運命とか何とか、そういう難しいものは考えたくはない。  
 
殺(シャア)ッ。  
 
ただ、命あるものから、それを奪うこと。  
どう殺す。いつ殺す。誰を殺す。どこで殺す。  
とにかくそれだけを四六時中考えていられればいい。羅刹丸はそういう男だ。何しろ  
彼自身、ある男を殺すためだけに魔界に生まれたのだから。  
「ある男」のことが頭に浮かぶたび、羅刹丸は赤とは違う色の血が出るほどに、拳を地面に  
叩きつけた。  
やり場の無い嫌悪と憎悪が腹の中で蠢いて、殺せ殺せと焚きつけるからだ。  
なぜそこまで恨めしいのか……という疑問をも感じさせないほどの恨み。  
その激情に任せ、羅刹丸はとにかく殺した。これもまた生まれつき握っていた妖刀「屠痢兜」  
を携え、目の前を動くものがあれば、人でも蟻でも、誰彼かまわず全部あの世に送った。  
羅刹丸は直感していたのだ。自分がなすべきことは、「あの男」を殺すこと。それならば――  
――どいつもこいつも全部殺し続けてりゃ、そのうち会えんだろォな!  
動くものが居なくなって、最後に動いているものがあるとすれば、そいつこそが自分が  
殺すべき「あの男」なのだと、羅刹丸は信じていた。当たり前だ。これだけ強い自分の  
反面である「あの男」が、自分と会うまで生き抜かないはずはないのだ。  
 
自分以外の誰にも、あの男が殺されるはずは無いのだから、と。  
 
身体の疼きが止まるその日を夢見て殺し続ける日々は、快感に満ちていた。  
何も解らないままに死んでいくヤツは愉快だ。  
あがくヤツはもっと愉快だ。  
どこまでも歯向かおうとするヤツなんぞは、最高の肴だ。  
そんな事を考えながら暴れていると、またひとつ、山奥の村が死んだ。  
不幸にも羅刹丸の歩む道の上にあったという理由だけで滅びたその村には、ざっと20人は  
居ただろうか。農民ばかりだったが、その中の一人に腕っ節のいい男がいた。  
農作業から帰ってきたらしいその男は、村を襲った悲劇を目の当たりにし、羅刹丸の姿を  
認めた途端、手に持っていたくわを力任せに振り上げて、羅刹丸の頭のてっぺんを狙ってきた。  
男の顔は、涙にまみれていた。羅刹丸の手にむんずと握られていた女の首は、どうやら男の  
妻か何かだったらしい。  
技術で闘わないその姿勢と、怒りの全てをぶつけてくるさまは中々に羅刹丸好みだったので、  
じっくりと舐るように殺してやった。  
指の一本に始まり、丹念かつ大雑把に解体し、四肢を切り飛ばして動けなくなったところを、  
最期は相手の持っていたくわで、心臓をぐたぐたに掘り下げてやった。一振りごとに血が  
弾け、既に死んでいるはずの男の顔が、びくびくと絶望に引きつった。  
「ふう……へへ。糞虫どもが相手でも、一仕事の後の一杯ってな、たまらんナァ」  
誰も居なくなった静かな村の真ん中に重ねた屍の山の上で、その男の頭蓋骨の中に満たした  
極上の血酒に酔いしれながら、羅刹丸は上機嫌だった。  
いつもなら考えるだけで拳を振り回したくなる「あの男」のことが頭をよぎっても、この  
時ばかりは気分が違う。尻の下に敷かれた冷たい屍の頭をばんばんと叩きながら、こんな  
ことを考えるのだ。  
――こいつら全部があの野郎……覇王丸なら、どんなに楽しいかわかったモンじゃねェな。  
赤く妖しく光る満月に届けとばかりに、羅刹丸は大声で笑った。勝ち誇った。  
覇王丸よ、せいぜい首を洗って待っていろ、と。  
 
だが、皮肉というものは往々にして起きる。魔界の男にでさえ降りかかる。  
 
自分の行き着く先。それを垣間見ることの出来る場所までもう一歩のところで、羅刹丸は  
ついに地に倒れた。  
侮った相手に取った不覚。その名は半分ぐらい覚えている。確か……  
「十六夜の 月にたなびく我心 誰が為にとぞ 闇夜に光らん……夢路」  
夢路。  
そう、ゆめじだ。  
その夢路の相手の手元が動き、羅刹丸は視界がひょいと高くなったかと思うと、真っ逆  
さまに地面に落ち、暗くなった。居合いの技で首だけを跳ね飛ばされたのだ。  
――俺に敵う相手が……覇王丸以外にいるッ……て、かァ……?  
地面に羅刹丸の頭が落ち、ごろんと転がった。その死に顔は、滑稽なぐらいの驚きの  
表情だった。  
 
……気がつくと羅刹丸は、ひとつの道の上にいた。  
 
空は暗く、雲も、星ひとつさえもなく、いつかの山奥で見たあの赤く大きな満月だけが、  
天井にぽっかりと大穴を開けている。  
羅刹丸はあたりを見回した。しかし見えるのは草一本生えていないだだっ広い土地で、  
月光にほの赤く浮かんだ乾いた一本の道が、自分の足元にあるだけだった。  
「ふうン……どこだァ?ここ」  
珍しくちょっとだけ考える。股間を掻きながらあくびを一つ。  
「けッ、んなこた知ったことかよォ」  
諦めるが早く、羅刹丸は屠痢兜を引きずってぶらりと歩き始めた。  
気ままなものだ。いつものままだ。俺の道だ。ふと振り返れば、からからに干からびた  
地面につけた自分の足跡から、真っ赤な血があふれ出してくる。そして道端には、幾つもの  
無残な人間たちの死体が打ち捨てられており、そこからもどろどろと血の流れが幾つも走り、  
道へと集まっている。  
結果、羅刹丸の踏んだ道は血の河となり、彼の背中に続くように流れていた。  
「成る程なァ」  
合点がいく。これが、俺の進んできた道なのだ。どこまでも延々と続く血の河だ。その  
船頭が俺、そういうわけらしい。魔界の者の生き様としては上々だ。  
しかし羅刹丸は、ふとそこで裸足を止めた。何かがおかしかった。こんな風にぶらぶら  
歩いていられる事自体に、違和感がある。  
「ん〜〜?」  
羅刹丸は、後ろ頭をがりがりと掻いた。引っかかる。気分が悪い。首の辺りまでむずがゆい。  
「ん〜、あァ?」  
首の辺りがかゆい。繋がっている首がかゆい。  
閃く一刀で、主の身体から切り離されたはずの首が。  
「お……?」  
羅刹丸の手から、するりと屠痢兜が抜け落ちた。  
ぽつり、一言。  
「するってェと、ここは……あの世か?」  
肩が震え、うめきが口から漏れる。月の赤い光に照らされた顔は、惨めに歪んでいた。  
「う……うぅ……うおおおおおおお!」  
羅刹丸の身体が、弓なりに上ずった。  
「この、この……この俺様が死んだだとォ!!??」  
月に向かって叫んだ羅刹丸は、いきなり右手を握り絞めたかと思うと、思い切り地面に  
叩きつけ始めた。何度も、何度も。いつかのように。  
「こんなところで終わりなのかよオォ!?あァ?!俺は何だってんだ?殺しに殺したは  
いいがよ、結局はあのクソ野郎……覇王丸んトコには行けねェってのか!」  
羅刹丸の心を刺激しているのは、自分の無様さだった。考えるのは苦手だが、今の自分が  
置かれている状態ぐらいは理解できるというものだ。想像だにしなかった醜態。自分の  
迎えた馬鹿馬鹿しい結末。  
「こら!おいコラ!ええおいコラ畜生、畜生は俺だこんちくしょおオオオオ!!」  
殺風景な平原に、羅刹丸の自分に向けた罵声がいつまでもとどろいていた。  
 
――空高くからだだっ広い土地を照らしていた月が、地平線へと傾く頃。  
 
右の拳の骨が見えるぐらいにまで殴り続け、地面に大きな穴が出来たところで、羅刹丸は  
ようやく、道の上にあごからべちゃりと突っ伏した。  
「あー……ダメだ。くだらねぇー。くうだらねェー。畜生……」  
爆発した無念が燃え尽きた途端に、羅刹丸はだらしなくうわ言をつぶやき始めた。  
「何なんだよ、あのゆめじってのはよォ。ちっと隙を見せた途端にこれじゃあ、割りに  
合わねェじゃねーか。人の努力を踏みにじりやがって。俺の道が終わるとすりゃ、それは  
あの野郎を殺したときだけって決めてんのによォ……そっか、この道は三途行きってかァ?  
けッ、冗談じゃねーって」  
ぶつぶつ文句を垂れながら寝そべっていると、妙なことが起きた。人の眼球と同じぐらい  
に丸い血の色の月が、見たことの無い欠け方をし始めたのだ。円形をした月の真ん中に  
向かって、下から細い三角形の切れ込みを入れるような感じだろうか。  
異変に気づいた羅刹丸は、ばちばち目をしばたかせた。  
「お……あれは……山かァ?」  
月を欠けさせていたのは、真っ黒な岩山だった。闇の空に溶け込んで見えなかったその  
黒い岩山は、この土地に降りた羅刹丸の目前に、最初からそびえていたのである。  
赤い月が傾いたことで浮き彫りにされ、初めて姿を現した遠い岩山の頂に、羅刹丸の視線  
は釘付けになっていた。  
豆粒ぐらいに小さいが、男がひとり、こちらに背を向けて立っているのが見える。  
常人ならそれが誰かなぞ知るよしもない。小さすぎるのだ。  
けれども、今、この瞬間、その山の上にいるものが羅刹丸に見えないはずがなかった。  
初めて目の当たりにしたその姿。だがその姿は、生まれたときから知っていた。この肉体が  
魔界に生まれたその時既に、羅刹丸が殺すべき人間の姿は、彼の奥深くにしっかりと刻み  
付けられていた。  
うつ伏せのまま羅刹丸は砂を掴み、こみ上げる憎悪と共に、その名を醜い口で叫んだ。  
「覇王丸うううッ!!!ついに見つけたぜ……。こんなところに居やがったかァ!」  
ぼさぼさした髪を一本に結い、白い胴着に大徳利を背負い、左手には鞘に収められた河豚毒。  
確かに見える。視覚とは違う、見るよりも明らかな憎悪が、眼から飛び込んでくるような  
感覚。  
そしてその感覚は、山の方角にもうひとつあった。  
眉根をひそめ、感じるままに眼を動かすと、覇王丸の少しばかり下の岩場に、もうひとつの  
人影があった。白い布を纏った尼僧の姿だが、脇には黒く塗られた棒状の何かを抱いている。  
忘れもしないその姿。その黒塗りは鞘……中に収められているのは刀だ。全部解っている。  
自分をこんな意味の分からない世界に陥らせた張本人。  
羅刹丸の狭い心に抱かれた恨みは、たやすく頂点に達していた。  
「ゆめじ……ィ!」  
むき出した牙が欠けそうなぐらいに歯を食いしばった羅刹丸は、もう一段視線を落とした。  
細く白い何かが、恨めしい者達の足元を通り、山肌に沿ってうねりながらだんだん太く  
なってくる。  
そしてそれは、やがて羅刹丸の目の前にまで下りてきて、そこでぷつりと終わった。  
そこまで眼で追って、羅刹丸はやっと自分がその白い何かの上で寝ているのに気がついた。  
「……道じゃねえか」  
羅刹丸は右手を地面に突いて立ち上がった。地面を殴りすぎて骨まで達していた傷は、  
とうに癒えていた。  
「この道は続いてやがる。あいつらの所まで続いてやがるぞ……へへ、三途じゃねェぜ、  
奴らの所だ、あの山の上まで!」  
羅刹丸は鼻息を荒くした。眼が、月よりも眩しく光った。  
「そうだ……俺ァ何言ってやがるんだ。負けたら終わり?殺されたら仕舞?ケッ、くだら  
ねェ。そういう考えがくだらねェんだ」  
羅刹丸はぶつぶつと地面に向かって口を動かした。  
そのだらしない動きとは裏腹に、強靭な肉体が一言ごとにむくむくと迫力を増していく。  
「血が流れたからなんだ?首が吹き飛んだからどうした?心臓が止まってそれが何か問題  
かってんだえェ?それで死ぬなんて誰が決めやがった?そんなモンに捉われてンのは凡人だ。  
殺されたぐらいで死ぬんじゃねェってんだ、くだらねェ馬鹿どもが……」  
大きな呼吸に上下する羅刹丸の肩から、腕から、強烈な魔界の覇気が発散され始める。  
紫に淀んだ霧が筋肉の鎧の周りを漂い、色濃く包んでゆく。  
 
「俺の命(タマ)はな、そんなくだらねェ決まりなんて知らねェんだ。俺を出し抜き、こけ  
にしやがった糞ムカつくお前らの所に行くまでは死なねェんだよ。ちっ、くだらねェ……。  
こんな当たり前のことに今頃気づくなんざ……くだらねェ……ああ、くだらねェなぁオイ!」  
はぁーっと口から紫の気を吐き、羅刹丸はがばっと顔を上げた。  
 
「何がくだらねぇって、俺様が負けっぱなしってのがいっとうくだらねェェェんだよォ!!」  
 
魔物の咆哮。  
その叫びは道を、野山を走り抜け、一気に山の頂を極め、毒々しい紫の突風となってあの  
二人を振り向かせた。覇王丸の髪が揺れる。夢路の頭巾が捲れ、生意気そうな顔が露になる。  
「へへ……クソ野郎どもが。そうだ、こっちだ。こっちを向いてろや」  
羅刹丸の顔に、卑屈な笑みが蘇る。すかさず地面に落ちていた屠痢兜を握り絞め、叫んだ。  
「眼ン玉ひん剥いて、しっかり見さらせェあァァ!」  
そして何を思ったか、自分の胸を自ら横一文字に切り裂いた。  
ブシャアアアアアア!  
「ヒア、おおッ、ごぶぉ、ごぶぉぶぉおおあぁぁ!」  
例えようのない痛みが傷口を燃やす。どす黒い血しぶきが、岩に砕けた波のように弾け  
飛び、詰まった喉から苦悶の音が漏れるたび、血の泡がぶくぶくと立った。  
「ひぎッ、いぎ、ぎぃぃぎィいあぁ!ッ……ひよおぉぼぼごごぼ!!」  
致命の一撃だ。普通ならば死ぬ。  
――そうだ、普通ならなァ!  
普通ならばこの傷を負って、恍惚の笑みを浮かべたりはしない。痛みが麻痺し、狂った  
快楽に足を千鳥にしたりはしない。見ているそばから血が止まり、傷口が塞がってゆく  
ことなどあるはずがない。  
だがしかし、やはり羅刹丸も、普通とはかけ離れた魔界の男だった。  
「はァ、はァ、はァ……見たかよえェ!?お前ェら!!見たかってんだよッ!!」  
自らの血でずぶ濡れになった胴着の合わせを引きちぎり、羅刹丸は山に向けてはだけた  
胸板を突き出した。  
あんなに深かった傷口は、どこにも見当たらなかった。  
「どうだ、言ったとおりだぜ……俺様は……不死身だァ!」  
 
「へへ……そうだ。なァ?」  
 
野ざらしになっていた羅刹丸の生首が、ぎょろりと眼を剥き、口をきいた。  
「俺は諦めんぞォ……覇王丸。絶対にな」  
見ればあの赤い月が、空から自分を見下ろしていた。  
「何て月だ……あの真っ赤な月を覇王丸の血酒に浮かべたら……おっと、いけねえ。  
その前にもう一人居たぜ。ヘヘ、殺してェ奴が増えちまったなァ」  
 
そして時は経ち、今日もまた一人。  
 
「こいつァ……凄ェ」  
とある目的のために魔界門前で眠り続けていたところをシカンナカムイに揺り起こされ、  
現世に再び降り立ってこれで四人目。  
刀を伝って手に響く重い衝撃がつま先にまで届くのを感じ、羅刹丸は素直に震えていた。  
すれ違いの一瞬、鉛玉とは比較にならない銀色の刃が残した、この手の痺れ。  
長く味わっていなかった、本当に強い敵との遭遇。  
一触で解る。レラとか言う女の、本物だけが持つ実力。  
嬉しい。馬鹿みたいに心が躍って止まらない。魔界門の前での退屈な日々も、この瞬間  
のためだったと言うのならば帳消しにしてやれるとさえ思う。  
そこまで思いを傾けられる理由が、羅刹丸には自分でもよく分からない。  
しかし、思惑や考えを超越した本能とでも言える部分が、羅刹丸にこう語りかける。  
――こいつだ。  
――こいつだ。  
――お前がずーっと待っていたのはこいつだッ!  
――死ぬことを忘れたお前が、欲して止まなかったものをこいつは持っているんだッ!!  
「姉ちゃん、アンタ本当に最高だァ。最ッッ高に殺してェ!」  
羅刹丸は後ろを振り向き、木々の間に閃く白銀の殺気の塊に向け、朱の刃を突き出した。  
「楽しもうぜ……真っ赤な月が昇るまで、とっくりとなァ!」  
 
「ぐっ……お……!」  
とび蹴りを食らい、シカンナカムイは派手に草花の上に叩きつけられ、ごろごろ転がって  
やっと止まった。  
「どうだッ!」  
地面に着地したリムルルは、かなりの手応えを感じていた。空中から戻ろうとするコンル  
に振り向いて、人差し指と中指を立てた手を突き出す。こちらの時代で覚えた、勝利を  
意味するものだ。  
「ナコルルねえさまに酷いことしたんだ、こんなじゃ済まないんだから!」  
だが当のナコルルは、シカンナカムイの束縛から解かれてはいなかった。何の未練も無く  
罪人殺しの鎖を手放すと、リムルルの横を素早く走りぬけ、あろうことかシカンナカムイに  
寄り添い、立ち上がる手助けを始めた。  
「ね、ねえさま!」  
リムルルが袖を掴むこともできず、コンルが足元を凍りつかせる隙も無いぐらい、ナコルル  
の動きは俊敏だった。恐らく、ナコルルにかけられている呪いは、シカンナカムイのそばを  
離れられないようになっているのだろう。  
ナコルルの肩を借り、シカンナカムイがゆっくりと起き上がる。  
「あんなにすぐに動けるなんて……。思いっっきり蹴ってやったのに!」  
とんでもない事をしようとしている、リムルルにはその自覚がある。  
シカンナカムイはパセカムイ(尊いカムイ)の中のひとりだ。空を自由に飛びまわり、  
力に溢れた光と音を地面に降らせるカムイの中カムイ。カムイコタンに、最強の剣技と  
優雅な舞踏を伝えた偉いカムイ。  
そのカムイに、単なる人間の自分が挑もうとしているのだ。何て恐れ多いことだろうか。  
でも、そのカムイは最大の罪を犯している。  
同じカムイのシクルゥに怪我を負わせ、邪悪な武器を手にして優越に浸り――  
姉の命と身体を、魂までも弄んだのだ。  
コンルとは全然違う。もう、シカンナカムイはパセカムイではない。  
「コンル……あいつは、ウェンカムイはやっつけなきゃダメだね。絶対に許せない」  
地面を蹴ろうとしたリムルルの前に、コンルがふわりと躍り出た。ぴしりとリムルルに  
向けて小さなとげを突き出し、止まるようにと言う。  
「ちょ、コンル!どうして」  
「く……ふふ。すっかり忘れておったわ」  
長い髪をばさりと掻き揚げ、シカンナカムイが立ち上がった。  
「いや、忘れていたのではない。あまりに取るに足らぬゆえ……お前の存在など、眼中に  
無かった。これこそが正しきところよの。のう、人間に与する愚かなカムイ……コンルよ」  
シカンナカムイの威圧的な金色の眼光が、コンルへと向けられた。コンルも負けじと冷気を  
放つ。怒っているらしい。  
「ナコルルに付き従うなら話も分かろう。しかし何故、そのような娘の憑き神などになった」  
袖についた汚れをナコルルに払わせ、襟を正しながらシカンナカムイが尋ねた。  
「コシネカムイ(位の低いカムイ)はコシネカムイらしく、卑俗な巫女を選んだとでも?」  
「ちょっとあんた……いい加減にしなさいよ!」  
シカンナカムイの言葉に、リムルルは頭に小石を投げられたようにカチーンときた。  
「コンルは愚かなんかじゃない!」  
「弱い冷気を操るしか能のないコシネカムイの、どこが愚かでないというか」  
「バカ!やめなさいよそのコシネカムイっていうの!」  
リムルルは今にも飛びかかりそうな勢いで叫んだ。  
「カムイはみんな大切なんだ!それにコンルはわたしの大事な友達で、家族だよ!アンタが  
何て言っても知らないわ。コンルはわたしの一番のカムイなんだから!現にアンタだって  
驚いてたじゃない」  
「左様」シカンナカムイが手を挙げ、ナコルルを後ろに下げさせた。  
「全く持って、の。我としたことが甘く見ておったわ……。人間に『友達』やら……まして  
『家族』呼ばわりされるにまで堕ちたカムイに、これ程の力があったとはの」  
「許さない……もう許さない!あんたはやっぱりカムイなんかじゃない!」  
リムルルが腰の後ろに結わいたハハクルを抜こうとした、その時だった。  
 
『シカンナカムイさま……あなたは、本当に、そう思われるのですか』  
 
いきなり頭に飛び込んできた、少しもたついた女性の声に、リムルルはびくっとした。  
『仰るとおり、人間は、カムイを奉り、尊んでくれます……。私達が、アイヌモシリに  
もたらした……恵みへの感謝と、親愛の……念を込めて』  
誰のものか分からない女性の声は静かに、少したどたどしく、リムルルが良く知るカムイと  
人間の繋がりを説く。ハハクルを抜くことも忘れて、リムルルは声の主を探した。  
『だから、その親愛の気持ちが……その、絆の一つが……仮に、仮に友情の形に、家族の  
形になって表れたとしても……私はおかしくはないと思います。この、立派な、アイヌの  
戦士が言うように』  
リムルルは、目の前に漂う氷の形をした友人を見た。コンルはいつに無く白い冷気を強め、  
もうもうと地面にまで届かせている。いつもならきらきらと輝いている幾何学的な形の身体が、  
冷気にさえぎられて見えなくなるほどだ。  
「こ、コンル……?」  
「ほおう」相棒の様子にうろたえるリムルルをよそに、シカンナカムイが鼻で笑った。  
「何も知らぬコンルカムイごときが、我に道理を説くか」  
「コンル!やっぱりコンルなの?何で……いつもと違う」  
『リムルル。そう、私。ごめんね、心配させて』  
大人の女性の声で謝られて、リムルルはさらに困惑した。コンルは明らかに様子が違って  
いる。声色はおろか、言葉遣いさえ全然違う。いつもはもっと打ち解けていて、同い年の友達  
みたいに話しているというのに。  
「どうしたコンル。お前の積み重ねた友情とやらが揺らいでいるではないか」  
「うるさいうるさい!コンル、何のつもりなの?どうしたの??」  
コンルは何も答えないまま冷気だけを発し続け、冷気の雲の中に紛れるようにしてついに  
姿が見えなくなった。漂う冷気の中にある草花とリムルルの靴にまで、真っ白な霜が降り  
ている。  
「ねぇコンル!コンルってば!!」  
ただならぬコンルの雰囲気に強い不安を感じたリムルルは、冷気の漂う中に両手を伸ばし、  
氷の友人を掴んだ。  
「やめて、コン……」  
しかし、手触りが違う。冷たくて滑らかな心落ち着くあの感触ではなく、すこし温かな  
何かがリムルルの指に絡まり、きゅっと力を感じさせた。  
人間の、指だった。  
「この子に危機が訪れたなら、私が必ず守る……あの日、そう誓ったのです。そして  
今こそがその時……私が闘わねばならない時!」  
大人びた女性の声が、今度は頭にではなく耳に直接届く。さあっと冷気が引いてゆく。  
「これ以上、この子からは何も奪わせない。それがパセカムイであったとしても、です」  
コンルが居たその場所には、ひとりの女性が屈んでおり、リムルルの手を取っていた。  
すっくと立ち上がるその女性を、リムルルはあんぐりと見上げた。  
すらりと背の高い、豊満な女性らしい身体を包む純白の晴れ着。雪の結晶をかたどった、  
薄青色の刺繍の帯。シカンナカムイのものよりもずっと白く、柔らかそうな腰までの銀髪。  
「リムルル……。そんな顔しないでね」  
視線に気づき、白い肌の女性がリムルルに顔を向けた。  
優しさを形にしたような、重たげな二重まぶたが下がり、にっこりと微笑む。  
「どんな姿をしていても……私は私。ずっと一緒だから、リムルル」  
「コンル、コンルだよね?」  
「そう。私はコンルカムイ」  
リムルルの頭をそっと撫で、美しい女性となったコンルはシカンナカムイに向けて言った。  
「私はこの子ひとり、その幸せのために生きる事を誓った、愚かな氷のカムイです」  
 

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