」
香草茶を淹れるシャールの背中越しに、涼やかな声が投げかけられる。
シャールは振り返らずに、言葉を返す。
「いいえ、ありません」
「そう。私もないの」
陽の当たる窓辺に置かれてあるテーブルと二脚の椅子。
その椅子の片方にミューズは腰掛け、革張りの小さな本を読んでいる。
柔らかな銀色の髪をゆるく編み、深緑色のリボンで結わえてある。
テーブルの上に香草茶の入ったカップを二つ置き、シャールは向かいの椅子に座った。
ミューズは本から顔を上げ、「ありがとう」と微笑んだ。
旧市街でひっそりと暮らし始めて、どれくらい経ったのだろう。
夢魔との戦いから季節は巡り、ミューズは見違えるほど元気になった。
蒼白い顔をして屋敷の窓から外を眺めていた儚げな少女の姿を思い出し、
目の前の、薔薇色の頬の乙女に重ねてみた。
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クラウディウス家に仕え始めて間もない頃、シャールはしばしば雑用を任されていた。
料理番に頼まれて食材の買い付けに出かけたり、
庭師と共に剪定や雑草取りをしたり、
修理工の横でタイルの貼り替えやガラスをはめ込む作業を手伝ったり、
司書の代わりに蔵書を管理したり、等々。
生来の器用さで、大抵の事はこなしていた。
後にその経験が旧市街での暮らしの役に立とうとは、全く思いもよらなかったのだが。
「ペパーミントキャンディってどんな味がするのかしら」
というのが、ミューズからかけられた最初の言葉だった。
中庭の金木犀の剪定の最中、窓越しに幼い少女が顔を見せたのだ。
白い寝間着姿と顔色の悪さがまるで幽霊のようだったが、
華奢な腕にずっしりとした大きな本を抱えており、そこに妙な現実味があった。
この小さな令嬢の唐突な問い掛けに、どう答えたものかと迷っていると、次の問い掛けが来た。
「シャール、食べたことはあって?」
「いいえ、ありません」
「そう、私もないの」
残念そうなため息を一つつき、ミューズはじっとシャールを見つめた。
シャールは再び剪定の手を休めて、顔を向けた。
「‥‥どうなさいましたか?」
「このお屋敷の外には、キャンディ屋さんがあるんでしょう?」
「ええ、ありますよ」
「行ったことは」
「ありません」
「そう‥‥」
ミューズは何か言いたげな顔をしていたが、それをシャールは遮って、言った。
「あなたのお付きの女官にお訊きになられた方が良いかと。
それに、窓を開け放していると、お身体に障りますよ」
「‥‥そうね、シャール、あなたの言うとおりだわ」
寂しげな微笑みを浮かべ、それきりミューズは何も言わなかった。
抱えている本を脇に置くと、窓枠に両手を掛けてがたがたと窓を引き下ろした。
そして、窓ガラス越しに小さく手を振って、部屋の奥へと姿を消した。
その後、日没と共に剪定をやめて、シャールは自室に戻ったが、
ミューズの寂しげな顔が、気に掛かって仕方がなかった。
「今日は非番だから、ちょっと出かけてくる」
翌日、上着を着込み、革靴の紐を結んでいると、背後で同僚たちのからかう声がした。
「珍しいな、シャール、おまえが外出するなんざ」
「剣術の修行も悪くないが、町娘の良さにもやっと気づいたのか」
相手をするのも面倒なので、返事もそこそこに、屋敷を後にした。
キャンディ屋に入るのには勇気が要った。
同僚がこの様子を見ていたら、キャンディ屋の売り子に懸想している、
と、勘違いも甚だしい噂を流されたことだろう。
意を決して、店の扉を開けた。
甘い匂いがふわっと鼻をくすぐった。
店内には赤毛の娘がいた。どうやら売り子のようだ。
「いらっしゃいませ、何にいたしましょう?」
オレンジ色の灯りに照らされた店内には、壁一面に棚が何段も設えられており、
大きなガラス瓶が所狭しと並んでいる。
ガラス瓶に貼ってあるラベルを見ると、一つ一つ、飾り文字で名前が綴られている。
−−苺、葡萄、檸檬、蜜柑、林檎、水蜜桃‥‥。
どうやら、瓶の並べ方に決まりはないようだ。
<薄荷>は一体どこにあるのだろう。
こんなに多くの種類のキャンディが存在するとは思いもよらなかった。
これでは、自分で探し出すのは不可能に近い。
赤毛の売り子に訊いてみた。
「ペパーミントキャンディ、は、ありますか」
「ええ、どれくらいお要りですか?」
上着のポケットから銀貨を一枚取り出し、売り子に渡す。
売り子は銀貨を受け取ると、薄緑のふたの付いたガラス瓶を棚から出した。
カウンターに置いて、ふたを回して開ける。
瓶の中には、ガラス玉のような透き通った小さなキャンディが、六分目くらいまで詰まっている。
売り子は、小さな木のスコップでそのキャンディをひとすくいし、ざらりと茶色い紙袋に流し込んだ。
それを数回繰り返した後、鈍く光る銅の秤に乗せて、さらに二粒追加した。
それから紙袋の口をきゅっとひねり、色とりどりのリボンを示した。
「何色のリボンにいたしましょう?」
慣れない状況に目眩がしそうで「おまかせします」と言いかけたが、
ふと、幽霊のような少女の、美しい銀色の髪が浮かんだ。
「‥‥この、深緑のリボンを」
売り子は光沢のある深緑色のリボンを手に取り、
鋏でちょんと切って、手慣れた様子で見栄え良く結んだ。
町から帰ってくると、中庭に面した窓は閉まっていた。
今日は体調が思わしくないのだろう。
シャールは窓辺に紙袋をそっと置いて、立ち去った。
それから三日後、中庭の木々の剪定をほとんど終わらせ、
シャールは最後の金木犀の剪定を黙々としていた。
「ねえ、シャール、キャンディは要って?」
声のした方を見ると、ミューズが窓からちょこんと顔を出していた。
蒼白い手に、茶色い紙袋を大事そうに抱えている。
シャールは剪定の手を休めずに、返事をする。
「結構です。私は甘い物は食べ付けていないので」
「残念ね。でも、それほど甘くはないと思うのだけれど」
がさごそと紙袋の中からキャンディを一粒取り出し、口に放り込んで、ミューズはにっこりした。
淡い銀色の髪に、カチューシャのように深緑のリボンがくるりと巻かれてある。
「あなたが買ってきてくれたんでしょう? ありがとう」
「さあ、誰でしょうね。で、どんな味ですか」
「それが、上手く言えないのだけれど、夏至祭みたいな味」
「‥‥夏至祭?」
「ごめんなさいね、シャール。私、言葉をよく知らないの」
「ところで、何故、ペパーミントキャンディなんですか?
店にはいろいろな種類のキャンディがあるようですが」
シャールが訊くと、ミューズはきょろきょろと辺りを見回し、何故か落ち着き無く手招きをした。
剪定鋏をベルトに引っかけ、窓のそばに出向くと、ミューズはシャールの耳に両手を当てて、声をひそめた。
「口づけと同じ味がするんですって」
思わずシャールはのけぞった。
「なっ、どこからそんな話を聞きつけてきたんですか」
すると、蒼白い頬をほんのり赤くして、ミューズは答えた。
「リアナが教えてくれたの。
お話の中に<甘い口づけ>と書いてあったから、どんな味がするのかしら、って訊いたのよ」
リアナはミューズ付きの女官の一人だ。
呆気にとられるシャールに構わず、ミューズは続ける。
「甘いというから、ふわふわのクリームケーキみたいな味を
想像していたのだけれど、全然違うみたい」
−−からかわれたんですよ。
と言いたくなるのをのみ込むので精一杯だった。
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<八つも年下の病弱な令嬢>が、随分とたくましくなったものだ。
日々、薔薇を手入れし、雑草取りをし、害虫取りまでする。
「これは私の仕事なの。あなたがする必要はなくてよ」
生き生きと庭仕事に励む姿など、あの頃は想像すらできなかった。
先日、ピドナに流れ者の盗人が現れて、旧市街に逃げ込んできたことがあったが、
それをあざやかな一撃で仕留め、取り押さえたのは他ならぬミューズだった。
ミューズが子どもたちと広場で遊んでいたときの事件だったため、
シャールはその場におらず、後で人づてに話を聞いて頭を抱えた。
子どもたちの話によれば、
「悪いヤツがミッチをつかまえようとしたら、
ミューズ様がすっと前に出て、ヤツは倒れてたんだよ」
「ミューズ様のグーの動きが見えなかった」
「こう、あいつのパンチをミューズ様は片手ではらって、
同時にもう片方の手が、あいつのお腹にめり込んでた」
「ミューズちゃま、ステキー」
だそうだ。
ミューズに問いただすと、
「ごめんなさいね、シャール、本当は目をつぶすべきだったんでしょう?
けれど、子どもたちがいたから、できなかったの」
と、落ち込んだ調子で返され、何かが違うと思いつつも何も言えなかった。
−−相手の復讐を防ぐために、まず狙うべきは目。
以前、そうミューズに話して聞かせたのは、確かにシャールだったのだが。
クレメンス公−−ミューズの父親が暗殺されてから、ずっと今までミューズを護り続けてきたが、
今となっては、もう護る必要はないのではなかろうか。
そう思うと、どこか寂しい気持ちになった。
日だまりで本を読むミューズの横顔を眺めつつ、香草茶を飲む。
「どうしたの、シャール、ぼんやりして」
シャールの視線に気付いたのか、ミューズが声を掛ける。
「いえ、ミューズ様のリボンを見て、昔のことを思い出しただけです」
シャールが答えると、ミューズは深緑色のリボンに目を向け、そっと触れた。
「昔のあなたは、どこか他人を寄せ付けないところがあったわ」
「そうかもしれませんね」
シャールは軽く頷き、香草茶をまた一口飲む。
リボンを見ながら、ミューズは続ける。
「けれど、誰よりも真摯で高潔だった。だから、私は話しかけてみようと思ったの」
「‥‥」
「今のあなたも、誰よりも真摯で高潔。それは変わらないわ。
ただ、顔つきがどことなく穏やかになったような気がする」
静かな部屋の中、ミューズのささやくような声だけが響く。
「昔の私はどうだったのかしら、あなたから見て」
「世間知らずのお嬢様でした。
外見は吸血鬼の城の幽霊、頭の中はグレートアーチ、といったところです」
「そうかもしれないわね」
くすっと笑い、ミューズは本をテーブルに置いた。
「では、今の私はどうかしら、あなたから見て」
真っ直ぐな、射るような視線。
答えをはぐらかせない、強い目をしている。
あの頼りなげな少女はもういない。
ここにいるのは、気高き心を秘めた一人の女性なのだ。
シャールはカップを置いて、真っ直ぐにミューズを見返した。
「今も昔もミューズ様は、私の心の糧です」
銀の手を着けた右手を伸ばし、リボンの端を引くと、するりと結び目が解けた。
ミューズの淡い銀色の髪がほどけて、ふわりと広がる。
ゆるやかに波打つ髪の上を陽光がきらきらと踊る。
「しかし、あなたはもう、私がお護りせずとも、立派にやっていけると思います」
きっぱり言うと、ミューズの柔らかな髪を左手でゆっくりと梳いた。
指の間から月の光がこぼれ落ちるかのように見える。
と、ミューズは両手を伸ばし、その左手を包み込んだ。
「私を護る必要はなくてよ、シャール。あなたを束縛したくはないもの。
けれど、お互いがお互いの心の糧であれば、これ以上望むものがあって?」
そう言って、悪戯な少女のように目をきらめかせ、にっこりする。
シャールは何を言われたのかとっさに理解できず、ぽかんとした。
それからややあって、苦笑し、首を横に振った。
「いえ、ありません」
「せっかくお茶を淹れてくれたのに、冷めてしまったわね。
私が淹れなおしてくるわ」
二つのカップを持ち、ミューズは台所に向かった。
銀の手には先程の深緑色のリボンが握られている。
ふと、<甘い口づけ>の一件を思い出し、急にどぎまぎした。
慌てて邪念を振り払おうと、テーブルの上の本を手に取った。
ミューズが読んでいた本だ。
表紙には<雪町奇譚>と銀文字が押されてある。
「ランスに行けば、雪が積もっているそうですね」
ポットの香草を入れ替えるミューズの背中越しに、言葉を投げかける。
ミューズは手を休めて振り返る。
「シャールは雪を見たい?」
「寒いのは苦手です」
「そう、残念ね」
「しかし、あなたがご覧になりたいのであれば、仰せのままにいたします」