「ぐっ……お……!」
とび蹴りを食らい、シカンナカムイは派手に草花の上に叩きつけられ、ごろごろ転がって
ようやく止まった。
「どうだッ!」
地面に着地したリムルルは、かなりの手応えを感じていた。空中から戻ろうとするコンル
に振り向いて、人差し指と中指を立てた手を突き出す。こちらの時代で覚えた、勝利を
意味するものだ。
「ナコルルねえさまに酷いことしたんだ、こんなじゃ済まないんだから!」
だが当のナコルルは、シカンナカムイの束縛から解かれてはいなかった。何の未練も無く
罪人殺しの鎖を手放すと、リムルルの横を素早く走りぬけ、あろうことかシカンナカムイに
寄り添い、立ち上がる手助けを始めた。
「ね、ねえさま!」
リムルルが袖を掴むこともできず、コンルが足元を凍りつかせる隙も無いぐらい、ナコルル
の動きは俊敏だった。恐らく、ナコルルにかけられている呪いは、シカンナカムイのそばを
離れられないようになっているのだろう。
ナコルルの肩を借り、シカンナカムイがゆっくりと起き上がる。
「あんなにすぐに動けるなんて……。思いっっきり蹴ってやったのに!」
あまりに頑丈な相手。
自分はとんでもない事をしようとしている――リムルルにはその自覚がある。
シカンナカムイはパセカムイ(尊いカムイ)の中のひとりだ。空を自由に飛びまわり、
力に溢れた光と音を地面に降らせるカムイの中カムイ。カムイコタンに、最強の剣技と
優雅な舞踏を伝えた偉いカムイ。
そのカムイに、単なる人間の自分が挑もうとしているのだ。何て恐れ多いことだろうか。
でも、そのカムイは最大の罪を犯している。
同じカムイのシクルゥに怪我を負わせ、邪悪な武器を手にして優越に浸り――
姉の命と身体を、魂までも弄んだのだ。
コンルとは全然違う。もう、シカンナカムイはパセカムイではない。
「コンル……あいつは、ウェンカムイはやっつけなきゃダメだね。絶対に許せない」
地面を蹴ろうとしたリムルルの前に、コンルがふわりと躍り出た。ぴしりとリムルルに
向けて小さなとげを突き出し、止まるようにと言う。
「ちょ、コンル!どうして」
「く……ふふ。すっかり忘れておったわ」
長い髪をばさりと掻き揚げ、シカンナカムイが立ち上がった。
「いや、忘れていたのではない。あまりに取るに足らぬゆえ……お前の存在など、眼中に
無かった。これこそが正しきところよの。のう、人間に与する愚かなカムイ……コンルよ」
シカンナカムイの威圧的な金色の眼光が、コンルへと向けられた。コンルも負けじと冷気を
放つ。怒っているらしい。
「ナコルルに付き従うなら話も分かろう。しかし何故、そのような娘の憑き神などになった」
袖についた汚れをナコルルに払わせ、襟を正しながらシカンナカムイが尋ねた。
「コシネカムイ(位の低いカムイ)はコシネカムイらしく、卑俗な巫女を選んだとでも?」
「ちょっとあんた……いい加減にしなさいよ!」
シカンナカムイの言葉に、リムルルは頭に小石を投げられたようにカチーンときた。
「コンルは愚かなんかじゃない!」
「貧弱な冷気を操るしか能のないコシネカムイの、どこが愚かでないというか」
「バカ!やめなさいよそのコシネカムイっていうの!」
リムルルは今にも飛びかかりそうな勢いで叫んだ。
「カムイはみんな大切なんだ!それにコンルはわたしの大事な友達で、家族だよ!アンタが
何て言っても知らない。コンルはわたしの一番のカムイなんだから!現にアンタだって
驚いてたじゃない」
「左様」シカンナカムイが手を挙げ、ナコルルを後ろに下げさせた。
「全く持って、の。我としたことが甘く見ておったわ。人間に『友達』やら……まして
『家族』呼ばわりされるにまで堕ちたカムイに、これ程の力があったとはの」
「許さない……もう許さない!あんたはやっぱりカムイなんかじゃない!」
リムルルが腰の後ろに結わいたハハクルを抜こうとした、その時だった。
『シカンナカムイさま……あなたは、本当に、そう思われるのですか』
いきなり頭に飛び込んできた、少しもたついた女性の声に、リムルルはびくっとした。
『仰るとおり、人間は、カムイを奉り、尊んでくれます……。私達が、アイヌモシリに
もたらした……恵みへの感謝と、親愛の……念を込めて』
誰のものか分からない女性の声は静かに、少したどたどしく、リムルルが良く知るカムイと
人間の繋がりを説く。ハハクルを抜くことも忘れて、リムルルはきょろきょろと声の主を探した。
『だから、その親愛の気持ちが……その、絆の一つが……仮に、仮に友情の形に、家族の
形になって表れたとしても……私はおかしくはないと思います。この、立派な、アイヌの
戦士が言うように』
リムルルは、目の前に漂う氷の形をした友人を見た。コンルはいつに無く白い冷気を強め、
もうもうと地面にまで届かせている。いつもならきらきらと輝いている幾何学的な形の身体が、
冷気にさえぎられて見えなくなるほどだ。
「こ、コンル……?」
「ほおう」相棒の様子にうろたえるリムルルをよそに、シカンナカムイが鼻で笑った。
「何も知らぬコンルカムイごときが、我に道理を説くか」
「コンル!やっぱりコンルなの?何で……いつもと違う」
『リムルル。そう、私。ごめんね、心配させて』
大人の女性の声で謝られて、リムルルはさらに困惑した。コンルは明らかに様子が違って
いる。声色はおろか、言葉遣いさえ全然違う。いつも頭に直接とどいてくる声はもっと
打ち解けていて、同い年の友達みたいに話しているというのに。
「どうしたコンル。お前の積み重ねた友情とやらが揺らいでいるではないか」
「うるさいうるさい!コンル、何のつもりなの?どうしたの??」
コンルは何も答えないまま冷気だけを発し続け、ぽっかりと浮かんだ雲の中に紛れるように
してついに姿が見えなくなった。漂い降りてくる冷気の中にある草花とリムルルの靴にまで、
真っ白な霜が降りている。
「ねぇコンル!コンルってば!!」
ただならぬコンルの雰囲気に強い不安を感じたリムルルは、冷気の漂う中に両手を伸ばし、
氷の友人を掴んだ。
「やめて、コン……」
しかし、強力な冷気にかじかむ指が探り当てたものは、いつもと手触りが違っていた。
冷たくて滑らかな心落ち着くあの感触ではなく、冷気の中に存在するのがおかしいぐらい
に温かな何かがリムルルの指に絡まり、きゅっと力を感じさせた。
人間の、指だった。
「この子に危機が訪れたなら、私が必ず守る……あの日、そう誓ったのです。そして
今こそがその時……私が闘わねばならない時!」
大人びた女性の声が、今度は頭にではなく耳に直接届く。さあっと冷気が引いてゆく。
「これ以上、この子からは何も奪わせない。それがパセカムイであったとしても、です」
コンルが居たその場所には、ひとりの女性が屈んでおり、リムルルの手を取っていた。
手を結んだまますっくと立ち上がるその女性を、リムルルはあんぐりと見上げた。
すらりと背の高い、豊満な女性らしい身体を包む純白の晴れ着。雪の結晶をかたどった、
薄青色の刺繍の帯。シカンナカムイのものよりもずっと白く、柔らかそうな腰までの銀髪。
「リムルル……。そんな顔しないでね」
視線に気づき、白い肌の女性がリムルルに顔を向けた。
優しさを形にしたような、重たげな二重まぶたが下がり、にっこりと微笑む。
「どんな姿をしていても……私は私。ずっと一緒だからね。リムルル」
「コンル、コンルだよね?」
「そう。私はコンルカムイ」
リムルルの頭をそっと撫で、美しい女性となったコンルはシカンナカムイに向けて言った。
「私はこの子ひとり、その幸せのために生きる事を誓った、愚かな氷のカムイです」
――こ、この人が……コンル?
リムルルは、優しい中に精悍さを湛えた人間の姿の相棒に見入っていた。
驚かないはずは無かった。さっきまで親しみ深い氷の姿だった相棒が、今は自分より、
レラやナコルルよりも背の高い美女に変身しているのだから。もはや初対面と言えなくも
無い状況だ。
なのに、沸き上がるこの親近感は一体何なのだろう。
友人だからか、家族だからか。幾つもの闘いを共に超えてきた仲間だからだろうか。
頭を撫でられただけで、兄や姉がしてくれたのとは違う、感じたことの無い安堵が胸に
広がる。少し笑いかけられただけで、初めて見た顔のはずなのに、ずっと昔から知って
いたような、そんな懐かしさを感じる。
戦いの場に似つかわしくない、柔らかな印象のコンルと、自分の抱いている感情。
――わたし……ずっとずっと、こんな人と一緒に過ごしてきたんだ。
「コンル……」
リムルルがコンルの横に立ち、何かを言いかけたその時、ぱちぱちと拍手が聞こえた。
「見事!見事みごと!いやはや……今日は驚くべきことの多き日よの!」
わざとらしく手を打ちながら、シカンナカムイが笑う。
「よもやコンルカムイがアイヌモシリで人の形を取ろうとはの。コシネカムイらしからぬ
力量、それもお前が言うところの『絆』のなせる業かの?」
「何の罪悪感も無く人間を陥れ、同胞をも傷つけるあなたに、お分かりになるとは思え
ません」
あくまで折り目正しく、しかしコンルの言葉は厳しかった。
「カムイの暴走は、カムイが止める。それが道理というもの。シカンナカムイさま……
今一度お伺いします。何故ナコルルさんを利用し、このような無意味な土地をお作りに
なられたのですか」
「無意味と言うか?」
「私の目は節穴ではございません」
ふうっと、コンルが白いため息をつく。
「リムルルと共に降り立ったこの土地で、私が異変に気づかないとお思いですか?多くの
カムイ達が苦しんでいるというのに、なぜ彼らを癒すためのナコルルさんの力をあのような
大樹へと……?彼らを、アイヌモシリという土地を見捨てるような行為を、なぜ」
「少し褒めてやれば、生意気を言いよるわ……」
高慢な性格のシカンナカムイには、コンルの態度が気に食わないのだろう。邪魔者に対する
冷たい目つきが、彼の性格を物語る。だがシカンナカムイは何を思ったか、ふんっと鼻で
笑うと、
「良かろう……考えが変わったわ。我の崇高なる思索、そこまで知りたいとなれば、まずは
昔話をせなばなるまいの」
悪賢そうなたくらみを含んだ声色で、シカンナカムイは話し出した。
「その昔。この世界には人食いの刀があった。何者の手によって作り出されたかも知れぬ、
人の背よりも高い巨大な妖刀よ。人であろうと、カムイであろうと、それを手にした者は
瞬く間に心を壊され、殺戮の限りを尽くすようになる。あらゆる命を冥界へと導くその刀は、
アイヌモシリを滅びへと向かわせ、いずれはカムイモシリをも蝕むであろうと危惧されておった」
シカンナカムイはそこで足元へと手を伸ばし、美しい赤い花を茎ごと一輪摘み取った。
「人間の悲鳴を聞いた我ら尊きカムイの祖先たちは、大軍を成してアイヌモシリの大地へと
降り立ち、幾年にも渡る激闘の末、ついにその人食い刀を……真っ二つに折った!」
花の茎がシカンナカムイの手でぷちりと折られ、左右の手に分かたれる。
「さて、残されたのは真ん中から折られた刀。妖しき力も二分されたかと思いきや、鋭く
尖った切っ先の方へは、力が残らなかった。そこで我らは、切れ味を残すのみとなった
その折れた先の方へ番人を宿らせ、一振りの宝刀として鍛えなおし……人間に与えた」
シカンナカムイは、手のひらの上にある折られた茎のうち、花のついた方を、リムルルに
向けて差し伸べた。
「力無き心の者には抜くことさえ許されず、正しき心を持つ戦士の手によれば、ありと
あらゆる魔を払う。力というもの……その在るべき姿を示しつつ、アイヌモシリに平穏を
もたらす刃。それが、宝刀チチウシよ」
「えぇ?」
リムルルは思い切り疑いの声を上げた。
「でたらめじゃ無いでしょうね……って、そんな話関係ないじゃない!今は――」
「待って、リムルル」
つっかかろうとするリムルルを、コンルが制した。
「あれは恐らく本当の話よ」
「でもっ!今は関係ないじゃない!」
「それがそうでもないのだ。リムルルよ。面白いのはここからだぞ?ナコルル、花は好きか」
後ろで棒立ちになっていたナコルルが、素直に首を縦に振った。
「よろしい……美しき女子に、美しき花……これが似合わぬはずがあろうか」
シカンナカムイは折り取った花を、ナコルルの赤い鉢巻に挟んで耳元に飾り、黒髪を
さらさらと指で滑らせた。
「うむ……美しい!おお、待たせたの」
一瞬だったが、シカンナカムイは確実にリムルル達のことを忘れていたらしい。にやけた
顔で振り返ると、もう片方の手を差し伸べた。手のひらの上には、花を失った茎だけがある。
「さて、妖しき大剣の先端はめでたくも、アイヌモシリを守る秘宝として生まれ変わった。
では残された方は如何か?アイヌの戦士よ、チチウシを受け継ぎし者よ……。お前に分かるか」
「ふん、知らない。そんな話は初耳だよ」
リムルルは強い疑惑を胸にひっかけたまま、考えもせず無愛想に答えた。
「残された刀は、象徴とも言うべき切っ先を失って幾ばくか衰えたものの、未だ妖しき力を
充満させておった。再び人の手に渡れば、今度こそアイヌモシリの破滅は免れぬ。そこで
我らが祖先は、その危険な武器を大岩の中に封じ込め、アイヌモシリの何処かにある底なし
沼の深くへと沈めた。こうすれば誰の目にも留まらぬ上、岩に施された強固な封印により、
妖気が外に漏れる事もない」
「めでたしめでたしってわけね……もうお話は終わりでしょ」
「じき終わると言うておろうが。かくもせっかちな娘に育つとは、躾のなっとらん事よ」
足元をじりっと踏み固める仕草をするリムルルを見て、シカンナカムイが呆れた顔をした。
「まったく、親の顔が見たいと言うものだ……のう、コンル?」
よくある類の皮肉だと、リムルルは大して気にもしなかった。実の両親はどこにも居ない
が、そんな事は何の引け目にもならないぐらい、素晴らしい家族に囲まれて暮らしてきた
からだ。しかし、
ぎゅっ……
繋ぎあった手が固く握りしめられるのを感じ、リムルルは傍らのコンルを見上げた。
「……コンル?」
コンルの唇が小さく動き、白い息がすぅっとこぼれて消える。声は聞こえなかった。
でも、リムルルにはコンルがこう言ったように見えた。
まさか、と。
「さて、時は経ち、今を遡ること数百年まえ――」
「まさかとは思っておりましたが……やはりそういう事なのですね」
コンルの美貌に一瞬、驚愕の色が刺し、さっと暗い影に沈んだ。
「それが真実だとしても……シカンナカムイ様、あなたがあの大樹をお作りになってなさ
ろうとしている事と、この話の続きとは、何も関係が無いはずです。はぐらかさず、私の
質問にお答え下さい」
「数百年前のある夜、山の中に、突然ひとつの白い光が走った――」
「もうそれ以上、このお話はおやめ頂けませんか」
氷のカムイであるはずのコンルのきつく握られた手に、じわりと汗が感じられる。
「ねえ、どうしたのコンル?あの昔話がどうかしたの?」
心配するリムルルをよそに、シカンナカムイはこう続ける。
「山の麓にあるコタンの男が山に輝く白い光を見つけ、異変に気づき駆けつけると、かつて
は底なしの沼だったというくぼ地にある大岩がひび割れ、その間に何か細い、マキリの柄の
ようなものが隙間から飛び出ているのが見えた――」
「この子に伝えるべきことは、私のこの口から必ず伝えます……ですから、どうか!」
触れられたくないものがあるのか、コンルは冷静に見えて、言葉尻に焦りを隠せずにいる。
「ちょっと、何だか知らないけどコンルが嫌がってるでしょ!やめてよ!」
陳腐な皮肉をシカンナカムイが口にしてから、コンルの様子が明らかにおかしい。仲間を
放っておけないリムルルは、何が何だか分からないまま抗議した。
しかし、二人の声など聞こえないかのようにシカンナカムイは話を先に進めてしまう。
「光に誘われた男が近づくと、岩のひび割れから声がしたという。『お前にこの世の全てを
与えよう。お前達……この世の全てが欲しているものを』と――」
「いけません!それ以上は!」
「コンル……」
髪を振り乱して叫ぶコンルの姿に、リムルルは当惑せずにはいられなかった。
人の姿をしたコンルの、この慌てようは一体どうしたことだろう。氷のコンルはいつも
冷静で、こんな風に大きな声を出したりすることなど稀だったというのに。
「どうか、もう!この子には必ず私から伝えます!」
悲痛なコンルの叫びに、シカンナカムイの語りが一瞬止まり、口が弓のように吊り上った。
「甘い誘惑に満ちた声に魅せられた男が、その取っ手をつかんだ瞬間……男の身体は」
「それ以上は……絶対に言わせませんっ!」
叫びとも悲鳴ともつかない声を上げ、コンルがシカンナカムイ目がけてごうっと加速した。
きらきらと光る氷の結晶を撒き散らしながら、宙に浮いたコンルは花々の上を滑るように
行く。リムルルが全速力で走るよりも、ずっと素早い。
「ちょっとコンル!わたしも――うわっ」
リムルルも後を追おうとした。だが、意志に反して足が動かない。透明な氷が、リムルルの
靴をまるごと固めて放さないのだ。
「ど、どうして!?」
「人の話を聞かぬのも、躾のなっていない証拠よの……リムルル、コンルは言うたで
あろう?」
シカンナカムイが、人差し指を立てた右手をゆらりと空にかざしながら言った。
「カムイ同士の闘いに人間の手出しは不要!『カムイの暴走は、カムイが止めねばならぬ』
と!コンルカムイ!我に楯突くは正しく暴走!お前の狼藉……万死に値するっ!」
シカンナカムイの瞳の奥に光の線が走り、天を指した指が、ぴゅっと下に振り下ろされた。
ジジッ……ズダァン!
頭上に、布を裂くような音がした。コンルがぐっと加速した直後、金色の光柱が
重い爆発音と共にコンルの背後に落ちる。リムルルを跳ね飛ばし、シクルゥを一撃で行動
不能に陥らせた稲妻だ。地面がえぐられ、大きな魚が川面に跳ねたときのような、土煙の
しぶきが上がる。
「避けたか……ではもう一発」
立てた指を、シカンナカムイは手首の振りを利かせて右から左へと抜き払った。
猛烈な破壊の可能性を持つ光の帯が、軽やかな指の動きをなぞるように、直進するコンルを
横から襲う。
しかし、次の手を考えていたのはシカンナカムイだけではなかった。立ち止まったコンル
も右手を真横に伸ばすと、
「鏡っ!」
小さく念じるように叫んだ。
右手から冷気が放たれ、ぶ厚い氷の鏡がコンルの半身を覆った。シカンナカムイの電撃が
鏡に衝突し、ばあんっと四方に弾ける。
「ほほう……ではもう一発」
「鏡!」
「もう一発!」
「跳ね返せ!」
あらゆる方向から狙いを定められても、コンルはその電撃をことごとく鏡で跳ね返した。
「なかなか、やるの」
「私の氷は……純粋透明な意志の塊は……雷撃などには負けません!」
シカンナカムイが攻撃の手を止めた隙に、コンルが再接近を図ろうと前傾した時だった。
「うあっ!」
コンルが小さく叫び、顔が苦痛にしかめられた。二・三歩よろめき、左手で右の腕をかばう。
「やだ……こ、コンル――ッ!」
リムルルは思わず叫んだ。晴れ着から覗くコンルの右手に大きな亀裂が走り、肘から下が
ぼろりと落ちたのである。落ちた腕は、地面を待たずに原形を失い、粉々になって風に
押し流された。
「う……くっ……はぁ、はぁ、はぁっ!」
「成る程、お前ごときがアイヌモシリで人の形を取れたのはやはり、その『絆』のなせる業か」
肩を大きく上下させ、苦しげに真っ白な息を吐くコンルを見て、シカンナカムイが意地
悪く言う。
「その小娘を思いすぎるが故に、カムイとしての自覚を失い、ついには命をも捧げよう
とは……。『絆』、かくも愚かなるものよ」
――命?!
シカンナカムイと対峙するコンルの背中を見つめていたリムルルが凍りついた。
「コンル……命なんて嘘でしょ?そんなの嘘!!」
「嘘なものか。コンルは我とは違う。人間の夢の中でしか真の姿を現せぬ程度の力しか
持たぬカムイが、アイヌモシリで実体を晒し、あまつさえ我の攻撃を受け続けるなど……
ふん、自殺に等しいわ」
「コンルやめてぇ!早く……早く元に戻ってよぉ!!」
「そうは……いきません、リムルル。はぁ、はぁっ……私は……誓ったのだから!」
激しく乱れた呼吸の合い間に、コンルが言葉を繋げる。
「あなたからは、誰にも何も奪わせないと……あなたが悲しみにくれることなく生き
られる世界をと!」
「そんなの知らないよバカぁ!コンルが……コンルがいなきゃ……うああああ!」
リムルルはハハクルを抜き、足元の氷の足かせに振り下ろした。言葉にならない動物の
ような声を上げながら、何度も割ろうと試みた。しかし、コンルの氷は冷たく硬かった。
傷一つつけられなかった。
リムルルの叫びも思いも、決して聞き入れないかのように。
「コンル……コンル!コンルぅ〜!」
リムルルはハハクルを落とし、その言葉しか知らない赤ん坊のようにコンルの名を呼び
続けた。
「リムルル、ごめん……ね」
コンルが弱弱しく言いながら振り返った。どんなに辛いか分からないこの状況でも、二重の
奥に収められた青い瞳は、痛いぐらいにリムルルを優しく見つめている。
「これは、約束なのです……あなたと、あなたの大好きだったお父様との」
「とうさまと?」
「そう。あなたを苦しめるものは、絶対に許さないと……あなたの幸せを、祈り続けると。
私のカムイとしての誇り、どうか遂げさせて」
柔和そうな太い眉毛を下げて、コンルは嬉しそうだった。片腕を失い、命を削りながら、
どうしてあんな顔が出来るのか、リムルルには想像もつかない。胸が苦しい。締め付けられる。
なのに、どうして。
あの青い眼が、どうしてこんなに安らぎを与えてくれるのだろう。
このままではコンルが――かけがえの無い家族が身を滅ぼそうというのに。
手の届かない、遠いところへ行ってしまうのに。
それなのに。
――何?この感じ。ずっと……こうしてたい。そうやって、見つめててもらいたい。
人の姿をとったコンルの瞳から伝わってくる優しさは、悲しみよりもずっと強くリムルルを
包んで離さず、一夜にして全てを失ったあの悪夢の時よりもさらにさかのぼった、記憶に無い
時代を強く意識させた。
今を生きるリムルルが、確かに過ごしたはずだったその時代の事は、誰も教えてはくれな
かった。父親でさえも。
それでも。
抜け落ちた過去――母親との時間――を埋めるかのように、その人は笑顔で自分を見つめて
くれている。
「コンル、コンルは……わたしの……」
「リムルル、もう、何も言ってはいけませんよ。私にはそう呼ばれる資格は……無いのです」
コンルの細められた左目の下に、小さな輝きが生まれた。
「私は……あの時……あなたの大好きなお父様が犠牲になられたあの日……」
コンルは一瞬ためらい、そして言った。
「私は、あなたと、あなたのお父様を残して……逃げたのだから」
コンルの左目をこぼれて離れたその輝きは筋となり、頬を伝い、顎に届いて――
ばきっ。
音を立てて、深く蒼いひび割れを美しい笑顔に残した。
金色の稲妻がコンルの服の上を蛇の如く駆けめぐり、ふくよかな身体を締め上げる。
「――!!」
リムルルは、あまりの驚愕に声を失った。
「償いの時は十分に与えてやったのだ……感謝せい、コンルカムイっ!」
シカンナカムイが伸ばした右手を握り締めると、一段と高い炸裂音と閃光が彼の手から
発射された。コンルの周りに咲いていた花々が次々と焦げ死んでゆく中、コンルは一人その場に立ち尽くす。
「……リムルル、本当にごめんなさい」
電撃の中、コンルは自分の顔に生じた亀裂を愛しそうに指でなぞった。その笑顔は曇る
どころか、何か重いものの下から開放されたかのような、安らぎさえ含んでみえる。
「リムルル……最期まで、私を信じて、友と……家族と慕ってくれて……ありがとう」
「あ、あぁ…………か……かあさ……」
リムルルのわななく唇が言葉を伝えるのを待たずに、コンルは背を向けた。
「貴女が未来に進むために失うものの最後が、どうか……私でありますように!」
コンルは落雷を身体に浴びながら、残された左手をシカンナカムイに突き出した。
「我こそはコンルカムイ!」
はぁーっと白く大きな息を吐き、瞳の青を強く輝かせ、コンルが名乗りを上げた。
「雪と氷に閉ざされし大地……蒼く美しき永久(とわ)を万物に!」
コンルの身体がしゅうっと透きとおり、身体の表面を蠢いていた稲妻が動きを徐々に緩め、
ついには止まってしまった。シカンナカムイの稲妻は、コンルの冷気によって透明な氷の
結晶へと姿を変えていたのである。
それはさながら、コンルの身体に巨大な植物のつるが巻き付いてゆくようだった。そして
氷となった稲妻のつるはコンルの全身に及び、シカンナカムイへと向けられた腕を放れても
成長を止めることなく、稲妻を生み出している主に絡み付こうと伸びてゆく。
「光であろうと……稲妻であろうと!凍てつけ!コンルノンノ!」
コンルの振り絞った声が響き、シカンナカムイへと向かう氷のつるの先端がつぼみのように
膨らみ、氷の粒子を撒き散らしながらぐばっと八方に開いた。幾重にも重なった花弁の
ような氷の刃は、繊細さと凶暴さに溢れている。
冬にしか咲かない、鋭利な氷の大輪が、自らの成長を阻むものを跳ね飛ばそうとシカンナ
カムイに迫る。
「氷の花――冬にしか咲かぬ花。ふむ、美麗絶頂……」
シカンナカムイが、自分の視界全てを多い尽くす氷の花を前にしてつぶやいた。
「コンルカムイよ、かくも珍しき花を咲かせるとは……。まずいのう。神聖なるカムイ
同士の戦いの最中に、かような美しい光景をナコルルに見せては」
黒い影が、卑しく笑うシカンナカムイの後ろから躍り出た。
「何せナコルルは花が……『花摘み遊び』が大好きだからのう!!」
影――ナコルルが駆ける。巨大な氷の花の横を駆け抜ける。
その細い右の腕には、大きな花を摘むには丁度よい、異常なほどの大きさと鋭さを持つ
魔界のかぎ爪「あざみ」。
冬にしか咲かない花は、当然ながらそこを動くことは出来ない。
「花の一生は短いというのう」
シカンナカムイが見守る中、ナコルルが、氷の花の一番の根元に黒光りする爪を伸ばす。
「されども人知れず咲いていれば、もう少し長生きできるものを、の……」
じょきり。
金属の擦れ合う音と共に、ナコルルの花飾りがぱぁっと散った。
シカンナカムイを飲み込もうと猛り狂っていた氷の花も、その目前で動きを止めた。
「リム……ルル……」
「コンル……かあさま」
「誇り高きアイヌの戦士よ、私はひと時でも、貴女の……母となれて……幸せでした」
「嫌あああぁぁぁ!!かあさまあああああああ!!!!」
胸を五つの爪に貫かれ、ナコルルの花飾りと共に散りゆく間際。
コンルという名の氷の花は、最期の最期まで笑顔だった。