海に続くこの川は、あまりきれいじゃない。
水は本当は透明で、いつもはお空の青を映してて、空が曇れば灰色になって、手の中に
すくえば自分の肌の色になる。にいさまの家の蛇口から出る水も、ぴかぴかだ。
なのに、この川は濁ってる。この前見た時より少しだけ濁りが薄れているように見える
けど、茶色くて、魚の影も見えない。ごみまで流れている。その上、信じられない事に
ところどころ泡まで立ってる。
混沌としてて、ぐちゃぐちゃで、全然綺麗じゃない。きっと本当の姿じゃない。
まるで、今の自分の心みたいに。
「はぁ・・・・・・」
リムルルは、手入れ一つ加えられていない伸び放題の枯れススキが生い茂る斜面の下を
流れる川を眺めながら、海の方に向かって川沿いに伸びる細いサイクリングロードを一人
歩いていた。
自然公園を出てすぐの、川の土手の上を走るこの道ならちゃんと覚えている。このまま
行けば、そのままあの広い海に出るのだ。単調な、完璧な一本道だ。兄と一緒にねえさまを
捜しに行った道だ。すごく速い自転車の後ろに乗って、背中にしがみ付いて、兄の息遣いを
聞きながら、胸の音を聞きながら・・・・・・。
「はあぁ」
思い出しても、ため息以外に出るものが無い。さすがにもう涙は枯れている。一滴だって
こぼれはしない。
兄が好きで、嫌い。
筋違いな感情を心に抱える事はあっても、こんなにはっきりした矛盾は初めてだった。
こんなに好きだ。なのに、逃げてきてしまった。兄の腕の中から。
悔しくて。憎たらしくて。許せなくて。
そんなの全部、嘘だと思いたい。本当は好きで好きで、どうしようもないはずなのに。
だけど踵は返せない。足はとぼとぼと、海の方へと向かっている。兄がすぐにでも追い
着いてくれそうな、もたもたした歩調で。
それでも、もし追い着かれてもきっと、走って逃げちゃうよ。
でも声はかけて欲しいな。
でも振り向かないよ。
でも抱きしめて欲しいな。
でも振りほどいちゃうよ。
でも好きでいて欲しいな。
でも・・・・・・
「もうわかんない!変に・・・・・・なっちゃった」
矛盾が矛盾を呼んで、それがさらに相反する答えを勝手に導き出し続ける。頭の中で繰り
広げられるいたちごっこに耐えかねたリムルルは、ついに道端に腰を下ろしてしまった。
尻餅をついたコンクリートの冷たさが薄い布地のパジャマからすぐに直接広がって、リム
ルルは余っていたどてらのすそを、慌ててお尻の下に巻き込んで挟んだ。
何となく、心までも冷たい感じがする。身体はどこもつながっているのだから、心から
地面へと熱が逃げてしまったのかもしれない。
「また、独りになっちゃった」
――独りになるのがイヤで、二人を追いかけてきたつもりだったのにな・・・・・・
気づけば行動にさえ矛盾が生じていた。リムルルは自分が歩いてきた道を振り返った。
自然公園の周りに生い茂る木々がまだ見える。思ったよりもそんなに遠くにまでは来て
いなかったようだ。ここからなら歩いて戻ってもきっと、時計の針が半分も回らない内に
公園へ戻れるだろう。
そのまま兄と家に帰れば、美味しくて温かなレラねえさまの朝ごはんが待っている。
レラねえさまの美味しいオハウ。
こんな肩の震えも、指のかじかみも、すぐに消し去ってくれるはず――
「変だな、寒いよぉ・・・・・・カムイコタンより寒いよ・・・・・・そんなのおかしいよ・・・・・・」
「お嬢ちゃん、どうかしたかね。顔が真っ青だぞ」
リムルルが指先にはあはあと白い息を吹きかけながら、時折吹きすさぶ寒風にちぢ
こまって震えていると、ふいに頭の上から深みと歳月を重ねた男の声が聞こえた。
見上げれば、声の主は胸にポケットのついた、所々に泥汚れがある緑色の典型的な農家の
ジャンパーを着込み、柿色の襟巻きを巻いた、立派な白い顎ひげをゆったりと胸の辺りに
まで蓄えた、白髪の老人だった。
「おじいちゃん・・・・・・誰?」
町中を走ってきた時のように元気なあいさつをする事も忘れ、リムルルは顎ひげと同様に
肩まで長く伸ばした白髪を風に揺らしている老人を見て、思った事をそのまま口にした。
「ふむ」
老人がひげを手指で撫でながら細いサイクリング道路を挟んだ川の逆方向を見やり、その
遠くを指差した。
「わしはすぐあそこの、見えるかね?田んぼの真ん中に家があるだろう。あれに住んどる
者だがな?」
そこには実りの季節を終えた、枯れ草色の田畑が広がっていた。街から少し外れたこの
川岸は、昔ながらの農家が農業を営んでいる。川の対岸も小さな田んぼが点在しているし、
兄が修行していた自然公園の敷地も、元は農家の土地だったそうだ。そして老人が指差す
先、田畑の真ん中に通じるあぜ道の遠くには、立派な平屋が建っていた。
「家内が朝げの準備をする間、ちょっと釣りにと思って来たんだが・・・・・・お嬢ちゃん、
大丈夫かね?」
見た事無い形の家だな、あそこに家なんてあったかなと思い出しながら、リムルルはこくん
と首を小さく縦に振り、気を遣ってくれた老人に感謝の笑顔を作ろうとした。
「うん・・・・・・大丈夫、だよ。ありがとうございます。ごめんね」
「や、しかしそうには見えんがなあ。唇も青い。それに随分な格好じゃあないか。どれどれ」
老人は目を細めながらリムルルを観察していたが、おもむろにしゃがむと肩にかけていた
釣具とちょっとした鞄を下ろし、その中から小さな水筒を取り出して、茶色の中身を、
水筒と一緒に取り出した白磁の小さな茶杯に注いだ。ほわほわと立ち昇る白い湯気と
香ばしい香りがリムルルの鼻をくすぐる。
「さあ、飲みなさい。ふっ、変なものは入ってはおらぬよ。ただの茶、烏龍茶だ」
「・・・・・・いいの?」
遠慮して聞き返すと、老人が優しげに微笑みながら杯をずいと近づけた。リムルルは
なみなみとお茶の注がれたそれを今度こそ素直に受け取り、口元に運ぶ。
「ふぅ、ふぅ・・・・・・ごくっ」
甘い香りが鼻から抜けて、お茶の渋みが口を満たし、熱い塊が渇いたのどを通ってからっぽ
の胃に届く。杯を握る指が血色を取り戻していく。
全身が温かい。温かい。
お茶を一滴たりと残さぬよう、リムルルは杯を斜めにしてすすり上げた。
再び熱を取り戻した心と身体から勝手に流れ出た、涙と鼻水と一緒に。
・・・・・・・・・・・・
「成る程?兄上と喧嘩――いや、喧嘩とは少し違うな。難しいところだ。それで縮まって
いたという訳か」
「うん・・・・・・。わたし、どうしたらいいんだろう」
ぼうぼうと生い茂る枯れ草を掻き分けて川べりにまで降りてきたリムルルと老人は、老人が
なぜか用意周到に2つ持参していた折りたたみの椅子に座り、濁った川に垂らした釣り糸を
眺めながらそんな会話をしていた。
老人に何かあったのかと問われ、自分自身では解決できない悩みに暮れるしかなかった
リムルルは、悩みの全てを老人に話した。今朝の兄の事、姉の事――そして自分の気持ち
の事を。
昔からリムルルにとって、お年寄りたちはとても頼りになる存在だった。
カムイコタンでもお年寄りの話はちゃんと聞くのは当たり前だし、ここぞという時に頼り
になるのもやはりお年寄りだ。コタンを率いる彼らは、何度自分達を助けてくれただろう。
・・・・・・ただ、闘いに出向いたまま戻らない「姉」という存在を見殺しにするという、リム
ルルがコタンを離れた直接の原因を作ったのも彼らではあったのだが――しかしそれは、
今は関係の無い、全く別の話だ。
そういった具合に、お年寄りに対する真面目な尊敬が根底にあるリムルルは、初対面で
図々しいながらも老人に悩みの相談をする事にしたのである。
もちろん、尊敬だけが理由ではない。老人はどこか、あらゆる事を知っていそうな雰囲気
を漂わせていた。長く伸ばした白髪とひげは、長い年月を生きた証そのものだ。それにも
かかわらず年齢を感じさせないしっかりとした姿勢は頼もしく、目じりに刻み込まれた
しわの内側で光る、優しさと厳しさを内包した目はとても凛々しかった。首に巻いた柿色の
襟巻きも、なかなかにおしゃれで知的な装いだと思う。
案の定、老人は釣りの準備をしながら、うんうんとリムルルの話を熱心に聞いてくれた。
「その兄上は、剣の修行をしていたのか。お嬢ちゃん一人を家に置いて、か」
「うん。昨日の夜は何も聞かされなかったし、まるでわたしから隠れてるみたい。でも
分からないの・・・・・・レラねえさまと会ったのは昨日がほとんど初めて。なのににいさまは、
わたしじゃなくて会ったばかりのレラねえさまに頼んだんだよ?わたしよりレラねえさまの
方が強いのは知ってる。だけど何で、わたしを選んでくれなかったのかなぁ?」
手の平にのせた杯に目を落としながら、リムルルはあらためて落胆のため息をついた。
「その兄上が剣を習う理由を、お嬢ちゃんは知っているのかね?」
竿をゆるやかに上げ下げしていた老人に聞かれ、リムルルは自信なさそうに肩を落とした。
「ううん、知らない。にいさまは戦う必要なんて無いんだよ?戦わなきゃいけないのは、
わたしやレラねえさまなんだ。にいさまは・・・・・・戦わなくていいんだ。そのはずなんだ」
「この平和な時代にあって、戦い・・・・・・か。ふっ、お嬢ちゃんは随分と勇ましいのだな」
老人はゆったりとした口調を保ちつつずっと横顔でやりとりをしていたが、はたと真顔に
戻ってリムルルの顔を見つめると、威厳ある低い声でこう言った。
「して。お嬢ちゃんは・・・・・・何のために剣を振るい、何のために『力』を振り絞るのだね?」
「ねえさまを探すためです」
竿から目を逸らしていいものかと思ったが、先ほどまでの和やかなものとは明らかに違う
何かを纏った老人の真摯な態度に応えるべく、リムルルははっきり、正直に言った。
「ほう。剣を振るうはもう一人の姉探しのためと申すか」
老人は一層リムルルの話に聞き入る様子である。
「そうだよ。ねえさまはきっと悪い奴らに狙われてるんだ。ううん、そいつらってば、
わたしの命も取ろうとしてる。とっても悪い奴ら・・・・・・きっと良く無い事を考えてるんだ
と思うの。このままじゃみんな、平和に暮らせなくなっちゃうかも知れない。わたしも
いちおう戦士だから・・・・・・それだけじゃないけど」
「では、姉上を助け出し、自らの身を守り、そして悪を討つために・・・・・・そういう事だな」
簡潔に話をまとめた老人の表情に負けじと、リムルルも口を結んで確認するように頷く。
老人はそれを見てどこか安心したように頑固そうな顔を少しだけほころばせ、温かみの
ある雰囲気に戻った。
「そうかそうか。うむ。その言葉に偽り無く・・・・・・純粋で綺麗な魂の色をしておるな、
お嬢ちゃんは」
「たましい?見えるの?」
突飛な事を告げられ、リムルルが自分の胸の辺りをさする。
「あぁ、驚かせてしまったかな。そうだ。人間の魂が如何なる物なのか、わしには見える」
「すごい!どんななの?ねぇ、わたしのはどんなふう?」
身を乗り出し、リムルルが鑑定をせがんだ。
「ふっ、元気の良い事だな。どれ・・・・・・」
老人は竿を足元に下ろして体ごとリムルルの方に向き直り、改めて腰を据えると、リムルル
の小さな手が置かれた胸元に、鋭い眼差しを向けた。
「ふむ、魂がどんな物なのかを端的に言い表すのであれば・・・・・・青白く輝く火の玉の形と
いうのが一番的を射ているであろうな。そういう物が、そう、丁度今お嬢ちゃんがさすって
いる辺りに浮かんで見える。今も燃えているのだ、煌々とな。強い信念が輝いておる。
そして・・・・・・悩みに煽られ、色を変えながら揺れておる」
リムルルは不思議な老人の話に黙って聞き入った。
「魂は持ち主の心、その全てを物語るのだ。未熟で惑いを隠し切れぬお嬢ちゃんの心は、
弱い風にも、強い風にも同じように火の粉を散らし揺れておる。自分を取り巻くあらゆる
出来事や想いの一つ一つに心を強く働かせている証拠だ。人間の事、世の中の事、勿論
わしの事やお嬢ちゃん自身の事・・・・・・何より姉上や兄上の事にな」
リムルルには見えない青い光を目の中に照らしながら、老人はなおも続ける。
「それ程に炎を揺らされながら、お嬢ちゃんの魂は風に消える気配が全く無い。こう話して
いる間にも、魂は幾度も強い風を受けていた。だが、それでもなお強く、決して負ける事
無く輝いている。悲しみや苦しみに勝る鋼の如き信念・・・・・・その歳で大したものだ」
「鋼なんて大げさだよおじいちゃん、そんな事ないんだよ。わたしはただ普通に生きてる
だけだから」
見に覚えの無いことに対する賛辞は居心地が悪い。リムルルは無性にむずがゆくなって
ぽりぽりと頭をかいた。
「みんな一緒に楽しく暮らせるようになればいいなって、思ってるだけだもん」
「だからこそ兄上の事となれば、ことさらに心惑わせ、魂を揺らす・・・・・・今もまた」
枯れ草の上に置いてあった水筒を拾い上げ、烏龍茶を二つの茶杯に注ぎながら、老人が
リムルルの言葉を継いだ。
「さあ飲みなさい。ゆっくりと」
「ありがとう・・・・・・ございます」
しょぼくれたリムルルは片手に余る小さな杯を受け取り、再び竿を構えながら茶を楽しむ
老人の真似をしてちびちびとお茶を口に含んだ。味や香りをというよりも、どちらかと
言えば温かさをかみ締めながら。
「おいしいね」
「そうかね?」
「うん。おいしいです」
「それは良かった」
淀んだ川の流れを眺めながら、そんなやりとりがあったと思う。
一向に魚のかかる様子の無い竿の糸が水面に消えた先を、リムルルと老人はしばらく黙って
見ていた。釣りをしているという意識は、リムルルには殆ど無かった。ただじっと見つめて
いるだけだった。背中にしている道路から自転車が通う音もしなければ、一歩先を流れる
川の音も大して聞こえない。
「人と共に生きるとは・・・・・・どういう事なのだろうな」
そんな冬の静寂を――しばし止まっていた時をゆっくり押し進めたのは老人の方だった。
「わしはかつて・・・・・・自分の心の弱さ故に、大事な人々を自らの手で失ってしまった。
お嬢ちゃんのような信念は無かった。紙の如く脆かった心は憎悪渦巻く川に沈み溶かされ、
悪しき潮流の支配する淀んだ海へと流されてしまったのだ」
老人は竿よりもずっと遠くに漂う、時空を越えた思いに細めた目を凝らした。
「だがな?そんなわしを救ってくれたのは他ならぬ弟子達であった。邪な心の化身となった
わしを、その身を挺して止めてくれた。人の道から外れかけていたわしに・・・・・・得難き
償いの機を与えてくれたのだ」
「立派な弟子の人たちだったんだね」
「左様。人間は一人では脆く弱いもの。如何に川の流れの中にあって微動だにせぬ岩の
塊でさえ、絶えず岩肌を通り抜ける水に穿たれ、いつしか崩れ去る日が来るように・・・・・・
修練と経験を積み、鍛え抜かれた心体であったとしても、一つのきっかけで簡単に傷つき
・・・・・・ついには波にさらわれてしまうのだ」
リムルルは空になった杯を手のひらの上でもてあそびながら老人が重たげに話す事に耳を
傾けていたが、言わんとしている事を悟り、それに先回りした。
「おじいちゃん、それじゃあ・・・・・・わたしの心も崩れちゃうの?」
茶杯の中に残っていた烏龍茶をあおり、老人は「いや」とリムルルの言葉を否定した。
「年寄りの思い過ごしなら良い。お嬢ちゃんの魂は人一倍強いと見えるからな。だがしかし、
頑強な魂をもたじろがせる風・・・・・・お嬢ちゃんには荷が重かろう。何かの拍子に魂が消え
失せてはしまわぬかと、わしは・・・・・・不安でならない」
「だいじょうぶ!悩みなんてぜんぜん平気だもん!」と、いつものリムルルなら強がった
かも知れない。だがリムルルはひたすら押し黙っていた。そうする事しか出来なかった。
焦りとも困惑とも違う複雑な感情のやり場が見つからず、やけに心は空虚なのに、何も
ないその真ん中からずどんと爆発しそうになる。
こうして口を閉じていなければ、それこそ魂が口から抜け出てしまいそうだ。
「しかしな、わしに弟子達がおったようにお嬢ちゃんもまた・・・・・・独りではなかろう?
兄上と姉上がおる」
出会った時と同じぐらいに顔色を悪くしたリムルルの肩に、老人はしわだらけの手を置いて、
自信に満ちた声で言った。
「兄上と姉上を心から案じておるお嬢ちゃんなら分かるはずだ。家族、いや、人と共に
暮らす本当の意味を」
「本当の・・・・・・意味・・・・・・?」
聞き返すと、老人はまたも自信たっぷりに髭に隠れた口元をにこりとさせた。
「そうだ。繰り返すが、お嬢ちゃんには共に暮らす家族がいる。兄上や姉上がな。お嬢
ちゃんが思う以上に、彼らもきっとお嬢ちゃんの事を思ってくれるに違いなかろう。そんな
彼らの事で何をそんなに悩み、恐れる必要があろう?家族とともに暮らすその意味、今一度
心の奥底で紐解いてみるが良い」
「暮らす・・・・・・意味・・・・・・にいさま・・・・・・ねえさま・・・・・・」