「うぃーっ、寒いッすよぉ!」  
午前8時。コンビニ袋を手に提げた男が、革ジャンの襟元を寄せながら、道端に停められた  
白い乗用車へと駆け込んだ。  
入るや否やドアを閉め、手袋を外し、かさかさの両手を擦り合わせる。  
「ふいー、年の瀬ともなると冷え・・・・・・って、何で暖房ついてないんスか!」  
だが、助手席に腰掛けた男を待っていたのは、外気と何も変わらない車内だった。  
「何ッすかぁーもー。朝メシ買ってくるまで暖めておいてやるって言ったじゃないスか!」  
大げさに歯を鳴らし、ひとしきりわめいたが、男はすぐにそれが無駄だという事を悟る。  
さっきから話しかけている相手が、一杯に倒した運転席でアイマスクをかけたまま、男の  
声を右から左に流しているからだ。聴覚聴覚、両方シャットアウトである。  
「ちぇ、黙ってないで何とか言ってくださいよ」  
何事かぶつぶつ垂れながら、白いビニール袋を男はまさぐった。  
男は若い。20代も半ばといった感じの風体で、短く刈った髪はなかなかにスポーティーだ。  
季節はずれに顔も浅黒く焼けている。白と青のストライプが描かれた半袖シャツを着て、  
ダンボールを小脇に抱えると似合いそうな風体である。サインよりもハンコがいい。時代が  
時代なら、飛脚なんかも良かっただろう。  
「はい、コーヒーですよ」  
菓子パンの下に隠れていたコーヒーを取り出して、アイマスクの男に呼びかける。そうして  
初めて、アイマスクの男は組んでいた左手を声のほうに伸ばすのである――が。  
「違う」  
差し出されたコーヒー缶に指先がちょいと触れたところで、アイマスクの男は唸った。  
「佐川よ、これは『ヂョウヂア・ミルクたっぷりラテ』だろ」  
佐川と呼ばれた助手席の男が、ぎくりと冷や汗を垂らした。  
「俺が欲しいのは、あんぱんの下にある『炎の珈琲・粗挽き深煎りOTOKO専用ブラック』  
だ。早くよこせ。毎朝同じ手間をかけさせるな」  
「うおおおおお!なんで分かるんスかぁー!」  
佐川が頭を抱えて悔しそうに叫ぶ。低い天井に頭をぶつける勢いである。  
 
「同じ缶ですよ、缶!スチールの、この、円筒!温度も違わないし形も変わんないってのに!  
じゃあ音?音なんスか?!それとも、いや・・・・・・っつうか柳生さんはホントに人間なんスか?」  
「うるさいっ」  
部下の度を超したおしゃべりに業を煮やした佐川の上司と思しき男――名を柳生という――が、  
アイマスクを外して拳骨を佐川の頭にぽかっと振り下ろした。  
柳生は三十路も終わりを迎えるぐらいの見た目で、部下を叱る姿もサマになる働き盛りの  
中年男だ。短い髪を櫛で撫でつけた頭にブラウンのスーツ、白いワイシャツの胸元には真っ赤  
なネクタイが眩しい。春先ならまだしも、真冬でコートも無しである。血色の良い、少し  
油の浮いた肌が、季節おかまいなしの健康人間だという事を証明していた。  
「ふん、修行が足らんのだお前は」  
シートのリクライニングを戻し、殴られた頭を抱える佐川の膝の上の袋から奪ったブラック  
コーヒーを口に含みながら、柳生が鼻を鳴らした。  
「修行でどうなるこうなるって話じゃないんじゃねっスか?柳生さんのソレは」  
「そんな愚痴を垂れているうちは、ミルクたっぷりラテがお似合いだな。こわっぱめ」  
「苦いばかりがコーヒーじゃないんスよ!」  
これも修行の一環なのだろうか、結局エンジンをかけてもらえず、しきりに缶を握り締めて  
乾いた手を温めながら、佐川はフロントガラスの外を眺めていた。  
アイマスクを外した柳生の視線も、自然とそこに向いている。  
「動き・・・・・・無いスね」  
コーヒーのタブを引きながら、佐川がぽつりと言った。柳生は左目をしばたかせながら、  
あんぱんとコーヒーを交互に口に運んでいる。  
それはどうにも取り合わせが悪いんではないかと思いつつ、佐川もサンドイッチの封を  
開いた。  
「この張り込みも今日で3日目っスねぇ」  
レタスサンドを頬張って、尻の下に敷いていたファイルを取り出してぱらぱらとめくる。  
いくつかの文書が左から右へと流れ、数枚の写真が挟まれたページが現れて、佐川は  
そこで手を止めた。  
 
写真の殆どには、まだあどけなさの残るかわいらしいひとりの少女が収められていた。  
唐草模様とは一味違う、独特な図柄が刺繍されたリボンを頭に巻いている。海辺ではしゃぐ  
少女、ショッピングモールで買い物をする少女。図書館で本を読む少女。写真が白黒なのが  
悔やまれる。  
「はた目にゃ可愛いこんな子供がねえ・・・・・・銃刀法違反と公務執行妨害、しかも隠してた  
爆発物だか何かで牢破りとは。いやあ、世も末っスよねぇ」  
佐川が苦笑しつつさらにページをめくると、別な男女が写った写真がひらひらと舞った。  
足元に落ちる寸前、ぴしっと指で挟んで拾い上げ、ぼんやりと眺める。  
「で、その兄弟というか、保護者と思しき大学生の男と、日本各地で危険活動を行っている  
らしい女。危険って何をやってるんだかなぁ。『服部さん』、何も言わないですぐドコか  
行っちゃうし。ま、今朝は出てきませんでしたね、二人とも」  
アパートを睨む目も鋭く、柳生は部下の声に応えるようにあんぱんをかじる。  
「さすがに早朝から公園で棒切れ振り回すのはマズいと思ったんスかねぇ。あ、いや、  
今日はクリスマスイヴだからかも知れませんね、柳生さん?」  
むぐむぐと動いていた柳生の口が一瞬止まり、またむぐむぐと動き出す。  
「ははぁーん」  
その変化を目ざとくも見のがさなかった佐川が、ぼそりと言った。  
「・・・・・・奥さんっスね?」  
「んぐっ、ごほっ、ほっ」  
むせ返る柳生。してやったりと佐川がガッツポーズを作った。  
「ほーら図星だ!はっはっは!柳生さんの愛妻家っぷりには頭が下がりますよ!」  
「うるさいっ!」  
2発目の拳骨が、やかましい部下の脳天にめり込んだ。  
「つぅ〜〜、別に愛妻家は何も悪いことじゃないっスよ?俺なんか彼女もいないし、妹も  
今日は彼氏とどうのこうのって、はぁ・・・・・・仕事のほうが幾分ましっス」  
「寂しい奴だなお前も。まあ我慢してくれ、おそらく今日までだからな」  
思い切り殴ったばかりの部下を励ましつつ、柳生は二つ目のあんパンの封を開いた。  
 
「今日に何かの動きがあるのは確かだ。『服部』がそう言うのだから間違いはない。何かの  
組織が出入りするのか、別な事件を起こすのか・・・・・・まあ張り込んで何の成果も得られん  
という事は無いだろう。俺だって正月ぐらいはゆっくりしたいからな。お前の言うように」  
左目をしきりにしばたかせ、柳生は思うところを語った。ゴミが入ったわけでもないのに、  
左目のまばたきが激しいのが癖なのだ。  
「正月が明ければまた、お前をしごく日々が待っているからな。そのつもりでいろよ」  
「うへぇ・・・・・・マジですかぁ」  
佐川がうんざり声を上げ、厳しい上司の指令にまた何か弱音を吐こうとした所で、柳生が  
ぐっと前に身を乗り出した。唇についたケシの実を取ることも忘れた横顔には、いつも  
以上の緊迫感がみなぎっている。  
「え、あっ、動きスか!」  
一瞬目を離した隙に変わろうとする展開に乗り遅れまいと、佐川もこの3日間睨み続けた  
せいですっかり目に焼きついたアパートの風景の2階から、よろよろと一人の男が出て  
くるのを捉えた。  
「例の大学生に間違いない・・・・・・っスね。ハイ。ん、どうやら一人みたいスけど、何か  
ふらついてる」  
「よし、本部に連絡だ」  
「はっ、ハイ。えっと、ケータイケータイ」  
「あぁ、待った。大丈夫だ」  
柳生は前言を撤回し、後部座席に向けて身をひねった。  
「ケータイはいらんよ。おい服部」  
「・・・・・・これに」  
それは、成立するはずの無い会話だった。  
と言うのも、佐川は知っているのだ。この車内の中にいるのは、新米の自分と、その  
上司に当たる刑事の柳生とだけなのだから。  
だが、柳生が呼んだ人間の返事が聞こえるのである。佐川が慌てて振り向くと、  
「マジかよ・・・・・・」  
マジックのようだった。ドアも開いていない、まして物音一つしなかったのに、そこには  
確かに、黒ずくめの男がじっと腕を組んで座っていたのである。  
 
「服部、お前の言うとおり動いたぞ。上に報告しておいてくれ」  
「御意」  
「それから、あの大学生の尾行はどうする」  
「柳生殿にお任せいたす」  
「そうか。分かった」  
「拙者はこれにて」  
「はっ、服部さ・・・・・・うおっ!」  
呆けていた佐川にとって、状況を飲み込むには多少の努力を要した。結局呼び止めるのも  
間に合わず、服部は車内に小さな火の粉を残し、煙になってその場から完全に消え失せた。  
「あー、臭い」  
火薬の匂いと灰色の煙が広がって、岩のように顔をしかめた柳生が車のキーに手をかけた。  
キシキシキシと頼りない音を立て、寒空のエンジンに火が入る。換気のために窓は全開  
にされ、エアコンの風量スイッチを最大にする。冷風がごうごうと車内に流れ込む。  
「い・・・・・・一体どうなってるんスか」  
待望のエンジン音に身を揺らされながらも、佐川は口をあんぐりとしたままだった。  
自分の下に配されて間もない男の素直なリアクションに、柳生が控えめな笑顔を見せる。  
「ふむ。まあ、そういう事だ」  
言って、柳生が少し中身の残ったコーヒー缶を揺らした。  
「あいつはちょっと変わってるが、そういう変わり者だらけなんだよ、俺の部署はな」  
「か、変わり者・・・・・・スか」  
「そうだ。俺の下にいる限り、こんなのは日常だ。覚えておけよ?そういう部署なんだ  
からな。さ、早く残りを食え。追うぞ。大学生のルートはバスだからな。先回りだ」  
まだ火薬臭の残る車内で、駆け出しの佐川は大いに首を傾げた。  
――こ、こんな日常かぁ。お袋よ、親父よ、妹よ。兄ちゃんは大変な所に来ちゃったぜ。  
 
6章 はじまり  
 
柳生と佐川を乗せた車が動くところから、話は少しさかのぼる。  
 
「えっ!それじゃあ行ってきていいんですか?」  
クリスマスにも変わらぬ、我が家の朝食タイム。俺は箸を持ったまま声を上げて驚いた。  
エプロン姿のレラさんが愉快そうに言う。  
「えぇ。リムルルは気にしないで行ってらっしゃい?友達は何よりも大事にしなくては  
いけないものよ」  
自分の名が出てきて、パジャマを着替えていないリムルルも牛乳を飲む手を止める。  
「夜の『ぱーてぃー』までには帰ってくるんでしょ?だったらいいよ!わたし待ってる。  
それにきっと、にいさまがいればお友達も楽しいもんね!」  
牛乳で白くなった口をにーっと開いて、そこから牛乳よりも一段と白い歯を見せた。  
「ありがとう、二人とも。もっと早く言えばよかったんだけど」  
「だって誘われたのがおとといなんでしょ?昨日はわたしが色々迷惑かけちゃったし、  
だけどほらっ、もう平気だから!」  
コタツにあたったまま、リムルルはもう一度にかっと笑った。確かに幾分調子は良いらしい。  
相談してみるもんだな、と俺は思った。例の「モテナイ君決起集会」の誘いがあった事を、  
二人にそれとなく話してみたのだ。  
レラさんはいいとしても、リムルルはきっと嫌がるだろうなと勝手に想像していた分、  
ここまで快諾されると逆に恐縮してしまう。  
「それじゃもっと元気になるように、ケーキ買ってくるからな。今夜はみんなで食べよう!」  
「いやったー!」  
ご機嫌取りがてらに提案すると、リムルルが目を輝かせて万歳した。  
「わたしね、あのね、ふわふわしててチョコレートの味のがいいな!それでそれで、えっと」  
「リムルル。ご飯が終わってから騒ぎなさいな」  
「えへへ・・・・・・ごめんなさーい」  
黙々と汁物を口に運ぶレラさんがぴしっと制しても、リムルルは顔を緩ませている。  
 
「楽しみだなぁ、ふふふ!早く夜にならないかなぁ・・・・・・」  
「気が早すぎるってリムルルは。ねぇ、レラさん?」  
レラさんは肩をすくめ、小さく微笑んだ。  
「まぁ、お祭りなんて久しぶりだからね。はしゃぐのも無理ないわ。それに――」  
「それに?」  
「何でもな・い・わ」  
「えーっ何ですかソレ?何か隠してますね?リムルルっ!レラさんが何か企んでるぞ」  
「ケーキに、お菓子に、ケーキ・・・・・・へへへ〜〜」  
リムルルの頭の中では、とうにパーティーが始まっていた。牛乳がまだ半分入ったコップを  
持ったまま、放っておいたら今にもよだれを垂らしそうな情けない顔をしている。  
「おい、リムルルったら」  
目の前で手をスカスカやっても、  
「ふわふわおいしい〜・・・・・・」  
脳内で花開いたスイーツの世界に心奪われっぱなしで、  
「おいっ、リームルールさん!」  
目の前で手をパンパン打ち鳴らしても、  
「シクルゥ、イチゴとっちゃだめ〜・・・・・・」  
全く無意味だった。それどころか妄想パーティーに勝手にシクルゥを巻き込んで、低レベル  
な争いまで起こしている。  
「はぁ・・・・・・まったく」  
無駄な努力にため息をつきながらも、俺は満足だった。こんなに喜んでくれるのだから。  
食事も終わる頃になってリムルルもひとしきり妄想が巡ったのか、コンルと今夜の計画を  
話し合い、レラさんにケーキの素晴らしさを説いている。  
いつもと変わらないように見える、リムルルの元気な姿。  
でも昨日は、本当に苦しそうだった。  
疲れているにもかかわらず、それを解消するに一番の方法である睡眠を、恐ろしい夢に  
邪魔されていたのだから当然だ。俺とレラさんが「明日の朝まで、絶対にリムルルのそば  
から離れない」と何度も約束しながら、握った手を離さないままようやく眠りについたのだ。  
 
だから俺達は今日の修行はお休みだったし、リムルルはレラさんが朝食を完成するまで  
眠っていたので、よれよれぶかぶかのパジャマ姿のままである。  
ただでさえ大きな俺のパジャマを着ているリムルルは、さらに小さく見えてしまう。  
「ごちそうさまー!はぁ〜、やっぱりレラねえさまのお料理にはかなわないなぁ」  
そのリムルルが、満足そうに口の周りを拭いながら立ち上がった。  
「わたし着替えてくるね」  
「あらリムルル、いいのよ?今日は寝てて・・・・・・」  
「ううん、もう大丈夫だってば!にいさまも早くしないと『ぱーてぃー』に遅れるよ?」  
着替えを持って、リムルルは鼻歌まじりで洗面所に消えていった。  
「コウタ、はい、お茶」  
食事を終えていたレラさんが俺にお茶を差し出した。受け取り、くっと飲み干す。  
「ぷは。昨日はどうなる事かと思いましたよ、実際」  
既に自分専用となった「親父の小言」の書かれた大きな湯飲みに、なみなみと好きなだけ  
お茶を注ぎながら、レラさんは小さく頷いた。  
「そうね。私も驚いたわ」  
「俺はまた・・・・・・結局何もしてやれなかったです。レラさんに頼りっぱなしで」  
「そんな顔しないで?コウタはいてくれるだけでも、十分にリムルルを支えてるわ」  
「そうは言いますけど、やっぱり何か空回りしてる気がするんです・・・・・・剣術より、木彫  
より、もっと大事で、もっと先にやっておくべきことってあるんじゃないかって、いつも  
思うんです。教えてくれたレラさんには感謝してます。でも――」  
「だから。そう難しく考えないの」  
傍らに寝そべるシクルゥの背中を撫でていたレラさんの目つきが、俺に剣を教える時の  
ように厳しくなる。  
「あなたは良くやってる。ちゃんと努力してるわ。今回はたまたま、リムルルがああいう  
混乱した状況に陥ったから私が介抱したけど、もしその代わりに、得体の知れない輩が  
襲って来たとしたら?しかも私の留守中に」  
何もいえないままでいる俺の手から杯をひったくり、レラさんは新しいお茶を急須から  
注いだ。あつあつの熱湯で淹れた、見るからに渋そうな深緑が白い杯に映える。  
 
「コウタ、いいこと?私があなたに教えた事で、何一つ無駄な事なんて無いわ。だから  
自信を持ちなさい。あなたは空回りなんてしてない。あなたは常に前進してる」  
「れ、レラさん・・・・・・」  
「ほ、ほら!たまに褒められたからって甘えないの!もう一服飲んでしゃきっとなさい!」  
柄でもないことを言ったと思っているのか、レラさんはあからさまにあせあせとしながら、  
ずいっと乱暴に杯を返してきた。  
「は、はい!頂きます」  
レラさんの言葉や教えは、このお茶に良く似ている。渋みの向こうにはいつも、胸に染みる  
優しさがあるのだ。  
2杯目も一気にあおると、俺も立ち上がった。  
「ご馳走様でした!それじゃ俺も出かける準備しますね」  
「え、ちょっとコウタ、そっちは」  
「レラさんのお陰でだいぶ気合が入りましたよ!よしっ、もう一度顔洗うかな!今日は  
長いぞ!朝から夜までカーニバルだし」  
「顔洗うって、ちょっとコウタ?!」  
肩をぐるぐると回して、俺は洗面所のドアを開いた。  
「あ」  
ドアが開いた瞬間、完全に記憶から飛んでいた先客とバッチリ目があう。  
「あいや」  
先客は冬だというのにパンツ一丁で、冷水で洗い終わった雫の残る顔をタオルで拭いて  
いるところだった。  
顎から垂れた雫が首を伝い、小さく膨らんだ胸元に届くのをしっかり見守るぐらいの時間が  
あって、洗面所の時間が動き出した。  
「いや〜、ハッハッハ。リムルル・・・・・・まだ着替え終わってなかったのね」  
点になっていた先客の顔がみるみる赤くなり、髪の毛がぶわわと総毛だって・・・・・  
 
 
・・・・・・・・・・・・  
 
 
「ぐふぅ・・・・・・い、いっでぎばーず」  
「アホにいさま!ヘンタイ!死んじゃえ!!」  
アパートの通路を頼りない足取りで行く兄の背中めがけて罵倒の限りを尽くし、リムルルは  
玄関のドアをバターンと音を立てて閉めた。  
「やりすぎじゃあないの?ちょっと」  
その様子を腕組みして後ろから見ていたレラが心配そうに尋ねる。  
「全然!ビンタ4往復じゃ足りないんだよ、ホントは。あーあ、コンルに頼んでお仕置き  
してもらえば良かった」  
「ふふ・・・・・・穏やかじゃないわねぇ。さ、お皿洗うわよ、拭くのを手伝ってね」  
「はぁーい」  
ぷりぷりと頬を膨らませたまま、リムルルは壁にかかっているエプロンを取った。  
「アホでヘンタイでも、エプロンはコウタのを使うわけ?」  
レラが面白そうに言った。はっとリムルルが腰に目をやる。  
たらんと床に届いて垂れ下がっているのは、紛れも無いコウタ愛用のエプロンだ。  
「うっ、べ、別ににいさまのだから使ってるんじゃないもん。近くにあったからだもん!」  
「ふぅーん。そう。それじゃあ私のと換える?」  
コウタがリムルルのために用意した短めのエプロンをレラが腰から外そうとすると、リム  
ルルはそっぽを向いてしまった。  
「いいったら、別に外さなくても。にいさまのでいいもん」  
「にいさまの『が』いいんじゃなくて?」  
「もぉ〜っ、ねえさましつこい!もういいでしょ!!」  
腕を振り回すリムルルの顔は、りんごのようにすっかり赤くなっていた。  
しかしこんな軽い言い争いがあるのも気心が知れているからこそで、一旦洗い物が始まれば、  
二人は台所に並んですぐに笑いながら手を動かした。レラが洗い、リムルルが拭く。これが  
普段のスタイルだ。  
 
「でね、ケーキの話の続きだけどね、色んな味と形があるんだよ!」  
「へぇ・・・・・・楽しみねぇ」  
きゅっきゅっと音を立てて茶碗を拭きつつ、リムルルはケーキにかける情熱を爆発させる。  
「果物がくっついてたり、器に入ってるのもあったり、それからね、ふわふわじゃなくて  
サクサクっていうのもあるんだよ?」  
「そんな物、私にも食べられるのかしら?」  
「大丈夫だよ!レラねえさまもきっと気に入るよ?あまーくて美味っしぃんだから!」  
「そうね、お菓子も素敵な贈り物よね。ところで・・・・・・」  
レラはリムルルの話が途切れるのを待っていた。最後の茶碗を洗い終え、リムルルがまだ  
拭き終わっていないものの上に重ねながら、ゆっくりと切り出す。  
「リムルル実はね、私からも贈り物があるのよ」  
「えっ?」  
リムルルが食器を拭く手を止めて、大きな目をぱちくりさせた。  
「贈り物?わたしに?」  
「えぇ。そう・・・・・・」  
レラはこの期に及んで少しだけためらっている自分を内心で嘲笑しつつ、言った。  
「あなたがこの時代に来た理由を、少しだけ果たさせてあげようと思って」  
「わたしが来た理由・・・・・・」  
起きてまだ1時間も経っていないリムルルの瞳が惑った。  
思い出している――いや、思い出すまでも無いのだろう。自分がこの時代に来た理由。  
それはリムルルの「命題」なのだから。  
困惑を示していたリムルルの顔が、次第に熱い期待に満ちてゆく。  
「待ってたの・・・・・・ずっと」  
ぽつりと、リムルルが言った。  
「待たせてごめんね、リムルル。ナコルルに・・・・・・会いたかったでしょ?」  
「うん。でもその、ち、違うよ?」  
リムルルがぶんぶんと首を横に振った。  
「あのね、違うの。ホントはね、レラねえさまに頼るつもりは無かったんだ」  
「・・・・・・どういうこと?」  
 
手に握り締めた茶碗から床に水がしたたるのにも気づかないまま、リムルルは答える。  
「自分の力で何とかしようと思ったの。だってね、レラねえさまもずっとナコルルねえ  
さまと一緒で、それでやっと私たちと一緒になれたのに、それなのにナコルルねえさま  
の話ばっかりしてたら・・・・・・レラねえさまも大事な家族なのに、そんなのおかしいから」  
「リムルル・・・・・・あなた」  
レラはリムルルの独白を聞きながら、昨日の一瞬でも「自分のことを忘れないでいて  
くれるだろうか」などと考えていた自分自身を叩きのめしたくなった。  
リムルルは一番大事にしなくては行けないことを後回しにしてまで、自分を思ってくれて  
いたのだ。どうりでわがままも聞かれなくなったはずである。  
なんて、なんて可愛い妹だろう。  
「あ・・・・・・ありがとう。自慢の妹だわ」  
震える声を抑え、レラがそっと頭を撫でると、リムルルはえへへと照れくさそうにした。  
「さ、準備が出来たら早速行きましょう。シクルゥが連れて行ってくれるわ。コウタが  
帰ってくる前には家に戻ってくるわよ?」  
「えーっ!い、今から?」  
後ずさりするぐらいびっくり仰天したリムルルを見て、レラが逆に驚く。  
「そんなに驚くことかしら?だってリムルルあなた、ずっと会いたがっていたじゃない」  
「そ、それはそうだけどね?いざ会うとなったらその、準備とか色々いるでしょ?突然  
過ぎるよぉ・・・・・・ぶつぶつ」  
リムルルは下を向いてもじもじし始めた。レラもさすがにじれったくなる。  
外したエプロンを無造作に壁のフックに投げ、  
「なーにを気長なことを言っているのかしらこの子は。ナコルルはもう――」  
「もう?なに?」  
「いえ・・・・・・そう、もう待てないぐらいに、あなたの事を待ってるに違いないから」  
「そ、そっか」  
――わ、私は何を言うつもり?バカ!  
疑うことを知らない性格の妹のお陰で、レラはぎりぎり、事無きを得た。  
ナコルルの命の危機なぞを知らせたら、リムルルをさらに不幸のただ中へと叩き込むことに  
なるのは目に見えている。あまりの迂闊さにレラは背筋が凍る思いだった。  
 
「さあ、分かった?あなたが思う以上にあの娘もリムルルに会いたいわけよ!」  
レラはほぼ完璧な平静を装い、リムルルの広いおでこを指差して、もっともらしい事――  
ナコルルが起きているのなら実際そうなのだろうが――を言い聞かせた。  
少しの迷いの後、リムルルもぐっと決心を固めた表情になる。  
「分かった。準備する。急ぐ」  
「そう。良かった。私の贈り物・・・・・・受け取ってくれるのね」  
「うん、もちろん!わあっ、床びしょびしょだ!急いで拭くね」  
「ええ、お願いよ。私ちょっと厠に行ってくるから」  
レラはやっとの事で床の異変に気づいたリムルルに言いながら、足早に台所を後にして  
トイレへと向かった。  
扉を閉めた途端、レラは便器に座らず、その前にしゃがみ込んだ。  
心の中にあるのは安堵。それから悲哀。嫉妬もある。そして、ただならぬ喜びの塊。  
自分の中に、多様すぎる感情の数々が渦巻いている。  
このままではどうなるか分かったものではなくなったレラは、たまらず部屋を出て逃げ  
出してきた。感情の整理もつけられない、こんな自分の姿を実の妹に見られるのは、  
どうしても我慢ならなかった。  
こんなに心を引っ掻き回された経験はレラには覚えが無い。喜怒哀楽の境目が曖昧になって、  
お互いがお互いを上塗りしては、その下からふつふつと泡立ち、さらに混沌を深めている。  
だが、レラにはちゃんと見えている。厠の天井に吊り下がった裸電球のような、明け透けで  
何の飾りも無い、だからこそ余計に響いたリムルルの言葉。  
「あんなに・・・・・・私の事、気にかけていてくれたなんて」  
しゃがみ込んだまま、レラはじんと熱を持った目頭を押さえた。やっぱり部屋を飛び出して  
正解だったらしい。  
こんな格好の悪いところ、やっぱり妹には見せられない。  
 
床と、そして皿に残っていた水滴を拭き終えたリムルルは、壁にもたれて、静かに部屋の  
中で佇んでいた。  
「コンル・・・・・・。ねえさまにね、会えるんだって。今日、これから」  
自分の頭の高さで漂うコンルに、とりあえずそう伝える。  
「シクルゥ、連れてってくれるんでしょ?ありがとう」  
部屋の隅で寝そべっているシクルゥにも、お礼をする。  
あまりに急激な動きだった。姉は絶対に自分の力で探し出すんだと、決意を固めていた  
せいもあったろう。リムルルはまだ少し、頭がくらくらしていた。  
姉に会える。  
これから起きようとしている事を、何度も何度も確認する。  
レラは嘘をつかない。絶対にだ。言った事は必ず守る。シクルゥだって自分達を背中に  
乗せたなら、約束を破るはずはないだろう。どう転んでも、結果はひとつだ。  
「会える・・・・・・会えるんだね、わたし」  
エプロンを壁にかけ、リムルルもやっと動き出した。  
まだ実感は沸かない。うきうきとした気持ちでもない。緊張とも違う。どこかでまだ、  
半信半疑なところがあるのかも知れない。  
でも、きっと会いたいと願い続けたその人と顔を会わせる瞬間までこんな気持ちのまま  
なんだろうと、リムルルはどこかで理解していた。  
とにかく、少しせっかちな姉に急かされる前にと、リムルルは出かける準備を始めた。  
大切な姉に会うのだから出来る限りの盛装をするのが必要なのはもちろん、シクルゥに  
よれば姉の居場所はカムイのみが知る神聖な土地なのだそうだ。ジーンズのような普段着  
ではまずい。  
「えーっと、あった」  
何かあった時のためにと、カムイコタンを出る際に持ってきておいた晴れ着(ルウンペ)と  
長めの下穿きを、リムルルは持ち出し袋の中から取り出して、慎重に畳の上に広げてみる。  
眩しい白を基調にして、空色の縁取りと切伏の模様、それに紺色の唐草刺繍が入った晴れ着。  
本当はもっと落ち着いた色で作るのだが、リムルルがコンルを連れていることもあり、  
氷のカムイに敬意を表して、このような目にも爽やかな配色になっている。  
 
ルウンペは大変な貴重品だ。ところどころに外界からしか渡ってこないなめらかな絹が  
使われているし、裾から肩まで余すところ無く全身を飾る優美な模様は、一人で縫うと  
したら何ヶ月かかるか分からない。  
そんなものを何故リムルルが持っているのかと言えば、これはチチウシを受け継いだとき、  
すなわち新たなアイヌの戦士の誕生を祝して、コタンの人々から送られたものなのである。  
だからこれを着るときは、姉の生存を心から信じて止まなかったリムルルは、決まって  
複雑な気分になったものだった。でも今日は違う。  
戦いの中に散ったことにされた姉の魂を弔うためではなく、その姉に会うためにこれを  
着るのだから。  
「よいしょ・・・・・・」  
下を履き替え、晴れ着に袖を通して腰帯をきゅっと締める。お腹を緊張させる閉塞感が、  
今の不思議な気持ちにふさわしく感じられた。  
最後にハハクルを腰の後ろで結わけば、着替えは終わりだ。  
「どうかな、コンル?」  
居間を出て洗面台の鏡の前に立ち、くるりと回ってみる。久しぶりだったが、見たところ  
上手に着られていた。胸の辺りも、前に比べたらちょっとだけ膨らんでいるように見え  
なくも無い。首飾りが無いのが残念だけど、ちゃんと着られているよ、とコンルも言って  
くれて、リムルルはほっと一息つく。  
「リムルル、きれいよ・・・・・・とっても」  
鏡から振り返ると、トイレから出てきたレラがリムルルの盛装姿に見ほれていた。  
「それならカムイの森でもちゃんと迎え入れてもらえるでしょうね」  
「そ、そうかなぁ」  
「もちろんよ、さあ後ろを向いて?仕上げにマタンプシ(鉢巻)を巻くところだったん  
でしょ?私がやってあげるから」  
リムルル愛用のマタンプシを受け取り、レラはしゅるりとリムルルのおでこに合わせた。  
 
「あの、大人っぽくしてね」  
自分の顔を映す鏡と真面目な面持ちで睨めっこしながら、リムルルが言う。  
「少しは大人になったんだよって、ナコルルねえさまに見せてあげるんだからね」  
「わかったわ。そうね・・・・・・どれ、これでどうかしら?」  
少し考えて、レラが両手を動かすと、マタンプシがしっかりと前髪を留めた。  
本質的には結び方に変わりは無いが、いつもは耳の後ろや、頭の上でふわりと大きく  
広がる蝶々を控えめにし、前からでは見えなくした結び方である。  
すまし顔を鏡に映しながら、右、左と首を回して確認する。  
「かっこいいね、これ!」  
リムルルはにっこりとした。  
「レラねえさまありがとう。これでわたしの準備はおしまい!」  
「そう。それじゃ・・・・・・行きましょうか」  
居間に戻ると、レラは壁際に立てかけてあったチチウシを腰ではなく肩に掛け、背中に  
斜めに回した。盛装では、刀はこのように着用するのが常だ。今日はそれにも増して、  
もう片方の肩にライフルも背負う。背中から見ると×の字だが、自分の勇ましさを示す  
ためにも、出来る限りの武装をするのが戦士の盛装だとレラは考えたのだった。  
その上に、どこからか取り出した灰色の外套をひらりと纏って、レラも準備を終える。  
「さぁ、あなた達・・・・・・出られるわね?」  
襟元のマフラーを鼻の高さにまでたくし上げながら、レラは部屋を見回した。  
すでに立ち上がり、二人の格好をじっと見据えて待機しているシクルゥ。  
リムルルの横できらきらと回り、盛装をより美しく華やかにしているコンル。  
そして、両手をそれぞれ握り固めて、神妙な面持ちでレラを見つめるリムルル。  
全員の態勢が整ったことを確認して、レラはがらっと窓を開いた。  
 
「さぁ、行きましょう。カムイの森、ナコルルの所へ」  
 
開け放たれたアパートの窓から、突風が吹き荒れた。窓が鳴り、コンルが作った透明な  
氷のガラスがぴりぴりと震えた。無用心にも、窓は開け放たれたままだった。  
冬の空気の中を進んでいく突風。その誰の瞳にも映らない北へと向かう風の渦を、ある  
男の一対の目が、人知れずじっと見つめていた。落ち葉の動き、人の反応……それ以前に、  
空気の流れそのものを見える実体として、彼の目は認識していた。  
午前の光の中にも、影は存在する。それは太陽をさえぎる物の後ろであるなら、どこで  
あろうと見つけることはたやすい。足元を見れば、必ずその黒い影は自分を追いかけて  
いるか、少し前を歩いている。万物はその淵に影を連れている、そう言える。  
そして黒ずくめの彼もまた、影と呼ばれていた。  
人の歴史の暗部に潜み、誰にも知られることは無く、しかし歴史上のどこにでも存在する、  
存在しうる影――その名を、伊賀流忍者・服部半蔵。  
大きな狼の背に乗った一行がやがて姿を消し、空気が余韻を残すのみとなった頃、半蔵は  
ひとり、目を閉じた。途端、自分を中心として、果ての見えない書物の棚が彼を包む。  
飾り気のない燭台の灯りに浮かぶ棚に収められている巻物には、この国の歴史を裏から  
区切るにふさわしい、決して誰にも明かされることの無い闇の歴史――影――の概要が、  
簡潔に書かれていた。内容は偵察から始まって、中には誅殺など物騒なものも多い。  
その書棚の通路の中を、半蔵は過去の方へと静かに歩む。  
あの時、その場所。「そこにいた彼」が見た歴史をさかのぼる。  
そして半蔵はある一つの棚の所で足を止め、自分の目線の少し上に収められた巻物のひとつ  
を手に取った。  
かすれた表面に「アンブロジァ」と残ったその巻物を紐解くと、紙の上に白黒の映像が  
映し出された。土地が破壊され、荒天から降りかかる魑魅魍魎が人々の命を食らう、地獄  
を思わせる風景が、からからと途切れ途切れの立体映像となって浮かび上がる。多くの  
命が奪われた理由は今でこそ「大ききん」などと片付けられているが、あの時確かに、  
地上は魔界に呑まれようとしていた。  
 
だがこうして、歴史は今も前進している。魔界の侵攻という絶対的な窮地は、修羅と羅刹に  
生きる剣士たちの手によって食い止められたのだった。しかしそれで全てが終わったわけ  
では無かった。魔界が地上に残した爪あとは驚くほど深く、悪は去ったところで、滅亡は  
時間の問題かと思われた。流石の半蔵も、万策尽き果てていた。  
それでも、奇跡は起きた。北の国から魔の気配に引かれてやって来た若き少女剣士が、  
その身体を不可思議な光に変え、大地を癒したのである。  
こうして、世界を襲った究極の危機は幕を閉じたのだった。  
「しかし」と、半蔵は瞳を開き、記憶の世界から舞い戻った。高い鉄塔の頂上へと軽々  
その身を移し、街を見下ろす。誰の目にも留まらない。  
今日はなにがしかの祭日だった。街は人でにぎわっている。楽しげな音が聞こえてくる。  
いつもと何ら変わらない平穏無事な世界だと、一見ではそう思われる。だが、あの時と  
同じ、いや、それ以上の危機が世界に近づいているのを、半蔵は感じていた。世界的な  
高度成長の裏で、地上の均衡が崩れ始めているのだ。この機に乗じ、この世を転覆させ  
ようと新たな企てをする者がいつ現れるとも限らない。そういう機運が、冷たい空気の  
中にぴりぴりと満ちているのを感じるのである。  
その不吉な勘が正しいものだと暗示するかのような、氷の少女の飛来があったのは一ヶ月前  
だったろうか。半蔵は主命を受け、この一件について本腰を上げた。  
今日も半蔵は、影から影へと飛び移る。  
 

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