古き歌、其は神々の物語。
今宵語るは新しき歌。
八人の勇者にまつわる言の葉、秘められし愛の物語。
…あるいは、悲喜こもごもの恋愛騒動劇。
旅暮らしを長く続けていると、たまたまタイミングのよくない日というのはあるもので。
宿屋に泊まろうとしたら、いつも利用する大部屋があいていなかったりして、
何人かに分かれていくつも部屋を取る羽目になり、宿代が割高になってしまうこともある。
今日もそんな日だった。
結局各々二人ずつで部屋をとることとなった。当然ながら男二人×2、女二人×2である。念のため。
「ふー、さっぱりした。風呂っていうのは中々悪くないね」
濡れてはりつく豪奢な金髪を無造作に拭きながら、シフは豪快に笑った。
極寒の地バルハラントでは、風呂を沸かす前に凍りつきかねない為、湯船につかるという習慣はない。
長身で体格の良い彼女には宿備え付けのバスローブは小さいのか、豊かな胸が布地を突き破りそうなほどに
押し上げている。丈の方も膝上と際どい格好だが、本人は気にした様子もない。
「…ええ。慣れないうちはどうしたらいいのか困ったのだけど」
柔らかなブルネットの髪の水気を丁寧にぬぐいながら、クローディアも控えめに述べる。
迷いの森で暮らしていた彼女も、水浴びが主で湯浴みの経験はそれまでほとんどと言っていいほどない。
こちらのバスローブは問題なく彼女の全身を包んではいるが、そこはやはり湯上りの乙女。
しっとりとした色香がすらりと伸びた足や白いうなじに漂っている。
そこにもう一人、砂漠の民でやっぱりあまり風呂というものを知らなかった少女が飛び込んできた。
「シフ!クローディア!いいもの貰ってきたよ〜」
いつもは複雑に編み上げている緋色の髪を、軽く上げるに留めてにこにこと微笑んでいるさまは、あどけない
彼女を更に幼く見せている。バスローブも生地が余って華奢な身体に巻きつけているような有様だ。
ただ、普段は隠れている細い首筋がアンバランスな色っぽさを醸し出していると言えなくもない。
「いいもの?」
クローディアの問いかけに答えて得意げに突き出されたものは、ルビー色の液体入りの瓶だった。
「綺麗な色のワインでしょ?ジャミルが後で飲もうって言ってたんだけど、いっぱいあるから皆にも分けて
あげようと思って」
「ワインねぇ…」
シフは瓶を眺めて唸った。『アムトの恵み』と流麗な書体のラベルが貼ってある。
バルハラントで酒といえば度数の高い蒸留酒が主で、果実酒などというものはまず手に入らない。
旅に出てからは何度か口にする機会はあったが、強い酒に慣れた口には合わなかった。
断ろうかとも思ったが、アイシャは既にグラスを三つとジョッキを一つ持参しており、うきうきと
並べている。協調性に乏しいクローディアも、今回特に異存はなさそうだ。
――まあ、たまにはいいか。
一人で悩んで一人納得したシフは、もう一人足りないのに気がついた。
「バーバラはどうしたんだい?」
「まだお風呂。美貌に磨きをかけるんだって。バーバラ、十分すぎるくらい綺麗なのにね」
「そうね」
「全くだね」
己の容姿に割と無頓着な三人娘は、顔を見合わせて頷きあった。
「上がったらここに来てって言っておいたから大丈夫。冷えてるうちに飲もうよ」
「アイシャ…あたしのはコレなのか?」
「だって、シフいっつもたくさん飲むでしょ?」
甘ったるい香りのするジョッキを渡され、シフは眉根を寄せた。
「ワインってのは少なくともジョッキで飲むモンじゃなかったと思うけどねぇ」
一口含んで、とろりとした甘さに顔を顰める。
「こいつは本当に酒なのかい?」
「甘くて美味しいよ。ちょっと強いけど」
「飲みやすいと思うわ」
シフ以外には好評のようだ。
もう一口だけがぶりとやって、ジョッキをテーブルに乗せようとしたその時。
部屋のドアを軽く叩く音がした。
「アルベルトです。…今、よろしいですか?」
「ああ、開いてるよ。入りな」
もしもこの場にバーバラがいたなら止めてくれたであろうが、いるのは世慣れているという言葉からは程遠い面々。
何も知らない少年は、扉を開けてしまう。
「失礼します。すみません、ちょっとシフにお願いがあ…って…」
言いかけたアルベルトの表情が凍りついた。
次の瞬間、一気に耳まで赤くなる。
湯上り美女達との対面は、他の男性陣ならばともかく、彼には刺激が強すぎたらしい。
「ししししし…失礼しましたっ!」
激しく音を立てて扉が閉まり、それに続いて。
何か硬いものがもっと硬いものに激しくぶつかるような――例えば人間の頭が壁にでも激突したような――鈍い音、
そして何かそれなりの重量のある柔らかめのもの――例えば人間の身体くらいの――が床に投げ出されたような音が
聞こえた。
「何やってんだか…」
こめかみを押さえながらシフは立ち上がった。
置くタイミングを失ったジョッキを手にしたまま。
「大丈夫かい?しっかりしなよ」
遠くで誰かが喋っている。声に多大なる呆れと、その奥に心配を滲ませて。
唇に何かが押し当てられる感触がして、干からびた喉に甘く冷たい液体が流れ込んでくる。
胃の腑にすべりこんだそれは、熱を生みながら意識を覚醒領域へと押し上げていく。
気付け薬代わりに強い酒を飲まされているらしい、と頭の隅が理解する。
痛む頭にひやりとしたものが触れてようやく、アルベルトは目を開けた。
濡らしたタオルの端の向こうで、彼とよく似た青の瞳が瞬く。
「…シフ?…ここ、は?私は一体…?」
「ここはあんた達の部屋。廊下でひっくり返ってたあんたをここまで連れてきたのさ」
「シフが、ですか?」
「あの場に居た他の誰に、アルを持ち上げることができるんだい?」
感謝しなよと苦笑交じりに言われて、アルベルトは頭痛も眩暈も倍加する心持ちだった。
お姫様抱っこかはたまた荷物担ぎか。
どちらにしろ情けない光景である事に変わりはないが。
「にしても、壁にぶつかって気絶だなんて…あんたも結構なうっかり者だね」
「ああいう状況なら、入っていいなんて言わないで下さい…」
女性陣の寛ぎ光景をちょっと思い出し、アルベルトは頬が熱くなるのを覚えた。
扉を開けてまず目に入ったのはアイシャ、視線を逸らした先にクローディア。
目のやり場に困って閉じようとした両眼を、釘付けにしたのはシフの姿。
桜色に上気した肌と洗い晒しの金髪の対比が、いつもの勇ましい装いに似ず艶めかしくて…
――…っ!だめだ、詳細に思い浮かべてはいけない!
額からずり落ちたタオルで顔を覆って、赤さを誤魔化す。
「それはあたしも悪かったけどさ…何もこんなになるほど慌てなくても」
斧や大剣で鍛えられ、がっしりしている筈の彼女の手のひらが、意外なほどの柔らかさをもって額に触れた。
途端、心臓が跳ね上がる音が耳の奥でぐわんと木霊した。
強く打ち始めた鼓動は血液を凄まじい速度で全身へと駆け巡らせ、ただでさえ赤く染まった頬を更に
濃い色へと変えていく。
アルベルトは、今自分が顔を覆っていて表情が彼女に見えないことを、心ひそかに神に感謝した。
しかしながら、神々の悪戯というものは往々にして無慈悲なもので。
「あ、痛かったかい?悪いね」
「…い、いえ…大丈夫、ですから。ご迷惑かけて、すみま…」
どうにか心臓を宥め、半身を寝台から起こした少年は、再び絶句する羽目になる。
寝台に腰掛け、心配そうに覗き込んでいる彼女は、未だに彼を昏倒に追い込んだバスローブ姿のままであった。