「にいさま、にいさま」
「んう、ん・・・」
身体を揺すられて、俺は何時間ぶりかに眠りから目を覚ました。リムルルが朝と同じ
ように、にこにこと笑って俺の枕元に座っている。
ただ、少しだけ様子が変わっていた。リボンの代わりに頭にタオルを被って、髪の毛を
丸く全部しまって後ろで縛っているのである。
滅多に、というよりもそんな格好のリムルルを俺は見たことが無かったので、寝起きと
風邪で錯乱した頭で尋ねる。
「どしたぁ、引越しか?蕎麦でも打つのか?海賊ごっこか?早まるな、頼むから風邪
治ったらに・・・」
「な、何言ってんの?にいさま。それよりね、ご飯作ったんだよ。食べるでしょ?」
空耳か。今度の風邪は本格的にヤバいらしい。
「な、なんて?何て言ったよ」
「だから!ごーはーん」
「リ、リムルルがご飯を?自分で作ったの?」
「うんっ」
「そ、そか・・・」
この上ないぐらいはきはきしたリムルルの「うんっ」に、心の中の不安が逆に加速して
俺はついくりくりとした瞳から目をそらしてしまった。
時計は、きっかり11時30分を指している。風邪であっても朝食を抜いたら腹がかなり
減っているところをみると、意外と早く治るのかもしれないとあいまいな予想が立つ。
しかしそれも食事次第であって、脂っこいものや極端な味付けの食事は禁物だ。逆に
体調不良を長引かせてしまったり、弱った胃腸に追い撃ちを食らわす結果になりかねない。
・・・さて、リムルルの料理とはどんなものか。
まず栄養満点、しかも病人にも食べやすい味付けで、やわらかく消化吸収が良い。
そんなわけがあるか。
「い、いや・・・あのな、あんまり腹へってなくて。食欲無いんだ」
隕石のようなおにぎりしか作れないリムルルの料理だ。下手すれば命が危ない。
防衛本能が、とっさに模範的な言い訳を自動的に生成し口から放送した。
「だから、あーその、もう少し寝てていいか?」
「えー、うっそだー!さっきにいさま、ぐーってお腹鳴ってたもん。台所まで聞こえた」
リムルルは面白おかしそうに俺の腹をぺんぺんと布団の上から叩いた。
何たる不覚か。防衛本能は働いても、無意識に行われる胃の収縮までコントロール出来る
奴などいるわけが無い。しんと静まったテストの最中に腹が鳴るとめちゃくちゃ恥ずか
しいが、今はそんな危機とはレベルが違う。寝汗ではない何かが首筋を伝った。
「な、何を作ったんだい?お、おにぎり?」
ぐらぐらしっぱなしの覚悟で尋ねる俺に、まさかぁとリムルルは手を顔の前でおおっぴら
な仕草で横に振った。
「あのね、オハウっていう料理だよ。あとサヨ」
「おはう・・・?」
「うん、お魚とお野菜煮たお汁」
「お汁・・・くんくん、ん??」
言われて、奇妙なことに気づく。鼻をくすぐる良い匂いが台所から漂ってくるではないか。
俺は思わずがばっと上半身を起こした。あんまり突然だったので、頭に巻いたタオルを
取っていたリムルルの大きな目が点になる。
「この匂い!これ、そのオハウの匂いか?」
「そ、そうだね、サヨはご飯をびちゃーってしたやつだから匂いあんまりしないよ」
「お粥か?!・・・それに煮物まで、いや・・・でも、ごくり」
ストレートな魚と野菜のだしの香りからして、オハウというのはシンプルで身体に良さ
そうな料理だというのが分かる。証拠に生唾が出るし、胃が食い物だ、さっさと食い物
よこせとにわかに騒ぎ出す。
しかもだ。それに病人食の王道、お粥までついてくるのだというではないか。
「お・・・おぉ・・・」
今、栄養満点で病人に食べやすい味付けで、やわらかく消化吸収の良い食事が俺の口に。
「何だ・・・リムルル料理できるんじゃないか。騙したなぁ〜」
何で隠す必要があったのかは知らないが、リムルルが実は家事をどれもそつなくこなせる
という事が妙に嬉しくなって、俺は意地悪っぽく頬を指でつついた。
すると、髪を整えていたリムルルが急にもじもじして言った。
「あの、あのねごめんね、わたしも手伝ったんだけど、作ったのはわたしじゃないの」
「えっ、どういう事?」
「その・・・レラ・・・ねえさまが来てるんだ」
少し申し訳なさそうに伏せていたリムルルの目の動きを追うと、窓にたどり着く。
「えっ、あれ?!」
視界の外だった事は認めるにしても、この狭い部屋で俺の布団から高々2メートル向こう
にいる人間が、ここまでその気配を悟られないようにする事が出来るのだろうか。
そこに居たのは、黒い装束を着込み腕組みをして、コンルが作った方ではない割れて
いないガラスにもたれ掛かるレラだった。
「お早う」
「あ・・・どうも」
驚きをよそに不思議な迫力のある声でレラに唐突に挨拶をされ、俺は少し恐縮した。
「風邪ですってね、調子はどう」
「えっと、熱っぽい・・・あと鼻が出ます」
「そう」
医者と患者のような会話をしながらレラはつかつかとこちらにやって来て、しゃがんで
俺の額に手を当てた。黒味がかかったきれいな目と一瞬だけ目が合って、離れる。
「た・・・確か昨日会いましたよね?」
「えぇ」
「それで、あぁそうだ。いやー何か俺、海に落ちたらしいじゃないですか、ちょっと、
その時の衝撃かな、何かほとんど記憶無くて・・・。会ったかな?って事だけしか覚え
てないんですよ、すんません。・・・・・・それで俺、何かしました?」
「・・・・・・」
何か話をしなくてはと思うついでに昨日の話題を探ろうとしたが、レラの素っ気無さは
筋金入りらしい。自分の額と俺の額の温度を比べるばかりである。
でも少し前、リムルルが怪我していた頃に初めてあった時は、もっと俺の事をだらしない
だの不甲斐ないだのとずいぶんこき下ろしてくれた。なのに今日は悪口も言わないし
見下したりもしてこない。それどころか俺を気遣ってくれている。随分と様子が違う。
「ね、にいさまはホントに何も覚えてないの。だから大丈夫だよ」
見かねたのか、相槌を打ったのはレラではなくリムルルの方だった。
「大丈夫って、何が?あっまさか俺、何か失礼なこと言ったんじゃ・・・」
「ななっ、何でもない!さっ、ご飯食べよ!」
「待ってリムルル」
俺が聞き返すと、リムルルは明らかに無理な笑みを作って立ち上がろうとした。
だがそれをレラがおもむろに止めると、リムルルは今度は困惑した様子で俺とレラの
顔を交互に見た。
それだけの事が、ただならぬ雰囲気を部屋に漂わせる。一体、何が始まるというのか。
楽しい食事を前に立ちはだかるレラが、検温を終えて話し始めた。
「なるほど?自分がした事言った事、何にも覚えてないってわけね。それじゃあなた・・・
えっと、あなたじゃなくて・・・?あら、そういえば名前は何だったかしら」
尋ねられて、俺はまだレラに(というより読者にも誰にも)名前を教えていなかった
のを思い出した。
「コウタと言います」
俺ははっきりぱっきりと答えた。なのにレラはふぅん、と大して興味なさそうにしている。
自分で聞いておいてそれは無いんじゃないのと心の中で俺は抗議したが、今はそれよりも
大事な話の最中だ。レラが改めて俺に聞く。
「それじゃコウタ。あなた、自分が何で海に落ちたかも知らないのよね?」
「そういえば・・・知らないです」
はてと首を傾げる俺とは対照的に、リムルルがいきなりその場で足踏みをして慌てだした。
「いっ、いいよその話題は!ご飯にしようってば。ねぇ、ねぇったら!」
「何か隠さなきゃいけないようなことでもあんの?」
「えっ、あのその・・・」
慌てたかと思えば、今度は俺のたった一言でリムルルはうやむやに言葉を濁らせてしまった。
あからさまに動揺しまくるリムルルを見て、レラがふふっと小さく笑う。この人にもこんな
顔ができるとは少し意外だ。やはりこの前とはがらりと雰囲気が変わっている。
「まあ、確かにシクルゥは普通の狼より大きくてずっと強いけれど・・・だからって、顔を
舐められたぐらいで気絶して海に転げ落ちるっていうのはどうかと思うわ」
しかしもっと意外だったのは、レラが言う余りに現実離れした昨夜の出来事だった。
「お、狼?狼に顔舐められて気絶したんですか?俺が?」
「そうよ、私の相棒だっていうのに。ねぇリムルル、シクルゥは恐くないわよね?」
ころころ表情を切り替えるのに疲れたのか、それともレラの話に何か穴でもあったの
だろうか、リムルルはぽかーんと俺とレラのやりとりを見ていただけだった。そんな
状態で急に自分へ話題が移ってきても対応できそうにない。
「え?え?」
案の定、我に返ったリムルルはどうしたらいいのかわからないらしく、何よ何よと訴え
かける目でレラの事を見た。
「ちょっとリムルル、コウタにしてみたらあんまり格好良い話じゃないから隠しておき
たかったのも分かるけどね、ここまで来たらもう仕方ないでしょ。しらばっくれるのも
いい加減にしたら?」
レラはリムルルの方を向いているので、こちらからでは黒くボリュームのある後ろ髪が
見えるだけで、どんな顔をしてリムルルを諭していたのかまでは分からない。
しかし、レラの顔を見つめているリムルルからは困惑の色が消え去って、ふんふんと頷き、
最後にはにんまりとした。
「んもうレラねえさまってば。にいさまには秘密にしようと思ってたのに、いきなり
ばらしちゃったら止めようがないよぉ!」
「ふふ、隠しても仕方ないでしょ?それにこうして本人も知りたがっているんだから、ね?」
「でも、にいさまカッコ悪かったしなぁ。覚えてないならそのままの方が良かったのに」
「そういうものかしらね?」
「ちょっとちょっと!」
勝手に話が進んで、しかもリムルルまで見ていたとなって立場の無くなりそうになった
俺は二人の会話を遮った。大きい声を出すと、寝っぱなしだった腰にどーんと重い痛みが
のしかかる。が、名誉がかかった状態でそんな事を言ってはいられない。
「そんな、狼って・・・犬と同じか少し小さいぐらいじゃないっけ?だったら平気ですよ、
俺。どうも信じられないな、気絶したなんてそんな話」
「けど、本当なのよ?ねぇリムルル」
「う、うんそうだよ」
しどろもどろなリムルルも怪しいが、それ以上にどうにもこうにも俺には合点の行かない
話だった。というのも、
「あのっすね、だって俺、犬は平気なんですよ?昔、実家で飼ってたんですから」
「あら、それじゃ会ってみる?」
自信満々で嘘を見抜いたはずが、逆に向こうも切り札を返してきた。レラが不敵に笑う。
ここにきて、俺は初めて少し怖気づいた。何で、レラはちっとも動揺しないのだろう。
普通に考えて、犬を飼っている人間が愛犬に一度も顔を舐められた事がないなんてある
はずが無い。しかもシクルゥがいくら普通の狼より大きいといったって、レトリーバー
やらピレニーズやらを越える大きさに成長することなんて事があるのだろうか。まさか、だ。
レラもそれをわかっているはずだ。きっとたいした大きさではないに違いない。
なのに、あの笑み。
・・・本当にそんなにでかいのだろうか?だがここで退いては男がすたるというものである。
風邪のことも忘れ、布団を蹴ってあぐらをかいた俺は自分の膝をぱしぱしと叩いて弱気の
虫をたたき出すと、レラに負けじとにやりとしてみせた。
「え、ええいいですとも!呼んでくださいよそのシクルゥってのを」
「もう後ろにいるわよ」
「えっうわっぷっ」
振り向いて、存在を確かめる間もなかった。
顔のど真ん中を上から下に、ざらざらべちょべちょの生暖かい感触が蹂躙する。二回、
三回、四回とべとべとが顔を余すことなく舐めつくし、巨大な毛むくじゃらの塊が、
その前両足で俺の胸倉にスタンプを押すように思い切り押し倒してきた。
「ぐぁ」
重くて苦しいその上に、目を開くことも難しいぐらいに休むこと無く続くべろべろ攻撃。
それだけでも激しい攻撃力だった。息は詰まるし、ぬるぬるの精神ダメージも計り知れない。
しかしその攻撃の合い間に、唾液でまつ毛をべとつかせながらも俺は見た。
俺の上にいる、四ツ足の化け物。それは明らかに化け物だったのである。
灰色に銀をちりばめたふわふわの毛、立派すぎるたてがみ。俺の手の甲はあろうかという
ぐらいの巨大な前足。その前足を石柱のごとく支える、コーヒー缶では済まない太さの脚。
そして俺を苦しめ続ける舌を収めた口の上に、一つでいいはずの月が二つ、金色に輝いて
いた。その月は真ん丸く、俺の上にまたがる野獣は二倍となった金の月光に野性を異常な
までにたぎらされ、人間を襲うなどという暴挙に・・・いや待て、月が出るにはまだ早い。
ということは、あの月は。
はるか向こうで金色に浮かんで見える二つの月がこいつの左右の目だとしたら、一体
こいつはどんなにでかい化け物なのだ。俺を押さえつけて放さないのは化け物の指で、
べろべろとやっているのは触手か器官か何かだ。
そんな巨大な生き物が俺を食ったところで、なんの足しになる。
――あぁ、なるほど。これは夢だ。
風邪で俺はうなされてるんだろう。考えてもみろ、リムルルが料理を作れるはずが無い。
はい。あそこからが夢でした。何でこんなことに気づかないんだ。いくら風邪だからって
むしが良すぎたんだ。その反動の夢がこれ。我ながら情け無い。
さぁわかった、よし寝よう。もういいだろう。
現実を脳が拒否して、俺はそれに従うままに意識を失いかけて、
「シクルゥ、やめ」
どっかで聞き覚えのある声、いや、レラの声に野獣の動きがぷっつり止まり、地面に
転がった障害物ををまたぐ感じで、金目の野獣が俺の上からのっそりどいた。やっと
息ができて、俺はげほげほとむせ返ってしまう。
「にいさま、お顔べったべた!ちょっと!レラねえさまもシクルゥもやりすぎだよっ!」
息苦しくしていると、リムルルが騒ぎながら俺を抱き起こして顔を拭いてくれた。その
様子を上から見下ろしているレラが言う。
「ま、不意打ちは悪かったけどね。シクルゥはだいぶあなたの事を気に入ってるみたいよ」
やられた、と思った。部屋の隅で行儀良くお座りしているシクルゥは、当たり前だが天
まで貫く大きさでは無かった。でも、でかい。ライオン並である。いや、ホワイトタイガー
と言った方が正解だろうか。しかも毛足が長いせいでその風格は五割増し、百獣の王を
はるかに凌ぐ凄みを漂わせている。あれに急にマウントを取られたら、誰だって怪物だと
思うだろう。
気絶しても仕方ないはずだが、悔しい。
「く、くそ・・・うう」
「悔しがれる元気があるなら風邪もすぐ治るわ。さあリムルル、コウタ。ご飯にしましょ」
風邪で身体がだるい上に呼吸もばらばらで、悪態をつくのが精一杯の俺にそうとだけ
言い残し、レラは台所へと向かった。
「あぁ、カッコわる・・・」
何となく勝ち誇った様子のレラの後姿に、俺は頭を抱えた。その拍子にべたっとした
シクルゥの唾液が手に粘りついて、みじめな敗北感をさらに加速させる。この分なら
昨日の夜の話も本当だろう。
二度の完敗。
がっくりと布団の上でうなだれる俺の肩を、リムルルがぽんぽんと叩き、怪物程では
ないにしてもやっぱり強烈に大きいシクルゥが俺の目の前を悠然と横切って、レラの
後を追った。
そのレラが、汁物をお椀に分けながら何気なく言う。
「――あぁそうそう。コウタ?あなたの看病を兼ねて私、しばらくここで厄介になるわ」
「え゛」
「よろしくね」
――何でそういう大事な事を、この人はいともさらりと言ってのけるのかね。
汚い声を出して唖然とする俺に、リムルルが上目遣いで言う。
「ねぇ、いいでしょ?にいさま。もっと賑やかで楽しくなるよ、ぜったい!」
「あー、えーと、あのー・・・」
リムルルの「お願い熱視線」によろめきながらも、俺は一瞬返事に困った。
というのも、昨日の事は覚えていなくてもレラと初めて会った晩の事、そしてその時
レラが言った言葉を俺は良く覚えていたからだ。
リムルルを迎えに来るわ、と。
だが、厄介になるという事はそれもキャンセルされて、俺はこれからもリムルルと一緒に
暮らせるという事なのだろうか。なんら変わらない・・・・・・どころかいつもより少しウキウキ
したリムルルの様子からしても、どう転んでも離れ離れということは無さそうだ。
「あー、あぁ。い、良いけどさ別に・・・。けど、けどその前にひとつだけ――」
「やったぁー!レラねえさま聞いた?にいさまがいいよーだって!」
「えぇ。さぁ、これ持ってそっちに運んで」
「うんうん!!」
ひとつだけ教えてくれ、リムルルはこれからもここにいるのか?
聞こうとしたが、どうやら大丈夫らしい。
それにしても、厄介以前に俺はレラの正体をまだちゃんと知らないのだ。
リムルルはさっきから、当たり前にレラの事をこう呼んでいる。
レラねえさま?
・・・・・・
食事はそれはもう、至福の時そのものであった。
温かなスープが胃から直接吸収されて身体に活力を送り込むイメージ、というのが一番
正確だろう。味付けも神業レベルのバランスで、部屋に漂っていた香り以上にその味にも
食欲を刺激されて、風邪だというのをリムルルに疑われるぐらい、食が進んで進んで仕方
なかった。
何より印象深かったのは、汁の実に混じっていた鮭の美味しさである。何処で獲ってきた
のかとレラに聞けば「キムンカムイが云々」でよく分からなかったが、とにかく最高だった。
「いや、ホント美味しかったです。ごちそうさまでした」
コウタツの正面でお茶をすするレラに、俺は両手をコウタつについてお礼を言った。
「お口にあって良かったわ」
「お口にあうどころか、にわかに元気が出てきましたよ」
「無理はしないでね」
「これならもうずっと居てくれても構わないですよ。歓迎します」
「あら、ずいぶん現金だこと」
話していると、右手に座っているリムルルが俺に向かってみかんをころころ転がしてきた。
「ねえ、お野菜の皮、私が剥いたんだよ?」
「うん、美味かった」
「それからね、剥いてから切ったのもわたし!」
「うんうん、美味かった」
「やった!これからもわたし頑張るよ!」
これで何度目だったか、リムルルはさっきから嬉しそうにアピールを繰り返している。
レラの手できれいに切られた野菜に混じって前衛的な芋が入っていたり、中には殆ど溶け
ているぐらい切り刻まれたものもあったが、それでもリムルル本人はかなり自信を深めて
しまったようだ。食べる事よりも作る事のほうが楽しみで、夜が待ちきれないとまで言い
出す始末である。こういう突拍子の無い事を言い出すのはさすがリムルルといった感じだ。
ただ、それよりも今気になるのは、昔飲み屋で手に入れた「親父の小言」がびっしり書か
れた俺愛用の湯飲みで、淹れたてのお茶を静かに飲むレラの方である。
俺はまだアピールをしようとしたリムルルを少し適当な相槌であしらうと、食事中に聞いた
ばかりの話をあらためて話題に上げた。
「いや〜、びっくりしましたよ。レラさんがリムルルのお姉さん、しかも心から生まれた
存在だなんて」
びっくりで済むあたり、俺もだいぶ慣れてしまったんだと思う。
日常から氷は浮いているし、腕を斬られてぴんぴんしている奴を目の当たりにしている
のだから無理も無いのか。
どうやらこの話自体は昨日海で出会った時に詳しく話をしたらしいのだが、俺はやっぱり
何も覚えていなかったので、さっきレラの話を聞いてやっと俺の中で色んな事のつじつま
が合った。
リムルルとレラの関係は何か深いものがあるんだろうと薄々感づいてはいたが、迎えに
来るというのも姉妹なら分かる話だし、やたらリムルルと仲が良いのも頷ける。
「世の中、不思議な事が一杯ですねぇ」
俺の話を聞いていたレラがお茶をすすり終わって、湯飲みをコタツに置きながら言う。
「まあ、私が生まれたのは必然といえば必然なのよ。私が戦わないことにはあの子は、
ナコルルは何の抵抗もできないまま死ぬから」
「・・・・・・」
話題の気楽さと半比例して、レラの返事はものすごく重くフォローしづらい。何も言えず
黙りこくってしまった俺の隣で、リムルルもさっきまであれほど楽しそうにしていたのに、
手に持って剥きかけたみかんに目を落としてしょんぼりとしている。
重い空気に気づいたのか、レラが薄く笑った。
「二人とも、そんなに深刻な顔をしないでちょうだい。死なせるわけがないでしょう?
誰が好き好んで死ぬものですか」
「そ、そうですよね!レラさん強そうだし、こうやって妹にも会えて、なぁリムルル」
明るい話題の糸口に、チャンスとばかりに俺も飛びつく。
「う、うん・・・」
でも、一度不安になってしまったものをそうすぐに拭えという方が無理で、リムルルは
親指に刺さった丸のままのみかんをぴこぴこと動かしながら、どこか遠い目で窓の外を
眺めていた。
――あっちゃあ〜。やっちゃったか・・・
こんな昼間から俺が気の利かない話題を振ってしまったせいで、リムルルはさびしんぼ
モードに突入してしまった。この後寝るまで一体どうやって間を取り繕ったらいいのか。
自分を呪おうとしたところで、レラが助け舟を出してくれた。
「リムルル、そんな顔しないで。前にも言ったでしょ、会いたいならいつでも会えるのよ」
「ホント?ホントなの?レラねえさま」
リムルルが手からみかんを落とし、すがりつく顔でレラに目をやった。視線を受けてレラも
ふむと軽く頷く。
「嘘はつかないわ・・・あ、もう一杯頂けるかしら。美味しいわね、これ」
言われて、俺は急須に入っていたお茶を全部レラの湯飲みに淹れた。緑茶が大変気に
入ったのだそうだ。
「・・・・・・」
リムルルは何も言わずに、白い湯飲みを傾けて四杯目のお茶を味わうレラを見ている。
シクルゥが鼻先に転がってきたみかんを、前足でちょいちょいとやっている。
かこーんと、獅子おどしが欲しくなるぐらいの和みの空間。
しかしナコルルの事となれば、リムルルには和みなど単なる足踏み、時間の無駄。それ
こそどうでも良い事だ。
思ったとおりリムルルは、レラがお茶を飲み終わるのを待たずに身を乗り出して、不満
だらけの顔でぐいと詰め寄った。そして、
「すぐにでも行けるんなら、だったら・・・・・・今すぐ連れてって欲しいよっ!」
静寂を突き破る叫びを上げた。
ずずぅ。
レラがお茶をすする音が返事の代わり。
口を思い切り尖らせたリムルルの方から、かちーんという音が響く。
「ちょっと、まじめな話してるのに!聞いてよレラねえさま!」
すたーん!
リムルルが抗議の声を上げるや否や、斜め45度まで傾いていたレラの湯のみが勢い
良くコウタツに置かれた。
その湯飲みの肌に燦然と輝くは、親父の「人には腹を立てるな」のお言葉。
レラが口を拭いながら言う。
「リムルル、せっかちが過ぎるわよ。お茶はゆっくり飲むもの・・・そうでしょコウタ」
「はぁ、まあ・・・」
「別にお茶なんて後でもいいでしょ!わたしがこっちに来た理由知ってるくせに・・・」
「分かっているわ。だけどあなた、今すぐ行くにしてもコウタは、自分のお兄さんは
どうする気なのかしら?」
「そ、それは・・・」
逆に問いただされたリムルルが、困り顔で俺の方を見る。その顔をしたいのはむしろ、
今置き去りにされたらやばいこっちの方だ。
俺たち二人、特にリムルルの様子を伺っていたレラが、ふぅと小さく一息ついた。
「そういう事よ。私が驚かせたせいでコウタは風邪を引いてしまったのだから、私が
ちゃんと最後まで看病するのが筋。コウタが回復したらすぐにでも連れて行ってあげる。
けど・・・そうね」
言いかけて、レラが急に妖しく笑って俺に視線を投げかけた。
何かをたくらんでいそうなきつめの瞳の向こうに、女性の妖艶さを匂わせて。
「何ならリムルル、シクルゥに跨って一人で行ってきたら?心配は無いわよ。あなたの
大事なお兄さんは、ちゃんと私が・・・」
ホステス顔負けの色っぽさを発揮するレラの手が伸びて、コタツを挟んだ正面で湯飲みを
握ったまま術にはまった様に動けない俺の手を取ろうとしたところで、リムルルが手を
ぐーにして立ち上がった。後ろで横たわるシクルゥの耳がぴこんと動く。
「だっ、だめ!にいさまはわたしが看病するんだから!!」
「あらどうして?リムルルったらナコルルに会いに来たんでしょう?それなら、するべき
事の順番が狂ってはいないかしら?コウタはただの風邪なんだからだいじょう・・・」
「ダメ、だめったらダメ!にいさまもしっかりして!」
握った手をぶんぶん振り回してレラの言葉を遮りながら、リムルルが横から衝突事故の
勢いで俺に抱きついてきた。
看病の話をしているのに、抱きついた相手が病人だというのを忘れてやしないだろうか。
俺は倒れこみそうになるのを畳に手を突いて辛うじて止めた。身体がいつもの数倍重い。
「にいさまは・・・わたしじゃなきゃダメなんだもん!」
頬を膨らませたリムルルが、大事な病人というよりは大事なおもちゃは渡さないという
雰囲気で俺の肩にしっかりと手を回してきた。
「だってだって、レラねえさまお風呂の沸かし方だってわかんないもん!にいさまの
お着替えがどこにあるかだって分からないでしょ?」
ふふんだ、とリムルルが鼻を鳴らして勝ち誇る。が、やっぱりレラは動じていない。
「そんなの、コウタにそのつど聞けば良いだけの話でしょう?大して難しくないわよ」
動じぬどころか、レラは逆に冷静な大人の意見で妹を見事論破した。
リムルルの手がぎゅっと俺の肩を掴む。痛い。焦っているのが丸わかりだ。レラもそれに
気づいたらしくニヤニヤしながらこっちを見ている。結局おちょくっているだけなのだろう。
しかし、沸点に達したリムルルは遊ばれているともつゆ知らず、俺の耳元でわめく。
「ぶーっ!それだけじゃないよ!にいさまはコンルで熱をさますんだからわたしが居ない
とダメだし、ご飯を食べさせるのもわたしだし、昨日の夜に下着換えたのもわたしだし・・・あ」
「えっ、ちょ・・・下着だと?」
「な、何でも無いよぉ!」
今更言葉を覆されても遅い。言われて、俺はどぎまぎしながらパジャマのズボンのゴムを
引っ張った。
・・・・・・本当だ。確かに新しくなっている。トイレの時には呆けていて気づかなかった。
「何で・・・」
どうしてリムルルが俺の下着を。
整理しよう。俺は昨日海に落ちて、ということは水浸しで、服はもちろん身体もずぶ濡れ
だった。そこで俺はリムルルに身ぐるみを剥がされて、下着も剥がされて、しかるのちに
アレを見られて、ソレを拭かれて、トランクスを履かされたという事なのだろうか。
ビンゴ、そういう事だ。
「はあああ・・・仕方ないか。気絶してたんじゃなぁ・・・」
ぐったりする俺を前にリムルルは顔を真っ赤にしながら、俺が言った事にうんうんと
やたら強く頷いて同調してみせた。
「そ、そうだよ安心して!下着換えただけだから!おちんちんなんて見て無いからっ!」
「ちん・・・て、何を言ってんだ?」
「あ、うっ・・・や、やだぁ!うあぁ〜んレラねえさまぁ〜っ!」
大ボケをやらかしたリムルルは、さっきまで口論していたはずのレラの肩の後ろへ即座に
逃げ込んだ。
あらあらとレラがわざとらしく驚いてみせる。嬉しそうだ。よしよしとリムルルを膝の
上に乗せて、頭を撫でたりしている。甘やかされたリムルルは、すっかり猫みたいに
なってしまった。耳と尻尾が生えて見える。
「レラねえさま、にいさまが怒るのぉ・・・看病しただけなのに〜」
「まあ、この子も年頃だからね。色々興味があるのは仕方ない事よ。許してあげて」
「そうだよ、としごろなんだもん・・・としごろって何?」
リムルルが連発するボケに怒る気力も削がれ、俺はばったりと倒れて天井を眺めた。
「ったく。あーあ・・・また熱が出てきちゃったみたいだよ」
「あら大変。汗が出たんじゃない?リムルル、もう一度下着を換えてあげたら?」
「勘弁して下さい・・・」
「も、もう!レラねえさま、やっぱり意地悪だぁ!」
「冗談冗談。さ、食器を下げるわよ・・・あ、その前にもう一服いいかしら?リムルルも座って」
「むぅ〜」
散々リムルルで遊んで、へそを曲げかけたところで軌道を修正して元通りにしてしまう。
しかも一瞬、俺までもてあそばれてしまった。レラ・・・・・・恐ろしい人が家に来たものだ。
湯飲みの小言が言っている。
人には馬鹿にされていろ。
「リムルル」第四章 はじまり