――まさか、ロアーヌを出て世界を旅するだなんて。
ロアーヌ城に仕えているという誇りだけで満足だった頃の自分には思いもよらなかっただろう。
・・・・・・・・しかも、愛する人と一緒などと。
東の国・玄城。
「ミカエル様、明日はこの宿で待機していてくださいませ。ロアーヌからの向かえの者が来ます。」
いつものようにアメジスト色の重い鎧を脱ぐのを手伝い終えると、侍女の口調でカタリナは言った。
「・・・・・なぜだ」
いつも硬く表情の変わらないミカエルの眉が、少し翳った。
「黄京へは危険すぎます。・・・最悪、生きて帰ってこれないかも知れないのです。」
主の目を見据えた。高貴な蒼い瞳が、静かに異国のランプの灯を映している。
「もうここまでですわ。貴方はロアーヌを治める身。なにかがあっては困るのです。」
強めの言葉を受けたのにも関わらず、ミカエルはわずかに口元を緩ませた。
「・・・困るだと?現にロアーヌは私がいなくとも機能しているではないか。
影を務めている者、あの者は体は弱いが私よりも立ち回るのが上手い。
わがままな臣下どももうまく扱っているぞ。
私の方は戦の役を担っているのだ、文句はあるまい。」
「・・・・・・・・・・っ」
思うよりも長くまくし立てられ、私は声を詰まらせて怯んだ。
ミカエル侯爵としては決して感情を外に伝えず、余計な事も云わず。
だがそれは、領土を治める者の宿命であった。
不要な発言行動ひとつで臣下も民も惑わせ、しいてはロアーヌを傾かせる。
・・・だが旅を共にしてからというもの、前よりもご自分を推されるようになった。
といおうか、元々は意思の強く頑固なところのある方だ。そこに惹かれてもいるのだが。
実は、ロアーヌへ戻ってもらおうとしたのは1度や2度ではないが、
これも政策の一環、一部の者は了承しているからと納得させられた。
ロアーヌを襲撃された時、民の不安を拭い威信を回復する為にビューネイ討伐に自ら参戦した。
――あの時からか。気づけばお忍びで共にモンスターを倒すのが当たり前になってしまった。私自身、ともに旅するという事に舞い上がり、強くお戻り願えなかったのか。
もちろんお側に居たいのもあるが・・・・・・・・
私が、ロアーヌ貴族でいられるのもあとわずかなせいかも知れない。
マスカレイドを取り戻し晴れてロアーヌへ戻った日、信頼している叩き上げの大臣が教えてくれたのだ。
「主がお前をロアーヌから追い出さなかったら、審問責めにあって大変だったろう。」
「えっ・・・?」
「またあの派閥の大臣どもが騒いで大変だったのだよ、全く。
聖王由縁のマスカレイドを身分も不明瞭な者に渡していたのがいけないのだと。
ミカエル様は耳を貸さなかったのだが、お前からマスカレイドを剥奪するのは内部で決定してしまった。というのも・・・・・・・」
一息おいて、気まずそうに告げた。
「ミカエル様にも、何件か政略結婚の話がもちあがっているらしい。」
だから、これで。この旅で終わりにしようと。
居場所がなくなっても別の地で生きられる事を、世界を回って悟った。
大儀の前で倒れるのも一興。
全て終わってロアーヌに戻る時、ミカエル様の元から去ろうと心に決めていた。
なのに。
ミカエル様の偽者にマスカレイドを奪われた時から成長していないのか、
知らぬ間にまた大事な主に迷惑をかけようとしている、不甲斐ない・・・。
「解ってくださいませ・・・・・・・・・貴方のためなのです。」
渦巻く想いを抑え、そう云った。
また抗われるだろう、そう思ってはいたが。
「――解る、だと?」
蒼い瞳とともに、ランプの灯も一緒に揺らいだ。
「何も解っていないのは、お前の方ではないか」
腕をつかまれるなどと思ってもいなかったからか。
小さな悲鳴を上げ、よろめいて胸板にもたれてしまった。
「・・・ミカエル・・・様・・・・・?」
鼓動が騒ぐ。伝わってしまうのではないだろうか
火照った顔を上げて、ミカエルの表情をうかがう勇気はなかった。
離れようにもつかんだ力がゆるむ様子もなく、体も突然のことで思うように動かない。
「ロアーヌの政治がおもわしくないのは、知っているか?」
声と耳にかかる吐息で、顔がすぐ近くにあるのがわかる。
知っているが返事はしなかった。だが、領土が潰れるほどではないはずだ。
「影武者もよくやってくれているのだがな・・・。批判する者も増えてきた。
どうも、私もモニカと同じ道を辿りそうだ。」
ズキ、と胸が痛んだ。
ミカエル様が他の姫君と一緒になることを悲観したからではない。
自分は望めば自由になれるのに、この方にはない。
そんな当たり前なことに今さら気づいてしまったのだ。
「だが心配するな、モニカには発破をかけた様なものだ。嫌ならば自ら道を選ぶだろう。
ガードにいる若い男が気になっていると、侍女から聞いている。
昔から二人ばかりでいたから、甘やかして自立させる時期を逃していたのでな。」
・・・では、貴方は?親しい者とロアーヌのことには懸命になさるのに、自らのことをいつも忘れている貴方は・・・
「わたしもな、このまま流れに流されるつもりはない。」
そっと薄紫の髪に指の櫛をとおした。カタリナの肩がかすかに震える。
「自らの運命は自らで決めるつもりだ。そのために決戦に赴く。」
ゆるぎない決意の言葉に押され、私は顔を上げた。
「世界を救うのだ。これ以上の大儀はあるまい。」
「・・・・・・・・・・・!!」
「そうすればロアーヌも発展し、不本意な相手に嫁ぐこともなかろう?」
この人からこんな言葉を聞くとは。
だが、いつもこの方は最良の選択肢を選んだ。
今回もただそうだっただけなのか。
髪を梳いたあと、思うより無骨な指はカタリナの顎をとらえた。
「わたしは野心の強いほうでな。領土を手に入れ、――愛する女も手に入れる。」
夢にまで見た腕の中の温かさに酔いしれ、ミカエルの独白を受け入れていた
カタリナは、今耳にした言葉を反芻していた。
「・・・そ・・・それは、私・・・を・・・・・・・・」
感情が昂ぶって声が出せない。
向かい合うのがいつもの冷静な表情であるのが、逆に追い立てる。
ミカエルは、答える代わりに唇を自分のそれで優しく塞いだ。
・・・初めはなぞるような口づけ。
そのうち食むように重ね、序々に舌先で奥へと潤みを求めていく。
顔が無造作に擦り合うのもしだいにかまわなくなっていった。
「んんっ・・・」
二人の舌が絡む音がするたび、カタリナは吐息をもらし身もだえる。
恍惚に支配されつくすのに耐えるため、主の衣服をつかむ。
いつのまにか、ミカエルはカタリナを両腕で縛るように抱きしめていた。
蒼い瞳は薄く開き、いたいけな反応を楽しんでいるようにも見えた、のだが。
(・・・・・・・・・・・思い出したくはない、なのに。)
マスカレイドを奪われた三日後には、間者を捕らえた。もちろん剣は
すでに仲間に渡していて、口も割らずあとは侵入・窃盗罪で処刑するだけであった。
しかし兵がいうには、間者が牢の中でこぼしていたという。
――主の姿を偽って近付くだけで、簡単に遺物をくれる女を傍に置いている。
この城の主は、代々下賎な女を妃にする、と。
言いよどむ兵に聞き出したので、本当はもっと別の言い方をしたのだろうが。
ゴドウィンか、それとも他の私をこころよく思っていない者が外部に漏らしたのか。
・・・伝えたい者には伝わっていないのに、皮肉なものだな。
心を読まれぬよう、自分を鉄のかたまりか何かのように暗示をかけた。
他人になど興味がないように振る舞い、冷徹な支配者を演じた。
自失を憶えれば、弱さをさらけだし敵のおもうままになる。私への想いを
利用したことを知った時、えもいわれぬ感情が走り――――そんな自分を蔑んだ。
だが望まずとも、心は迷いに引き込まれていく。
柔らかく暖かな唇の感触が、いやがおうにも呼び起こすのだ。
罪人が奪ったのは、はたしてマスカレイドだけだったのか。この唇は?首筋は?
もしかすれば、二度と癒せぬ傷をつけられているかも知れぬ・・・!
「ああ・・・・はぁっ」
力の加減を忘れたために苦しさを我慢しているカタリナに気付き、我にかえった。
償いに、頬をやさしく撫でつける。
今ならば痛いほどわかる。どうして父上が本当に愛している母を侯妃にしたのか。
これは、血だ。
体をかけめぐり心の臓を司る、血。
聖王重臣がひとりの名から代々受け継がれている聖なる血脈。
名残惜しく吐息を離すと、カタリナの唇の露を手でそっと拭った。
「――正式な契りは、戦果を挙げて無事帰ったときだ。」
「はい、ミカエル様・・・私、嬉しいですわ。」
色香のないささやきだが、十分だった。まどろんだ瞳をうるませている。
「あさっての朝にはロアーヌと同盟国からの兵がこちらに来る。
だがアビスに突入できるのは、私達と、3人の戦友だけ。覚悟はいいか?」
信頼の激励に、はい、と強く頷いた。
闇を倒す理由があり、未来もある。カタリナは美しい騎士の表情で佇む。
「・・ではこれで失礼いたします」
「ああ、ゆっくり休め。」
いつもの領主と従者の会話に戻る。今まではなかった温度をのぞいて。
部屋から出ようとする際、マスカレイドがゴトン、と鈍い音を立て落ちた。
「ああっ!申し訳ございません、私としたことがっ・・・」
先ほど乱れたときのせいだろう。いやいい、私が拾おうと手をのばした。
紅く、ルビーのごとく光る剣。見た目よりも軽くまるで装飾品のようだった。
――――だがこれはただの宝剣ではない。
聖王の臣下だった初代侯妃ヒルダが、王から直々に授かったといわれる聖剣。
それ故代々ロアーヌ候妃へと受け継がれてきた。
父フランツはそれと貴族の地位を、当時まだ幼いカタリナに渡したのだ。
考えれば触れるのは久しいな、とその剣を持ち替える。
上辺は、モニカ護衛のための契約。仮初の授与。
だがそれは、今は亡きロアーヌ侯が私に贈った、早過ぎる婚礼祝いだった。
貴族としてのたしなみとともに身を守る術も、幼き少女にたたきこんだ。
それは。
不慮の出来事で母親を早く亡くし、親しい者を失うことを恐れつつも隠していた
私の胸の内に気付いた父の、できるかぎりの愛情だったのかもしれない。
慌てふためくカタリナをなだめながら、再び左腰に納めてやった。
薄紫の髪が顔の近くにふっ、っとかかる。
幼い頃、自室の窓からよく眺めたものだ、と思い出す。
稽古のため剣を振るたび、陽光を受けなびく。目を奪われたものだ。
私の言葉をおぼえていてくれたのか、旅立ったときから切らずにのばし続けている。
――あの頃と、同じくらいの長さか。
「長い道のりだったな、カタリナ。だが・・・この聖剣に誓って、お前を守る。」
「はい。どこまでもついていきますわ。」
今一度だけ、と熱い抱擁をふたたび交わした。
聖王よ示してくれ、我らの往く道を。