ナコルル同様に魂を奪われたかのように放心するリムルルの横を、美しい氷の破片が漂い、 
無情な風に押し流されていく。 
足かせだった氷は既に溶けて無くなり、自由の身だというのに、リムルルは動かなかった。 
鼓動に似た強い地鳴りにシカンナカムイとナコルルが一瞬よろめいた中で、全く動じて 
いなかった。 
無心ではない。想像を遥かに超える大きさの感情の塊に潰され、身動きできずにいた。 
何かの間違いで大きく傾き、片側へと振り切れた天秤のように。 
感情に乏しい、光の無いリムルルの瞳に映っては消えてゆく、愛すべき家族の破片。 
それはリムルルに無念を伝えているようでもあり、余すところ無く抱きしめてくれている 
ようでもあり、それでもやはり、もう何もリムルルの胸に語りかけることは無かった。 
――コンルはもう居ない。 
いとも簡単に、あっさりと。カムイ同士の闘いという約束を反故にした、卑怯なシカンナ 
カムイの手によって、野に咲く花が摘み取られるように。 
リムルルは叫びも上げられず、涙も出ることは無く、身体が震えることも無かった。 
この場所に来てリムルルが直面した真実はあまりにも多くありすぎたし、重かった。 
シクルゥは自分をかばって倒れ、姉は魂と純潔を奪われ、アイヌモシリを救うためだった 
力は無益なものへと変えられ、ずっと一緒だった相棒は、初めて真実を分かち合えた瞬間に 
粉々にされてしまった。 
信じていた物の多くが失われた今、天秤の目盛りは簡単に振り切れていた。 
 
だからといって、リムルルはいつまでも木偶のようになっているわけではなかった。 
 
それを感情と呼んでよいのか分からない。激情などという言葉とも違う。 
ただ、リムルルはある一つの、心を壊した桁違いのそれに支配されていた。 
振り切れた天秤の目盛が量ろうとしていたものは―― 
 
怒。 
 
シクルゥに雷撃を食らわせ姉から魂を奪い唇を奪い純潔を奪い力を失わせ禍々しい武器を 
握らせカムイ同士の約束さえ破って自分の手は汚さず家族同士の殺し合いによってコンルを 
死に至らしめた者を、 
シカンナカムイを倒さねばならないのだと、それだけを胸に―― 
 
「――――!!!!!!」 
 
リムルルは吼えた。 
陽炎のようなものが小さな背中にゆらりと立ち上った次の瞬間、太陽のような光がリムルルを 
中心にして爆発した。鉢巻が解け、ふわりと落ちた前髪が表情を隠す。晴れ着の裾が、自らが 
発した力に流されてばさばさと揺れる。リムルルの鼓動に合わせ空気がどくんどくんと鳴動し、 
力を付与されたかのように万物を包み込み、暖かく照らし始める。 
「天晴……!」 
膨大な力を解き放ったリムルルを、シカンナカムイは喜びと焦りに引きつった笑みで見つめていた。 
「激しいまでの生命の息吹!流石は大自然の戦士よ……!いや、それをも凌ぐか?」 
言う間にも、シカンナカムイの周りには異変が起き始めていた。雷撃によって焼かれた花々が、 
灰の下から瑞々しい緑色の葉を見せ、むくむくと成長し、見事な花を咲かせ始めた。 
しかしリムルルはそれに気づかない。失意の余りに落としていたハハクルを拾い上げ、鞘に 
収めると、シカンナカムイに向かって歩みを進めた。 
「大自然を癒すその力……すなわち、命の結晶!ナコルルをも凌ぐかも知れぬな」 
リムルルは答えない。一歩、また一歩。踏まれた花さえリムルルの靴を押し返すかのように 
強く咲き誇る。 
「しかし、呼び起こすには少々手間が要るのう。怒りを糧にせねば、力の箍(たが)を外せぬ 
とは。ふっ、やはり餓鬼かの?」 
挑発的な言葉にも、リムルルはぴくりともしなかった。 
やれやれとでも言いたげに、シカンナカムイは長いまつ毛を閉じ、つぶやく。 
「聞く耳持たぬぐらいに猛っているのか。家族ごっこが余程楽しかったとみえるの……ッ?」 
顔面に熱風を感じ、はっと目を開いたシカンナカムイはそれ以上の言葉を失った。 
文字通り「一瞬」で、リムルルはシカンナカムイの一寸前に立っていた。 
小さな、しかし、きつく固めた怒りの鉄拳の狙いを、ウエンカムイの細いあごに向けて。 
「――――!」 
叫び声が歪んで聞こえるぐらいの切れ味を持ったリムルルの拳が、シカンナカムイの身体を 
落ち葉か何かのように吹き飛ばした。 
「ぐおお……」 
流石のシカンナカムイも、頭から一瞬すべての思考が失われた。だが、すぐに空中に足場 
でもあるかのように元の姿勢を取り戻す。 
「お……のれ!」 
シカンナカムイは遥か眼下にいるリムルルを光る瞳で睨みつけた。 
眉間に力が込められ、瞳孔の奥にぴりっと小さな光が降り、 
「調子に乗るな」 
ズダァァァン! 
轟音と共に、リムルルの頭上に雷が降り注いだ。 
しかし、それだけだった。何の破壊も起きないまま、いかずちの残響だけが、花の咲き乱れる 
偽りの楽園に響き渡った。強烈な閃光が終わったそこには、リムルルが何も変わらない様子で 
平然と立っているだけだった。 
「ば、馬鹿な!?」 
何かの間違いだと、シカンナカムイはもう一度雷撃を見舞った。 
だが、結果は同じだ。周囲に光と音が撒き散らされるだけで、リムルルはおろか、花の一つ、 
砂粒さえ動かない。リムルル自らの身体から噴き上がるたくましい生命の息吹だけが、少女の 
癖のある髪を明るく照らし、雷は光もろとも完全に鎮められていた。 
「ふん……。お前を殺すわけにはいかぬからの。その程度の落雷で済んだのは、ナコルルの 
身とお前の命を鑑みた結果だという事を忘れるな」 
捨て台詞を吐き、シカンナカムイはリムルルの目前へと降り立った。地面を覆う花々は生命の 
息吹を受けて色彩も鮮やかに大きく成長し、膝の丈ほどにまで伸びていた。 
「どれ、我の伝えし技、伝承者たるお前が使いこなせているか試験するとしようかの。ナコ 
ルルよ、そのまま下がっておれ。手出しは無用だ」 
邪悪なかぎ爪を装着したままのナコルルは、言われるがままに二人から距離を置く。 
「我こそがシカンナカムイ流の創始者」 
シカンナカムイが右手を左の腰に回すと、手の中にぴりっと小さな電撃が生まれた。電撃は 
大きさを増し、徐々に実体を得て、一振りの大きなマキリとして手中に収まった。 
目線の高さに掲げたマキリを器用に手の中でくるっと回し、シカンナカムイは逆手に持ち替える。 
「我が名を冠した最強の剣技……その源流、とくと味わうが良いわ!」 
リムルルはまたしても何も答えず、ただ立ったままで腰の後ろに手を回し、ハハクルを握った。 
それに合わせ、シカンナカムイも腰を溜める。刀とは逆の左手をリムルルに向け、じりじり 
とリムルルの周りを左に回る。しかし、リムルルは動かない。真横を取られても、指一つ 
動かさない。 
「構えぬ……?時を経て、我が編み出した剣技はそのように姿を変えたと?」 
抜き足、差し足、あらゆる変化に対応できるであろう状態でシカンナカムイが言う。 
直立不動のリムルルは、ついに後ろを取られても動こうとはしなかった。 
「それとも、単に我を舐めていると……そういうわけかのッ!」 
苛立った声で叫び、シカンナカムイがリムルルの右腕に向けて刃を放つ。 
がちっ。 
シカンナカムイの一撃はその名の通り、光の速度の踏み込みだった。 
しかし、肉を断つ音とはかけ離れた金属同士のかち合う音が響く。 
リムルルは、シカンナカムイが動くのと全く時を同じくしてハハクルを抜いていた。 
直立の姿勢は変えず、右手の肘を90度だけ上に動かすだけの単純な所作で、光速の一撃を 
受け止めていた。そしてその肘は鋭い突きに変わったかと思うと、リムルルの背後にいた 
シカンナカムイの額の真ん中を正確に打った。 
「ごっ……?」 
完全に頭を揺さぶられたシカンナカムイが、一歩二歩とふらふら後退する。 
倒れないのがやっとといった感じ……きっとそうだろう。 
リムルルは思い、そして振り向く。 
案の定だ。シカンナカムイは額を重そうに押さえ、脚を広げて何とか立っている。 
「舐めてるのは……あんただよ!」 
ふわふわと浮かぶこげ茶色の前髪の間から、ついにリムルルの表情が現れる。 
リムルルはこれまでとは比べ物にならない怒りにたぎる瞳でシカンナカムイを見据えていた。 
「カムイも、人も、共に生きる……。それがわたしの教わった決まりだった。でもあんたは 
違うね。仲間のカムイを殺して、人の魂を奪って……全部めちゃくちゃにした。アイヌモシリ 
にも、カムイモシリにも……そんな奴はいちゃいけない」 
「く……お、おのれぇっ!その口、きけぬようにしてやるわッ!!」 
まだよろめきも覚めやらぬ状態のまま、シカンナカムイがリムルルに踊りかかる。 
一撃をもらってなお、素早い正確な刀さばきだと、リムルルは思う。 
そして、あまりにも型どおりだ。 
この一連の動きはもう知り尽くしている。次は踏み込み、身体を捻って頭を狙った蹴り、 
その勢いのまま刀を肩口に……。 
そう、そう、そう、全部知ってる。 
だから全部受ける。避けられる。 
その隙に、光り輝く拳。肘。膝。流れるような連撃が、シカンナカムイの身体にことごとく 
命中する。 
「がっ、ぐっ、な、何故……」 
繰り出す攻撃、その全ての裏を突かれたシカンナカムイが、ついに膝を折った。 
「何故、我が剣が通じぬ……?創始者たる我が……!」 
「戦いもしないで、自分の技の上にあぐらをかいているだけのあんたには分からない」 
燃え盛る金色の波動の中、リムルルが構えを解いた。 
「どんな強い技でも、負けることがあるんだ。シカンナカムイ流だって、あんたが考えた 
ままでいるはずがない……戦っていくうちにどんどん変わるんだよ、進化するんだ」 
「進化……だと……うぐっ」 
リムルルが詰め寄ると、シカンナカムイは苦しげに呻き、ぐるんと白目をむいて伏せ倒れた。 
意識を失ったらしい。 
「この土地で生きるのは簡単じゃないんだ。ひとりじゃ……なおさら……」 
――ひとり。 
沈痛な思いが胸に蘇り、リムルルは表情に乏しかった顔に悲しみを走らせた。 
心を焼き尽くそうとしていた怒りの炎の向こうに、コンルの笑顔が浮かぶ。 
「コンルを……よくも……」 
悔しさと無念に燃えるあまりに乾きかけた瞳から、炎を抱いた涙がこぼれる。 
揺れる景色の向こうには、魂を奪われて立ち尽くす姉の姿。 
リムルルが泣こうと、悲しみに沈もうと、その理由を聞くことも励ましてくれることも無い。 
全ては、この男の仕業だ。 
「わたしの大事な家族を……ねえさまを!許さない!!」 
涙をちぎり、リムルルが倒れたままのシカンナカムイに止めの一撃を加えようとしたその 
時だった。 
 
「リムルル、もう止めて!!」 
 
悲痛なまでの、女性の叫び声が野原に響く。 
リムルルは、振り下ろされるだけとなっていたハハクルをぴたりと止めた。 
同時に、自分の身体から発されていた金色の光がふっと消える。神への一撃を前に緊張して 
いた全身の筋肉が緩む。眉間から指先まで、あんなに荒れ狂っていたのが嘘のように。 
ひとりの少女に戻ったリムルルは恐る恐る、声のほうに振り向く。 
「ね……ねぇさま?」 
「もう十分のはずよ!刀を納めて!」 
声の主はナコルルだった。草花の中にへたり込み、涙を流して悲鳴を上げている。 
感情が、心が無いはずの姉が、ありったけの叫び声で自分の名を呼んでいる。 
「だめ……お願いよリムルル!その人を……殺さないで!!」 
「なんで……魂が?」 
――違う!ここに来た時だってそうだったじゃない!あいつが操って……! 
まだ半信半疑のリムルルの頭が、少女のそれから戦士のそれを思い出す。だが、惑う気持ちを 
拭うよりも早く、リムルルの頭は何かにぐわっと鷲づかみにされていた。 
「進化と抜かしたな、小娘」 
「っ……?!うあ!し……シカンナカムイ……っ!?」 
シカンナカムイはいつの間にか立ち上がっていた。片手でリムルルを軽々と吊るし上げ、 
しなやかで白い五指が、その見た目からは想像もつかない握力でリムルルの頭を締め上げる。 
「うあーっ、うあぁぁぁ!」 
「ふんっ!愚かな。情に勝機を見出すかと思えば、情に理性を失い、また情に屈する!」 
シカンナカムイの声は、嘲りに満ちている。 
 
「人は進化などせぬ!人は何も変わらぬ!下らぬ絆とやらを逆手に取れば……」 
 
「「もはや使い古されたとも言うべき、こんな猿芝居に引っかかるのだからの!」」 
 
シカンナカムイの声に続き、侮蔑をありありと滲ませたナコルルの声が耳に届く。その口調は 
シカンナカムイそのものだ。ナコルルは微塵も魂を取り戻してなどいなかったのである。 
優しかった姉の声を使い、決して彼女が口にしないような侮辱をぶつけられたリムルルの胸に、 
悔しさと悲しみがこみ上げた。 
「く……そぉ!放せぇ……!」 
「忘れておったわ。その口、利かせられなくする約束だったのう」 
シカンナカムイの指が杭のように突き立てられ、リムルルの小さな頭をさらに軋ませる。 
「ひいぎあああ!」 
凶器と化した五指のあまりの激痛に、リムルルは叫んだ。もはや抵抗することさえ出来ない。 
「見たかの、ナコルル。躾とはこのようにいたすものぞ?そして聞き分けさえ良ければ、 
ちゃんと褒美をくれてやるのも忘れてはならぬ……リムルル、まだ聞こえておるようだの」 
「……う……ぅ」 
呻きながら四肢をぶらりと下げた自分の様子を見て、シカンナカムイがおかしげに鼻を鳴らし 
たのがかすかに聞こえる。 
「我の話の途中、コンルが何を遮ろうとしたか、お前はもう十分に分かっておろうな。あの 
昔話の中に出てくる男が岩の間から掴み取ろうとした物、それはお前の父親を殺めた刀…… 
人食いの『イペタム』なのだ」 
「知らないッ……何を……言って」 
「うむ?しらを切る必要は無かろう。ここ最近、毎晩のように見たであろう?お前とお前の 
父親の過去を。確かにイペタムに斬られ、そのまま燃えて何処かに姿を消したではないか」 
「なっ……なに……なんでぇ?」 
激痛で勝手に引きつる顔面の筋肉を無理にでも使って、リムルルは辛うじて方目を開き、 
そして後悔した。 
シカンナカムイは、この世で見たどんな魔物よりも残忍な笑顔でリムルルを見下していた。 
「夢、悪夢よ。毎晩見たでしょう」 
またしてもナコルルの声がして、リムルルの集中が途切れる。ようやくの思いで外の様子を 
探っていた目が、頭蓋を押しつぶされそうな痛みにばちんと閉じられてしまう。 
「思い出してリムルル……」 
「い、嫌ぁ……ねえっ、さま……!」 
操られていると分かっていても、自分の暗い過去を姉の声でほじくり返されるのは苦痛だった。 
身もだえする自分の姿を眺めながら、きっとシカンナカムイはさらに凶悪な笑みを浮かべて 
いるのだろう。 
「覚えてるでしょ、燃え盛るコタンを……魔物に命を奪われたあなたの父親の姿を……」 
「もう……いやだァ……」 
「そして、どこにもいないコンルを……逃げたのよ、コンルは!あなた達二人を置いてね!」 
「嫌ッ!ひやだぁぁぁ……うあああ!!」 
言葉のひとつひとつが、硬く握られた雪球のようだ。両耳にぶち当てられるたびに悪寒が 
脳を貫き、稲妻に砕けて白く燃え盛る。あの日の炎のように。 
「やめてッ……許し……て」 
「毛嫌いする事ないわ。大切な思い出よ……シカンナカムイ様があなたの記憶の断片を整理して、 
あんなに完璧に再現したのよ?幾らか誇張もして下さったみたいだけどね」 
リムルルの手から、ついにハハクルが抜け落ちた。 
「嘘……ぉ!」 
「嘘じゃないわ。完璧だったでしょう?あなたの力の源は『怒』の激情。人を少しでも不安定な 
状態にさせようと思ったら、古傷に塩を塗ってあげるのが一番有効でしょう?現にほら、見て? 
この美しい花畑を」 
「左様。ナコルルの言うた通りぞ。コンルの死だけでは足らぬと踏んだ我の目論見通り、 
お前は見事にその小さき身体の内に秘めし生命の息吹、『大自然の力』を開花させたでは 
ないか!」 
「シカンナカムイ様に感謝なさい、ね?リムルル」 
「あんた……さいあ……く……ううぅぅああっああ!!」 
電撃を強められ、リムルルは無意識に身をよじった。 
「減らぬ口よの」シカンナカムイの声が言う。「昔話の続きという褒美を与えてもこれでは、 
さらなる躾が必要ではないか……やはりコシネカムイ如きに、しかも口も利けぬような出来 
損ないに、人の子を育てる母代わりなぞ端から無理だったというわけよの、ナコルル?」 
「シカンナカムイ様の仰るとおりです」今度はナコルルの声だ。「娘ばかりか、夫と想い 
慕っていた人間の男の危機に背を向け、一人生きながらえようとするカムイには到底無理な 
話かと存じます」 
「そう思うか」 
「はい」 
「だが泣ける話でもある……己が娘に悲しい思いをさせんと、敵うはずも無い相手に歯向い、 
ついには砕け散ってしまうのだからの」 
「シカンナカムイ様の仰るとおりです」一言前とまったく同じ口調でナコルルが言う。 
「シカンナカムイ様はカムイの中のカムイ。何人たりと、その尊きお姿を汚すことは敵いません」 
「やはりそう思うか」 
「はい」 
「うむ、愛い奴よの」 
「身に余る幸せです……」 
触れて欲しくない記憶をがさつな手つきで荒らし回され、死んでいった家族を侮辱され、 
しかも、聞いたことも無かったコンルの過去さえも次々に織り込まれてゆく。 
あまりにも馬鹿馬鹿しいシカンナカムイの一人芝居だったが、リムルルはもう言い返す 
気力さえ奪われていた。 
雷鳴と共に明滅するあの日の思い出。 
白く燃え盛るコタン、炎に包まれた怪物、途中で折れた刀、父親の身体から噴出す鮮血…… 
嫌になるぐらい全部覚えている。両手でもかばい切れない、小さな胸に負った鮮明な傷跡だ。 
でも。信じたくなかった。 
 
――コンル、嘘だよね?逃げちゃったなんて……。 
 
「愚かではあるが、その解き放たれた力は極上……案ずるな、リムルルよ。我らがカムイの、 
楽園の礎となれ」 
頭が内側から爆発するような衝撃を覚えたのを最後に、リムルルの意識は途絶えた。 
 
 
「さあ、行こうぞナコルルよ。羅刹丸を回収し……魔界の門前へと」 
倒れたリムルルを小脇に抱え、シカンナカムイが言う。 
ナコルルはこくりと頷き、別の出口へと向かうシカンナカムイの後を追った。 
カムイの森……ナコルルが眠りについていたこの土地には、まだ、リムルルが解き放った 
力の余韻が、包み込むような優しい光となっていたるところに溢れている。その温かな緋色の 
空間に、ふと何か白いものが漂い始めた。シカンナカムイは歩みを止め、空を見上げる。 
「雪……?」 
果てしないまでの快晴はいつの間にか雲に覆われ、空からは綿ぼこりのような柔らかな雪が 
降りて来ていた。季節を忘れた花々が咲き乱れるカムイの森の大地が白く染まり、ナコルルの 
力が満たされた大樹の青々とした茂りにも、薄い冬化粧が引かれ始めている。 
「妙なこともあるものよの。永遠の春が続いていたカムイの森に、冬が訪れようとは。ナコルル、 
早う歩け。寒さは身体に障ろう」 
言って、シカンナカムイは後ろを付いてきているはずのナコルルに振り向いた。だがナコルルは、 
リムルルの力が残した光の中を舞い降りる雪の向こうに、ようやくその姿が見える程に遅れを 
とっていた。 
「ナコルル、何をしておるか」 
シカンナカムイがじっと目を凝らすと、ナコルルはどういうわけかしゃがみ込んでいた。 
何かを草花の中から探り出しているのか、膝まである草花を両手で掻き分けている。 
「どうしたナコルルよ。もう花摘み遊びは終いぞ?」 
手入れの行き届いた、自慢の銀髪を濡らそうとする雪を疎ましそうに払いながら再び呼ぶと、 
ナコルルはようやくシカンナカムイに走り寄り、何かを差し出した。 
「何ぞ?ナコルル」 
思わぬナコルルの行動に、シカンナカムイは目を細め、ナコルルが握りしめているものを見た。 
それは、握り手に青の布で蝶結びを施された、一振りのマキリだった。 
「これは……リムルルのマキリ?結ばれているのはこやつのマタンプシ(鉢巻)かの?」 
小脇に抱えたリムルルを指し示して問うと、ナコルルはシカンナカムイを見つめて小さな 
子供のように頷いた。 
「はて……我は、お前にこれを探せと言うたかの?」 
シカンナカムイがさらに問いかけると、ナコルルは今度は目を伏せて首を横に振った。 
「そうであろう。さすれば、かようなものに用は無し。捨て置け」 
ナコルルは無表情のまま、リムルルのマキリを見つめていた。 
しんしんと降る雪が、リムルルの鉢巻に溶けて染み込む。 
青白く輝くマキリの肌に繊細な結晶が弾け、露となってきらりとこぼれてゆく。 
――これは、どうしたことかの? 
動こうとしないナコルルを前に、シカンナカムイが疑問を抱いた。 
マキリを見つめるナコルルには相変わらず表情が無い。魂が抜け落ちている証拠だ。 
だが、ナコルルは自分の呼び声に反してリムルルのマキリを拾い、しかもそれを捨てようと 
しない。 
――まさか?! 
シカンナカムイは手のひらを掲げ、宝珠を片手に発現させて中を覗き込んだ。 
「ふむ……?」 
心配とは裏腹に、ナコルルの魂は宝珠の中で輝きを放っている。魂が肉体から完全に隔離 
されたこの状態で、自らの意思で動くことは不可能だ。 
「ナコルル、いったい――」 
宝珠から目を移すと、ナコルルとかちりと目が合った。 
いつからこちらを見ていたのか、ナコルルの手の中には既にリムルルのマキリは無く、足元の 
草むらに置かれていた。細い肩には雪がうっすらと積もり、今にも震えだしそうだ。 
「よろしい」 
ナコルルの肩と、頭の雪をさっさっと払うと、シカンナカムイは嫌味なまでに整った顔に 
笑顔を浮かべた。 
「愛い奴よ……。帰ったら特別に『温かな褒美』をやらねばのう」 
リムルルを抱えていない方の腕でナコルルの身体を引き寄せ、耳元で囁く。 
「我にのみ従い、我のみを愛し、我にのみ尽くすのだ。お前の肉も魂も、全て我が物ぞ」 
表情の無かったナコルルの顔が、何かを期待するかのようにとろりと緩む。頬は赤く、息づかい 
も荒くなってきた。 
――思い過ごしだったようだの。 
その表情の変化を見届ける頃には、シカンナカムイの心から疑いは全て取り除かれていた。 
「さ、行くぞ」 
シカンナカムイがナコルルの手を引く。 
再び表情を失ったナコルルは振り返りもせず、その横を今度こそ離れず、静かに歩む。 
凍えた小さな手も、こうしているうちにじきに温かくなるだろう。もっとも、温かくなるのは 
ナコルルの手だけではない。シカンナカムイも、こうしてるだけで気持ちが温まる。 
独占欲や、美しいものを手元に置いておきたいと願う気持ちよりも、柔らかな感情だ。 
ナコルルが傍らにいるからこそ、抱きえる。 
「絆……いやはや」 
それは肉体や思考をも超え、魂のより深いところに存在しているかのようだった。 
「魂をも超越した、絆……」 
――魂をも? 
何を思い浮かべるでもなく自分の口をついて出た言葉に、シカンナカムイは雪を踏む足を止めて 
後ろを振り返った。そして、草むらに置き去りにされたリムルルのマキリを認めると、 
ふだん使いこなしている雷の光の瞬きに似た速度で、いくつかの情報が頭を交錯した。 
――草花の中に捨てられた、リムルルのメノコマキリ。 
――魂を完全に失ったにもかかわらず、それを求めて動き出したナコルル。 
――魂をも超越した…… 
「……おぉ」 
小脇に抱えていたリムルルがずり落ちそうになったところで、シカンナカムイははっと 
我に返った。うっとうしい重さに閉口しつつ、ひょいと再び抱えなおす。この場で 
肉体を操れるのならすぐにでも歩かせる所だが、その前に羅刹丸を拾わなくてはならない。 
シカンナカムイは苛立たしく言った。 
「ふん、馬鹿馬鹿しい。こんな餓鬼に、青臭い小娘如きに絆などがあろうものか……」 
どんなに強力な力を持っていようとも、いかに命と引き換えにイペタムを封じた父親の娘で 
あろうとも、リムルルはあんな猿芝居を鵜呑みにするような低脳なのである。 
「絆……これ程に崇高かつ複雑な感情を抱けるのは、我とナコルルぐらいのものよのう。 
おぉ済まぬナコルル……こんなに濡れて!さ、行こうぞ?寒風は肌を傷つけよう……」 
シカンナカムイは今度こそ自らの足跡を省みることなく、物言わぬ人形のナコルルに一方的に 
話しかけながら、帰路を急ぐ。 
 
舞う雪が溶けて濡れたナコルルの頬には、人知れず熱い雫が伝っていた。 

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