「リムルル、さあ、約束よ。行きましょう」
「・・・約束?」
「えぇ。ナコルルに会いたいんでしょう?私と来るのよ。会わせてあげる
ほらっ、ともう一度強く出された手を前に、涙をこぼしながらリムルルは
顔を見上げるばかりだ。足早に迫る夕闇の暗さの向こうで、レラの表情が曇る。
「どうしたの、リムルル。ほら、アイヌの戦士がいつまでも泣いていてはだめよ」
「教えて・・・」
「何?聞こえないわ」
「教えて・・・レラさんは・・・誰なの?何でわたしとねえさまを・・・知ってるの?」
「そ、そうだぞ。さっきからいっぽうて・・・」
俺が口を割った途端、レラがさっと手を上げた。それが合図だったらしい。
巨大な狼がひたり、ひたりと俺の方へと近づいてくる。
「スイマセン」
俺がリムルルから離れるように後ずさりすると、狼はどかっと俺が居た場所、
リムルルのすぐ横にお座りをした。だが、その眼は依然として俺から離れる
ことは無い。その後ろでは、腕組をしたレラがこちらに向かって軽蔑の
眼差しを送っていた。
「で、私が・・・何であなたとナコルルを知っているか、だったわね」
一触即発の爆薬を前に俺が硬直するのを見届けたレラは、腕組みを解き、
再びリムルルに柔らかな視線を戻しつつそう言った。リムルルは、頬に涙を
光らせたまま、迷子のような表情でレラの顔を見つめ、頷いた。
「私は、ナコルルの反面。あの娘が胸の奥に押しやっている、躊躇せず
闘いの中に身を投じ、目の前の敵をなぎ倒す闘争心。そして、思いのまま、
気の向くまま・・・そう、風のように舞う解き放たれた心・・・それが私よ」
「ねえさまの・・・心?」
「リムルル、会いたかったわ・・・!」
か細い返事を待たず、レラはリムルルに覆い被さるように抱きつき、
ほお擦りしながら、いつになく緩み切った顔で一気にまくし立てた。
「寂しかったでしょう?辛かったでしょ!可哀想に、こんな服まで着せられて!
我慢できずに自分で刺繍をしたのね。だけどそれも今日で終わりよ。
リムルル?ナコルルに私が戻るまでは、ずーっと、ずっと一緒にいてあげる。
ラタシケプでも何でも、お腹一杯になるまで作ってあげるわよ。もちろん
寝る時も一緒。私の膝枕でも、腕枕でも・・・いいえ、胸の中で寝てもいいわ。
さあ涙を拭いて。一緒に自然を守るために戦いましょう。そしてナコルルを・・・」
「ちょ・・・っと、苦しいよぉ!」
半ば押し倒されるかたちとなったリムルルは、自分より大きいレラの身体の
下で、迷惑そうにもがいている。
「あら、やりすぎちゃったかしら。ごめんね。フフ・・・あんまり嬉しかった
ものだから、つい・・・ね」
悪意があってやった訳ではなかったようだ。まだ緩みっぱなしの口元から、
小さな笑いを漏らしつつレラは立ち上がると、リムルルもそれに続いた。
いくらかの身長差と距離があって、二人は向き合ったまましばらく見つめ合った。
月と同じ色をした狼のたてがみが、潮風を受けてさらさらとなびき、かすかな
光を返している。目と目を通わす二人の間には、俺など入り込む余地は無く、
何か俺の知らない方法で気持ちのやり取りをしているようにも見えた。
「あのねっ」
少し落ち着いて、心の整理がついたらしい。先に小さな口を開き、しばしの
沈黙を破ったのは、リムルルだった。表情に、まだ少し怯えが残る。
「この前、にいさまのお家で・・・レラさんに会ったときね?どこか似てると
思ったの・・・ねえさまに、何か関係ある人だって・・・思ってた」
「レラねえさま、でいいのよ」
訂正を促され、リムルルは素直にそれに応じる。
「レラねえさま・・・それでね?さっきレラねえさま、自分はねえさまの・・・
ナコルルねえさまの心の半分だって言った。それじゃあ・・・」
さっきまではあまり人の話を聞いていないような雰囲気だったが、リムルルは
ちゃんとキーワードを掴んでいたようだ。その質問が核心へと迫る前に、
レラは首を縦に振り、それ以上の言葉を遮ぎるように言った。
「えぇ。あの娘は、ナコルルはちゃんと生きてる。心配ないわ」
簡単な答えだった。だが、それで十分だった。
「うぅ・・・う・・・う・・・ねえさま・・・レラ・・・ねえさまぁ・・・」
リムルルの肌に、乾く間もなく新たな涙の跡が描かれる。肩が苦しそうに
跳ねる。震える唇が、捜し求めていた者の名を呼び続ける。そして、
「あ・・・・・・あ・・・よかった・・・よかったよぉ―――!!!」
叫んだ。浜辺に聞こえそうなほどの大声で叫びながら、リムルルは
大きく開かれていたレラの胸に飛び込んだ。
「心配したんだよ?!心配したのぉ!」
「リムルル・・・」
「チチウシ持ったママハハだけが帰ってきてねっ、コタンのみんなが・・・
おっ、お葬式始めてっ、絶対に生きてるって、わたし、わたしぃ・・・!」
「うん、当たり前よ。リムルルを残して、死ぬわけがないわ」
泣きじゃくる背中を抱きしめるレラの指に、ぎゅうっと力がこもる。
「そう、死ぬわけがない・・・あなたを独りになんかしないわ!」
「うっ、うあぁ〜〜ん!!よかった・・・うぅっ、うう〜っ」
時を越え、辛い日々を越え、ついに掴んだ姉の消息。願いは叶いつつある。
あまりの安堵に、リムルルは涙と嗚咽を抑える事が出来ない様子だった。
本当なら俺も駆け寄って抱きしめたやりたいところだが、本物の姉妹の
絆に守られた二人の抱擁を見ているだけで、柄にも無く俺は涙を堪える
事が出来なかった。
「よかったなぁ・・・おっと、ずずっ」
自分にしか聞こえない声で言いつつ、俺はついついこみ上げる物に目頭を
押さえながら、鼻水をすすった。邪魔をするつもりは無かったが、無意識に
立ててしまった鼻の音が耳に届いてしまったらしい。リムルルはレラの胸に
突っ伏していた顔をそっと上げ、レラの背中越しにこちらを覗き込み、その腕を離れた。
そして、泣き笑いの眼を袖でぐしぐしと擦りながらこちらに向かってきて
「にいさまぁぁ〜・・・」
今度は俺の胸にぱふっと身を預けた。普段のような勢いは無く、倒れるようにして。
「いたよ・・・ねえさまいるの・・・ちゃんと生きてるのぉ!」
「良かった、ホント良かったなぁ」
「うん!うん!!わたし、にいさまが居たからここ・・・きゃ」
涙声で吉報を告げるリムルルに返事をしながら、俺は抱きしめようとした。
だがそうしようとした所で、下げた視界の中に収まっていたリムルルは
こつ然と姿を消し、顔が埋まっていたジャケットには小さな涙の後だけが
残されているだけだった。
「やっ、な、何?」
あれっと視線を上げると同時に小さな悲鳴が聞こえる。しっかりと右腕を
掴まれていたリムルルは、ヨーヨーのように再びレラの胸の中に引き戻されていた。
「リムルル、突然何のつもり?」
「やっ、痛っ!放してよ!」
ぎゅうっと握られた手首が痛いのか、リムルルはもがいたが、左手を
腰に回され身体を引き寄せられているので振りほどけない。
「だめよ。あんな男といつまでも一緒にいては!!」
目前に顔を迫らせ、レラはまるで厳しい母親のようにリムルルをたしなめた。
「何で!にいさまはダメじゃないっ!」
「すっかり毒されて・・・!リムルル、あなたは何も知らないだけ。この時代の
人間が、どんなに穢れきって・・・いいえ。腐りきっているかを、ね」
遠慮の無い言葉に痛みよりも怒りが勝ったらしく、リムルルはもがくのを止めた。
「にいさまは違うもん!にいさまの事、レラねえさまは何も知らないんだもんっ!」
必死の反論にも、レラは冷たく首を振るばかりである。
「しなび切った身体と濁った瞳を見れば、そのくらいすぐ分かるのよ。
リムルル、ちゃんと目を開いているの?」
「嘘!そんなの違う・・・っ!!」
言いながらも、レラに生じた僅かな隙を、リムルルは見逃さなかった。
その場にしゃがむようにして、抱きかかえられていたレラの左手の束縛から
抜け出すと、次いで掴まれていた右手をぴっと振り払い、立ち尽くす俺の横へと
転がりそうになりながら駆け寄った。
「リムルル・・・」
どうして良いのか分からず俺はとりあえず名前を呼んでみたが、リムルルは
答えもしなければ、レラの方を睨んだままで俺の顔をちらりとも見ようと
しない。だがその代わり、涙で少し湿った手が俺の左手を力強く包んだ。
それは、何よりも心のこもった返事だった。
「・・・・・・」
しかし同時にそれは、反発の意思表示でもある。レラは無言のまま
腰に手を当て、呆れたようにさっきよりもずっと大げさに首を振った。
「一体、その男があなたに何をして、あなたがどうしてそこまで拘るのか、
私は知らないわ。だけどね、リムルル。あなたには必要の無い男なの」
「どっ、どうして!どうしてそうやってすぐに決めつけるの?にいさまは
何も分からないままこっちに来た、わたしを守ってくれた・・・助けてくれた!
話も聞いてくれたよ?!一緒にねえさまを探しに今日だって・・・こうやって」
「その事については感謝するわ。妹を助けてくれてありがとう。そして
ご苦労様。だけど今日からはもういいわ。私が居るから」
「やだっ!変だよ!お姉さんと一緒に居ていいのに、どうしてお兄さんと
一緒に居ちゃいけないの?!」
「いい加減にしなさい!!」
白波を立て、空気を震わせる突然のレラの怒号をもろに受け、リムルルの
顔に不安が浮き上がる。
「あなたはチチウシを受け継いだ、大自然を守る誇り高きアイヌの戦士!
大自然に仇なすものたちを退け、アイヌモシリの平和を守り続けるのが
役目なのよ?!それが、こんな時代のこんな男と一緒に暮らしていたら、
心も身体も汚れてしまう!」
「や・・・ひぐっ、うっ・・・そんなこと・・・なぃ、のに・・・」
釣り目の奥で怒りの炎が渦巻くレラの瞳に焼かれたリムルルは、震えていた。
震えながらも必死に涙を堪え、聞こえるのかどうかも分からない小さな声で
抵抗を試みるも、レラの止まらぬ口撃に、たやすく押しつぶされてしまう。
「それじゃあリムルル?あなた、足に一太刀浴びていたわよね。その時この男は
どうしていたの?あなたを守ろうとした?一緒に戦った?違うんでしょ?
あなたの事を妹などと呼びながら、守る事も出来やしないじゃない!
これっぽっちもあなたの事を大事になんて思ってない証拠じゃないの!!」
「うあ・・・ぁ・・・ちが・・・うよぉ・・・にいさまは・・・うぅっ」
誤解だった。が、あまりに辛らつなレラの言葉は、悲しみと歓喜の狭間に
落ち、ショック状態となっていたリムルルの脆い心を容赦なく痛めつけた。
「力も、勇気も、知恵も無い。闘いの中で、子供一人も守れない。
男として必要なものが何一つとして無いのよ!こいつには!!」
この言葉が、止めとなった。リムルルは俺の手を握ったまま、その場に
力なく膝から落ちてしまった。伏せた顔、前髪の影に隠れた目元からは、
大粒の涙だけが滴っては、コンクリートに弾けた。
「・・・さ、わかったでしょ」
こちらに歩み寄ろうとするレラに、俺は手の平を突き出した。不思議と
怖くは無かった。というよりも、酷評の連続に吹っ切れていたと言った方が
正しかったかもしれない。
「あのさ」
口を開くと案の定、レラは歩みを止めた。その上にある釣り目は相変わらず
こちらを卑下してはいたが、俺も両の目でしっかりと見つめ返す。
「あんたの言ってることは・・・たぶん間違ってない。リムルルは、特別な
女の子だ。過去から来たって事だけじゃなく。不思議な力を持ってるし、
あんたやリムルルが背負ってるモンは俺には考えもつかないような、
でっかい宿命なんだろうよ?それに比べたら、俺の体たらくときたら・・・な。
返す言葉も無いわ、実際」
レラは、黙って聞いている。リムルルは、相変わらずだ。
「だけどさ、独りぼっちは・・・辛いし嫌じゃん。誰でも」
俺は、リムルルの小さな手を硬く握りしめた。
「だから、俺はリムルルと一緒に暮らしてたんだ・・・守ってやりたかった」
どごっ、という嫌な衝撃がみぞおちの辺りに響いて、レラの身体が
みるみるうちに小さくなる。握り締めあったばかりのリムルルの手が、
するりと俺の手の中から抜ける。視界が徐々に高くなる。地面が、海が、
遠くなる。
「・・・ぉ」
俺は、レラに思い切り蹴り上げられていた。フェンスを越え、月が輝き、
一瞬の無重力を感じた身体が、今度は当然ながら鉛色の海面に引き寄せられて・・・
『話、終わってなかったんだけどなあ』
下らない考えと、俺の言葉を無理矢理に止めたレラのもの凄い剣幕が
頭によぎったのを最後に、俺は意識を失った。
たぱぁーん。