そこは、陽の光の届かない真っ暗な場所だった。  
終わりの無い、天井も出口も見えない底無しの暗闇の世界には右も左もなく、ただぼうっ  
と足元で繋がれたように動かない薄気味悪いじめじめした紫色の霧が揺らいで見えるだけ  
で、明確な光源と呼べるものは何一つとしてない。どこを切っても闇、闇、闇。  
それでも霧だけが見えるということは、その霧が弱い光を放つ、この世界における唯一の  
灯火という事なのかもしれない。だが、希望を繋ぐはずの光をもたらす霧さえも、鼻が  
ひん曲がるどころかもげそうなぐらいの腐臭に満ちていて、じめじめとした肌触りは  
まるでナメクジを肌の上で飼っているような気持ちの悪さだった。  
闇と腐臭。劣悪極まりない、常人なら一瞬で気を失うであろう環境。そんなこの世の  
物とは思えない悪夢の世界の奥底に、岩の壁にはめ込まれた巨大な鋼鉄の門があった。  
その門は幾重にも大小の鎖でがんじがらめに結ばれ、一見ではそれが門であるという事を  
感じさせず、開く、閉じるという機能は完全に失われている。  
きっと人間がどんなに束になろうと、機械を使おうと、爆弾を落とそうと開くことは無い。  
ある種の絶望を思わせる程にまで頑なに閉ざされた、異様な雰囲気を漂わせる鉄の塊。  
それもそのはず、霧の紫に下から照らされ、辛うじてその異様な姿を浮かび上がらせて  
いるその門は、かつて現世より多くの狂人魔人が開く事を目論み、失敗に終わった「魔界」  
という名の計り知れない絶望の詰まった箱を閉ざしている門なのだから。  
ここはその門の前に広がる暗闇の世界。現世と魔界を繋ぐ唯一の扉の、現世の側。  
 
その名を、「魔界門前」。  
 
だが、一度開かれれば世界を破滅に追いやる事に疑いは無いその門も、この現代において  
はカムイと同様、明確にその存在を掴んでいる「人間」は幸運にして誰一人としておらず、  
おとぎ話や作り話にかつて人々を恐怖に陥れた脅威の片鱗を見せるだけだった。  
だが、全ての「人間」の記憶から魔界の門が消え失せたとしても、それは確かに存在し  
続けている。魔界も、魔界の門も。  
そして魔界の門を知る「者」も、同様に。  
 
「ぶぁァ〜〜〜・・・・・・」  
たなびく霧の中に腰を下ろし、魔界の門の左右にどこまでも広がる、世界を隔てた終わり  
の無い壁に物に背を持たれながら、男は溜めに溜めただらしない声を上げている。何も  
動くものの無い、いるはずも無い魔界門前の空間における唯一の例外であるその男こそ、  
魔界を知る「者」だった。  
「うァ・・・・・・あ〜あっ・・・かッ、ごえッ・・・ぺッ!」  
声を出した拍子に喉にまとわりついた痰つばを詰まらせながら吐き、紐で結わいただけの  
洗ったことも無い伸びっぱなしの髪を、本当にどうでもよさそうにぼりぼりと掻く。  
どこまでもやる気の感じられない一連の動作。  
「ふあ・・・・・・あ〜あ・・・・・・」  
だがそれはまだまだ序の口だ。男は馬鹿でかく口を開いて豪快なあくびを放ったかと  
思うと、今度は薄汚れた胴着の襟元に手を突っ込み、霧と同じ色をしたやけに血色の  
悪い、しかし分厚い筋肉で覆われた胸元をばりばりとかきむしった。  
「ちっ、あ゛〜ァ・・・クソがぁ」  
向ける相手のいない無意識の悪態が涙のにじむ目を半分開かせ、見るものの無い暗闇を  
瞳がどんよりと泳いだ。彼の眼球は、熟して腐り果てた林檎のように赤黒く、とても人間  
のものとは思えない。  
その目が、四方と同様にへばりついた黒い頭上(だと思うのだ、首が上を向きつつある)  
へと届くと、男はばったりとそのまま身体を横倒しにし、背伸びをしながら突如として  
怒号一発、  
「あ゛ーったくよォ!羅刹丸様はヒマだヒマ!ヒマだぞぉぉぉ――ィ!」  
ぞおーイ  うおーィ   ぉーィ・・・・・・  
反響音の中、怒号二発、  
「とーっとと!あのガキあのザコあの氷!!全部まとめて殺させやがれ―――ッ!!」  
やがれーッ  がれーッ   ッ・・・・・・  
二つのこだまも覚めぬ中、怒号三発、  
「はぁぁぁ、あ〜ァ!」  
・・・はとうとう聞かれず、羅刹丸と自らを呼ぶ男は身を捻り左肘を床に突くと、尻を  
ぼりぼり掻きながら、ここ数日のやるせなさを込めに込めたため息を吐いた。  
 
あのリムルルとの闘いの日・・・やるせなさの原因となってしまった、右腕と愛器を失う  
などという失態を演じたとある理由で魔界に生まれついた不死身の男。彼こそが羅刹丸だ。  
あの日から、人間の数え方で大体一週間、現世では七回太陽が昇って沈んだらしい。  
らしいというのは、羅刹丸を呼び出したあの天からの声・・・今現在、気に入らないこと  
だが羅刹丸の「主」である「あの男」の弁から推測できることだからだった。  
その男曰く、「丁度一週間後だ。お前の失った右腕、元に戻るであろう日はな」。  
それで今日、というより最後に起きていた時から眠りに入って、その眠りから目覚めた  
のが今さっき。何だか右肩がむずがゆくなって起きてみると、すっぱりと切れて無く  
なっていた右腕が元に戻っていたのだ。  
「・・・・・・あー、ったくよォ」  
方眉を上げて渋い声を出しながら、羅刹丸は疑うような目で辛うじて見える右手をぐっぱ  
ぐっぱと動かし、肩をぐりぐりと回してみる。だんだんと床を叩いたりもする。  
「ん〜〜〜・・・ッ」  
何度やっても同じだ。そろそろ認めざるを得ない、完璧な右腕の復活だった。動きも、  
感覚も、見た目さえも全てがあの日と変わらない。何も無かったように。  
なのにいきなり、羅刹丸はその大事にして当然のはずの手で拳を作ると、  
「だああああッ!畜生がぁ〜ッ!」  
振りかぶった勢いで床にドカンとその拳骨を打ち込んだ。  
ほこりと砂、それから床に敷き詰められた敷石の一枚が飛び散り、紫の霧を突き破って  
ばらばらに四散して見えなくなった。  
「ムカつく!本ッッッ当にムカつくぜぇェ!」  
その一撃に飽き足らず、羅刹丸は赤く光る目を炎の色に変えて、なおも拳を石に打ちつけ  
てはばらばらに砕いていく。  
――畜生、畜生がァ!!  
念じながら、一発一発に真っ黒な心を煮えたぎらせる恨みを込めていた。  
ガキもそう。ザコもそう。氷もそう。屠痢兜〜とりかぶと〜を失った事もそう。  
全てが、頭の中にある全部が憎い。  
俺を邪魔する全てが憎い。殺し損ねた奴らは全部憎い。生きてる奴はみんな憎い。  
だが、今は。  
羅刹丸の拳をひとしお激しく突き動かしているのは、「あの男」への憎しみだった。  
 
「ガァァァァ!!!」  
魔界に巣食う怪物であっても尻尾を巻いて逃げるであろう雄叫びを張り上げて、羅刹丸は  
立ち上がり、今度はさっきまで背を預けていた壁に向けがむしゃらな拳を打ち込み始めた。  
天井の見えないこの世界で、やはり際限無しに高くどこまでも長く終わりの見えない、  
魔界を封じた壁を形作っている黒い岩に次々と拳大の穴が開く。  
「殺す!殺すぞこらァ、おらアァ!おらアアァ!!」  
「あの男」が、憎かった。  
この失われた腕を脅威の短時間で取り戻させた、力あるあの男が。  
現世にあって現世から最も遠い、一筋の光さえ射さぬこの魔界の門の門前で眠っていた  
羅刹丸を、再び闘いの世に駆り出したあの男が。  
自分と比べても圧倒的な力を持つ、魔の者とも人間とも知れない、得体の知れぬあの男が!  
 
 
かれこれ何日、いや何ヶ月前だったか、その男が開口一番言ったことを羅刹丸は恨みで  
縛り付け、一字一句違わず覚えている。  
曰く、「羅刹丸・・・哀れなり。その身を生み出しし現世の半面を、殺すべき人間を失い、自ら  
の存在の意味をも見失いて、ただ悪戯にその不死身の肉体を横たえ、開かぬ魔界に思いを  
寄せるとは。哀れ、哀れよの」  
背中から数百年ぶりに話しかけられた羅刹丸は腕に頭をもたれて眠っていたが、赤い目を  
開き声の主と鼻面を合わせたのは、目で追えないぐらい素早く立ち上がりその男の首根っこ  
に屠痢兜を突きつけた後だった。  
魔界の門以外から出てきた奴は、全部殺す、すぐ殺す。  
長い眠りの中でも忘れる事の無い、強い恨みと殺りくへの執着で頭に焼きつけてあった  
暗示が、即座に働いたのである。  
久しぶりに立ち上がった羅刹丸は首をごきんごきんと鳴らし、血酒と肴の塊を睨みつけた。  
「誰が哀れだ?おいコラ、調子こいてんじゃねぇぞボケ。そんなに殺されてえのかァ?」  
すぐさま殺して宴、でもかまわなかったのだが、あんまり珍しい数百年ぶりの来訪者の  
顔を一応見ておこうと、因縁をつけながら濁った色の瞳でその「人間」を眺めた。もち  
ろん、首に突きつけた屠痢兜はそのままに。  
 
――ふぅン・・・何だコイツ?  
背の高い男だ。だが、足元から肩までを、引き摺りそうなねずみ色の外套ですっぽり覆い  
隠している。一見貧乏臭い格好だが、その外套は色こそ悪いものの薄汚れた物などでは  
なく、よく見れば金の縁取りがいたる所に施され、物乞いが纏っているようなそれとは  
全然違った。肩口から足元に向かっては何かが降り注いでいるような模様が大きく、これ  
もまた金で描かれていた。  
例えるなら、一雨来る前の遠くの空、山の上にかかった雨雲から稲妻が落ちているような。  
――妙な格好してやがらァ。  
思いながら、屠痢兜を首にあてがわれ断頭を待つだけの顔に目を移す。その途端、  
羅刹丸の歪んだ表情が一段と不愉快そうにくしゃっと真ん中に寄った。  
なぜなら男の顔は、羅刹丸にとっては直感的に気に入らない部類、いわゆる美男だった  
のである。色白の肌に細く落ちた顎。高い鼻に唇は薄くほのかに桃色で、閉じられた目に  
生えたまつ毛もけばけばしい。長く腰まで伸ばした銀髪もうざったいし、耳やら額は透き  
通ったガラスや宝石の装飾品でこってり飾り付けられている。  
一見地味そうで、やたら小奇麗で贅沢な格好、しかも美男。  
「ちッ・・・胸焼けするぜ、テメーはよォ。何しに来たか知らねが気にいらねェな」  
羅刹丸は露骨なしかめっ面を悪意しか感じられない笑みで満たし、  
「まァ・・・その真っ白な格好が、今度ァ真っ赤に染まるのは見物だがなァ・・・っと!」  
右手に軽く力を込めてぴっ、と男の首に沿わせてあった刀を握る手首を返した。  
・・・その時だったと。  
男が金色に輝く目を見開いたのは、首を獲ったはずのその時だったと記憶している。  
そして刀が首を跳ね飛ばす代わりに、目から火花とか、そういう度合では済まない強烈な  
衝撃が寝起きの身体を突き抜けたのもその時だった、と。  
「ギャアアアアァ!?」  
訳も分からぬままに羅刹丸の身体は跳ね飛ばされるように宙に投げ出され、魔界の門の  
壁に叩きつけられていた。  
みしみしと身体の中で骨がきしみ、肺に残っていた空気が全部押し出される。  
「ごほォ!」  
血反吐を闇の中に散らしながら、羅刹丸はそのまま床に落ちてべしゃんと潰れた。  
 
「う・・・ぐ・・・」  
幸か不幸か、口の中を満たすあまり気分のいいものではない自分の血の味のおかげで、  
失いかけた意識を繋ぎ止めていることができた。  
――転ばされちまった・・・らしいな。  
自らのおかれた状況を理解し、何があっても決して放すことは無い得物、屠痢兜を  
床に突き立てすぐさま起き上がろうとする。だが、身体が言うことを聞かない。ふら  
ついて倒れこみそうになるのを押さえ、膝を突くのがやっとだ。  
「うぉ!畜生め・・・」  
前のめった身体を、刀の柄を杖のようにして支えて正面を向くと、暗がりの中に男の姿が  
見えた。やはりというべきか、手応えが無かっただけあって男はその場から動いてもいな  
ければ、首を失ってもいない。だがひとつ違うのは、こちらに向けて開かれた男の目が、  
未だに金の光を放ち続けている事だった。  
その男が、顔どおりの落ち着きある澄み切った声で、しかし顔に似合わぬ年寄り染みた  
口調で言う。  
「成る程。見た目以上に素早く、殺す事に迷いも無く、我が一撃を食ろうてなお悪態づき、  
しかも早々に動けるとは。羅刹丸。不死身なのは本当のようだの」  
紫の霧に隠れた向こうで、白い顔がにやりと笑って自分の名を呼んだのが見えた。  
金の眼光が、自分の額辺りにまで届いて気分が悪い。ただでさえ光とは無縁の生活を長  
く送ってきたというのに。  
しかしそれにしても、人間は目なんて光ったか?とさすがの羅刹丸も疑問に思った。  
「てめ・・・」  
「うむ、それ以上言う必要は無い。その通り、我は汚れた人間などではない。そして  
お前の事は名前から出生まで全て知っておるのだ。のお、覇王丸の・・・」  
 
覇王丸。  
 
それは殺し損ねた男の名。ついに手を掛け損なった男の名。  
俺の許しも無しに時に呑まれ、積み重なった歴史の向こうに消えた剣豪の名。  
羅刹丸は、頭に石つぶてを喰らわされたかのようにぐらぁっと仰けぞった。  
強烈な頭痛がする。ちかちかと目の奥が眩しく光る。吐き気もする。身体が痙攣する。  
 
「ああっ、う、うぅぅゥ!うぐ・・・ぐっ、ぐっ・・・」  
悔しく許せなく、だからといって不死の身では冥界にまで追いかけることも出来ず、どう  
足掻いても果たせなかった本望。片時も忘れる事は無かった。それでも何とか心の深い  
ところに打ち付けて、暴れだしそうになるのを繋ぎとめていたのに。我慢を知らない男の、  
唯一の我慢だったのに。  
羅刹丸の心からそれは、その思いは長い沈黙を破り、弾けて噴出してしまったのである。  
 
俺は、おれは・・・覇王丸よ、  
 
俺はお前を殺すためだけに、生まれてきたのになァ。  
 
「うがあああああああああ!!!!」  
男の正体に関する疑問は晴れなかったが、代わりに跡形無く消し飛んだ。  
禁句の中の禁句に、羅刹丸の中で久しく冷めていた全身の血液が一気に煮えたぎる。  
闇に溶けた魔物の姿を唯一示していた眼光が、振り乱した髪の向こうで絶対の憎悪と  
絶対の恨みを溶かした溶岩の如き輝きを放った。  
「うぎぎぎぎぎ!!今度こそ殺したらァ、お待ちかねのこいつでなァ!」  
おびただしい数の人間から生き血を吸って黒く変色し、もう光る事を忘れた自慢の妖刀  
屠痢兜が、血管の浮き出た腕に乱暴に床から引っこ抜かれる。  
べったりとしたツヤの無い黒、こびりつき、幾重にも重なった血の汚れを帯びた刀身。  
まさしく羅刹丸の辿ってきた人生そのものを示すそれが、殺りくの再開を告げる主の  
号令に狂喜した。  
粗雑な構えで振り上げられると同時に、屠痢兜の錆び付いたなまくらのようだった  
真っ黒の刀身が、みるみうちに羅刹丸の瞳と同じ、主と自分が今求めて止まない鮮血の  
色を浮き立たせたのである。  
血色の刃。これこそが人斬りの妖刀、屠痢兜の真の姿であった。  
「微塵も残さねえぞぉ・・・・・・旋風ウゥ烈斬ッ!」  
その様は、さながら斬りつけられた虚空から血が噴き出しているかのようだった。  
赤い残像を引きながら野太い腕に振り回される屠痢兜の剣圧に生み出された竜巻が、  
羅刹丸の叫びにも似た轟音と共に霧を吹き飛ばし、石の床を砕きながら男へと猛烈な  
勢いで向かって行く。  
 
だが、ついに目覚めてしまった魔人が全ての憎しみを込めるのに、たったの一発ごときで  
足りるはずもない。  
「旋風ゥ!旋風うッ!!せんぷうぅぅぅぅッ!!!」  
今しがた叩きつけられた痛みなどとうに忘れ、名の通り羅刹と化した魔界の男は、凶暴な  
得物で虚空を二度、三度と切り裂き、轟々と荒ぶる竜巻をさらに金目の男へと放った。  
その竜巻に続き、羅刹丸も男へと向かって走り出す。  
「何のつもりか、羅刹丸」  
一歩も動かずに突進を見つめ唇の端を吊り上げた男に向かって、羅刹丸は吼えた。  
「これ見ても、余裕こいてられんのかァァァ!?」  
空気どころか地響きさえ起こす程の叫び声に金目の男が無表情に戻り、舞い上がる風に  
袖を遊ばせながら顔を覆い隠す。  
「ほぉ・・・竜巻が?」  
何と、迫る竜巻が羅刹丸の咆哮を合図に合体し、その勢いと巨大さを増していくのである。  
血とも唾ともつかないものをにやけ切った口元から垂らしながら、羅刹丸は再び絶叫した。  
「アッハハハハハァ!終わりだアァァァァ!!」  
その声に、徐々に集まりつつあった四つの竜巻はついに一つとなり、通り道にあった霧と  
敷石を全て吸い込み、砕いた、巨大な回転凶器へと姿を変えた。  
「飛んだ挨拶もあったものよの・・・。用事の一つもまだ伝えておらぬというに」  
びす、びすっと跳ね飛ばされてきた砂利と石のつぶてに衣服をところどころ破かれながら、  
金目の男は最悪の危機を前にどことなく楽しげに言った。  
「何をごちゃごちゃ!」  
竜巻のすぐ後ろを追いかける羅刹丸が牙を剥く。  
自分の身の丈とは比べ物にならない大きさの竜巻が、男の視界を覆いつくす距離に至る。  
ふと、そこで初めて男が身構えた。  
何か武器を取るでも、さっき羅刹丸を吹き飛ばした技を使うでもなく。ただ、身を包む  
布の間から右手の甲を突き出して、誘うように。  
地面がさらに大きく揺れる。足元の敷石が割れる。粉々に砕け飛ぶ。  
 
「・・・つくづく期待に応えてくれる男よの」  
渦巻の中を飛び上がる石ころまでも見える距離になって、男はぽつり言った。  
言い終わる頃には、足が風の片鱗に掬い取られ――  
「吹き飛べェ!!」  
「吹き飛ぼうぞ」  
片や不敵な、片や凶暴なそれぞれの笑みを交し合い、ついに大竜巻が金目の男を呑む。  
空をかき乱し切り刻む渦巻の中に吸い込まれた砂利同然の男が、きりもみながら地面  
から引き剥がされた。  
鳥よりも高く、速く。あっという間に男は、白い煙のようにぐるぐると際限無い闇の  
空へと吸い込まれていく。  
「何でぇ口だけか!口だけかァ!?ガアッハッハハハハハ!」  
所詮は現世から迷い込んだ馬鹿。俺の力に叶うわけも無いのに因縁なんて一億年早い。  
竜巻を見上げ、愉快な眺めに羅刹丸は高笑いを上げながら、黒い心をとくとくと満たして  
ゆく虐待の快感に最高のかたちで絶頂を飾ろうとしていた。最凶の技で。  
「まだ死ぬなよおおおッ!」  
 
天 覇 ァ !   
 
叫びと赤い残像を携えながら突進していた黒い影が、竜巻のすれすれで直角に向きを変え、  
見上げる方向、黒い空へと跳び上がる。  
狙いは、いつ竜巻の勢いに身体を四散させてもおかしくない、白い紙屑ぐらいに見える男。  
竜巻を呼んだ影は、さも当然のごとく竜巻よりも疾く空へと駆け上がる。狙う男の姿が  
あっという間に近づき、刀を振れば届く距離になった。  
だが影は手を下すこと無くそのまま再び離れた。跳ぶ勢いのあまりの強さに、追い越して  
しまったのである。  
理不尽なまでの怒りと、偶然も必然も無い不条理すぎる憎悪を両の目に赤く輝かせながら、  
影・・・羅刹丸はついに勢いを失い空中で止まった。  
そして、逆さまに落ちる。万物を縛る重力に導かれて。  
その、落ちる先。羅刹丸はただ一点を見つめ、狙いを定めた。  
 
すれ違いざまに斬らなかったのも、こうして落ちるのも、全ては計算づくである。  
男が運ばれてくる竜巻の回転に、羅刹丸が落ちる勢いを重ねた、叩きつけるに等しい斬撃。  
下を見れば、衣服をボロにまで引き裂かれた男がぐるぐると渦の風に揉まれ近づいてくる。  
白い服を着ているせいで目立つ。的だ。  
――外しようが、無ェ。  
肉を断つその瞬間まで、あと少し。  
すれ違い様の男の顔は目を閉じていたから、思い出してもそんなに面白いものではない  
のでやめておいた。これが目を剥いて絶望に泣き叫んでいるとか、あまりの高さに小便を  
漏らしているとかなら気分もかなり盛り上がるというものだったのだが。  
代わりに、来るべきその瞬間に羅刹丸は思いをはせていた。  
そう上手く真っ二つにできるとは限らない。空中でたった一発の斬撃にも耐えられずに  
ばらばらになってしまったり、屠痢兜が上手く通っても竜巻に切り刻まれて目の玉を  
捜すのに手間取ったりもする・・・が、それもこれも全て楽しい。ぶち殺せればいいのだから。  
男が近づいてくる。腕と足にボロを絡ませ、人形のように脱力したまま。  
急降下する羅刹丸の赤い瞳に映るその様は、死の円舞にも見えた。  
来た。  
羅刹丸は両手から血が噴き出すぐらいにきつく得物を握りしめ、身を捻ってぐるりと  
縦に回転する。  
光の絶えた世界に、屠痢兜という名の赤い満月が輝いた。  
一回転が終わる。掲げた得物を振りぬくに完璧な間合いが、そこには用意されている。  
絶叫。  
「喰らえやァァァァァ!!!断空ゥ烈ざ」  
がしり。  
闇の中に一本、白く伸びてきた腕に、羅刹丸は思い切り顔面を掴まれ言葉を潰された。  
それでも技の通り空を断ち、金目の男をも断ち、下まで振り抜かれるはずだった屠痢兜が、  
もう片方の手でぱしりと受け止められた。  
あれほど荒ぶっていた自慢の竜巻が、瞬時に掻き消えた。  
信じられない事だが、全ては、同時に起きた事である。  
 
空中で動きを封じられたまま、羅刹丸は理解できなかった。  
あんだけ怒って、あんだけ憎くて、あんだけ殺したいと思ったのは久しぶりだったのに、  
こいつもどれもこれも、全部夢だったのかい。それともこの空白は――  
間違った考えが前進する前に、竜巻によって巻き上げられた石が遥か下に落ちて、ガラン  
ガランと音を立てたのが聞こえた。今この瞬間が紛れも無い現実で、時が止まっていない  
事を強く示す証拠だった。  
困惑は、確信へと変わる。  
――こいつは、結構、やべェ奴かもな。  
握りしめる得物を離す事も、その手を振り払って下に飛び降りる事もできたはずだが、  
羅刹丸は白く、節さえ無い女のような指に顔を受け止められたまま、そんな事を思う  
のがぎりぎりだった。  
押しつぶされていたのだ。  
指の間から見える向こうで、神妙な面持ちでこちらをじっと見つめている男の無言に。  
その無言がもたらす、重い重い静寂と威厳に。  
そして、温かいとかそういう人間が喜びそうなのとは無縁な、でも魔族の男でもそう  
好き好んで味わいたいとは思わない、冷え切った金の瞳に。  
言葉を失った自分の顔が金色の瞳の中で眩しそうにしているのに羅刹丸が気づく頃、  
その瞳のずっと奥で、ちりっと一筋の小さな稲妻がほとばしった。その瞬間、  
ズドン。  
大きな衝撃音が耳だけでなく、全身で聞こえた。  
「が・・・・・・ッ」  
目の前が明るくなり、暗くなって、何も見えなくなる。  
どごぉんと心臓が爆発して、羅刹丸は肋骨と背骨が折れるぐらい胸を突き出しのけ反った。  
びりびりと、さっき叩きつけられた時とは比べ物にならないぐらいの衝撃が超高速で四肢  
と頭を突き抜ける。指一本、爪の先から髪の毛一本まで。肌は一瞬にして焼け焦げ、浮き  
出た血管が破れて血という血が全身から吹き出し、ありとあらゆる筋肉がぶち切れて、  
裂けた肉から覗く骨が、関節というものが必要無いまでにぼろぼろに砕かれたのが分かる。  
 
「かっ、がっ、がっ、がぁっ・・・・・・っ・・・・・・がぁっ」  
まだ身体の中から逃げない電撃に身体をびくびくとばたつかせ、羅刹丸は内臓のどこから  
出血したのかも分からない大量の血をとにかく吐き続けた。  
一瞬の、中も外もない身体全部の、完璧すぎる破壊。  
腕一本無くなるとか首が飛ぶとか、そういう次元の話ではなかった。  
――痛ェ。叫べもしねぇ。でもこれじゃ、かなり長いコト立てねェぞ・・・クソが  
やっぱりしぶとく生きている自分の思考全部を傾けて、羅刹丸は産まれて初めて自分の  
肉体に備わっていた「不死身」を、さらには己自信を憎んだ。  
羅刹丸の頭を握り締めたまま、その格好に引けを取らないぐらいぼろぼろの姿となった  
男がゆっくりと薄い唇を開く。  
「滅びきった肉体、屍の如し。しかれども羅刹丸、死ぬ事は許されぬ・・・それが定め。  
勿体無いとは思わぬか。これから先の一千年、お前は地べたに身を預け、砂を被り  
背に苔むさせ、復讐だけを糧に目覚めの日を待つのだぞ。その間に・・・お前が新たな  
糧とする恨みの根源たる我も、姿を消しておるかも知れぬ・・・ふむ、やはり哀れよの」  
テメーでここまでやっておいてふざけた事を、と羅刹丸は心の中でべっと唾を吐く。  
「いやすまぬ、全くその通りよの。少々悪戯が過ぎた」  
既に鼓動は止まっていたが、どきりとした。完全に男は心の中を見透かしていたのだ。  
「だが羅刹丸よ、我が壊したからにはその身体、治してやる事も叶うのだぞ。元通りに、  
そうよの・・・その怪我であれば一ヶ月」  
日が昇って沈めば現世では「一日が終わる」というらしい、といった次元の知識しか  
持たない魔界生まれの羅刹丸だったが、男の言い草からして千年はクソ長く、一ヶ月は  
ちょろっとしたものなんだろうという事ぐらいは見当がつく。  
「うむ、そういう事よ。羅刹丸・・・もう分かるな。ここまで負けに負け、再び意味の無い  
眠りを送らざるを得ぬはずのお前に、我は復活の機会を与えておるのだ。なぜなら羅刹丸、  
我にはお前が必要なのだ。どうだ?我の話、最後まで聞いてみる気にはならんか」  
聞くも聞かないも、指一本動かせない死体同然の俺に喋りかけるテメーは、はた目から  
見りゃさぞ滑稽だろうよ。気持ちだけは元気な羅刹丸は、どれ話してみろや、どうせ  
ヒマだしなと最後に付け加えた。  
 
「はははは!愉快なヤツよのぉ!人間に比べたらお前のような魔界の者の方が、よっぽど  
小気味の良い輩よ。どれ・・・我がここに来た理由、話し始めるとしよう」  
喋りながらもゆっくり降下していた男の足が笑い声と共に石の床に着地ところで、羅刹丸  
が心の中で口を挟んだ。  
待て。テメーは何モンだ。名前も聞いてねーぞ。  
「おぉ、忘れておったわ。我の名は・・・」  
 
 
「なっにっが『シカンナカムイ』だ、クソ野郎があぁー!」  
猛り狂った羅刹丸は、拳だけでなく蹴りまで入れ、とにかく手近の壁を瓦礫に変えていた。  
叫んでいるのは、「あの男」の名である。  
「調子にのんじゃねェ!調子に!調子にのんな畜生ッ!おらっ、らっ、らあ!」  
思い出しただけで髪が逆立つ、最高の屈辱だった。ある意味、覇王丸を殺し損ねた事  
よりも腹立たしい。  
だが男の言う事に間違いは無く、言われたとおり付き従う事によって得られる利益は  
大きかった。自分がまた眠りについている間に再び時が流れ世界が一変し、せっかく  
見つけた殺したい奴が覇王丸のように逝く前に、壊れ切った身体を取り戻せる。しかも、  
生まれてきた理由さえ霞むぐらいに殺したい奴が、ずるずると芋づる式に見つかったのだ。  
三人と一匹も。  
「へ・・・へへ・・・ヒヒ」  
自分が築いた瓦礫のど真ん中でまだ片手を壁に打ち込んだまま、少々暴れすぎて肩で息を  
する羅刹丸の顔に、身の毛もよだつ残酷な笑みが浮かぶ。  
「殺す・・・今度こそなァ」  
全部が全部をこの拳で今度こそめった打ちにして、爪で切り裂いて、骨を砕き、耳を  
つんざく心地よい叫びに酔いしれながら、真っ赤な血酒と臓物のつまみに仕立て上げて  
やりたい。  
当然すぐには殺さない。まずは腕一本から。いや、足の指からっていうのも悪くない。  
恨みをぱーっと晴らす最高の宴にするのに、どんな手間だって惜しむわけが無いのだ。  
分厚い石の板を砕く人並み外れた腕力で放たれた拳が、壁からゆっくりと引き抜かれる。  
頑丈な拳には、かすり傷にどす黒い血が浮かぶだけであった。長い舌をべろりと出し、  
羅刹丸はずるりと音を立てながらその血を舐めた。  
 
「カムイだかなんだか知らねぇが、話の分かるヤツもいるもんだなァ・・・現世で殺しに  
殺し捲れる上に、俺様の一番の願い事まで叶える方法を知ってるんだからよォ」  
手の甲の上を重たく這い回る舌が傷に触れるたびに走る微かな痛みと、塩と鉄の味に、  
気分をいくらか落ち着かせながら羅刹丸は独り言を呟く。  
言ったとおり、意外にもあらゆる殺しは彼にとって優先事項の二番目だった。  
その上を行く願いこそがシカンナカムイと羅刹丸を繋ぐ接点であり、二人の企みそのもの  
であり、羅刹丸が覇王丸を逃した後、地獄門前に居座る事を決意した理由だった。  
「へへ・・・なんだ、考えてたらよくわかんねぇけど気分がよくなってきちまった・・・ヘッ。  
あらよっと!あーあ!」  
壮年の親父っぽい掛け声と一緒に、羅刹丸は瓦礫の上にどすんと仰向けに寝そべった。  
もうすぐやって来るはずのシカンナカムイの到着まで、再び眠りながら待つ事にしたのだ。  
「もうすぐだァ、もうすぐだぜ・・・大願成就とか言うんだよなァ、こういうのをよォ・・・」  
濁った瞳で魔界の門を愛しそうに見上げながら、羅刹丸は言った。  
「待ってろよ魔界・・・へっ、へへ・・・ヒアハハハハハハ!!!」  
両手の平で床をばしばしと何度も何度も叩く魔界の男の、狂った笑い声が闇にこだまする。  
魔界の門が、震えている。  
再び舌を出して傷を舐める頃には、羅刹丸の右手の傷はとうに癒えていた。  
 

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