たぱぁーん。  
 
何かが思い切り水に叩きつけられる音が後ろから響いて、リムルルは  
ぎょっと顔を上げた。と同時に、汗ばむほどにぎゅっと握り締めてくれていた、  
兄の大きな手の感触が消えているのにも気づく。  
「・・・にいさま?」  
ぐるりと周りを見回したが、顔を上げる直前まで傍らに居てくれたはずの兄は、  
かくれんぼをしているわけでもないのに、どこにも姿が見えない。  
目の前では、確かな手応えを感じるように、美しく持ち上げられた  
右足を、ゆっくりと下げるレラの姿だけがあった。  
「にいさま!?」  
大きな声で、もう一度呼びかけるが、その声は波の音に吸い込まれた。  
兄が消えた。レラねえさまが何かを蹴った。派手な水音が響いた。  
一体何が起きたのか、にわかには信じがたい光景。冷静さを取り戻せば  
取り戻すほどに、リムルルの背中に冷たいものが走った。  
「う・・・そ・・・」  
僅かな願いを込めたリムルルの声も空しく、レラはありったけの現実を  
大声で叩きつけた。  
「守る・・・ですって!?何も知らないくせに、生意気言うからよ!」  
「にいさまぁぁぁぁぁ!!」  
聞くなり、リムルルは音のした方へと駆け寄った。防波堤から海面までは  
大人の背丈以上ある。それが、ただ飛び込んだだけならよかった。しかし、  
リムルルの胸の高さぐらいまであるフェンスを越えて、厚着をしたまま、  
しかも強烈な一撃を見舞われて凍える冬の海へ落ちたのだ。無事なはずが無い。  
『やだっ、やだあ!!』  
片手は塞がっていた。それに、あそこまで綺麗な残身を取れるほどの蹴りを  
受けたのでは、受身はおろか泳ぐことも、下手をすれば呼吸も、意識も。  
『死んじゃうよぉ!』  
最悪の展開が頭の中を駆け巡る。リムルルは息をすることも忘れ、フェンスを  
掴むと身を乗り出して防波堤の下を覗いた。  
 
「にい・・・」  
「それが現実よ、リムルル」  
大きく見開かれたリムルルの瞳に映る現実。  
それは黒く鈍い色をしていて、時々波を立て、コンクリートに砕けては輝くばかりである。  
その上には、何も浮かんではいなかった。  
「うやああああっ!」  
我を忘れ、リムルルは泣き叫んだ。  
リュックを降ろしパーカーを脱ぎ去り靴を放り、フェンスに足をかける。  
「ちょっと、リムルル!!」  
リムルルが飛び降りる直前で、レラは慌ててがしりと背中から羽交い絞めにし、  
フェンスから引き離そうとした。だが、しっかりとフェンスを握った  
リムルルの手は、溶接されたように揺るがなかった。  
「放してえぇぇ!」  
「バカっ、何考えてるの!」  
「にいさまがっ、ああああ!!」  
「何で、あの男は何なの?!」  
「うああああああん!!!にいさま、にいさまぁぁぁ!!!!」  
もみ合い、大声で叫びながらも、リムルルは涙に歪んだ視界を振り回し、  
黒々とした海面に目を凝らした。だが皮肉にも、兄を飲み込んだ海原は  
ざぶざぶと声を上げて、無駄だとあざ笑うばかりだった。  
「うあっ、うあああああん!にいさまがっ!放せ!はなせぇ!」  
「・・・?!」  
『この子・・・気が狂って・・・違うわ。心が奪われてしまっている!!』  
レラは今までに見たことの無い、泣き叫ぶ妹の姿にそう感じた。無我夢中  
なのか、力まで異常に強くなっている気がする。力比べならそこら辺の  
男に負ける気はしないレラだったが、手に負えない予感がした。  
『このままじゃ・・・手荒な真似はしたくない・・・けど!』  
今にも振り解かれそうな状態で、四の五の考えている暇は無かった。  
愛する妹を救うため。レラはもう一度自分に言い聞かせると、右腕の下に  
通していた腕を解き、間髪いれず、リムルルの背中のわき腹に向かって  
重い掌底を放った。  
 
「ひぅ」  
後ろから前へと、突き抜けそうな程に強烈な一撃だった。リムルルの呼吸が  
詰まる。叫び声も上げられない。脱力しかけたが、それでもリムルルはまだ  
諦めきれず、気力だけになってもまだ海へと向かおうとした。  
「あうっ、に、さま・・・ぐぁっ・・・あ・・・ぁ〜・・・」  
しかし、それもつかの間だった。鈍痛によって腑抜けにされたリムルルは、  
フェンスを握り締めて海の方を向いたまま、ずるずると座り込んでしまった。  
「・・・!・・・・・・!!」  
内臓が絞られて声の出ない口が、はくはくと兄の名を呼ぶ。目に映る景色は、  
形を留めないほどにまで涙で歪んでいた。黒。時折、砕ける音と共に白。  
その色の繰り返しだけが続く。  
「あれは・・・ウェンカムイに取り付かれていたのよ」  
リムルルが動けないと分かって、レラは背を向けながら聞こえよがしに  
言い放つ。  
「リムルル、あなた騙されてい」  
 
ざばぁ!!!  
 
一段と高い波の音・・・のはずが無かった。明らかに、何かが穏やかな海原を  
破った音だ。反射的に、レラは音の方、会心の一蹴を見舞われ、海に  
吸い込まれていった男の方を向いた。  
「なっ、な!?」  
風一つなかった防波堤の先に、耳を裂く氷混じりの寒風が吹き荒れる。  
音の主は、そこに太古の昔からあったような風格でそびえ立つ、氷の柱だった。  
荒く削り落とされた表面が、月光を幾重にも反射し増幅させ、暗闇に沈んで  
いた世界を蒼く照らしている。平らな台座のようになった柱の頂には、  
横たわるずぶ濡れの男の姿が浮かび上がっていた。  
「うぐ・・・こん・・・る!にぃさま・・・!!」  
目の前で起こった奇跡に、凍てつく吹雪さえ寄せ付けない熱い涙をリムルルは  
こぼした。重くなった内臓に呻きながらも、掛け替えの無い友人と、最愛の兄の  
名を呼び続ける。しわくちゃの笑みを浮かべたその顔は、あの刺繍糸と同じ、  
爽やかな蒼で照らされていた。  
 
「そんな・・・コンルが?!」  
心打たれるほどに美しく、そしてレラにとっては異様な光景だった。  
『カムイが、私利私欲のために大自然を貪り、汚し続けるこの時代の人間に  
心を開いたっていうの?!』  
そんなことあるはずが無い、あってはならない。レラは、台座に形を変えた  
コンルがリムルルの元へとふわふわと漂い、男を傷つけぬようそっと地面に  
降ろすところを目の当たりにしながらも、それでもまだ信じられなかった。  
「まさか・・・コンルまで?!」  
いや、それは無いと、レラは顔をしかめた。負の感触が少しも感じられないからだ。  
一方、蹴り上げた男は気を失ってはいるが、息はあるらしい。おそらくは海中で  
コンルが何らかの処置を施したに違いなかった。リムルルは男の首に手を回し、  
寄り添うようにしてわんわんと泣き声を立てている。もちろん、悲しみの涙ではない。  
「・・・・・・くっ!」  
リムルルとコンルは、揃ってウェンカムイに取り付かれた男に魅せられているのだ。  
『絶対にそう、そうに決まってるわ・・・なのに・・・!』  
思いとは裏腹に、あの頼りない貧弱そうな男からは、邪気が微塵も感じられないのだ。  
眼が濁っていると言ったのも、とっさに出た方便に過ぎなかった。  
そう。男は・・・リムルルが兄と呼ぶあの男は、ただの若造なのだ。  
『リムルル!あなたに必要なのは私じゃ・・・ナコルルじゃないの!?  
どうして、どうしてその男なの?!』  
仲睦まじい二人の姿を見れば見るほどに、疑念と嫉妬が心を覆い尽くしてゆく。  
『あんなにナコルルに会いたがっていたじゃない!!私が誰か分かった途端、  
抱きついて嬉しい、うれしいって・・・私だって、ずっと会いたかったのよ?!』  
固く握った拳が震える。悔しさに、歯がぎりぎりと鳴りそうだった。  
間違いはないかと、もう一度だけしっかりと「現実」に眼を凝らす。  
リムルルは、男の上着を脱がせ、リュックから取り出したタオルで身体を  
拭いているところだった。そんな二人の風景がレラには、少しずつだが  
遠ざかっていくように見えて仕方なかった。  
「すぅ・・・・・・」  
目を閉じ、ため息にも似た深呼吸をする。闘いに臨む前の、いつものやり方で。  
再び目を開いたときには、レラの心を飛び交っていたあらゆる雑念は消滅していた。  
 
「・・・」  
レラはそのまま無言で、思念と気配全てを消し去った身体を携え、凍てつく風の  
隙間を縫うように二人の方へと一歩詰めた。が、不意に行く手を阻まれる。  
「シクルゥ・・・」  
自分の後ろで、事の成り行きをずっと見守っていた相棒が、レラの顔を  
食い入るように見つめたまま、のしのしと目の前を横切った。  
「なあに?どうしたの?」  
レラは、いつものように優しく声をかけた。それでも狼には、全てがお見通しだった。  
ひやりと塗れたシクルゥの鼻先が、レラの右手を優しく突く。その手、腰の方へと  
後ろ手に回された手の平の中には、チチウシの柄がしっかりと握られていた。  
「シクルゥ?」  
「・・・・・・」  
お互いの視線が交錯する。  
何をしようとしているのか、わかっているのか。  
獣の眼が物語った。  
「・・・わかった。帰るわ」  
レラはチチウシから手を離しシクルゥの顎の下を軽くくすぐると、相棒の背中に  
飛び乗り、二度と振り返ることは無かった。  
ただ、その顔には落胆とも怒りともつかない、明らかな動揺が見てとれた。  
 
シクルゥの背に揺られ、レラは今夜もまた、見知らぬ雑木林へとたどり着いた。  
海辺からの道中、人には誰にも見つかっていない。人ごみを抜けようと、  
自動車が疾走する道路を横切ろうと、その姿を常人に悟られる事など無い。  
時折、勘の鋭い人間が、頬を撫ぜるカムイコタンの風に、はっと何も無い後ろを  
振り返ったり、猫や犬がシクルゥに怖気づいて、逃げたりむやみに吠えたりする程度だ。  
レラは、風そのものだった。  
 
「・・・・・・」  
無言のまま、レラはシクルゥの背中から、落ち葉に覆われた地面に降りた。  
寝床を探すのだ。植林された人工の林は木々の間隔も広く、身体を寄せる  
にも幹が細い。それに加え、落ち葉の上にはどこもかしこも  
「ここにも、ごみが・・・」  
現代の日本、世界全体の大自然がどうなっているのかを、レラはナコルルの  
中で眠りつつも、大概を肌で感じ、知識として備えていた。それでも、  
肉体を得て、実態に触れる事によるショックは計り知れなかった。  
やり場の無い怒りを空き缶にぶつける。かぁん、という乾いた音。  
空中で頼りなく放物線を描く赤い缶に、あの男の姿が重なった。  
やり切れない気持ちに拍車がかかってしまう。  
「シクルゥ・・・おいで」  
レラはシクルゥを小さく手招きし、手近の木の根元、地面にせり出した  
根の間の落ち葉が溜まった部分に一緒に寝そべった。枯葉と土の甘い匂いと、  
身体を優しく包みざわざわと耳元で心地良い音を立てる天然の布団に、  
とげを剥き出しにしていた気持ちが落ち着いていくようだった。  
「リムルル・・・」  
仰向けになって、レラは妹の名を空に向かって呟いた。既に葉が落ち、  
枝に隠される事の無い星空に、その声は上っていった。  
「シクルゥ。私は、戦うためにこうやって肉体をもう一度得た。そうよね?  
だって、ナコルルが死んだら、私も死ぬんだもの。なのに・・・」  
心の中では、リムルルの事ばかりを考えていた。時は流れ、もう逢えないと  
思っていた可愛い妹との再会は、奇跡としか言い様が無かった。  
「戦う事よりも、あの子に会うことばかり考えてしまっているわ・・・。  
死んだら、今度こそカムイモシリに逝くまで逢えないのに。それなのに、  
この一瞬、今だけでも・・・そばに居たい・・・何でかしら。ねぇ、シクルゥ」  
ふん、と鼻息を鳴らしてあくびをするだけで、シクルゥは何も答えない。  
名前は呼ばれていても、レラの独り言の延長だと分かっているのだった。  
レラは、ごろりと仰向けになった。空は人工の光とガスが混じりあい、  
夜だというのにぼんやりと赤い。星の光は僅かにしか届かなかった。  
 
「リムルル・・・何て幸せそうな顔だったかしら」  
自分の正体と、ナコルルの無事を知った時のリムルルの表情が浮かぶ。  
だが、記憶はそこに止まることは無く、自然と次の風景へと切り替わってゆく。  
男とリムルルが幸せを分かち合う風景へと。  
「また!また思い出して・・・!!」  
レラは頭を振った。これで一体何度目だろう。海辺からここへ来る間にも、  
その事ばかりが頭の中を占めていた。自分の知らない男。自分の知らないリムルル。  
仲睦まじい、二人。レラは枯葉に爪を立て、土もろとも握り締めた。  
『この瞬間にだって・・・リムルルは私の隣に居るはずだったのに。  
これまでの、そしてこれから先の話をして、抱き合って眠って・・・』  
リムルルがどうしても必要だった。欲しかった。苦しめられている  
自然を守り、一緒に戦うため。ゆくゆくはナコルルを救うため。  
「違う!」  
もっともらしい理由をそこまで考えて、レラは自分に一喝した。  
「違う・・・違うわ。リムルルには戦って欲しいんじゃない・・・違う!」  
心の中に生じた真っ赤な嘘を、レラは声に出して否定する。  
「ナコルルを救うために、リムルルは戦えといえばきっと戦うわ。けれど  
それは私の望みじゃない。あの子には血を流して欲しいんじゃない・・・!  
リムルルには幸せになって欲しいだけ!アイヌの戦士とかそんなの、  
あの子には必要ない・・・。私だけで・・・いい」  
本心を掴んだに見えたレラだったが、今度は大いなる矛盾にぶち当たる。  
「なら戦うために生まれた私は、どうしてあの子を求めているの?  
戦いに赴くだけの人間が、一番戦って欲しくない人間を連れて・・・  
おかしいじゃない!」  
つじつまの合わない自問自答の結論はすぐに出た。  
「独りで・・・いいじゃない」  
 
ひとりで。  
 
「うぅ・・・・・・!」  
導き出された救いの無い答えに、レラは泥だらけの手で頭を押さえて、  
うずくまってしまった。もう、限界だった。  
 
「独りぼっちが辛いですって・・・?だから一緒に居たですって・・・?!  
そんなの・・・私だって!独りは昨日で終わりだと思っていたのに!」  
あまりに愚直で、馬鹿みたいに当たり前だった男の言葉。それこそが、  
レラの求める全てだった。  
「リムルル、ごめんなさい。私はあなたが欲しかっただけ・・・だった」  
レラは一段と体を丸めて、弱々しく呟いた。  
あの時、どうしてこうやって素直に気持ちを認めることが出来なかったのか。  
なぜ、リムルルのそばにいるあの平凡極まりない男が、あれ程に憎らしかったのか。  
確かめる必要があった。  
だけど今のレラには動く事が出来なかったし、とっくに答えは出ているような気がした。  
何か、大事なものが心の中で消えてしまったような。  
大切にしておいたものが砂になってしまって、必死にすくおうとしても、  
もう一度形作ろうとしても、指の間からさらさらと流れ落ちていくだけのような。  
 
そしてそれはもう、どんなに追っても、願っても戻ってくる事はないような。  
 
「リムルルぅ〜〜・・・うっ、うあぁ・・・リムっ・・・リムルル・・・ううう!」  
その夜、林の近くでは、心に染みる悲しげな風の音が一晩中絶えなかったという。  
 

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