ある日私は 全く違う世界に飛んできた  
そこで 優しいお兄様に出会った  
毎日一緒に楽しく歌って暮らしているけれど  
高い空が太陽だけのものではないように  
時には悩みも辛い事も降りかかる  
 
だからお兄様 今は眠って下さい  
雨の日は疲れた羽を休めて下さい  
明日はきっと晴れて   
すぐにもまぶしい陽光が私達を空に導く  
幸せな日々が 二人の歌が天まで届く  
 
「おしまい」  
自分と兄を鳥に見立てた歌を歌い終わって、リムルルはゆっくり目を開く。即興にしては  
かなり上手くいった方だと思うが、  
「にいさま、もう寝ちゃった」  
さっきまで苦しそうに息を荒げていたのが嘘のように、兄の寝顔は静かだ。眠りを誘う  
祈りの歌がもう届いたのだろうか。自分にそれ程の腕前があるとは思えなかったが、少し  
は落ち着いてくれたのかもしれない。そう結論して、リムルルはそっと兄の寝顔に触れた。  
伸び始めたヒゲの感触が、ちくちくと面白くて、男らしい。  
「あれ・・・」  
しかしその手触りが別なものに変わって、リムルルは首を傾げた。目元のあたりから頬に  
かけて、少しだけ濡れた感触がある。もう殆ど乾いているが、うっすらと残った筋。ひと  
かけらの苦しみも無いはずの顔に似つかわしくないそれを見つけ、リムルルは戸惑った。  
何で、涙なんて。  
そういえば、歌っている最中に兄は何かを言っていたような気がする。  
今の今までやっていた事の記憶をリムルルは引っ張り出そうとするが、どういうわけか  
頭の中に浮かぶのは、カムイコタンの森の向こう、誰も知らないあの美しい草原の思い出  
ばかりだ。  
 
日が沈む頃になると、頭上をどこまでも貫く空と、地面を覆う草の色が同じになって、  
あたり一面、どこまでも金色に染まる秘密の場所。小さい頃、リムルルはそこで姉に  
多くの歌を教わり、日が沈むと同時に訪れる美しい風景を目に焼き付け、真っ暗になる  
直前に慌てて帰っては、家に着いて二人でちょっとだけ怒られて、そして久しぶりに  
兄と一緒にその秘密の草原に出かけて、気持ちを込めた曲を歌って聴かせ、兄はただ  
一言、ありがとうと――  
「なーんて、ね」  
まるで本当のことのように鮮明で、やけにすらすらと描かれたイメージに、リムルルは  
自分の想像力も捨てたものではないなと、ひとり感心した。  
けど、本当にあそこに行けたのなら、あの風景を二人で楽しめるのなら。  
「にいさま、あのね、ホントに綺麗な場所があるの。いつか一緒に行きたいね」  
乱れ一つ無く正確な寝息を立て続ける兄に、声を落として話しかけながら、兄の顔を  
汚していた涙の跡を拭きとる。  
「あっ、だけどねー・・・あんまり凄くてきれいで、にいさま泣いちゃうかもよ?『綺麗すぎ  
るーっ!こんなの見たこと無いーっ!』って!ふふっ。ホント、すごいんだから。ホントに・・・  
秘密の場所なんだから。にいさまにしか、教えないんだから・・・」  
姉と自分以外はたぶん誰も知らない、家族にも教えたくない特別な場所。それでも、兄だけ  
には教えたい。一緒に行けば、また一つ、二人の絆を深められると思うから。  
日が暮れるまではお互いが、お互いのためだけにあるはずだから。  
「にいさま、大好き」  
いつか教わった大好きのしるしを、リムルルはそっと兄の頬に口付けて残した。いい夢を  
見られるようにと、涙の跡を封じるように左右に一つずつ。別に舐めたわけでもないのに、  
口の中で少しだけ塩辛い味が広がった気がした。  
「さて・・・」  
コンルを冷凍庫にしまいながら、リムルルはこの後の事を考える。  
動けない兄のために、するべき事とは。  
「炊事、洗濯、お風呂のおそうじ・・・」  
指折り数えながら、とりあえずリムルルの頭に浮かんだのは家事全般だった。  
 
「洗濯と、お風呂は簡単なんだけどなぁ」  
残った一つ。炊事は、リムルルにとって最大の難関だった。兄と一緒に練習すると言った  
矢先からこれで、どうしてもっと早くから練習しておかなかったのかと、ひとり今頃に  
なって後悔したが、時すでに遅い。  
「う〜〜ん」  
しかも、洗濯物や風呂場は放っておいても死にはしないが、食事だけはどんな事があっても  
しないわけにはいかない。命を繋ぐ、大事な仕事である。  
「生きるのに一番大事なことが、一番苦手だったなんて・・・はぁ」  
当たり前に送り続けてきた生活のど真ん中に開いていた落とし穴にまんまとはまった  
気分がして、リムルルは盛大にため息を吐いた。まだ料理を始めるわけではなかったが、  
重い腰を上げてとりあえず台所に足を踏み入れる。流し台の横の壁にあるフックには、  
二人分のエプロンが出番はまだかともの言いたげにぶら下がり、どこからともなく入り  
込んだ柔らかい風に揺れながらこっちに向かって手ぐすねを引いている。  
「ちょーっと、待ってね・・・」  
言いながら、少し期待してコンロに置かれた鍋の中を覗き込むも、残り物のかけらも  
無い。美味しいものは美味しいうちにと、毎日残さず食べる癖がこんな所でアダに  
なるとは思ってもみなかった。  
「むむむ・・・むぅ」  
どうしよう。リムルルの頬に、冷や汗が垂れる。  
―くくく・・・  
鍋が、フライパンが、炊飯器があざ笑っている。声まで聞こえてきた。  
―お前にご飯が炊けるかな?  
―お前に玉子焼きが焼けるかな?  
―まずーいご飯じゃ、兄貴が起きたと思ったらまたぶっ倒れるぞぉ?  
「う・・・うぅ・・・で、できるよ!簡単だもん!!」  
―そうか、そうか。それじゃあ、お前ひとりで買物に行けるのか?  
―数字は読めても、材料の分量から何から何まで・・・自分で考えるんだぞ?  
「いざとなったら、『ち○んらーめん』があるもん!大丈夫だもんね!!」  
―ほぉ〜、それでいいのか?料理って言えるのかなぁ・・・そいつは。  
―兄貴、絶対期待してるぞ?  
―そんな手抜きじゃ嫌われちまうかもな。  
 
「うるさぁい!もう!黙って!!」  
リムルルは大声を張り上げて、腰に手を当て、ばしっと鍋を指差した。  
「バカにしないで!ちゃーんと絶対に、美味しい料理つくるんだから!!」  
誰も居ない台所にリムルルの声がこだまして消えて、  
「はっ」  
冷凍庫から心配そうにコンルが一部始終を見ていたのに気づいて、何も無い方向に向かって  
大見得を切る自分の姿に、リムルルは思わず赤面した。  
「えっ、あのね、これはそのー・・・なんだ」  
その、なんだ。からまった舌が、なぜか勝手に困ったときの兄の口癖を口走る。  
「ちょ、ちょっとお鍋のカムイとお喋りなーんて、あははぁ、あ・・・」  
じとっとこっちを睨んでいるコンルに、リムルルは取り付く島も無かった。どんなツッコミ  
を受けるのかとどきどきしながらリムルルは縮まって身構えていたが、コンルは何も言わない。  
なのに、  
「リムルル、何してるの」  
突然の背後からの声。  
リムルルは目を剥き、びゃんっと肩を跳ねさせて数センチ飛び上がった。驚きに絞られた  
肺から、ひんっと声が漏れた。  
あぁ、コンルが見ていたのはわたしじゃなかったんだ。  
子供っぽくてカッコ悪い独り言、聞かれちゃった。  
けどお鍋が悪口言うんだもん、仕方ないよ。  
そういえば聞こえたのは、にいさまの声じゃない。  
 
じゃあ誰。  
 
空中でそこまで思考が転々と巡って、とんと床に着地したリムルルはすかさず振り返り、  
右足を半歩後ろに下げ、両腕で顔をかばった。反射とも言うべき速度で展開された、  
嫌と言うほど叩き込まれたとっさの防御の構え。  
だが次の瞬間には、掴まれるか、殴られるか。何をされるかわからない。  
 
――間に合えっ!  
念じながら舌を噛まぬよう歯を食いしばり、僅かでも敵の様子を伺おうと、リムルルは  
少しだけ開いた両腕の隙間から、声の方向を垣間見た。  
意外にも人影は腕を下げている。構えていない。こちらの動きに驚いたのだろうか、  
その場に立ち尽くすばかりだ。ぎょろりと目を動かす。  
武器、腰の後ろに刀。右手左手、下がったまま。距離、床を一蹴り。抜刀する前に、  
わたしが動ける。  
リムルルは身をかがめる。上げていた腕を下げ、右の拳を握る。そして、下げた後足で  
床を蹴った。少女の本能のうち、戦士として育った側面が導き出した分析の結果はこうだ。  
隙だらけな人影の鼻頭に、固めた拳で先手を打て。  
「とりゃあ」  
ここでやっと、反射に思考が追いついた。飛び上がる前に耳から聞こえた音が、脳を  
通して意味をなす。女の声だった。どうしてか、わたしの名前を知っていた。  
「あああ」  
かがんだ事でいつもより低くなったリムルルの目の前の風景が人影を中心としてぐぐっと  
すぼまり、一気に加速しながら後方に流れてゆく。  
「ぁぁぁ」  
人影は黒い服を着ていた。日中では意味をなさない、闇に溶けるあの色だ。  
「っ!」  
今は敵を殴り飛ばすだけとなった右の拳骨が、リムルルの掛け声を斜め後ろからごうと  
切り裂いて、  
「!!!」  
拳は止まった。人影の鼻先寸前で。  
「はぁっ・・・はぁっ・・・はぁっ!」  
こっちの世界で自分の名を知る人間は殆どいない。闇色の服。女性。  
リムルルの服の中に、人影の情報が冷や汗となってどばあっと溢れた。動作の開始と  
終了がほとんど同時に来て、意味も無く呼吸が乱れる。戦慄が安堵に書き換えられる  
一方、人影が敵でも味方でも無いという現状が邪魔をして、固めた右手を解く事を許さない。  
ぴちぴちに張り詰めた空気の中で、リムルルは構えたまま息を整え、またしてもどこかに  
落としてきた思考をたぐり寄せようと必死だった。だが相手は、背中の冷や汗が乾くのも  
待ってくれなかった。  
 
「リムルル」  
自分の目の前に突き出された拳を両手の平で覆い隠しながら、レラは仕方なさそうに笑った。  
「殴っても良かったのに」  
張り詰めた空気は経験と先読みの壁に阻まれ、レラには届いていなかった。  
笑っている。読まれていたのか、寸止めすることが。甘く見られていたという事なの  
だろうか。そう思うと、リムルルは悔しくて仕方なくなった。全く持って、一発ぐらい  
殴ってやればよかったのだ。勝手に土足で上がりこんで、しかも忘れもしない昨日の  
出来事。報いを受けるのなんて当然だ。きれいな顔のまま帰れると思ったら大間違いだ。  
何もしていない兄が苦しい思いをしたのだから。  
しかしそこまで姉の愚行を責め、もはや凶暴な自分の首に巻かれた鎖を絶ち切るのみと  
いうところで、リムルルは拳をだらりと下げてしまった。レラが意外そうな顔をする。  
「殴らないよ」  
一言ぽつりと言って、リムルルは厳しさをたたえたままの目を横にそらした。  
考えるに、やはり自分の行動は姉に筒抜けだったのだろう。後ろにいるのがレラだと  
分かった瞬間から、リムルルは確かに急ブレーキを踏んだのだ。なぜなら、暴力に暴力  
でお返しをするなど、立派なアイヌのすることではない。姉を殴りつけるなんて、最初  
からある訳がなかったのだ。もしそんな事をすればそれこそ昨日の夜、姉のした事を  
自分で繰り返すようなものだ――  
「何で殴らないの?」  
結論を急ぐレラの声。こちらの神経を逆撫でしているつもりなのだろうか。  
「だって!」  
挑発に乗ってつい言いかけた。殴るなんておかしい、と。そんな考えは間違ってる、と。  
 
そうじゃない。  
そんなのは、本当の理由じゃない。  
 
リムルルは飲み込んだ言葉を口の中でもみ消して、ゆっくりとまぶたを閉じた。違うのだ。  
昨日の事、教えの事。そんな小さな事が自分の拳を止めたんじゃない。  
つまらない激情と建前に支配されかけていた心がすうっと落ち着きを取り戻した。もはや、  
怒りにも月並みな教えにも心は縛られていない。  
 
そんなまっさらで自由な心で、リムルルは思い出す。自分が何のためにこの時代にやって  
来たのかを。それは姿を消した姉を追い、見つけ出し、そして一緒に平和に暮らすためだ。  
では、その姉の心が作り出した反面であるレラは自分にとって何者なのだろう。  
思えば、まだろくに話もしていないのだ。初対面でもチチウシを奪ってすぐに姿を消して  
しまったし、昨日の晩も気がつけばどろん、リムルルは兄と共に防波堤に取り残されて  
いた。そんな情報不足のレラであったが、言葉の厳しさといったらない。あそこまで  
辛らつで好戦的な人も珍しい。流石に自分を戦うために生まれた存在だと言うだけの事は  
あると思う。言葉と同様、物腰も目つきも、悪人を睨むだけで改心させてしまえそうな  
迫力で満ちているし、実際、もの凄く腕っ節が良いらしい。この部屋のような高所から  
飛び降りてもすぐに動ける足腰の丈夫さ。兄が空高く吹き飛ぶ程の蹴り。一発で自分を  
動けなくした背中への一撃。そして、突然現れたのかと思うぐらいに気配を消し去る事が  
出来る身のこなし。一級の戦士としての必然をすべて満たしていると思う。ナコルルよりも、  
もしかすると父よりも強いかもしれない。  
そんなレラだ。強気で、何となくけんか腰の言葉にリムルルは完膚なきまでに打ち負か  
されてしまったし、兄もまた、風邪を引く羽目になってしまった。  
会うたびに驚かされ、苦しめられ、悩まされ。そして今日もこうしてまた。嫌われる要素  
を総なめにしながら、これでレラに良い印象を抱けと言うほうが無理な話のはずである。  
でも、リムルルは違った。  
ただ、愛しかった。  
レラの振る舞いに腹が立った事も、この人は一体何者なのかと疑念を抱いた事も確かだ。  
だけど、どちらも表面的な一時の感情に過ぎない。そんなつまらない心の惑いなど到底  
及ばない、自分では逆らう事も操る事も出来ない心の奥底でリムルルは、レラに初めて  
出会ったあの晩から、確かな絆を感じ取っていた。それは、レラがチチウシを使える事  
よりも、ナコルルと同じモレウをレラが服に施している事よりも、そしてレラが自らを  
リムルルの姉だと告白する事よりもずっとずっと強く、リムルルにレラが自分の家族だと  
心から信じさせるものだった。  
 
その絆は、見えない所からリムルルにこう囁きかける。  
この人は、あなたの姉なのだ。  
すぅっと、リムルルは深呼吸をした。今も感じる、絆。  
深く、確かに。  
「うん・・・やっぱり、そうだよね」  
「何?」  
怪訝そうな顔をするレラを前に、リムルルははぁ〜っと大きく息を吐いて、言った。  
「レラねえさまの言うとおりだ。やっぱりレラねえさまは、わたしのねえさまなんだね。  
小さな頃から、ずっと一緒だったんだね」  
「どういう事よ、ずっと一緒って・・・突然何を言い出すの」  
「ねえさま・・・ごめんね。殴るなんて出来ない。理由を言えって言うなら・・・だって  
家族だから。それだけ、それだけなんだよ?」  
リムルルはレラに歩み寄った。そしてそのまま、レラの身体をぎゅっと抱きしめた。  
リムルルの耳に、姉が息を呑む音が届く。  
「ごめんね、今までみんな気づかなくって・・・」  
ナコルルよりも少し柔らかい感触のするレラの身体に震えが走った。  
「リムルル・・・どうして、どうしてこんな事・・・を。私が昨日の夜にした事、まさか忘れた  
んじゃないでしょうね?」  
「忘れないよ・・・レラねえさまは、にいさまの事蹴っ飛ばして海に落とした」  
「そ、そうよ!あんな事をした私を・・・何もしていない、無抵抗のお兄さんを・・・それなら  
どうして?何で!覚えているなら・・・私が憎くて仕方ないはずでしょ!離れなさいっ!」  
レラは上ずる声で叫び、リムルルの腕を引き剥がした。冷徹なはずの目が迷子のような  
不安と強い驚きに揺れている。あれ程冷静なアイヌの戦士はそこにはいなかった。  
「さあ殴って!私のことを!!もう二度と来るなって、そのくらい言えるでしょ?!」  
「レラ、ねえさま・・・」  
「ちっ、違う!もう私はあなたの姉なんかじゃない!!敵よ、だって、だって・・・だって  
そうじゃない!」  
レラは何かに追われるようにリムルルに近づき、肩を掴み、がくがくと揺さぶって言った。  
「私はね、私は・・・あなたとお兄さんの絆を打ち砕こうとしたの!最低の極悪人なのよ!  
あなたも戦士なら、一度でもチチウシを受け継いだ身なら・・・ちゃんと役目を果たしなさい!」  
 
それでもリムルルは目を背け、身を揺らされるがままで抵抗しない。レラは、気が狂った  
ようなもの凄い剣幕で今度はリムルルの右手を掴み、指を握って拳を作らせようとした。  
「こうよ、こう!さっきは出来ていたのに・・・何をしているの、バカ!バカ!そこまで  
呆けてしまったの?敵は・・・打つのよ!打つの・・・もう二度と、立ち上がれないように・・・。  
身体だけじゃなく、心を・・・折る、まで・・・!」  
興奮のあまりか、レラの言葉の後半は苦しそうな涙声に飲まれて聞こえなかった。レラは  
膝を折り身を屈めて、夢中になって自分の頬にリムルルの右手を導き、こすり付ける。  
「ほら・・・何をぼうっとしてるのよぉ!ぐすっ、なぐ、殴りなさい・・・ほら、ほらぁ!もう、  
二度と会いたくないって、嫌いだって!お前なんて、姉なんかじゃないって・・・うっ、うう」  
嗚咽が混じり、もう力が込められていないレラの手をリムルルはやさしくほどいた。  
「レラねえさまは、絶対にねえさまだよ。今ごろ嘘ついてもダメ。わかっちゃうんだよ」  
「なんで・・・なんで、私は・・・もう」  
「聞いて。レラねえさまはね、ナコルルねえさまと父様と、それからお爺ちゃんとお婆  
ちゃん、わたし。みんなと同じにおいがするんだよ。ずっと一緒の人にしかわからない  
においがするの。だから・・・嘘ついても、ごまかしてもダメ。そばにいたの、ずっと。  
一緒のおうちで・・・暮らしてたんだよね」  
「うぅ・・・うううう〜!」  
レラは涙と鼻水だらけの顔で押し殺した鳴き声を漏らしながら、リムルルに飛びついた。  
「うあぁぁ〜!リムルル、リムルル・・・!許して、許してぇ!」  
自分の胸の上で突っ伏し嘆くレラを、リムルルはしっかりと抱きとめる。  
香る。胸の中から微かな、何よりも愛しいレラの匂い。これまでの人生を過ごしてきた  
土地。そしてその時間の殆どを共に生き抜いてきた、家族の匂い。  
それこそが絆だった。  
 
リムルルは、自分よりも大きな姉を小さな身体と心一杯に感じながら、レラに囁く。  
「レラねえさまも分かるよね?わたしのにおい」  
レラはリムルルの服をさらに強く握りしめた。顔と口元が服に密着しすぎて、熱く湿った  
レラの吐息が布を超えてリムルルの肌まで届いた。  
「えっ、えぇ・・・!ぐすっ、わかるわ、懐かしい・・・カムイコタンの家の、リムルルの・・・!  
何年ぶりかしらね。何度、ナコルルの中であの家の事を思い出したか。帰りたいと、皆に  
会いたいと思ったか!」  
初めて出会った夜から、リムルルは気づいていた。レラはその名の通り、カムイコタンの  
風の香りがするのだ。草木といのちに溢れ、様々なカムイが野山を駆ける、あの懐かしい  
土地の香り。もう戻りたくないと思っていたはずなのに、何ともいえない郷愁をリムルルの  
胸に呼び起こし、コタンの皆の顔をよぎらせる香りだった。  
そしてその風の――レラの――香りは、リムルルの家の匂いさえもこの時代にまで届けた。  
人の生活と時間が染み込んだあの古い家の柱、床、布団、囲炉裏・・・あらゆる全ての匂いを。  
その家で共に暮らす者だけが持つ自分と同じ匂いを、レラは確かに持っていたのだ。  
そう、レラもナコルルと同様、幼い頃から寝起きを共にしてきた姉だったのである。  
帽子を床に落としてしまうぐらいに髪を振り乱したレラは、リムルルの懐でむせび泣き  
ながら言う。  
「もう、もうこの時代にはあの家も無い。カムイコタンの誰も生きていやしない・・・  
だから、大自然を守っても・・・うぅ、どんなに戦っても、それで仮に生き延びたとしても、  
『私達』に帰る場所なんて無いと思ってた!あぁ、なのに、リムルル!愛するリムル・・・  
うっ、うぅ〜っ!!」  
自分の名前を何度も何度も呼びながらこちらを見上げてきたレラの顔が、ふいにナコルル  
の顔とだぶって見えて、リムルルは胸を刺された。  
優しい姉と、厳しい姉。慈しむ姉と、退ける姉。相反する二人の顔、全然違うはずの顔。  
でも、レラの顔には浮かんでいる。ナコルルと同じものが。  
リムルルが何とかしてナコルルから取り除こうとした、最もナコルルに近しい自分だけ  
が気づき得るものが。二人が心に抱えたまま、誰にも癒す事の出来なかったものが。  
 
 
孤独。  
 
 
家族だというのに、姉であるというのにレラは肉体を持つ事無く、ナコルルの中でただ  
ひっそりとその身を潜めていた。コタンの誰にも、自分を初めとした家族にも、そして  
自らを生み出したナコルルにさえはっきり存在を悟られぬよう、ずっと同じ屋根の下で  
ひっそりと戦いの日に備えて刃を磨き続ける毎日を送っていたのだ。  
誰に愛されるわけでもなく、励まされるわけでもなく。ただ生まれついた定めを、大自然  
と平和を汚す悪しきものと戦い、そして葬る事だけを果たすために。  
悲しすぎる、辛すぎる定め。  
もしかしたらその定めは、大自然と人々の全てを護る事を自らに課し続けて、誰も傷つけ  
たくないという思いが強まった余り、いつしか周りに見えない隔たりを作っていたナコルル  
よりも、ずっとずっと重く苦しい物だったのかもしれない。  
そんなレラを、孤独を生きる運命を背負わされた姉をそこから引きずり離して、二度と  
独りぼっちにしないのはわたしの方だ。リムルルは、すがり付き自分の名を呼び続ける  
レラに、優しい笑顔で言った。  
「大丈夫、もう大丈夫だよ。寂しかったんだよね、ずっと独りだったんだもんね」  
レラは、拭っても拭っても追いつかない輝く涙をそれでも懸命に袖で押さえながら、  
リムルルの懐で泣きじゃくった。  
「うぁっ、うぅ、うん、寂しかった・・・だけどそんな気持ちに負けて・・・うぅ、私は・・・  
お兄さんを・・・。今日だって、お別れを言うつもりで来たの。あなたの中にいる私を、  
殺してほしくて・・・!こんな恥さらしの姉なんて、いたら迷惑でしょ?嫌われてしまえば、  
もう会おうなんて夢にも思わないでしょ?」  
もしもついさっき、万が一にもリムルルがレラを殴っていたとしたら。レラは家族の  
温もりを何一つ知らぬままに、孤独の呪縛を断ち切れないままに自分の前から姿を消そう  
としていたのか。そんな事があっていいはずが無い。リムルルは首をぶんぶんと横に振る。  
「そんな!わたしだって悪かったの。レラねえさまの気持ちも知らないで、にいさまと  
ばっかり仲良くしちゃったんだもん。けどね、もうこれからはずっと一緒だよ。今度こそ  
ちゃんと、一緒に暮らすんだもん!だからレラねえさま、お別れなんて悲しいこと言わ  
ないで!もうどこにも行かないで!」  
 
「本当に・・・本当に、許してくれるの?」  
「うん・・・当たり前だよ。レラねえさま、大好き」  
これ以上の言葉は、何も必要なさそうだった。リムルルはただ、新しくて懐かしい家族と  
こうして仲直りが出来て、これからの生活を一緒に送れることが嬉しくて、ずっと抱き  
しめあった。レラが顔全体をもう一度袖でぐいぐいと拭って、真っ赤な目で心底嬉しそうに  
微笑む。  
「優しい子に、育ったわね・・・。さすがはナコルルに育てられただけあるわ」  
「えへへ・・・」  
「でもね、料理が出来ないなんてそれじゃ一人前とは言えないわね」  
「うぐ」  
ぴん、と人差し指でおでこを弾かれて露骨に歪んだリムルルの顔を見て、レラはもう  
一度目を細めた。熱い涙が、もうひとしずく。レラはカムイに感謝し、祈る。  
――こんなに心から笑えた事、今までの人生に無かった・・・ありがとう。  
「ふふ、あなたの教育はナコルルとお父様に任せ切りだったからね」  
長い瞬き程度の短い祈りを終えて、レラがすっくと立ち上がった。そして何を思ったか、  
上着のすそをばたばたと派手に揺らした。その勢いに乗って、何かが、ごろごろと音を  
立てて床に落ちる。それは大根やら芋やら、幾つもの野菜だった。湿った泥までついて、  
今さっき掘ったばかりのようだ。  
「えーっ?!」  
リムルルは目をひん剥いて仰天した。当たり前だ。何で急に野菜を取り出して・・・いや  
そうではなく、普通に身体の線が出ていた服の中にレラは、何で、どうやってそんな物を  
入れていたのか。青いタヌキの形をした変なのが出てくるテレビの漫画じゃあるまいし、  
これは一体、何事なの。  
「えぇ・・・何で、ちょ、あれ?野菜でしょ、服が・・・よじげん・・・どこでも・・・え??」  
ちんぷんかんぷんになったリムルルに、レラはとどめとばかりもう一度すそを揺らす。  
びちゃ。  
まるまると太った鮭が、ずるんと背中から転げ出た。  
 
「・・・・・・」  
リムルルは立ち上がることさえ忘れ、野菜と鮭を見つめてあんぐりした。  
そんなリムルルをよそに、レラはぱんぱんと軽快に手を打つ。  
「さぁ、みっちりお料理教えてあげる。鍋のカムイとあなたのお兄さんが仰天するぐらいのを、ね」  
「ちょっと、ねぇ、どこにしまってたの?これ鮭でしょ?ねえさまってば、ねえ!」  
「あら、いい包丁ね。ちゃんと手入れされてるし」  
「ねーったらー!!」  
騒がしいやり取りの一部始終を見ていたエプロンが、自分の出番を喜ぶように揺れている。  
 
 

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