「コウタっくぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!」  
やめろ触るな!  
「んもう、信じてた!あたい信じてた!ぜーったい来てくれるって!」  
帰ります。有無を言わさず。  
「だーっ待って!しかしどうして!確か今日はラブリィな妹と、昼夜を問わない聖夜の  
合体さぐぁ」  
この口か。えぇ?この口か!  
「ふびばべいへへへ!はーっ、はーっ・・・・・・乱暴だぞコウタ!アヒルになるとこだろ」  
アヒルじゃ生ぬるい。お前なぞ豆腐のカドに頭ぶつけて大豆になればいいんだ。  
「言うねえ!今日の飲み会のメニューにチゲ鍋あるからさ、その時に考えるよ」  
・・・・・・。  
「で、本当にいいのかい?妹さんは」  
あーっ、いや・・・・・・そのさ、6時ごろには帰るんだ。だからそれまででも・・・・・・いいか?  
「オーウッ、マイフレンッ!誰がノンなどと言うものかよ!飲んでって飲んでって!」  
分かったから腕を組むな。んで、何時から?  
「只今の時刻えーと11時。酒池肉林の宴まで残すところ、あと1時間でございます」  
昼から開けてくれるんだから話の分かる店だよな・・・・・・。  
「あぁ、店主がウチのOBなんだぞ。その頃からの伝統らしいよ?」  
うへぇ、あのヒゲのオッサンが?そんな昔から機械系はモテナイ君だらけだったのか。  
「俺達、人生たどる方向間違えてるよね〜。でもいいんだ、俺はそのわき道を選んだお陰で、  
コウタのような究極ポンヨウに出会うことが出来たアルから。シェシェ!ピンフ!」  
この調子であと一時間、俺は異国人同然の日本人と過ごさなきゃいけないのか・・・・・・。  
「あいやいやいやいや。その一時間さえですね、今の我々にはかけがえの無いモノですよ」  
え?何だよ?  
「あのさコウタ、大変申し上げづらいんだが・・・・・・期末テストのことマジ忘れてない?」  
うわぁぁぁぁぁ〜〜〜・・・・・・ビンゴ。図星。俺の辞書にその単語無いわ〜。  
 
「いーじゃんいーじゃん!忘れよう!忘れましょう!今日は無礼講!暗い顔ナシナシ!」  
お前っ、思い出させておいてそりゃねーだろよ!ノート出せよノート!  
「ごっめーん、もうカバンの中は今日のために仕込んだ手品グッズだけなんだよ」  
何のために俺にテストのネタ振りやがったんお前はぁ!うっ、ぐあ、眩しッ?!  
「いーぃ表情だよ・・・・・・コウタくん。怒ってる君も最高だァ。どうだい、このシャッター音。  
何かこう・・・・・・響かないかな?光るたび、ズシって。股間辺りとか。どう?どう??」  
てめぇ・・・・・・  
「いい、イイよ!最高だ!嗚呼もう一枚、このカメラの中に怒れる君を閉じ込めさせてェ!」  
てめーは豆乳鍋に頭突っ込んで死 に や が れ ――!!  
 
 
・・・・・・・・・・・・  
 
 
レラの背中にしがみついてシクルゥに跨ったリムルルは、心地よい空気の流れに乗って、  
凄い速さで流れ行く風景を全身で受け止めていた。  
知らない場所、知らない人達、知らない音、知らないにおい。  
髪の毛を揺らし、頬をすべって後ろへと去っていく世界。  
細い裏路地も、大きなビルの谷間も、人ごみも海も川も山も空も関係なかった。  
――すごい!わたし達・・・・・・風になってるんだ!!  
「うわ――――――――――!!」  
最高の自由を手に入れた優越感に、リムルルは我慢も忘れて大きな歓声を上げた。  
それが風の音となり、街路樹に負けじとしがみついていた葉をことごとく大地へと誘う。  
すっかり踏み散らされたはずの霜柱がもそもそと大地から蘇り、子供達を喜ばせる。  
遠く離れた大陸から太陽を覆い隠す厚い雲を次々と呼び集め、今夜ばかりはと空を見つめる  
人々に、むずむずするような高揚感をもたらす。  
 
今日は、クリスマス・イヴ。  
リムルルが初めて経験する異国の、一番幸せなお祭りの日。  
冷たく優しい氷のカムイに愛された少女が、笑い声と共にこの国に本格的な冬を撒き  
散らしていく。  
 
「んぅ・・・・・・ん」  
そんな幸せを。  
シクルゥの背の上で体験した不思議な感覚を思い出しながら、リムルルはまぶたをとろけ  
させていた眠気から覚めゆっくりと目を開いた。  
飛び込んできたのは、深い緑色の樹木に覆われた天井と、そこからこぼれたまだら模様  
の木漏れ日に染まるレラの顔だった。  
差し伸べられた手を見て、初めて自分が地面を下にしていることに気づく。リムルルは  
無言で姉の手に掴まって立ち上がった。  
「リムルル、気分はどう?」  
「ん、平気・・・・・・」  
リムルルは目を擦りながら答える。  
「ずいぶんと良く眠っていたものだから、起こすのためらってたとこだったのよ?」  
リムルルの身体に被せていた外套を折りたたみながら、レラが尋ねた。  
「ん、とっても良く寝た。もうちゃんと起きてるよ。だいじょぶ」  
少し傾きながら爪先立ちの背伸びをして、リムルルは鼻から思い切り空気を吸い込む。  
そして万歳をしたまま、辺りを見回す。  
寝不足気味だった頭を覆っていたまどろみは一瞬にして破られた。  
「うわぁ・・・・・・」  
心底から出た驚嘆の声だった。そこは想像を遥かに超える、深い深い森だった。  
大自然の英知を年輪に変えた木々。兄のアパートよりもずっと高く、大人10人が手を  
つないでも囲めないぐらいに太く育った巨木がそこかしこに居を構えている。その枝には、  
季節を感じさせない青々とした葉を幾重にも重ねている。  
見上げても見上げても……緑色が続いて終わらない。  
「うっわわぁ、わ、うわっ、たっ?」  
背伸びを解くのも忘れ、いつの間にか口をぽかんと開いて緑の天井を見上げていたリム  
ルルが、バランスを崩して倒れかけた。だがそのすぐ背後にも、苔むした巨木がずっしり  
とそびえ立っていた。リムルルの小さな身体は、いとも簡単に受け止められた。  
 
やけにでこぼこと波打っている茶と緑の地面は、良く見ればそれ自体が太い木々を支える  
たくましい根っこだった。要は、地面の表面に見えているのは殆どが木の根なのだ。その  
隙間を縫うようにして、色とりどりの花々がところどころに咲き乱れている。  
「すてき!」  
今度は転ばぬよう、慎重にぴょんぴょんと根っこから根っこに飛び移りながら、リムルルは  
近くの花の群れのひとつに飛び込んだ。  
ここで花摘み遊びを始めたら、数年はここから動きたくなくなるに違いない。初めて見る  
不思議な花の数々は、どれもこれも一杯に花弁を広げ、柔らかな木漏れ日の恵みを受けて  
輝いている。  
「すごい・・・・・・これがカムイの森!」  
「えぇ。アイヌモシリが生まれてから今日まで、人の手を避けて時を刻んできた森なんだ  
そうよ」  
花のじゅうたんに腰を下ろしてはしゃぐリムルルの横に、レラが近づいてきた。  
「アイヌモシリ(人里)にあって、人の手を離れている・・・・・・だからカムイ以外、その  
存在を知る者はいない。100余年前、魔界の者もさすがにここには気づかなかった」  
「だから、ナコルルねえさまもここにいるんだね?」  
確信めいた顔でリムルルがレラの言葉を継ぎ、こうはしていられないと立ち上がる。  
「やっと、やっと会えるんだね!」  
「えぇ。ここから先はシクルゥが道を教えてくれるわ。ほら、お待ちかねみたいよ?」  
レラが視線を送った。根のうねりが作り出したなだらかな上り坂の向こうで、シクルゥは  
いつものようにじっと黙ってこちらを見据えていた。コンルも一緒だ。  
「シクルゥー!コンルー!おーい」  
「さあ・・・・・・いいわね、リムルル」  
興奮に色めき立つリムルルをいなすように、レラが今一度静かに念を押した。  
リムルルが友人たちに振る手を止め、真顔に切り替わって全身をくまなく点検する。  
帯はゆるんでない。衿は曲がってない。お尻はちゃんとはたいた。ハハクルはちゃんと  
腰の後ろにある。マタンプシの位置も大丈夫。前髪もこぼれてない。  
そして、わたしの気持ちも決心も変わっていない。  
姉に、ナコルル姉さまに会いたい!  
 
「うん。行ける・・・・・・行こう!」  
リムルルは大きく頷いた。ついに、姉のいる先へと確かな一歩を踏みしめる時がやって  
来たのだ。  
走り出したい気持ちを止めて、歩調だけでも冷静にと言い聞かせる。  
しかし、レラから見ればリムルルは笑ってしまうぐらい動揺しまくっていた。  
リムルルの後ろを少し離れて歩く自分を振り返ったと思えば、向こうに見えるシクルゥ  
達の方を見てを繰り返し、木の根っこに貼り付いているどうでもいいような苔にさえ足を  
とられそうになっている。  
焦ってどうしようもないのにその気持ちを無理に押し止めているから、身体と心がぎく  
しゃくとかみ合っていないのだろう。  
あまりに危なっかしいリムルルを見るに見かねて、ついにはコンルが飛んでくる始末だ。  
「だ、大丈夫だよコンル・・・・・・おぉっとととぉ!?」  
高々相棒が近寄ってきたぐらいで、言ってるそばから根っこにつま先を引っかけて手を  
地面に突いてしまうようでは、ちっとも大丈夫ではない。  
リムルルは結局、シクルゥの背の上に乗せられてしまった。  
「だから!自分で歩けるのに」  
子ども扱いされるのが嫌なリムルルは、シクルゥの上で揺られながら唇を尖らせる。だが  
横について歩くレラは、頑としてそのわがままを受け付けない。  
「あのね。あんなに危なっかしい歩き方をして、せっかくの衣装が汚れてしまったら  
コタンのみんなに顔向け出来ないでしょう?」  
「だから気をつけるってば!」  
食い下がるリムルルを前に、レラがそっぽを向いた。  
「そう、分かったわ。勝手になさい・・・・・・泥だらけの姿でナコルルに会いなさいな」  
「うっ・・・・・・わ、わかった。シクルゥごめん、ナコルルねえさまのところまでお願いね」  
「姉の名前」という弱みをすっかり握られているとも知らず、リムルルはその名を聞いた  
とたんに大人しくなってしまった。  
上手いことやるなぁとコンルに妙に感心され、レラはリムルルに見えないようしーっと  
人差し指を口に当てた。  
 
現にリムルルの頭の中は既に失敗の事などはどこ吹く風で、ナコルルの事で10割が占め  
られてしまっている。  
今、姉がどのような状況になっているのかという予備知識は殆ど皆無だ。この大きく果て  
しない森の一番深い場所で、木々に守られ眠っているという事だけをレラに聞かされて  
知っているばかりである。どのように眠っているのかまでは分からない。  
――寝ちゃってるんじゃ、お話はできないかもなぁ・・・・・・。  
なら、もしも自分が起こしたらどうなるのだろう。リムルルの胸に素朴な疑問が浮かぶ。  
いつだったか、前日に執り行われた大がかりな祭りの儀式で消耗し、昼まで寝坊していた  
姉を起こしたときのように、肩を揺すったら「もう・・・・・・起きます」なんていいながら、  
寝返りを打ったりするのだろうか。  
いつも起こされてばかりだったリムルルにしてみれば、姉を起こした記憶は片手程度しか  
無い。この時は起こしたはいいが、寝返りの拍子に姉の無邪気な寝顔にかかった黒く長い  
髪を耳の後ろによけてあげると、またすぐに眠ってしまったのを思い出す。  
――それでお昼の準備はわたしがやろうとして、味付け失敗して、おじいちゃんが怒った  
んだよなぁ・・・・・・。  
ナコルルを起こした他の記憶といえば、あまり良いものはない。ウェンカムイとの激しい  
戦いで負った怪我で苦しんでいたり、夜中に吹きすさぶ風雨の音にうなされたり、そんな  
苦しげな姉の寝顔ばかりだ。だから本当に眠っているのだとすれば、是非ともすやすやと  
眠っていて欲しいものだとリムルルは思う。  
しかし眠りながらも自分の力を消費して、ばらばらになりかけたアイヌモシリを守って  
いるのだからそんな虫のいい話はないかもしれない。やせ細っていたらどうしよう。  
いやいや、もう一人の姉は毎日とても元気だ。今朝だって食欲もすごかったし、たった  
たったと歩くシクルゥの歩調にも全く遅れをとっていない。それなら元気かもしれない  
じゃないか。  
いや、実は姉は元気どころか健康そのものなのでは。ここから見上げるこの緩やかな斜面の  
上で、ママハハと共に自分達の到着を今か今かと待ちわびているのでは――  
 
「リムルル、リムルル!リムルルちょっと?」  
「はっ、は、はいっ?」  
想像の中で、昔と何も変わっていない姉と幸せな再会を果たす直前で、リムルルはレラの  
声で現実に引き戻された。  
「ぼーっとしていたらダメよ。もうすぐなんだからね」  
言われてみれば、一行は結構な距離を進んでいた。遠いと思っていた斜面の頂上もすぐ  
そこに迫っている。振り返って自分が座っていたお花畑を探そうにも、どこまでも続く  
大木と花畑の繰り返しの風景に紛れて、もうどれがどれだか分からなくなっていた。  
耳を澄ませば、どこからか水が流れる音も聞こえる。近くに川があるようだ。  
「うん。ごめんねレラねえさま。あぁ、ちょっと緊張してきたなぁ」  
「そう、気を引きしめないと。カムイにも笑われちゃうわ・・・・・・さて」  
リムルルが頭を振って飛んでいた気持ちを正していると、レラがなぜかぴたりと足を止めた。  
「えっ、ちょっとシクルゥ、止まって!」  
それを見たリムルルが、またがっているシクルゥの頭をぺんぺんと叩く。  
「どうしたの、レラねえさま」  
「ふふ、私はここで待ってるわ」  
肩から下をすっぽりと隠していた外套を外し、木の根の上にふわりと広げると、レラは  
そこに腰かけた。  
「3人で行ってらっしゃい。ちょっと私は・・・・・・」  
「えっ、でも」  
「あの娘はもう一人の私自身だからね、自分で自分を見るのは気が引けるわ。それにリム  
ルル?あなただって色々、二人きりじゃないと話せないことだってあるでしょうに」  
根っこの上に座り、投げ出した足をぶらぶらさせながら、レラが笑った。  
「それはそう、だけど」  
「シクルゥ、後はよろしくね・・・・・・大急ぎよ」  
「でも、だけどぅッ?!」  
リムルルは言いよどむ暇も無かった。急に鋭さを見せたレラの号令ひとつ、シクルゥは  
言いつけを忠実に守る。太い前足がじゃっじゃっと地面をかくと、巨大な狼は少女を乗せて  
走り出した。  
 
「えっ、ちょ、ちょっと!」  
シクルゥの急加速は、振り落とされたら危ないぐらいの勢いだった。リムルルは反射的に  
銀色のたてばみにしがみついて頭を伏せた。  
「うひゃぁばばばばば!?」  
開いた口の中にがばごぼと空気を受けてしまって、もう喋ることもできない。レラが今朝、  
しっかりと鉢巻を結んでくれた理由がひとつわかった気がした。  
そうこうしている間にも、右から木が迫る。  
それをシクルゥは、左じゃなくもっと右に避ける。  
根っこを高く飛び越える。木々の枝が迫る。  
・・・・・・そのまま枝葉に突っ込む。  
がさがさがさがさがががべきぼきべき!  
「ぶはっ!滅茶苦茶だよぉ〜〜!!ひえぇぇ!止まって!とまっ、ひえぇぇぇぇ!」  
リムルルは野性を開放した狼の背中の上で、涙目になりながら叫んだ。  
「レラねえさまぁ助けてっ!シクルゥ速いよ怖いよ高いよぉぉ!ひぃぃあぁぁぁ・・・・・・」  
 
あぁぁぁ・・・・・・  
 
「おー、速い速い」  
レラが左手を腰に、右手を目の上にかざして見ていると、シクルゥは土煙を残して斜面の  
向こうに消えてしまった。成る程、あれにいつも乗っている自分は、なかなかに命知らず  
だと思う。  
そのシクルゥに遅れるものかと、後を必死で追いすがるコンルが小さくきらきらと光った  
のを最後に、ついに自分以外に動くものは周囲から消えうせた。  
静寂の中に浮き彫りとなった、聞くだけで安らかな気持ちになる小川のせせらぎを楽しみ  
ながら、レラは再び根に腰掛ける。  
「ま、シクルゥに任せておけば安心ね」  
一人つぶやきながら、自分が座っている根の主を見上げてみた。  
空を支えているんじゃないかと思うぐらいの巨木。こんなに立派な樹木がこの世界に存在  
すること自体が、未だに信じられない。  
 
がっしりとした幹は幾本も重そうな枝――それこそ、その枝自体が普通の樹木ぐらいある  
のだ――を抱え、その先にはさらに山ほどの葉が広がっている。あれだけ広く枝葉を伸ばし  
たのなら、大抵の樹というのは横へと広がっていくものだ。それなのにこの森では、どの  
樹も迷うことなく上へ上へと真っ直ぐに伸びている。どんなに自らの腕を広げようとも、だ。  
その姿は、齢を重ねれば重ねるだけ、自らの存在を天へと、最も高い場所にあるという天上の  
カムイモシリへと近づけようとしているかのようである。  
「カムイの森・・・・・・か」  
自分の想像の範ちゅうを軽々と飛び越した空間の中で、緑色の葉の間を縫って時折届く  
陽の光に目を瞬かせながら、レラはまたも小さくひとり言を漏らす。  
「私のような中途半端な存在が、居ていいような場所じゃないのよね」  
この余りに神々しい場所に、魂ひとつにも満たないわけの分からない自分が居る。  
それだけで、漂う神気が汚れてしまいそうだった。濁りが生じてしまうのだ。  
例えるのなら、川から汲んだばかりの水に泥を落としているようなものだ。その泥は  
少しであってもこぼれれば水面を打ち、波立たせ、確実に水の中に広がり、透き通った  
桶の中に取り返しのつかない曇りを残してしまう。  
しかしそれは、レラの考えすぎでもあった。レラが発した不純さなど、雨あがりの道に  
出来た水たまりを見つけた子供が、小枝でぐりぐりとかき混ぜるような他愛の無いものだ。  
そう、レラ一人をこの場にとどまらせた、どす黒くどこまでもぶしつけな気配に比べれば。  
 
ぽつっ。  
 
また一滴。また一滴。レラの眉間を狭まらせる真っ黒な滴りの音が、悪の存在を敏感に  
察知するレラの頭の中に忌々しい響きを残す。  
とっさの判断だったが、シクルゥに命じてリムルルがその気配に気づく前にこの場から  
退かせたのは英断だったと、レラは自分でも思う。  
なぜなら、その気配はとんでもない質量を持った「悪」の気配だからだ。  
どうやってこの神聖な土地に忍び込んだかは知らない。しかし、自分の警戒網の中に何の  
前触れもなく降って湧いた黒点の存在に、レラは拳を固くする。  
 
ぽつっ、ぼとっぼとぼとっ、どぽっ。  
 
だがそんなレラをあざ笑うかのように、その「悪」の気配は時を経るにつれどんどんと  
おおっぴらに、あからさまに、レラの神経を逆なでするように存在を膨らませてゆく。  
もう桶などでは足らない。真っ白な半紙に墨汁を垂らしているようだった。その真っ黒な  
気配はじわじわと音も無く広がり、白く清い空気を四角の隅へと追いやり、カムイの森と  
いう名の半紙を今にもどろどろに塗りつぶそうとしている。  
「ここだここだ」と存在をひけらかし、あろうことか最強のアイヌの戦士を手招きしている。  
右を向いた目線の先、木々を前から数えて1・2・3・4・5・6・7。  
7本目。  
ここからある程度離れたその場所に、目には見えないが確かにその気配は渦巻いていた。  
ただ、そこはある程度離れているとはいえ、レラの走力ならばたったの10秒だ。思い切り  
跳びあがって風を捉えれば、2段跳びでも十分到達できる。1段目で呼吸を合わせ、2段目の  
間にチチウシを抜き、すれ違いざまにそっ首を叩っ斬る。それも出来た、が。  
あえてレラは、怒りと戦いへの衝動にけば立ちかけていた感情を抑えた。  
そして天を見据え、静かに祈り始めた。  
 
「カムイ達よ。この森で天高くにまで手を伸ばし、アイヌモシリを支える尊き神々よ。  
そして我々人間が残し得た、あなた達への最後の供物……ナコルルを、大事に大事に守って  
くれた優しき隣人達よ。私のような魂一つにも満たない者が、このカムイの庭に立ち入った  
事をどうか許して」  
・・・・・・・・・・・・  
冷ややかな森の静寂が、レラの声を空しく吸い込んだ。カムイ達は息を殺しているのだろう  
か、誰一人としてレラの祈りに耳を貸しているような感じはしない。  
――怒っている・・・・・・当然ね。  
そう思ったところで、無言の圧力に負けるレラではない。微動だにしないまま、天へと  
祈りの言葉を紡ぐ。  
「私はこの森に眠るアイヌの戦士から分かれた、純然たる戦士の魂。カムイの恵みに溢れる  
アイヌモシリを汚す輩・・・・・・悪しき者達に、尊敬するあなた達から譲り受けた宝刀チチウシ  
と剣技で、裁きを下す事が宿命なのです。人間とカムイの守護者なのです」  
・・・・・・・・・・・・再びの沈黙。  
心を尽くした言葉にさえ反応が得られない。その事に違和感を覚えつつも、戦いの時は待って  
くれはしない。レラは右手を肩の後ろへと伸ばし、武器を探る。そして二つある武器のうち、  
人間の文明がもたらした方、ライフルを、胸の前で構えて片膝を折った。  
ゆっくりと戦いの姿勢を整える間、レラは返事を待った。だがついに、カムイ達の声を  
聞くことは出来なかった。  
――戦士は孤独なものね。  
思いながら、レラは祈りの最後をゆっくりとこう締めくくった。  
「カムイ達よ・・・・・・どうか、どうか。この戦士の魂たる私が自らの宿命に従い・・・・・・これ  
からこのカムイの庭で繰り広げる狼藉を、どうか許して!」  
じゅきっ。  
黒い塗装が剥げた装弾レバーが一気に引かれ、小気味よい機械音が鉛弾の確かな装てんを  
約束した。  
戦士の両手に構えられた長い筒の先が、7本目の大木を指し示し、  
こおおおおおんっ  
決闘の幕開けを思わせる高らかな銃声が、カムイの森を振るわせた。  
 
「うっ、うごあおぉぉぉぉぉうッ!?」  
寝込みを襲われたけものが悔しげに叫ぶのに似た気味の悪い男の悲鳴が、レラが構える銃口  
から上り立つ煙をゆらっとくゆらせた。  
そして数秒の空白の後、大木の根元に咲く花畑の上に何かが落ち、地響きがした。  
色とりどりの花弁が散って舞うのも見える。  
――良し。中ったわね。  
レラは狙い通り、太い木の枝の上に漂っていた黒い気配のど真ん中を打ち抜いていた。  
このライフルを奪って初めて撃ったときは外しようのない至近距離だったのに対して、  
今回はかなりの遠距離だ。それでもレラには並外れた戦士としての勘があり、風の流れも  
読める。ライフルの弾を狙い通りの場所に着弾させる事など、箸を使って豆を掴むのと  
同程度の難しさでしかない。無論、それを避けるのも同様だ。  
レラは淡々とレバーに手をかけ次弾を込める。臨戦体勢が整ったことを従順に知らせる  
じゅきっという機械音が、新鮮で耳に心地よい。ただ、この筒の中身の詳しいことは良く  
分からない。ただ銃の反動を上手く流せ、しかも狙いやすいよう、見よう見まねで構える。  
そうすると、ごく自然に筒の先を、地に落ちた黒い気配にぴたりと合わせることになる。  
……そしてこれも単純に、もう一度引き金を人差し指で引き絞る。  
こおおおおおおんっ  
「ぐっはあぁぁ!うぐあ・・・・・・あ・・・・・・」  
自分の手と耳に火薬の衝撃だけが伝わり、敵の苦悶が途切れ途切れに聞こえた。  
――中った・・・・・・けど、本当に効いているのかしら?  
レラは、硝煙の向こう、木の下で一つの生き物のようにがさごそと揺れる花畑に疑問の  
眼差しを向けながら、またもレバーを引いた。じゅきっ。機械音。  
何も考えずに斬りかかれば、事はもっと早く済んでいるかもしれなかった。だがレラは  
あえて銃を構える。引き金を引く。  
こおおおおおおんっ  
「ぐおおぉっ・・・・・・げはっ」  
 
別段、火器に興味があったわけではない。炸裂音も撃つたびいちいち耳につくし、手も  
少ししびれる。そもそも戦士らしくない。憎むべき敵だからこそ、この手でしっかりと命を  
摘み取った感触を確かめねばならない・・・・・・のだが、レバー。機械音。構える。引く。  
こおおおおおおんっ  
「・・・・・・!・・・・・・!!」  
それに良く考えれば、この音はリムルルに届いているのではなかろうか。さえぎる物が  
幾本もそびえてはいるものの、木々はそれぞれ広く開いているし、シクルゥの耳なら確実に  
拾っているはずだ。  
だが、絶対に戻ってきてはいけない。戻るにしても、こちらが事を終えてからにしてもら  
わなくてはならない。急いでレバー。機械音。構える。引く。  
こおおおおおお っっきいいいいいいいん!  
その急いだ5発目で、異常は起きた。  
前の4発を撃ったときの抜けるような火薬の爆発音が突然、金属同士のぶつかり合う甲高い  
音に取って変わった。  
それと同時に、ライフルを構えたままのレラの頭の上に乗っていた帽子が、何かに貫かれて  
後ろへと吹き飛ばされたのだった。  
レラは機械的に続けていた銃弾を込める動作を6度と続けることはせず、ライフルを地面に  
捨て、落ちた帽子を拾いながら立ち上がった。  
「銃なんて効くわけ無いわね」  
レラはどこか嬉しそうに、安心したようにため息をついた。そして指一本分開いた帽子の穴  
を眼の高さにぶら下げ、敵を「試すためだけ」に5度も弾を撃ち込んだ花畑を覗き込んだ。  
草花に紛れて一本だけ妙な物が生えているのを、レラの強力な視力が手元同然に捉える。  
異様だった。赤黒く、妖しく輝くなまくらの日本刀が、切っ先を真上に向けてそそり立って  
いる。多くの犠牲者を弔う花束の真ん中に、無神経に突き立てられた不吉な卒塔婆のような  
それが、先刻、レラが5発目を放った直後に花畑の中からいきなり飛び出して銃弾を弾き返し、  
レラの帽子を見事に貫通させたのである。  
もちろん、そのなまくらの下にはそれを握り締めている誰かがいるはずだった。  
 
「あれだけの気配だもの・・・・・・流石ね!倒れながら撃ち返すなんて大した腕前じゃない!」  
破れも気にせず、帽子の形を頭の上で整えながら、レラが呼びかけた。  
「ほら、まさかこのぐらいで死んでないでしょ?さっさと立ち上が」  
「いい加減にしやがれこの糞アマがあアアアアアアア!!!」  
地獄の淵に砕ける溶岩の如き、強烈な怒りの衝動をはらんだ男の怒号が、レラの言葉と  
帽子を再び遠くへとかっさらった。爆発的に膨らんだ邪気がカムイの森の木々を揺らす。  
枝がしなり、びうびうと気持ち悪く泣き叫ぶ。怒号に命を掠め取られた花々が次々に黒く  
しおれて枯れていく。  
いつしか辺りはどんよりと深紫の霧に包まれていた。優しかった太陽も遠ざかり、肌を  
滑らせる湿りを帯びた邪な雰囲気が、神聖な土地を侵食している。もはやカムイの森に  
あって別の場所だ。とんでもない邪気の洪水に飲まれている。  
だがレラは気にしない。押し流された愛用の帽子も、溺れそうな雰囲気もどうでもよい。  
ただ一点、怒号と共に草花を踏み散らして立ち上った、怨念の塊のような男の姿だけに  
全神経を集中していた。  
漆黒の渦の中心で右に左にぐらぐらと揺れている、ボロ布同然の道着を纏った紫色の肌。  
束ねられてもぼさぼさなままの長髪、そして、濁った光を放つ2つの赤い目。  
男の風体を監察していたレラの耳にやがて、薄汚い、引きずるような声が届いた。  
「ひい、ふう、みい、よお・・・・・・ペッ、やってくれるじゃねェか、あァ?糞女ァ」  
血の唾と共に吐き出された男の汚い言葉に、レラもそっくり言い返す。  
「何を言ってるのかしらね。自分から手を打ち鳴らして私の事を誘ったくせに」  
「へっ、違えねェ。殺してェ奴がまた増えちまったなァ」  
「こっちこそ待ち焦がれたわ。よくもまあこれだけの邪気を、今まで隠していたものね」  
レラの冷たく鋭い視線が、まとわりつく紫の霧を切り裂いて、鉛弾がめり込んだままの  
男の胸に突き刺さった。  
「救いようの無い魔界の男・・・・・・捜したわよ、羅刹丸」  
 
遠く離れていたが、男の口がにんまりとしたのが見えた。  
「おォ、俺の事知ってやがるってかァ?姉ちゃんよォ。フン・・・・・・成る程なァ、噂通りだ」  
「噂?」  
意外な言葉に、レラの片眉がぴくりと動いた。  
「かなりの上玉たァ聞いてたがこれ程たぁな。よーっく見えるぜェ?へへ、赤い唇といい  
少し焼けた肌といい・・・・・・それにいい眼してやがる。キツくてよ、自信満々でよ、こっち  
を見下しててよ・・・・・・くっ、く・・・・・・く」  
羅刹丸が長い舌をぞろりと伸ばし、口の周りをべろりと舐めた。  
「くっ、喰らいてェ・・・・・・その眼!両方ともブッコ抜いてよォ!!」  
「あなた、死体を弄ぶのが趣味なわけ?ふっ、分かりやす過ぎて反吐が出るわ」  
レラが首に巻いていたマフラーを目の下までたくし上げた。  
「おうおうおう!せっかくのお顔が見えねじゃねェかよアア?テメエのなっちゃいねェ  
格好じゃ、顔以外見るトコなんかねーんだからよォ!」  
羅刹丸がさも残念だとでも言いたげに肩を大げさにすくめた。  
「失礼だこと、あんたに言われたくないわ」  
「へッ、この男前に気づかないってかァ?けッ、あんまりおネムが長かったから、美的  
感覚が狂っちまってんだよ姉ちゃんは」  
――おネム?  
羅刹丸の言葉が引っかかった。  
――頭は悪そうなのに、そこまで情報を掴んでいるなんて。それに噂?誰が?  
驚きつつも、レラは羅刹丸の言葉を冷静に分析して重要な情報を得ていた。  
察するに、羅刹丸はレラとナコルルがずっと眠っていたことを、すなわちふたりの存在を  
知っており――だからこそここに居るのだろうが――その事を噂をするだけの「仲間」が  
いるという事だ。倒しても「次の敵」が存在するのである。悪の根は予想以上に深い。  
「でも心配ァいらねェ。着付けの天才、この羅刹丸様と出会ったからにはよォ、奇麗キレー  
にしてやるぜェ、姉ちゃん」  
考えをめぐらすレラをよそに、男はベラベラと下らない事を口走っている。その内容を  
全て聞き流しつつ、変だな、と、レラは下品極まる魔界の男に対して素直な疑問を頭に  
浮かべていた。  
 
さっき感じた強烈な邪気は決して幻だとは感じなかった。現に、肩をなまくらの峰で  
かったるそうに叩いている男の胸には数個の弾痕が見え、そこからどす黒い血液がどく  
どくと溢れ出している。魔界の者とはいえ、あの傷を負ってあんなに平然としていられる  
はずが無い。男はとんでもない化け物のはずだ。なのにその体たらくときたらない。  
――やはり、いや・・・・・・しかし?まさか「仲間」が近くに?その邪気だった??  
レラは緊張を保ったまま、羅刹丸の事を勘ぐっていた。当の羅刹丸はまだ喋っている。  
「・・・・・・からよ、真っ赤な血で頬紅塗って、俺様好みの服に仕立て直して、肌に素敵な  
模様を描いてやるってんだ。姉ちゃん、アンタの妹みてえになァ!!」  
 
チチウシが抜かれるのが早かったか、大地を蹴るのが早かったか。  
 
でこぼこした根っこの上を一直線に魔界の男目掛けて疾るレラの頭の中を、その速度と  
同じ勢いであの日の事が眩しく駆け巡る。  
――アンタの妹。  
――リムルル!  
――リムルルの太ももに残された傷あと!  
――大事な妹に刃を向け、一生消えない戦いの苦しみを植えつけた男への怒り!  
――そして忘れもしないその名!  
全部を繋げる男の一言で、レラの一秒前までの疑いはとうに晴れていた。  
「うああああああっ!」  
再びずり下がったマフラーからシクルゥのように歯を剥き出して、レラが大声で吼える。  
抜き身のチチウシが青黒い霧を文字通り霧散させ、銀色の尾を引く。  
 
「あのクソガキのクソ姉貴だからなァ・・・・・・さぞかし楽しめるに決まってらなァ!!」  
常軌を逸した速度で近づきつつある光の線を前に、羅刹丸の身体が震えだした。  
口から涎を垂れ流し、身体じゅうの筋肉が強張って、がたがたと意味不明に動き出す。  
「くっ、くあっ、がっ・・・・・・こ・・・・・・こ、こッこおおおお!」  
理解できない言葉まで漏れ出す中、右手に握られた愛用の刀「屠痢兜」だけが、主の胸元に  
ぴたりと寄り添うように押し付けられて、  
「ぶっ殺すうゥアアアア!!」  
殺。  
羅刹丸という存在の全てを表す絶叫と共に、男は自らの手で、既に穴の開いた自らの胸板を  
ずばりと切り裂いた。  
どす黒い血液が、横一文字の傷跡から間欠泉のように噴出す。傷ついても壊れない、生きる  
事にでたらめな魔界の心臓に食い込んでいた鉛弾が、4発全て次々に流れ落ちた。  
「うひあっ、ひっ、ひ、ヒヒ、ひィエッへッへへへへへへへへへへ!!」  
笑いと怒声のどちらともつかないものを恍惚の表情で吐き出しながら、羅刹丸も走り出す。  
さっきまでのだらけきった仕草からは考えられない俊敏さで動く男の胸からこぼれた紫色の  
しずくが、毒々しい霧に触れ、さらに色濃く狂気を輝かせる。  
「たあああああああ!」  
「うおごおおおおお!」  
銀の刃。紫の刃。  
かたや、肩に背負った世界と、それ以上に大事な妹を守るため。  
かたや、待ちに待った戦の予感と、向ける先の無い狂った恨みのため。  
別々の思惑を秘めた二人の戦士が、死地のど真ん中へと手繰り寄せられる。  
「死になさいッ!」  
「死ねやあぁァ!」  
同じ戦士としての宿命を叫び合い、お互いにぶつけ合いながら。  
 
 
…………  
 
 
「はぁー、ひー……」  
ようやく止まったシクルゥの背中に片手をついて、リムルルはすっかり荒くなった息を  
落ち着かせていた。  
木肌が顔面すれすれを通って涙がちぎれた瞬間が数十回。  
低く伏せてなければ確実に枝にあごを打っただろう、冷や汗の瞬間がさらに数回。  
天地がひっくり返ったような、ある意味夢心地の瞬間も数回。  
そして、自分も衣装も全くの無傷なことが未だに信じられない今現在。  
「し、シクルゥ、あの……にいさまがね、安全運転が大事だって、言ってたよ……」  
一瞬でやつれた乗客とは対照的に、シクルゥは舌も出さずに涼しい顔で向こうを向いて  
いる。どうやらその指し示した鼻先に目的地はあるらしい。  
目の前に突然現れた、幾本もの木々の根によってがっしりと固められた土の壁。そこに  
ぽっかり口を開いた、真っ暗なほら穴の入り口。  
リムルルは思う。  
――ついに、来たんだ。  
シクルゥの猪突猛進に無理矢理付き合わされて底を突いたはずのリムルルの元気が、待ち  
望んだ瞬間を前に身体の内側から蘇り始める。もはや、昨日までの疲れさえどこにも感じ  
られない。シクルゥに寄りかかっていた姿勢も自然と直って、へとへとの顔にも生気が  
戻っている。  
そうしてすっかり復活したリムルルの足は、自然とほら穴へと向かっていた。  
暗い穴のへりを掴み、中を覗き込む。大人が入れるぐらいの高さの入り口だ。  
しかしほら穴は飛び込む光を全部吸収して、中の様子を微塵も教えてはくれない。  
 
暗闇という名の出発点。  
 
それは、現代に生きるリムルルの過去と一緒だった。  
ママハハの声に家を飛び出し、持ち主を失ったチチウシを見つけた時の絶望。  
姉のために執り行われた、盛大な葬儀の中で感じた不条理。  
コタンを一人飛び出し、月が昇るたびに感じた深い孤独。  
 
どれもこれも、今、手探りながらに進んでいるこの先の見えない穴と同じだった。  
いつ転ぶかも分からない。進んでも本当はどこにも通じない、単なる横穴でしかない  
のかもしれない。  
だがリムルルは確信していた。姉はどこかで必ず生きているのだと。  
真っ暗なほら穴の中でも、その闇の向こうからこちらへと吹き込む微かな風が、出口の  
存在を如実に示すように。  
その確信だけを胸に、仲間の支えを受けてついにたどり着いた姉の眠る森。  
コンルのきらめきが、シクルゥの銀色の瞳が、レラねえさまの温もりが、川辺で出会った  
おじいちゃんの助言が。  
……にいさまの笑顔が。  
全てがこの一歩を進める力になっている。  
高鳴る胸から感謝と期待をこんこんと溢れさせながら、リムルルは一心不乱にほら穴を  
壁伝いに前へと進んだ。  
もうすぐそこだ。きっともうすぐそこなんだ。  
分かる。流れる空気の質が変わってきている。冬なのにしっとり暖かい感じがする。  
一足先に冬が終わりを告げ、わたしの春がこの先に待っているような気がする。  
もうあと一歩、もうあと一歩――  
その時だった。  
念を込めた、希望に続くはずのその一歩が、不意に空を切った。下に地面が無い。  
空足を踏んだリムルルの身体が、右足からぐるんと前につんのめる。  
「――ぁ」  
視界を封じられ、とっさに捉まる物を探る暇も無いまま、リムルルは身体が下に向けて  
投げ出されるのを感じた。  
「うわ――あぷっ!?」  
だが、底なしの縦穴に頭から落ちたはずの身体がすぐに柔らかな物に支えられて、リムルル  
は怪我を免れた。どうやら低い段差だったらしい。  
とはいっても地面は水平ではなく、下へと続くきつい傾斜が待っていた。  
 
「うわぁぁぁぁ!?」  
柔らかだったのは、積み重なった落ち葉だった。がさがさと葉擦れの音を立てて、リムルル  
はどんどん加速し、葉の敷き詰められた天然の滑り台の上をうつ伏せのまま超高速で下って  
いった。  
先が見えないから、シクルゥの背中の上よりずっと恐い。  
止まろうにもやっぱり捉まる物がない。  
頭から滑っているから、踏ん張ることも出来ない。  
「ひえぇぇ――――!」  
情けない悲鳴を上げながら、リムルルいつ終わるとも知れない滑走劇を繰り広げた。  
「こんなのばっかりだよぉぉ――!」  
そう叫ぶや否や、下にぼうっと明かりが見えた。  
速度に翻弄されたリムルルが、その光が何であるかを認識するよりも早く、その光はみる  
みる大きくなり、  
すぽーん  
「うわおぉぉう!?」  
リムルルはヘッドスライディングの姿勢で、目を突く明かりの中に勢い良く投げ出された。  
花畑の上を、自分の身体5つ分ぐらい滑って、ようやく勢いが止まる。  
頭の上をちぎれた花びらだらけにしたリムルルは、起き上がる気がしなかった。  
「う〜〜、うぅぅ……」  
洞穴の中には多分、10分はいたのではないか。いきなりの眩しい世界に目がつぶれる  
思いだし、まだこれ以上何かあるんじゃないかと、リムルルは身構えているのである。  
突然地面がぽっかり開いたり、おかしなテレビでみたように、頭を上げた途端に金色の  
たらいが落ちてきたりするかもしれない。だめだこりゃ。  
「リムルル?」  
いやいやそんなもんじゃない。置いてきてしまったシクルゥが私の後ろから滑り台を  
下ってきて、わたしの身体の上にどかっと……  
 
「リムルル……大丈夫?」  
……何も起こらない。  
「ねぇ、どこか怪我をしたの?」  
いや、起こっている。  
聞き覚えのある――なんてとんでもない、聞きたくて聞きたくて仕方なかった女性の  
心配そうな声が、頭の上から自分の名を呼んでいる。  
色彩が戻りつつある視界を埋める花を超えて、少し手を伸ばせば届くすぐそこに、見覚えの  
ある茶色の靴と、赤く縁取りされた純白の衣装に包まれたその人の足が見える。  
頭が真っ白のまま、リムルルは起きることも忘れて顔を上げた。  
腰まで伸びた艶やかな黒髪と、見るもの全てに本当の美しさを感じさせる白い肌と微笑みと、  
慈しみに溢れた瞳。  
その女性は、何もかもがあの日のままだった。  
 
「元気そうで良かった……。リムルル」  
 

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