リムルルは事あるごとに窓辺にいて、レラを待っていたんだと思う。  
俺の看病をしてくれるのはもちろんだったし、コンルと何か話をしたり、裁縫道具やら  
ハハクルの手入れなどをしていた素振りもあったようだが、俺が布団の中で浅い眠りから  
覚めれば、いつもリムルルは窓辺にもたれかかって窓の外を眺めていた。  
冬の透明で静かな陽の光を受けたその横顔は寂しそうだった。  
だが俺が起きたのに気づくと、リムルルはすぐぱあっと笑みをこぼして色々と世話をして  
くれた。でもあの顔を見てしまった後では逆に気を遣わせてしまって悪かったなと思う。  
どこまで健気なんだ、と心配にさえなる。  
リムルルは確か、過去にも今日と同じように戦いに出た姉の帰りを待っていたのだった。  
何日もただいたずらに思いを募らせ、無事を祈りながら待ち続ける日々だったのだろう。  
コンルが見せてくれた、幼少の頃のふたり。強い絆で小さな頃から結ばれていたふたり。  
その姉が帰らないはずが無い、絆の糸をたぐり寄せて、必ず戻ってくる。そう願っていた  
に違いない。  
だが――  
「・・・・・・」  
そして、こうして窓の外が赤い夕陽の世界に沈む頃に俺が目が覚ましても、リムルルは  
相変わらず窓の近くにいた。  
たださすがに待ち疲れたらしく、今は窓の下にへたり込んでうつらうつらしている。  
その寝顔にオレンジ色の光を反射させているのは、リムルルのすぐ側でゆっくりと回る  
コンルだった。  
コンルの返す光で部屋の中はさながら万華鏡のようになっていて、明るさと暗さを交互に  
織り交ぜながら、ゆらゆらゆったりと回る温かな光と影の空間は何とも幻想的で、再び  
眠気が出るぐらいにリラックスできる。  
もしかしたら、コンルはいつまでも頑張っているリムルルをその不思議な輝きで落ち着か  
せていたのかもしれない。  
「コンル」  
布擦れの音でリムルルが起きないよう、もったりと布団の中から起き上がりながら、俺は  
小さな声でコンルを呼んだ。  
 
きぃぃんと冴えた音を立てながらやってくるコンル。スローな空間に冷たい音。眠気を  
すうっと消し去るような際立ったアクセントが心地良い。  
「コンル、リムルルと居てくれたのか。ありがとうな。俺ももう少しで治りそうだよ。  
これも熱を冷ましてくれたコンルのお陰だね。世話になってばっかだ・・・本当にありがとな」  
指を差し出すと、コンルがちょっとだけ触れてひょいと離れた。軽いキスのような仕草だ。  
何だか嬉しそうにコンルが揺れる。部屋の光もゆらゆら傾く。壁にもたれるリムルルの  
顔も、明るくなったり・・・そして暗くなったりする。  
影が降りたその寝顔を見ていると、切なさに胸が苦しくなって仕方がない。  
「リムルル・・・何か、可哀想だな。待ってばかりでさ」  
・・・・・・ばいばーい。 明日ねー。  
静まりかえった部屋に、窓の外から子供のはしゃぐ声が届く。もうじき暗くなる時間だ。  
・・・・・・ちょっと待てよぉー。 早く早くー。 あははは!  
笑い声も、冗談まじりの怒った声も、どれも平等に夕陽の向こうに帰っていく。  
「待ってる人が目の前に居てさ、追いかけて抱きつくだけで一緒になれるならいいのにな」  
寝起きの頭で少し感傷気味になっていた俺は、思ったことをそのまま呟いてしまった。  
途端に、目の前をコンルが踊りながら横切る。キラキラした光と共に程よい冷気が俺の  
顔を撫でて、消えた。  
「・・・あぁごめん、変な事言って」  
コンルの言いたい事の見当がついて俺は謝った。  
「俺は待たせるような事、なるべくしないようにしないとな」  
そう話を一旦区切って立ち上がり、俺はリムルルの横に座り込む。  
今でこそ静かに眠っているだけになった横顔を見ていると、待たせるどころかいつでも  
一緒にいてやらないといけない、という危機感さえ覚える。  
リムルルは普段は甘えん坊だけど、一度待ってろと言いつけられればいつまでも待って  
しまう方なんじゃないかと俺は恐れていたが、それが今日ついに明らかになってしまった。  
いつか突然、待ちすぎて急に壊れやしないだろうかと不安で仕方ない。  
だからこそ、一緒の時間を多く作るのがこれからも必要なんだろう。  
 
――でも・・・。  
偉そうな事を思いながら、俺はリムルルから逃げるように目を伏せた。しかしそれでも、  
逃れられない現実は心の中からどいてはくれない。  
 
"一緒の時間"を作っているのは俺ではない。  
 
リムルルが正体の分からない怪物を倒してくれたから、俺はリムルルの横にいられる。  
コンルが羅刹丸から俺を助けてくれたから、俺はリムルルの横にいられる。  
レラがリムルルを傷つけた輩を追いかけてくれるから、俺はリムルルの横にいられる。  
リムルルとの時間の全ては、周りから与えられているだけだ。  
その与えられた隔壁の中で俺がリムルルにしてやれる事と言えば、ただ慰め、闇雲に  
励ますことだけ。結局、俺はリムルルを守ることなんか何一つ出来てやしない。どんな  
にリムルルが慕ってくれようと、ただ一時も離れずそばにいる俺こそを必要としてくれて  
いたとしても、それは俺じゃなくても出来た事だ。  
俺はその先に行かなくちゃいけない。俺だから、俺にしか出来ない事を、リムルルと  
ずっと一緒にいるために必要な事をしなくちゃならない。  
こっくりこっくりと頭を揺らすリムルルを、俺はそっと膝の上に寝かせた。  
温かく、しっかりとリムルルの頭の重さが感じられる。柔らかい髪は、夕陽の色に似た  
いい香りがする。小さな手から伸びた細い指が、ひくんと何かを掴むように動いた。  
どれもこれも、何にも変えがたい一瞬の連続だ。安直な言い方だけど、宝物だ。  
それを俺は、大事にしまって守ることばかり考えていた。別れが来る事を拒みながら、  
気持ちのどこかでそれが来る事を甘受して、びくびくしながら備えていた。情けない話だ。  
けどこれからは違う。守りに入るのは、やめにする。  
二人の時間を一生、よろよろのジジイとババアになって死ぬまで楽しんでいくんだ。  
別れる事なんて御免こうむる、だ。物騒だけど、邪魔立てすれば斬る、だ。  
俺は兄である以前に、男だ。自信を持って言える。  
「リムルル、ずっと一緒にいられるように守っていくからな。兄として・・・いや――」  
 
ガララ。  
「ただいま」  
「にゃ・・・あっ、レラねえさまあああああっ!!」  
ガラス戸の開く音と共に、レラの声。  
その声とぴったり同時にリムルルが跳ね起きて、すとんと部屋に降り立ったレラに  
激しく抱きついた。  
「心配したよぉ!ああぁ〜ん!!」  
マフラーを外しかけていたレラが、面食らった顔をして倒れかける。  
「ちょ・・・!半日も経ってないのにこの子は本当に大げさね。すぐ帰るって言ったでしょう」  
「でもっ、でもおっ!!ナコルルねえさまも昔そう言って・・・」  
リムルルに泣きつかれ、レラの表情が優しく柔らかいものに変わっていった。  
「ありがとうリムルル・・・。ただいま」  
「お帰り・・・お帰りなさいぃ!」  
本当に急に出かけて本当に速攻で帰ってきたレラと、リムルルがしっかり抱き合った。  
コンルも嬉しそうに回って、さっきより薄暗くなった部屋の中を再び光で彩っている。  
「お・・・お帰りなさいレラさん」  
大事な誓いを立てている途中だったのに・・・とも思ったが、いつまでも座って取り残されて  
いるのもアホらしかったので、俺も続いた。  
「ただいま、コウタ。リムルルはちゃんと看病してくれた?」  
「えぇ、そりゃもう」  
「う〜ん・・・うん、そうね。顔色も良くなったみたいだし。リムルルご苦労様」  
レラは俺の顔を覗き込んで満足そうに笑い、リムルルの頭を撫でくり回した。  
「疲れた?怪我してない?お腹空いてるよね?」  
レラが動きづらそうなぐらいに、リムルルは両腕でがっちりレラを捕まえて質問ぜめに  
している。さすがの姉をもたじたじにするぐらいに。  
「だ、大丈夫よ。さ、今度は夕飯の支度をしなくちゃ。教えてあげるから頑張りましょ」  
「うん!あっ、その前にわたしお風呂の掃除してくる!ちょっと休んでて!にいさま、  
レラねえさまにお茶淹れてあげて!!」  
 
新しい電池を背中に入れられたおもちゃのように、リムルルは元気に笑いながら一気に  
喋りまくると、レラを無理矢理コタツに座らせ風呂場へ駆けていった。コンルも慌てて  
後に続く。  
二人が行ってしまうのを見届けていたレラが小さく笑い、微かに言った。  
「・・・・・・私も心配してたわ。元気みたいで安心してる」  
「えぇ、まぁ何も無かったんで安心してください。で、お茶飲みます?」  
「ありがとう」  
レラはマントのような黒い外套と靴を脱いで自分の横に置き、物騒な装備も次いで解くと、  
今度こそ脚を崩してコタツに当たった。台所からポットを運んできた俺は、蛍光灯を点け  
レラの座る横に腰を下ろし、お茶の準備をする。  
「お疲れ様でした」  
「そんなに疲れてもいないわ」  
レラはため息混じりに右手を肩に当て、首を気だるそうにゆっくりと幾度か回した。  
「あ、そういえば狼・・・シクルゥはどうしたんですか?」  
レラが窓の方をちょいと指差す。  
「ちょっと外にいるわ。すぐに戻ってくるわよ」  
つられて外を眺めれば、遠い空は紫色になってそろそろ夜の出番だ。  
「あの、それで急用はどうでしたか」  
見た感じでは顔にも何処にも傷一つ無い。本当に戦ったりという事は起きなかったようだ。  
「まあ、私が何をしにいったかは大体見当ついてるわよね」  
「えぇ、リムルルを襲った相手についてですか?」  
「そういう事。ありがとう・・・・・・ふぅ」  
手渡された湯飲みで一服するレラ。やはり、用事は思ったとおりだった。  
「で、何かわかったんですか?」  
レラはもう一口お茶で喉を潤し、少しの間があって、言った。  
「・・・・・・いいえ、さすがにこの短い時間では何も。近場をぐるぐるしただけだから。  
もう少し範囲を広げないとダメみたいだわ」  
「絶対にどこかに潜んでいるんですよ、奴ら」  
「えぇ。それに話を聞いていたら神出鬼没らしいじゃない。近くにいないからって、  
そう易々と安心できないわ」  
 
もっともな指摘にふと心配になって、俺はもう一度窓の外を見やってしまった。薄い  
ガラス一枚を隔てた向こうには、寒空にひたされた何の変哲も無い、当たり前の夕暮れ  
だけが広がっている。  
本当に、当たり前の日常。そこに潜む神出鬼没。  
「準備は・・・怠れないですね」  
熱いお湯で少し渋めに淹れたお茶をすすると、さっき心に決めた決意がふつりと蘇った。  
昼は情けなく見えた緑の水面に映る顔も、今はちょいと一味違う。と思う。  
後は、レラに切り出すタイミングだけだった。なぜリムルルではなく、そしてレラに何を  
切り出すかといえば、  
――俺も戦いたいんです。風邪が治ったら・・・お願いです、剣術を教えてくださいっ!  
リムルルによれば、ナコルルはリムルルより強いのだという。その心の中から生まれ  
出た生粋の戦士としての魂が強くないはずが無い。  
だからこんな事を頼めるのは、レラ。この人を置いて他にいないのだ。  
もしかしたら嫌がるかもしれない。いきなり剣豪に剣術を教わるなんて本当なら恐れ多い  
もいいところだし、素人に剣を握らせるなんて、と断られる事も考えた。  
でも、もう決めたんだ。  
動き出さないといけないんだ。いつリムルルとの時間が止まるか分からないのだから。  
何としても俺は強くなりたい。  
「ずず・・・」  
口の中を満たしている、この苦いお茶を飲み込んだら。  
ごくりと喉の奥が開いたその時、そっぽを向いていたレラがぼそりと言った。  
「で、兄でなく男としての決意の程は?」  
「ぶ――――――――ッ」  
ヒールレスラー顔負けの勢いと、顔を突き出した完璧なフォーム。  
・・・俺は毒霧よろしく、お茶を殆ど噴き出した。  
「やだ、汚いわねぇ」  
自分のせいでこうなっているのに、レラはリングの外、第三者の構えである。  
 
「んぐっ・・・けほっ、げほっ、うぇっ・・・はあはあ・・・な、な・・・聞いてたんですか?」  
鼻までお茶が届いてむせ返りながらふきんでコタツを拭う俺を見て、レラがにやりとした。  
「悪趣味だなんて言わないで、偶然なの。風に乗って聞こえてきて・・・ね」  
「か、風って・・・」  
突風とともに現れたり、聞こえるはずの無い壁を隔てた声を風に聞いたりと、レラと風は、  
何だかいつも密接に関わりあっているようだ。  
と、冷静に分析している場合ではない。俺は飲み損ねた湯飲みの底にちょっぴりだけ  
残ったお茶をずずと吸い込み、恥ずかしい気持ちを何とか立て直した。  
「聞かれちゃ仕方ないです。そうです。俺は・・・リムルルとずっと一緒にいたいんです」  
レラはふぅん、と聞いている。ただ、顔からは笑顔が消えていた。  
「だからその、お願いです!もうこれ以上、リムルルとコンルだけが戦っているのを  
指咥えて見てるのは・・・・・・いや、足手まといは嫌なんです!俺に剣術教えてください!」  
お願いします!と俺は深々と頭を下げた。  
「・・・・・・あなたには無理じゃない?」  
間があったものの、それは即答の範囲内だった。  
やっぱりとは思ったが実際言われると、しかも迷い無い感じだったりすると結構ショック  
だった。顔を上げると、レラはいつかのような少し見下す感じでこっちを見ていた。  
「リムルルが肉体的にも精神的にも、どれだけの修行を積んであそこまで強くなったか、  
分かってるの?」  
そんな事は知るよしも無い。  
「いや・・・」  
してもしなくても一緒のあいまいな返事は、レラの矢継ぎ早な言葉にすぐ消された。  
「それはそれは辛い修行を、あの子は幼少の頃からナコルルやお父様と繰り返してきたの。  
あなたがいくら素人だからって見たなら分かってるでしょ、あの子の強さと身のこなし」  
静かながらに針のように鋭いレラの一言一言が、俺の心の中に残るリムルルの戦いぶりを  
ちくりちくりと思い出させる。  
「それを見て、実際に守られていながら・・・よくもまあ剣を教えろなんて言えるわね。別に  
決意は決意で悪い事じゃないの。あなたとあの子の絆は深い物だって私も感じる。だけど  
分かって。あなたは戦う必要の無い人間・・・」  
 
「それじゃダメなんですっ!」  
もうこの先の話の流れが見えて、俺はレラの冷たい表情と真っ向から対決し、話が「そう  
ならないよう」に切り返した。  
「コンルも前に言ってくれたんです。リムルルにとって俺は、そばにいるだけで何よりの  
存在だって。だから俺は戦わなくてもいい、私が俺とリムルルを守り続けるって。確かに  
そうかもしれない。リムルルだって、俺がちっとも戦えない事は知ってる」  
レラは微動だにしない。ぶつかり合う視線にもわざと感情を込めていないようだ。全てを  
見透かすような深く黒い瞳に、言葉が全部吸い込まれていく。  
でも、俺は続けた。風邪でのぼせていただけかもしれないが、言い切るだけの勇気までは  
瞳に呑まれてはいなかった。  
「だけど、これからも・・・リムルルにはまだ何も伝えてないけど、俺はレラさんが聞いた  
とおりです。男として・・・あいつがいいって言うなら、リムルルと一生過ごしたいんです。  
それなのに俺だけが守られてるなんて、そんなの支えあえて無い、一緒にいるって言え  
ないんじゃないかって思うんです、俺」  
言いながら、俺は自分の中に確かにずっと存在していた気持ちを確かめていた。  
絶対に言い出せなかった。だって、あいつは妹だから。今もそう思っているに違いない。  
それで言い出せずにいて、なぜかそんな大事な話を、事もあろうに出会ったばかりの肉親  
に打ち明けている。おかしな話だ。聞かれたという成り行きがあったとは言え、おかしい。  
でも。  
俺は、リムルルが好きだ。誰よりも。  
あの晩、コンルの中からリムルルが現れたのを見た一瞬で、俺は人生が変わると、どこか  
で感じずにはいられなかった。それはコンルのあまりに派手な登場によるところもあった  
だろう。だけど、変化に対する直感を働かせた最大の理由は、絶対にリムルルだ。  
・・・今思えば、一目惚れだったのかもしれない。  
そしてその直感は現実になった。色々な事が、昔では考えられない事が次々と起こり、  
命を賭けて人生を送ることが日常になりつつある。いつ死ぬかも分からないような日常を、  
一体誰が望むだろう。  
でも、リムルルはそこにしかいない。その、ギリギリの世界にしか。  
だから俺は選んだ。リムルルと生き抜くために。一緒に幸せになるために。  
 
「俺は確かに弱いし、何の役にも立たないかもしれない・・・。だけどリムルルとずっと一緒  
にいるために出来る事は、全部ちゃんと努力していきたいんです!だからお願いします!」  
全部言った。洗いざらい。そして俺は、頭をもう一度深く下げた。  
酷く重く、背中がひりひりしてはちきれそうな沈黙がすぐに俺を襲う。  
レラは俺の言葉を聞いて、何を考えているのだろうか。正直、自分でも青くてしょっぱい  
事を言ったと思う。一緒にいたいとか、何も出来ないのに戦いたいとか。  
どうしてもう少し、気の利いた事を言わなかったのかと・・・。  
カララ。  
言葉を待っていたはずの俺の耳が、全然違う音を聞き取った。窓がゆっくり開く音だ。  
予想していなかった音に顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていたレラが窓を全て  
開き終えて、その横でこちらを向いたところだった。  
部屋に生まれた空気の流れに黒髪を穏やかに揺らしながら、レラが言う。  
「あなたの腕で刀を振るったところで、外敵からリムルルを守ることは・・・きっと無理よ」  
穏やかさとは裏腹に、冷たく窓から流れる風にも似た言葉が、決意に燃えていた俺の心の  
ともし火をふっと消した。  
光も言葉も全部吸い込んで何も返さないようなレラの瞳を見つめたまま、俺は放心している。  
こうなる事は予想していたはずなのに、それでも気持ちは伝わるんじゃないかと期待して  
いた。けど、甘かった。無念の感情に、のぼせ気味の頭が暗くなる。  
「で、でも・・・でも」  
「でも今、あなたのその腕以外に、リムルルを抱き寄せられる人はいない・・・。あなたが  
居なくなったら、リムルルは・・・きっと二度と立ち直れないでしょうね。だからコウタ、  
あなたには生き続けてもらわないといけないの」  
レラが突然言う事に詰まった俺の言葉を引き継いだ。さっきとは180度違う意味の言葉で。  
「は・・・?」  
「わかっているわね、自分の命の重さ。男として誓いを立てるからには、あなたの命は  
あの子の命でもある、そういう事になるのよ」  
「そ、それじゃ・・・!」  
消えたはずの決意に再び火をともしてくれたのは、他でもないレラだった。冷たかった  
表情に、昼間の明るさが戻っている。  
 
「シクルゥ、入って」  
レラがふいに窓の外に目をやると、シクルゥが下からふわりと部屋に飛び込んできた。  
どうやらこのために窓を開けたのだったらしい。風格漂う銀髪の猛獣の口には、薄汚れた  
白い布に包まれた、細長い何かが咥えられている。  
「コウタ、受け取って。それが、私があなたにしてあげられる事」  
レラに背中を撫でられたシクルゥは、俺の目の前にその包みをそっと置いた。  
「これを・・・俺に?」  
レラがゆっくりと首を縦に振ったので、俺はうっすらと砂を被ったそれを手に取って  
慎重に布を取り払った。  
「・・・!」  
ぱらぱらと砂が畳に落ちる音と共に、幾重かに折りたたまれた布の中から現れたのは、  
二つの品だった。  
一つは、30センチに満たない木の筒を芸術に変えた木彫の鞘(さや)。そしてその端  
からは、その中に収まっているものを抜くための握り手が飛び出していた。  
紛れも無く、アイヌのマキリだった。  
壊れ物を触る手つきで、しかし落とさぬよう確実に鞘を持ち、握り手を逆手に掴むと、  
俺は腰の辺りでゆっくりとマキリを抜いた。小さな手ごたえが終わると、月が昇るかの  
ように優雅に、白々と輝く刃がその姿を見せる。  
美しく冷たい、持ち主が望むものを切断するための道具。  
「それはカムイコタンで作られたマキリよ。何かあった時のために、昔隠しておいたの。  
綺麗でしょう、切れ味は良いはず・・・ふふ、まあ、それがその手の震えの原因なんで  
しょうけどね」  
レラが俺の前に座って、そっと手を添えてくれた。俺の手はいつしか勝手に震えていた  
のである。そしてそのまま、刃を鞘に収めるのを助けてくれた。  
もう刀は抜かれていないのに、胸が高鳴っている。頭がさっきから冷えたりのぼせたりを  
繰り返して、冷や汗とも興奮ともつかない変な汗を全身に感じた。マキリと手の平の間  
にも汗が感じられる。木製のグリップにも染みていることだろう。  
 
「それが刀を握るという事なのよ。コウタ。あなたはこれで、誰かを守ることを・・・裏を  
返せば誰かを傷つけ得る存在になったの。望んだとおり、牙を得たのよ」  
レラは特別な事を話している様子ではなかったが、かなり身に堪えると同時に、嬉しく  
もあった。自分がやっぱりまともな世界にはいないんだという事を強く感じる。  
「重いんですね、すごく。感じます・・・抜いただけで冷たくて、熱くて・・・」  
「そうね。だけど、マキリは人に牙を与えるためだけに在るわけじゃないのよ」  
「・・・?」  
レラの何気ない言葉の意味を分かりかねていると、布に包まれたもう一つの品を渡された。  
「さぁ、マキリを置いて。次はこれよ」  
「これは鞘ですよね?マキリの。でも、あれ、ん?」  
裏と表、まさかと思って中まで覗いたが、決定的なものがこの鞘には欠けていた。木彫だ。  
ただ削り出されて形を整え、表面を磨かれただけの質素なものだったのである。  
「シンプルだけど、こういうのもありといえばありか・・・」  
うんうん、と磨かれた木肌の感触を確かめていると、レラが手を横に振った。  
「駄目よ。マキリの鞘の模様には、ウェンカムイを退ける魔よけの効果がある。このまま  
ではこの鞘は使えないわよ」  
「それじゃあ・・・あ」  
俺はようやくひらめいて、レラの言った言葉の意味を理解した。  
「もしかして、これに俺が木彫を施すんですか?マキリで」  
レラが少しだけ白い歯を見せて、笑った。  
「そういうことよ。刃物の扱いを覚えるにはちょうど良いわ。それじゃもう一度、マキリ  
を抜いて御覧なさいな」  
「はいっ」  
すっかりレラの弟子気分の俺は、鞘を布の上においてマキリを再び手に取った。手指に  
緊張が走る。木彫のごつごつした触り心地が、これの中にあるものが特別なものなのだと  
今一度心に予感させる。  
だが緊張とは裏腹に、再び俺の手で抜かれたマキリはさっきのように輝くこともなければ、  
温度を感じさせもしなかった。冷たくも熱くもない、蛍光灯の光を受けて白く光るだけの、  
単なる一振りの短刀だったのである。  
 
「あれ?何で・・・さっきはあんなに」  
「特別なものに見えたんでしょう?それはあなたの気持ち次第ということよ。さっきまで  
あなたは、そのマキリであの子と、自分の命を守ろうと必死だった。決意の全てをぶつけて  
いたわ。でも今は少し違うわね。そのマキリに、木を削る道具としての意味を見出している」  
全くもってその通りで、俺はうんうんとレラの話に聞き入った。あれ程恐ろしいものに  
見えたマキリが、今は隣人のように思えるのである。  
「忘れないで。マキリは心を映す鏡。初めて握った今でさえ、そこまで表情を変えるの。  
だからあなたがマキリに正しく接して一緒に努力すれば、気持ちを引き出してどんな期待  
にも必ず応えてくれるわ」  
レラに、優しさと深い信念に満ちた言葉を伝えられて、俺は背筋を伸ばした。  
「は、はい!分かりました!」  
「いい返事ね」  
そして、互いに少しだけ笑い合った。  
「さて・・・話を最初に戻すわね。それを使って私があなたにしてあげられる事、さっきの  
剣術の話だけど」  
マキリを色んな角度から眺めていると、レラが一番肝心な事を口にしながら立ち上がった。  
「教えるのは剣術というより護身よ。繰り返すけど、あなたは戦わなくてもいい。それ  
でも戦いに近い場所・・・リムルルのそばにいて、そこで共に生き抜く事を選ぼうとして  
いる。だから、まずはあなた自身が一人でも身を守れるようになるのが一番重要なのよ」  
「は、はぁ・・・護身ですか」  
戦う方法じゃないのかと思っていると、レラは背を向けて窓を閉め、外を眺めながら話を  
続ける。  
「えぇ。相手を攻撃するという事は、それだけ無防備になるという事だから。それに素人  
が攻撃の手段を覚えると、自分の力量も計れず、闇雲にどうしても攻めに転じようとする。  
恐怖、焦り、おごり、名誉・・・そういうものに蝕まれてね。一気に死ぬ確率が高まるわ。  
あなたがどんなに気をつけてもこれは絶対よ。実戦なら、確実にそうなる」  
言い切るレラの背中から立ち上る迫力は、リムルルの姉から戦士のそれに戻っていた。  
流石に歴戦の戦士の言う事は違う。まるで俺が羅刹丸に食ってかかったときの様子を  
見ていたかのようだ。あの時も闇雲に突っ走って、竜巻にやられたのを思い出す。きっと  
レラも、そういう素人同然を相手にした事があるに違いない。  
 
「だから、渡したのもマキリなのよ。あまり大きくなくて、軽いし取り回しも良い。振り  
も構えも小さくて済む。それから攻撃しようにも長さが無いから、必然的に防戦に専念  
する事になるしね。あと、刀剣の類はもちろん初めてでしょ?だったらその扱いから  
学んで欲しいと思ってね。小刀は手入れが楽だから」  
理論と経験に裏打ちされた言葉の数々に、俺はただただ納得するばかりだった。  
「それじゃ早速明日から始めるわよ。日の出から剣術の特訓、日中は剣術の特訓、夕方に  
剣術の特訓をして、休み時間と夜は細工と木彫りの練習よ。夕食をたくさん食べて、  
早く調子を整える事。以上」  
「・・・聞き間違えですかね、太陽の昇っているうちはずっと剣術な気がしたんですが」  
「まあっ、やる気のあること。頼もしいわ。これは教え甲斐がありそうね」  
「レラさんが言ったんです!」  
ひょうひょうとしたレラにベタな突っ込みを展開しながら、俺はマキリを何となく鞘に  
戻そうとした。しかし、  
「あれ・・・入らないな。あっいけね、鞘を間違えてたのか」  
俺が必死に収めようとしていたのは、これから細工を施すほうの鞘だったのである。  
「レラさん、この鞘って大きさ違うんですか?」  
不思議に思った俺は、あらためてコタツに身を寄せたレラに聞いた。  
「え、なあに?コウタ」  
「いや、この鞘・・・大きさ違うんだなって。マキリが入らないんですよね。これじゃあ、  
彫っても使えないなあと思って」  
レラは、お茶請けに出しておいた落花生をぱくりと口に入れたところだった。空いていた  
もう片方の手でマキリの鞘を持ち、眺め、口を動かしながら言う。  
「そうよ。これ、あなたのには小さいわ。ハハクルの鞘と同じ大きさになっているのよ」  
「え?ハハクルって・・・」  
「わたしのメノコマキリ、どうかした?」  
「うわー!」  
「わー?!なになに?」  
何の前触れもなくリムルルが後ろに現れて、俺は正座のまま1センチ飛び上がった。  
 
「にいさまどうしたの?どうしたの!」  
おろおろするリムルルのくりっとした瞳に、あからさまな不安が浮かんでいる。  
「あっ、いや・・・何もない、何でもない。掃除おわったのかーなんだー」  
「うん、ぴかぴかだけど・・・あっ」  
その時既に、リムルルの瞳には不安の代わりに俺の目の前にある品だけが浮かんでいた。  
「マキリだー!どうしたのそれ?見せて見せて!」  
もう見つかった時点でアウトではあった。持ち前のすばしっこさでリムルルは俺が懐に  
しまうよりも速く、はしっとマキリを手に取っていた。  
「いいなぁ・・・これ。新品だよぉ。レラねえさまが持ってきたの?」  
振り向いたレラの手元からは、例の鞘が姿を消していた。  
どこかに隠したらしい。マジック顔負けの早業だ。  
「そう。リムルルがお世話になってるし、私も厄介になるでしょ?だからコウタにあげる  
ことにしたのよ。せめてものお礼にね」  
レラは涼しい顔をして落花生を摘みながら、かなりもっともらしく聞こえる・・・というより  
半分は本当なんじゃないかというような小さな嘘をついた。  
「そっかぁー。よかったね、にいさま」  
「あ、ああ。気ぃ遣わせて悪い事しちゃったなー、なんてあははははー」  
「そんな事無いわよ。コウタ、これからも私たちをよろしくね」  
「よろしくー!」  
不自然さが抜けない俺に対して、レラはいたって自然体だ。  
かしこまったお辞儀を見せると、リムルルも楽しそうに隣でそれに倣う。  
「こちらこそだよ・・・風邪は早く治しますんで。どうかそれまでよろしく」  
「うん!にいさまのために、ご飯作るの頑張るからね!さ、レラねえさま始めよっ!」  
「えぇ、そうしましょう」  
まぶしい笑顔で顔をいっぱいにしたリムルルは俺のひざの上にマキリを返し、レラの手を  
引いてコタツから起こした。  
「さーっ、がんばろー!おー!!」  
こっちに背を向けたリムルルが、コンルと一緒に「えいえいおー」とやっている隙に、レラが  
すかさず俺に耳打ちをした。  
 
「・・・リムルルの姉として、そしてあなたの友人としてやってあげられるのはここまでよ。  
模様の彫り方は教えてあげるけど、さっきの鞘は・・・まあ、どこの土地にも、どの時代にも  
『そういう風習』はあるものなのよ。カムイコタンにもね・・・」  
そして胸元からするりと鞘を引っ張り出し、俺のひざの上、マキリの横に置くと、袖を  
捲って行ってしまった。  
「さぁ、準備はいい?」  
「うんっ!はいっレラねえさま、えぷろんだよ!」  
台所から包丁の音や水の音、それからリムルルの元気な声が聞こえてくる。  
人肌で温められたマキリの鞘の温度と、耳の奥に残るレラの吐息と言葉を感じながら、  
シクルゥと一緒に取り残された俺は色々な事を思う。  
――確かついこの前までは、全然俺のことを認めていなかったのに・・・何でここまで?  
レラは俺に護身術を授ける約束をして、しかも「そういう風習」のための品、リムルルに  
渡すための贈り物の事まで教えてくれた。こんなに頼りない俺を、リムルルに近づけよう  
としてくれているとしか思えない。  
正直嬉しい。とても幸せだった。リムルルとの未来という目標に向け一歩前進できたし、  
こうしてマキリを手にしているだけで、やる気がどんどん湧いてくる。それにレラが  
さっき言ったように少しでも俺の事を受け入れてくれて、だからこれをくれたのだと  
したら、それも喜ばしい事に違いない。  
でも、俺の心にあるのは手放しの喜びではなかった。  
さっき何となしに目に入った、耳打ちが終わった時のレラの表情が気になるのだ。  
何かを恐れ、焦り、泣き出しそうになるのを押し込めた、楽しさとは縁遠い感情でぱんぱん  
に張り詰めた笑顔。  
矛盾を恐れず言い表すなら、笑顔の形をした泣き顔・・・のように見えた。  
いかに俺が幸せになったところで、同じ家の中に悲しみに暮れている人がいるのは嫌だ。  
 
「あのさ、シクルゥ・・・。レラさん、本当は何かあった?」  
寝そべっていたシクルゥは、そっぽを向いたまま俺の問いかけにぴこんと耳をこちらに  
一瞬向けたが、それだけだった。  
レラとは自由に気持ちを通わせているから俺の言葉も理解しているのだろう。しかし  
コンルのように分かりやすい意思表示をしてくれないので、そこでコミュニケーション  
が途絶えてしまう。  
俺が犬と話が出来るのかといったら違うから、当たり前といえば当たり前なのだが。  
――気のせいだといいんだけど・・・  
コタツで横になり、おかきを口に一つ放り込んで、俺は自分の勘違いを密かに願う。  
台所にいるレラは、リムルルと楽しそうに鍋を覗き込んでいる。  
気のせいじゃないかしら、背中があの口調でそう言っているように見えた。  
 

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