息苦しいまでの瘴気に浸された薄暗いカムイの森に、またしても青い火花が飛び散った。  
二つの影が木々の根の上を飛び回り、かち合っては光りを産み、また離れてを繰り返す。  
「イイっ……ぜえェ!姉ちゃん!!フッハハハハハ!」  
聞くに堪えない、気が狂っているとしか思えない羅刹丸の叫びが、レラの前を右から左に  
流れる。その声だけを頼りに次の動きを予測して、レラは音も無く木々を縫い、いきなり  
羅刹丸の前に躍り出た。  
そのまま、がら空きの胸を狙ってチチウシを突き出す。  
死角からの風切音に羅刹丸は濁った目を丸くしながらも、ぶら下げるように握っていた  
屠痢兜でその攻撃を簡単に打ち払った。レラもチチウシを叩かれた勢いを殺してまで  
追撃は狙うことはせず、美しい宙返りですぐに羅刹丸の範囲から退く。  
「すばしっこいじゃねェーか!」  
羅刹丸が走りこみながら、屠痢兜を振り回した。  
レラが羅刹丸のほうを向いたまま、ひょいひょいと後ろへ飛び退く。光の無い刃の軌跡が、  
レラの居た場所に漂う深紫の霧を次々に切り裂いてゆく。  
「おら!おらァ!!」  
諦めずに追いすがる羅刹丸の攻撃を、レラは静かに後ろへ、左右へとかわし続ける。  
チッ、と、羅刹丸が舌打ちをしたのが聞こえた。業を煮やしたのだろう、太刀筋を変えてきた。  
両手で振り回すのをやめ、速度に乗せて屠痢兜を突き出してくるのである。片腕を眼一杯  
伸ばして、射程を広げようというのだ。片手だろうと、レラの身体ぐらいなら十分に貫く  
だけの自信があるのだろう、木々の根っこから根っこへと飛び回るレラの身体のど真ん中に向け、  
羅刹丸は突きを放ち続ける。屠痢兜それ自体が獣のようにレラの胸を執拗に付け回し、徐々に  
その距離を縮め始める。突きつける。  
と、レラが失速した。苔むした木の根に滑ったか、つまずいたか。がくんと姿勢が低まった。  
「もらったぜェ!」  
全体重を屠痢兜に預け、羅刹丸は強く踏み込んでレラの胸を射抜く体勢に入る。  
しかし、レラは低めた姿勢を直そうとしなかった。それどころかさらに素早く上体を落とし、  
半ば地面に寝そべるようにして羅刹丸の突きをくぐるようにして避けた。そして、どたどた  
走りこんでくる羅刹丸の下に潜り込み、手と足でくるりと羅刹丸の身体を支え、巴投げの  
ようにしてそのまま後方に流した。  
「おあぁぁ?!」  
勢い余った羅刹丸はレラの上を綺麗な円を描いて飛び越し、顔面から大木に激突した。  
「ぐお〜〜〜〜〜〜〜ッ!おおう、おぉッ」  
ずるりと地面に落ちた羅刹丸は、鼻頭を押さえながらのた打ち回った。木の幹に、鼻血の  
落書きが上から下へとこびりつく。  
「魔界の男でも、やっぱり顔面は痛いものなのね」  
「こんの……あまァ!」  
背中の汚れをぱっぱっと払いながら皮肉るレラの声にぴくりと反応し、羅刹丸はすぐに鼻を  
押さえて飛び起きた。  
「糞アマがァ……!今度こそ絶対に殺す!」  
鼻血を流しつつ、鬼の形相で駆け寄ってくる羅刹丸の背負っている殺気が、一段と強まった  
のをレラは感じた。  
 
漆黒の軌跡が、またしてもレラの居た場所を切り裂いて回り始める。  
「ちっ、何だァおいッ!どうしてそんなに焦らすんだおいッ!かかって来いコラァァ!!」  
思い切り振りかぶり、羅刹丸は全身を使って上段から屠痢兜を振り下ろす。途方も無い剣圧が、  
刀と指一本分の間だけ横に身をかわすレラの頬にびりびりと刺激を与えた。  
切っ先が届く寸前、しかも何の捻りも無い上からの一太刀だが、その存在感と殺意は空間に  
まで影響を与えるほどだ。  
 
このやりとり、切迫する一撃を肌で味わうのは、これが何度目だろうか。  
 
決闘が始まってどれだけ経ったか。時の流れさえ、この虚ろな空間の中では歪んで感じる。  
その中で刃を交えては、つかず離れず。これを幾度も繰り返している。  
一時は抑えきれない激情に走りかけたレラも、既に落ち着きを取り戻し状況も理解できていた。  
羅刹丸は迂闊に近寄れない相手でもあるし、軽く揉めるというわけでもなかった。馬鹿な  
ことばかり言うくせに、思った以上にこの男はできる。鉛玉を打ち込んでやった時に膨れ  
あがったあの邪気は、決して嘘ではなかった。  
生死を分ける一撃が頬をかすめるのを横目に見ながら、レラは思う。  
――ねえリムルル、ナコルルと出会えた?  
それとも、羅刹丸の仲間がいたとして、別の闘いに巻き込まれているのだろうか?  
カムイの恩恵深いこの土地に、これだけ腐った悪が踏み込んでいるのだ。強い邪気の中心  
はここ(羅刹丸)のような気がするものの、この世を支えるナコルルのところにまで毒牙が  
届いていない保証などない。魔を払う宝刀を所持しているのは自分だ。シクルゥやコンルを  
はじめとしたカムイ達がきっとリムルルとナコルルを守ってくれるだろうが、切り札たる  
自分が抜けているのは好ましい状況ではない。  
――この男の望む通り、そろそろ決着を。  
レラが意を決すると同時に、止まりかけていた時間が動き出した。  
羅刹丸は、大きな一振りをちょうど終えた姿勢だった。レラはその後ろにすかさず回り  
こみ、ぼさぼさの後れ毛に隠れた首に向けてしなやかな蹴りを放つ。  
決まりきった繰り返しからの、突然の変化。  
そこに一石を投じることで生じる隙を狙い澄ました一撃。決まらないはずは無い。  
だがそれを、羅刹丸はごろりと前転して避けた。  
「うるアァ!」  
そして起き上がって振り向くのに合わせ、羅刹丸は片手だけで刀を思い切り薙ぎ払った。  
――嘘っ!?  
応えの無かった脚をレラが慌てて踏みしめると同時に、辛うじて間に合った盾代わりの  
チチウシを屠痢兜がまともに捉えた。レラはやむなくその一撃を受け止める。  
「くうッ!!」  
虚空をぐにゃりと歪ませるほどの一撃は、並ではなかった。  
爪が弾け飛びそうなぐらいの衝撃、肩が外れそうなぐらいの威力。  
――これがもし、不意打ちじゃなく正面からの攻撃だったら……?!  
嫌な想像をもみ消すように両足でぐっと踏みとどまり、レラは羅刹丸の顔を睨みつけた。  
 
「嬉しいぜェ……やっとやる気になったってか。隙もなにもあったモンじゃあねえがなァ」  
刃と刃を十文字に合わせたまま、羅刹丸はあごを突き出して笑った。  
「あんなションベンの臭いしかしねえガキなんかよりずっといいなァ。ベッピンで、ズル  
賢くて、しかもかなりの殺し甲斐ときたもんだぜ」  
「さっきから何を馬鹿なことを」  
左手を添え、正面でしっかりとチチウシの峰を押さえながら、レラがさも下らなそうに答えた。  
「何でそんなに余裕綽々でいるのか私には分からないけど、あなた、ここで死ぬのよ?」  
「死ッ?ほぉ……ヘヘ」  
羅刹丸が一瞬驚きの顔をし、すぐにへらへらとニタついた。  
「死ぬってか、この俺様が!ほおう、ほう……ひっ、ヒヒハハハ!」  
「どうして笑うのかしら」  
「おお、悪ィ悪ィ。姉ちゃんは剣の腕だけじゃねェって思ってなァ。口も達者だ。あん  
まり面白くてよ、こっから先のこと考えるとついついニヤニヤしちまうのよ!」  
羅刹丸の腕の筋肉がむくりと膨れ上がり、強烈な馬鹿力が刀を通してレラの身体に迫る。  
「っく……!」  
「おうおうその顔だ。いいぜェ……耐えながら聞いてくれよな。俺ァな姉ちゃん。強えェ  
奴には目が無ェんだ」  
羅刹丸が赤く濁った目を細めた。  
「そのわけってな、ひとーつ、殺し甲斐がある。ふたあつ、なかなかしぶとい。みぃー  
っつ、苦労しただけ血酒が香り立って、臓物が舌の上でとろけるってなモンでな?」  
「そして、よっつ……」レラが言葉を継いだ。「そのおごりが祟って、自分の命が失われる  
とは思わなかった。こういう結びでいいかしら?」  
「その減らず口がたまらねえんだって言ってんだよ俺アァァァァ!!」  
まだ余力を残していた羅刹丸の腕力がにわかに呼び起こされ、レラの身体をいとも簡単に  
押し切った。羅刹丸の周囲に渦巻く魔界の毒気にやられて枯れ落ちた草花の上に、レラの  
身体が投げ出される。  
「おおおおおおおおおらァ!旋風波あッ!」  
レラが身を起こす頃には、力を溜めた羅刹丸の地を払う一撃が、叫びと共に完成していた。  
屠痢兜に穿たれた単なる土くれが魔力を叩き込まれた無数の散弾となり、レラに牙を剥く。  
「うあっ!!痛ぅ……!」  
とっさに近くの樹木の裏に避けようとしたものの、レラはもう一歩のところで砂つぶてを  
右のふくらはぎに浴びてしまった。下穿きの一部はぼろぼろに破け、そこからのぞく肌には  
鋭く細い血の流れが幾つも走っていた。皮膚を覆うような熱い痛みが広がり始める。  
「それで逃げたつもりかよォ!おいコラ!」  
背にした巨木の向こうから、笑いを交えた羅刹丸の叫びが聞こえた。  
とてつもなく嫌な予感を覚えたレラは、息つく間もなく、背中を預けていた樹木の陰から跳んだ。  
レラが振り返ると、あんなに太かった樹の幹が、根元から斜めに滑り落ちて横に倒れた。  
ずどぉ……!  
ただの一刀によって伏せられた枝葉が地面を叩き、もうもうと土煙が立ち上がる。  
その煙の中に赤く禍々しい二つの目が霞んで見え、血の色をした一筋の残像が輝いた刹那――  
目の前に広がり消えてゆくはずの土煙が、いきなりレラに向けて圧縮するように迫った。  
 
「俺様を死なすとかって冗談は、こいつを食らってまだ言えんなら聞いてやらあなあァッ!」  
今度こそ、避け切れなかった。竜巻に姿を変えた煙に捉えられたレラは、乱暴にぐるぐると  
かき混ぜられながら、静か過ぎる森の空へと上っていった。  
「うっ……あぁぁぁ!」  
もう、右脚の心配をしている場合ではない。まぶたを閉じていなければ眼をやられることに  
なるだろう容赦の無い砂嵐が、レラの衣服に穴を開け、引き裂き、柔らかな肌を次々と傷つけて  
ゆく。身体のいたるところが焼けるような痛みを訴え始め、レラはぎゅっと目を瞑ったまま  
苦渋に顔をしかめた。  
空はどっちか、地上はあちらか。方向感覚がどんどん薄れ、思考が揺らぎ始める。  
「へっ、ハハハハハハハハハアァ!」  
遠くなる意識の底にまで響く、羅刹丸の狂った高笑いを聞きながら、レラは思う。  
 
――強い。この男は、強い!  
 
隙を突いたはずの攻撃が裏目に出た。そこに転がり出たほんの一瞬の好機を、羅刹丸は見逃さ  
なかった。  
――瞬きひとつでも見逃してしまう攻守逆転の境地……あの男はそれを知っている!  
攻撃をしかけていたのは常に羅刹丸だった。それにレラが対応するかたちで、戦闘は進んでいた。  
一目で分かる力の強さと、それに頼ったぶっきらぼうな流儀。力に劣る者が相対するには、  
素早さで翻弄するのが一番だ。決定打を決められない状況に相手が十分に焦れ、油断し、自棄に  
出たところを一突き。これが理想だった。  
捉まらなければ、何も恐れることは無かった。だが――  
それが、このざまである。  
――私が……踊らされていた?  
そう、闘いは対峙したときにもう始まっていたのだと、レラはようやくにして気づいた。  
羅刹丸は下らぬ話術でレラを勘ぐらせ、言葉巧みに心を熱くさせ、焦れて当然の単調な  
刃のやりとりでさえ、あろうことか楽しんでいたのだ。この結果を待ちながら。  
全ては羅刹丸の計算づくだったのかどうか、それは定かでない。あれは生粋の馬鹿なのだと、  
レラはこうやって四肢を痛めつけられるしかない今もそう思っている。  
しかしその馬鹿の術に、レラはすっかりはめられていたのだ。  
妹とアイヌモシリに仇をなす宿敵に挑みかからんと、無意識に逸った自分が甘かったのか、  
それとも純粋に羅刹丸の力量が自分の遥か上を行っているのか。  
相手を本気でいたぶり抜き、殺すことに喜びを見出している馬鹿。  
そんな馬鹿に、今まで会った事はなかった。  
そしてここまで自分を追い詰めた敵にも。  
魔界の者。忌むべき存在。カムイの森を荒らす無法者。妹を苦しめた、絶対に許せない男。  
なのに、どうも妙だ。  
 
こんなにも痛めつけられ、許せないはずなのに、男の置かれた境遇を思い描けば描くほど、  
胸を燃やしたあの怒りがどんどん沈んでゆくのである。  
 
――何かしら?なんだか……  
身体と心の両方にすうすうした新しい心地を感じて、レラはゆっくり目を開いた。  
いつの間にか竜巻は掻き消えており、砂にまみれた身体はただ空中に放り出されていた。  
涼しいはずである、服はもう単なるボロでしかない。肌の露出のほうが多くなっている  
のではないか。そんなことを思うレラの眼球は虚ろに動き、その視線は、自然と一点に  
吸い込まれた。  
赤く大きな三日月を手にした羅刹丸が自分の身体の上に踊りかかり、今まさにその三日月  
を振り下ろさんとしていた。  
――すごい。  
レラは息を呑んだ。それは、純粋な血の色で塗り固められた天体のような刀だった。  
どれだけの数の人間の血を塗りたくればそんな色になれるのか、そんな疑問さえよぎるほどに  
真っ赤な真っ赤な月――屠痢兜――が、羅刹丸の振り上げた手の中に固く、きつく握り締め  
られている。  
その顔の、嬉しそうなことといったら無い。無邪気、そんな言葉が何よりも似合う満面の笑みだ。  
本当の満足が目前にある一瞬、何にも変えがたい一瞬なのだ。彼にとって。  
この私の血肉を、あの三日月に捧げる瞬間を待つこの時こそが。  
――わからない。どうしても。  
絶命の瞬間を前に、レラの心にまたも疑問がよぎる。  
もしかしたらこの男と同じぐらい、自分も人間の命を奪ってきているのかもしれないと、  
レラはこれまでの生き方を振り返る。カムイを苦しめる者なら、魔界の者も、愚かな人間も、  
どれもこれも同じように、平等にポクナモシリ(冥界)へと導いた。自然の痛みを知らしめた。  
だが、笑顔で敵を葬ることなどした事が無い。  
世の中に命ほど重く大切なものは無い。それを笑顔で扱おうなど、人間のする事ではない。  
それは屠られる方も同じだ。どんなにこの世にあってはいけない命の持ち主であろうとも、  
どこまでも生命に執着し、泣き叫んで奪われまいとする。戦いの最中に笑っている者もいたが、  
そんなのは虚勢だ。蓋を開けてみれば、最期はどれもみな同じに泣き喚くのが常だった。  
しかし羅刹丸は違う。あんな顔は虚勢では出来ない。  
この闘いに、レラの命を奪うことに、全てを賭けているのだ。  
その目的や理由が何であれ。  
羅刹丸にとって「命」が何であれ。  
彼に今課せられているものは一つ。とにかく殺すことなのだ。心から。  
 
殺しこそ、全て。それが羅刹丸という男。  
仕置こそ、全て。それが私という女。  
 
レラの心に、二つの言葉が重なる。  
チチウシを手にシクルゥに跨って、大切なものを……アイヌモシリを、尊いカムイ達を。  
リムルルを。  
家族を。  
その笑顔を絶やさないために、この世に生まれたばかりの幸せを守り抜くために、レラは  
闘うのだ。そしてカムイと人とが暮らす、本当に平和な大地を前にしたとき、きっと自分  
にも笑顔が。  
この身を切り裂こうとしている魔界の男と同じぐらいに、満ち足りた顔で自分も笑うこと  
ができるのだろう。  
 
そのための闘い。  
そのための殺し。  
 
またしても言葉が重なる。  
 
――ああ。  
頭の中を二転三転するレラの思考はいつしか、ひとつの結論へと達していた。  
――なるほど。そういうことなのね、私。怒りも蘇らないわけだわ。  
その結論を認めていいものかなどと、レラはここに来て迷いはしなかった。  
 
――この男、似ているんだ……私と。  
 
自分の使命のために、殺して殺して。そうして生きてきた。そう生きるしかなかった。  
――私もそう。殺し続けたわ。闘い続けてきたわ。本当に、そのために生きてきたの。  
ならば、レラは魔物だろうか。断じて違う。いくら似ているとはいえ、羅刹丸と自分は  
根本的に違うのだと、レラは確信している。同じ使命を背負っているからこそ、ここで  
負けるわけにはいかない。あの赤い刃の餌食になどなってはならない。  
――私は、この魔物とは違う。私には、背負ったものがある!誓ったことが!!  
 
負けられない。  
 
「断 空 裂 斬 ッ ! !」  
 
羅刹丸のつんざくような叫びが、耳に聞こえた。  
レラは瞬きを一つ、それだけで瞳に生気を取り戻し、自分の額に怒涛の勢いで迫りくる  
赤い刃を認めると、思い切りチチウシを振りかざした。  
間一髪、空中でふたたび十字にかち合った刃と刃から、赤い三日月を彩る火花の星を散らす。  
羅刹丸の恍惚としかけた目が、間抜けなぐらいにまん丸になった。  
レラは片手だけで、屈強な羅刹丸の一撃を受け止めていたのである。  
「何って……力だこと。私の命、そんなに欲しかった?」  
握力の限界を超え、手の切傷から滴る血液に自らの顔を染めながら、レラが言った。  
「でもダメね。あなたが欲しいものは、私を殺しても手に入らないわ。私の妹でも、コウタ  
でもない……誰の命でも満たされないわ、きっと。だけどね?」  
レラは自然な落下を全身に感じながら、言葉を継いだ。  
「あなたさっき自分で言ったわね。この剣を受けた今なら言っていいって」  
低い声で、レラは言った。  
「あなたは殺すんじゃなく……殺されたいのでしょ」  
一緒に落ちゆく羅刹丸の刃から、圧力が抜けた。顔は呆けたままだった。  
レラはしのぎを削っていたチチウシを屠痢兜からそっと放し、手の中でくるりと回すと、  
逆手から順手へと持ち直した。  
「叶えてあげるわ、あなたが望むこと。今ここでね……死になさい!」  
血の滴る右手に強く握られた聖なるチチウシが、羅刹丸の左わき腹深くへと突き刺さった。  
 
その瞬間だった。  
 
ど く ん っ  
 
一瞬ではあった。ほんの一拍ではあった。  
しかし、地上を、海を、この星全てを揺るがすかのような鼓動が、世界を駆け抜けた。  
 
ど く ん っ  
その鼓動は、人間の作った地下室を歪めんばかりに。  
「だーからコウタもっと呑めぁうお!?」  
「うわった、地震か?!」  
「おおお、あれ……止まった?つか呑み過ぎ?俺ら呑み過ぎか、なあコウタよ!なあ!!」  
「いや、チゲ鍋こぼれてるから結構大きかったぞ、今の地震……ってやめ!口移しは絶対だめ!」  
「ほーらほら、バードキス!フレンチキス!舌入れるぞ舌!!」  
「らめぇ、絶・対!!」  
 
ど く ん っ  
その鼓動は、祝祭の空気を漂わせるアイヌモシリを揺らがせんとばかりに。  
「大学生、真っ昼間から地下の飲み屋にて宴会中。メンバー、開催内容にも特におかしな  
所は……おっ、柳生さん、これ……?」  
「地震だ」  
「大きいですね……」  
「……ああ。何か、あるな。よし佐川」  
「はいっ」  
「コーヒーとあんぱん買ってこい」  
 
ど く ん っ  
その鼓動は、カムイが作り出した地上の楽園を引き裂かんとばかりに。  
「ふん、散りおったか。コシネカムイごときがしゃしゃり出るからよの……うむッ?」  
胸をナコルルに貫かれ、安らいだ笑みを浮かべたまま冷たい氷像となっていたコンルが、  
地震のような強い振動によって一瞬で瓦解した。  
優しかった笑顔が、艶やかだった髪が、温もりを感じた手のひらが、花々が咲き乱れる  
カムイの土地へと崩れ落ち、リムルルの目の前で粉々の氷の破片となり、消えてゆく。  
 
どくん……  
木々が拍を打つようにざわめき、地上さえ揺るがしたのが、空中にいるレラにも伝わって  
きていた。空気を通し、そして、羅刹丸のわき腹に埋まったチチウシを通して。  
チチウシは、脈動する周囲の風景に同調するかのように、力強くレラの手の中で踊って  
いた……いや、チチウシの変貌と同時に、この世が揺れ始めたのだろうか。魔物の肉体に  
突き刺さり、毒々しい血に塗れたことで、その本来の力を取り戻そうとしているかのように、  
チチウシはカムイの森に漂う魔界の空気を射抜く光を強めていた。アイヌモシリを汚す魔界の  
者を狩ることこそが、この刀を受け継いだ者の宿命だと、そう告げているかのようだった。  
しかし、生きる事に関して既に狂っている魔界の男は、絶望的な傷を負ってなお、にやりと  
余裕さえ感じさえる笑みを浮かべていた。  
「やっ……てくれるじゃねェか!ねえちゃんよぉぉッ!」  
 
怒声にも歓声にも聞こえる叫びを上げた羅刹丸は脚を屈め、レラの腹部に乱暴な蹴りを放った。  
チチウシが肉の手ごたえを残して羅刹丸のわき腹からずるりと抜け、逆にレラの腹に、重い  
重い圧迫感と衝撃が広がる。自由落下に蹴りの勢いを加えられたレラは地面のすれすれで  
体勢を立て直して着地したものの、立ち上がれずにそのままうずくまった。  
「へっ、へへ……驚いたぜ!」  
胴着の左わき腹に、毒々しい藤色の血液の染みを瞬く間に広がらせながら、羅刹丸がどすん  
と両足で着地した。  
「何を言うかと思えば、アァ?この俺様が……死にてェだの抜かしやがったなァ!」  
「違うの……かしら?」  
ずたぼろになった服を引きずり、レラは痛みと吐き気をこらえて立ち上がった。  
「その刀……ずいぶん人を殺して来ているみたいだけど、何のために殺してきたっていうの  
かしら?」  
「んなの決まってんだろうがァ!快感なんだよ!殺すのが!!バカ共をばらッばらにすんのが  
楽しくて仕方ねェんだよ!悲鳴が!血の味がなァ!心地よくって仕方ねェんだ!!」  
「嘘をおっしゃい……」  
子供のように自分の主義を訴える羅刹丸をなだめすかすような口調でレラは言った。  
何故かやはり、あの強い敵対心が帰ってこない。  
「確かにあなたは、殺すことで快感を得ているのかもしれない。私にその刀を振り下ろそうと  
したときのあなたの顔、忘れられないわ。心から殺すことを……私の命を奪うことを幸せに  
感じていた。そういう表情だった」  
「そうさ。姉ちゃんの生きのいいドタマかち割ったら、どんな絵になるかってなァ!」  
「哀れね……」  
剣を交えた相手に、こんな感情を抱くのはおかしかった。しかし、戦いの最中に感じたものは  
彼女にとって絶対だった。命の際でむき出しになったものが、偽りのはずは無いのだ。  
「私は、この世界を邪な者達から守るために闘っている。そのために殺し続けてきた。  
大自然とその中で生きる人々のためにね。そして、私自身も生き抜くために。ひとりには  
しないと――あの子にそう誓っているからね。だからあなたを追っていた。でもあなたは  
どうかしら」  
いつしか羅刹丸は黙りこくっていた。わき腹からの出血は、道着の下にまで及んでいた。  
「快楽を得るために殺すなんて嘘ね。そんな輩はこんなに強くない。あなたほどの腕前を  
持つ者が、そんな下らない目的のために人を殺しているはずがない。だったら何?守るものも  
無く、得るものも無いままにここまで生きてきたのは何故?不死身に任せて漠然と?違う  
のでしょ」  
不思議だった。この男を説き伏せて何の意味があるのか。  
相手は魔界の男だ。殺さないわけにはいかない。  
でも、どうしてもレラは羅刹丸に知って欲しかった。思い出して欲しかったのだ。死ぬ前に。  
自分が闘う本当の意味を。  
レラは思いよ届けと、羅刹丸に言い放った。  
「本当に殺したいのは……自分でしょ。死にたいのでしょ。あなた、自分で殺した死人の  
姿に自分を重ねているのよ。本当に欲しいものが目の前にある……だからあんなに楽しそうに」  
「一秒でも、姉ちゃんの話を聞こうとした俺が間違いだったぜ」  
うそぶいてばかりだった羅刹丸の口調が、ここに来て冷酷さと険悪さを帯びた。  
 
「その講釈……急に胸糞悪くなってきやがった。ちったあ出来るから、もっともっとしっかり  
いたぶって殺そうかと思ったんだがなァ!」  
「本当のことを言われると腹が立つものよ。いよいよ図星のようね」  
「生意気が過ぎるンだよ……脆い人間の癖によォ! 俺様が死ぬだァ? 抜かせ!!」  
羅刹丸の肉体から発せられる殺気が、ぶわりと増幅した。節くれた手の中の屠痢兜が、  
かたかたと死を誘う声で泣き、高々と掲げられる。  
「俺様に一太刀浴びせたその腕に免じてなァ、一瞬で消えてなくしてや……ごほッ!」  
彼なりの念仏を唱えようとした羅刹丸の口から、唐突に血が吹き出した。  
「ごほ!うげッ、ぐあ……がはっ、はっ」  
背中を丸めて口元を押さえるが、指の間からは滝のように血が滴り落ちている。  
レラはその様を、細めた目で見つめていた。  
「チチウシは、あらゆる魔を絶つ刀。あなたの不死身もそこまでよ」  
穴と擦り切れだらけになった襟巻きを口元にたくし上げ、レラは言う。  
「あなたが死にたい理由は知らないわ。だけど殺しだけの人生を送ってきた者同士、その  
哀れさに免じて……あなたの思い、すぐに遂げさせてあげるから」  
レラは一瞬目を伏せたが、チチウシを握りなおしてすぐに羅刹丸へと歩き出した。  
「ぐほっ、あん……だと?口に当ててる布切れが邪魔で聞こえねェんだよ……ぺッ」  
血の唾を吐き出し、羅刹丸は前かがみのまま、わき腹の傷口に触れた。吐血に加え、  
さらなる出血が羅刹丸の震える手をどす黒く染め上げている。  
「血が出てッ……うぅ、傷が塞がってねェ!何だか知らねェが……こりゃッ、と、とんでも  
ねェ感覚だ……ぜ!」  
魔物の口元がにんまりと開き、赤黒い涎がどろどろと流れ出す。  
「姉ちゃん……悪かったな。前言撤回だ。やっぱり姉ちゃんは最高だァ!!ヒィッヒヒヒ  
アハハハハァ!!ゴホッ、ゴホ!」  
天を貫く木々にさえぎられた空に向かって、羅刹丸は狂った高笑いを放ち、咳き込んだ。  
たちの悪い酔っ払いのようだ。  
「おい、殺すぞ!姉ちゃん、テメーは殺すぞッ!けどな、殺すけど死ぬなッ!!ずっとその  
ワケのわかんねえ、飛び切りの刀を振り回して俺と闘え!死んでも立てよォ?」  
「……ふっ、ふふ」  
いつの間にか立ち止まっていたレラは、何故笑ってしまったのか、自分自身でも理解に苦しんだ。  
殺しても死ぬなだの、死んでも立っていろだのと、羅刹丸は、本当に命というものがよく  
分かっていないらしい。心臓に鉛を撃ち込まれても死ななかった身体に、ついに滅びが忍び  
寄っていると言うのに、それさえ楽しんでしまっている。もしかしたら、羅刹丸は自身が  
死にたがっているという真実が、本当に身に覚えの無いものなのかもしれない。  
あまりに馬鹿げ、狂っている。  
放っておけないほどに。  
 
「……ふふ、いいわ」  
――何がいいんだか。  
思いながら、レラはマフラーを解いて羅刹丸に投げた。羅刹丸は掴んだマフラーと、レラの  
顔とを交互に見た。  
「さっさと傷口に巻きなさいな」  
――敵に塩を送るようなことを。  
思いながら、レラは羅刹丸がもろ肌を脱ぎ、さっきまで自分の口元を覆っていた布切れが  
彼の身体に巻きついてゆくのを見ていた。どういうわけか、唇が熱い。  
「私はね、大自然の戦士なの。ふふ、言っておくけれどね……あなた、私が今まで何回心臓を  
貫かれて、何回蘇ったと思っているの?」  
――馬鹿がうつるって、本当ね。  
思いながら、レラは羅刹丸が満足そうにわき腹をさすってニヤつくのを見た。何故だかまた  
しても頬が緩んでしまう。  
「さあ、楽しみましょうか」  
――戦いは遊びじゃないわよ。  
思いながら、レラはチチウシで羅刹丸のことを指差した。闘いの最初に、羅刹丸が自分に  
向けてやったのを真似てやったのだ。  
羅刹丸がぞろりと舌なめずりをし、屠痢兜をレラの心臓に向ける。  
全くつやの無い血塗れの刀の不気味さか、レラの胸がどきりと高鳴った。既に貫かれている  
ようだった。  
今から再び開かれる、更に激しさを増すであろう戦いへの言い知れぬ期待に、戦士の血がたぎる。  
レラは祈る。  
「カムイ達よ……」  
 
「あァ〜ったくよぉ!もうやめろよ姉ちゃん、その念仏みてェのよォ!」  
 
せっかく差し向けた屠痢兜を下ろして、羅刹丸が脱力しきった声で言った。  
「な、何よ」  
「あのな。姉ちゃんはじめに言ったろォ?何だっけか、ああ……『戦士の宿命に従い』  
ってなァ。これ以上なんの遠慮がいるってんだァ?」  
レラもチチウシを下ろして、自分がこの闘いの火蓋を切ったときの事を思い出し、  
「ああ……そういえば言ったわね。それにこうも言ったわ。『狼藉を許して』とも」  
「そういうこったなァ」  
「そういうことね」  
 
――そういう……ことね。  
 
笑いあったお互いの胸に刃が向けられてから火花が散るまで、瞬きをする間もなかった。  
 

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