死を誘う紫の瘴気に浸された大木の間を、二つの獣の影が行き来し、叫びあう。 
「あなたは……本当に……強い!」 
竜巻により破かれた服から、肌の半分を露出させながら闘うレラが、逆手のチチウシを小さな 
構えでびゅんびゅんと振り回せば、 
「んなこた生まれたときから分かってんだよォ!」 
一方の羅刹丸は、右から左からめまぐるしく刻み付けるレラの攻撃を、屠痢兜を被せて丁寧に 
回避する。 
それもただ回避するだけではない。綺麗な円を描くチチウシが、しゃあっと金属の擦れる 
音を立てて屠痢兜の上を滑り、羅刹丸の肉体に触れることなく流れてゆく。いつまで経っても 
レラの弧を描く動きは止まらない。 
どうやら羅刹丸は、ぶつかり合う屠痢兜の角度を調整することで自らレラの連続攻撃を誘発 
させ、それを受け続けているらしいのだ。 
「らしくないわよ、いつまで私の攻撃を避け続けるつもり?」 
「何のことだァ?コマみてぇな姉ちゃんの動きを追うのが精一杯なんだぜ、俺様はよォ。 
見てみな、傷だらけだぜ」 
そう言う羅刹丸の上半身には、既に多くの切り傷が刻まれており、色の悪い血液がいたる 
ところから止まることなく流れている。 
「傷がふさがらねえなんて初めてだ……すげェ体験だぜ」 
「お気に召したかしら」 
レラは弾みをつけ、羅刹丸の懐に潜り込む。 
それは、声だけを残しその場から姿を消したかと思うほどの俊敏な動きだった。 
すばやくチチウシを返し、順手に持ち直すと、レラは迷うことなく男の首を真下から狙う。 
「そのお喋りが怪我の元よ!」 
「ケッ、それは姉ちゃんも一緒だァ!!」 
だがその一撃を、羅刹丸は刃でなく妖刀のつばでがちりと受けた。 
汗と火花が薄暗い空間にほとばしり、音も無く消える。 
 
人、刀、刀、そしてまた、人。 
 
二本の刀を間に挟んだ密着状態で、目まぐるしいほどだったふたりの動きが嘘のように固まる。 
レラが握るチチウシの先は、トリカブトのつばに彫られた溝にはまり、動かない。 
対する羅刹丸のトリカブトは、下から首を狙って突き出されたチチウシを受け止めるために 
天地が逆となり、その赤黒い切っ先がレラの股間へと伸びている。しかしレラも、ほぼ平行 
状態になっているチチウシをトリカブトにかろうじて×の字に当てがい、醜い刃が身体に 
触れる事は許さなかった。 
満身創痍の肉体に包んだ命を、二人はまたしても間一髪のところで守り抜いていた。 
「本当に強いわ……!あなた」 
レラは再び、羅刹丸の圧力に耐えつつ、心底からの賛辞を送る。 
切羽詰った金属と金属の擦れる音にさえ、闘いの中にあるという興奮を禁じえない。 
股ぐらに今一歩と迫る敵の刃に、毛が総立ちになりそうだった。 
「その力といい、私の全力を受けきり……こうして完全に受け止める技量といい!」 
「ほほォ、ようやく俺様の真価を理解しやがったか。姉ちゃんこそ大したもんだぜ」 
笑い混じりに、羅刹丸がまんざらでもなさそうに言う。 
「えぇ、あなたの強さは本物。だけど、まだ全力じゃないわね」 
「ああ?どういう事だ」 
「認めなさい、あなたが闘う理由!心から自覚した時、あなたは本当の羅刹になる!」 
「かァ〜〜っ!まだ言うかよあァ?」 
少し喜びを表したのもつかの間、羅刹丸は馬鹿力でチチウシを押さえつけたまま、うんざり 
と肩を落とした。 
「でもまァ、その減らず口が姉ちゃんのたまらねェところだぜ……ヘヘ」 
せせら笑いと共に、羅刹丸の力の抜けた肩がぐぐっと山のように盛り上がった。 
チチウシを下へと圧迫する負荷が、血に塗れたレラの両手にじりじりとかかり始める。 
力のぶつかり合いに震えるトリカブトの切先が、少しずつレラの股間へと近づく。 
「さあて、こっちは……『下の口』からはどんな声を聞かせてくれんだ、オイ」 
「幻滅させてくれるわね」 
レラは気丈な釣り目で、へらへらしている羅刹丸を下から冷ややかに睨み付けた。 
「やっぱりあなたも魔界の生まれ。腕はよくても下衆は下衆ね」 
「いや待て……ここでマ○コ抉っちまったら、ガバガバになっちまうしなァ」 
「なっ」 
「しかもヤローの臭いがしねえ、せっかくの初モンときてる」 
「なな……なっ」 
擦り傷のせいでも、闘いの興奮のせいでもなく、レラは頬がかっと赤くなるのを感じた。 
「姉ちゃんのことだ、絞まるんだろうなァ……。ヒヒ、胎(はら)が破れて死ぬまで犯さねェ 
手は無ぇやな」 
「いい度胸じゃないの……ベラベラと!」 
固定されたままのチチウシを、レラは言葉の調子に合わせてぐいっと突き上げる。 
「おうおう何だァ、ここにきてさらに女を上げたなァ、姉ちゃん。その真っ赤な顔…… 
いい顔になってきたぜェ?」 
「今すぐ……終わりにしてあげるわ。今すぐに!ここで!!」 
「そうだ、そうだ、そうだァ!」 
待ってましたとばかりに、羅刹丸が刀越しに顔面を突き出して笑う。 
「感じてるんだろ?分かるんだろ?とうの昔から知ってんだろォ?」 
「ふふっ、やっぱり無駄口だったって訳ね」 
レラも、羅刹丸の息遣いがわかるぐらいに下から顔を近づけ、威嚇するような笑みを返す。 
 
「そうよ。次にこの二本の刀が離れた時……」 
 
「その時が本当に死合う時だァ!」 
 
さらさらと二人の間を流れていた時が、濃密さを増し、凝縮され、やがて止まってゆく。 
 
レラには分かっていた。そして、羅刹丸も知っていた。 
少し前までレラが押しているように見えたのも、羅刹丸がその戦況を一手で鎮めたのも、 
果てしなく続くかのように思えるこの膠着も、全ては闘いの流れの中で必然的に起こる 
「瞬間」の一部に過ぎない。 
無我夢中で闘うふたりはいつしか、ついに全力を出し切る所まで来ていたのである。 
この「今」という時。双方全ての手の内が明かされ、裸も同然であるという事をお互いに 
自覚した以上、その拮抗を上回るのは技術でも、力でもない。 
レラは思う。 
――気持ち!気概!そう、心で上回ったものこそが勝者! 
全身全霊を傾けた次の一手で、レラは必ず目の前の敵を討たねばならない。 
次の次、そんなものは無いのだ。 
決着の瞬間がいつくるのか、それは自分の動きからか、羅刹丸が先を打つのか。 
正攻法か、はたまた奇策か。 
結末を思い描くだけで、血が逆流する。うねる。たぎる。凍る。煮え立つ。 
レラは、二人を結び付けている刃と刃のただ一点にまで血潮が巡り、お互いが抱いている 
あらゆる感情がそこでぶつかり、渦巻いているように感じた。 
体表を痛みとともに滴り落ちる血液が、毒の霧に咽ぶ地面の下で羅刹丸の落とした血液と 
混ざり、混沌としたこの闘いの場を生み出している……そのようにも感じられた。 
レラは、羅刹丸の赤く濁った瞳を見つめた。 
丸く湾曲した中に、張り詰めた戦士の表情をした自分の姿が映っている。 
まるで、羅刹丸の中に、自分がいるかのように。 
それは、自分の瞳の中にも同じことが言えるのだろう。 
この闘いの後にも、勝者の心の中で、敗者の魂は生きるのだ。 
「安心して死ぬがいいわ」 
レラが、ぽつりと言う。 
「貴方ほどの戦士がいて、そして悪はやはり滅びたと……わたしが語り伝えるから」 
「言っておくがな、俺は死なねェぜ」 
「ついに最期まで、事実を認めようとしなかったわね。あなたはそれを望んでいるのに」 
「そうかいそうかい。わーったわーった」 
平行線の話にこれ以上傾ける耳は無い。羅刹丸はそうとでも言いたげにため息をつき、 
こう言った。 
「だがな、人の事をなんやかんや言う前に……姉ちゃん。テメーの『事実』ってのにも 
気づいた方がいいんじゃねえのか?」 
「何を言ってるの?」 
「かぁー、あんだけ人にコーシャク垂れといてそんでテメーの事はわからねえってか!」 
率直に問うレラに、羅刹丸が首をぬっと伸ばし、突き合わせた顔をさらに近づけて言う。 
「ヒトサマやら、何て言ったか、あー……アイヌうんちゃらのために自分は闘ってるんだ 
なんて嘘っぱち、とっとと捨てろって言ってんのさ」 
耳を通して聞いた事を、レラはちゃんと思考に通し、それで答える。 
「ダメね。やっぱりあなたが何を言っているのかわからなかった……最期まで」 
「そうか?要はな……姉ちゃんは欲求不満なんだよ。そのはけ口が殺しなのさ」 
「私は満たされているわ。あなたを討とうとしている今、何に不満を感じるかしら」 
「そこさ、そこ」 
羅刹丸が濁った眼をぎょろりと動かし、指し示そうとしているものを瞳に収めた。 
「マ○コさ」 
瞬間、レラは忘れかけていた激情が、胸の中にごうっと音を立てて蘇るのを感じた。 
「……もう少し、まともな命乞いを考えるべきだったわね!」 
羅刹丸に対して抱いていた同情など、跡形さえ残さない程の勢いだ。 
「戦士としての誇りを嘲ったあなたに、もう勝ち目は――」 
 
「姉ちゃんはよ、気持ちよけりゃあ相手は誰だっていいんだろォ?」 
 
「なっ――」 
 
轟音を立てるほどにみなぎっていたレラの怒りが、胸を突き抜けるつむじ風にかき消えた。 
「なァ、そうなんだろォが。オイ」 
羅刹丸のどろどろにぬかるんだ瞳が、こぼれ落ちるのではないかというぐらいに大きく見開かれる。 
「何せこの屠痢兜がマ○コに近づいた途端よ、姉ちゃんのソコから雌の匂いがぶわ〜っと 
立ち上ったからナァ」 
羅刹丸の赤黒い瞳が、さらにぎょろりと剥かれた。レラの全身を、余すところなく見ている。 
レラは誘われるように、その瞳の奥にある世界を覗き込んだ。 
羅刹丸の中で生きる、自分の姿を。 
そうしてレラは目を疑い――その目を離すことが出来なかった。 
そこには、裸のままでうつ伏せた女の後ろ姿があった。 
寝そべって尻を突き出し、はしたない蜜に濡れそぼった局部を自らの指で割り開き、鮮やか 
に充血した内壁を見せ付け、艶かしい笑みで羅刹丸の「男」を迎えようとしている―― 
犯されるだけになった、犬のような自分の姿が。 
 
――うそ。 
 
一瞬の放心だった。 
その瞬間、ありったけの力で羅刹丸に立ち向かっていたチチウシが、ふっと軽くなった。 
レラはそのまま、支えを失ったかかしのように、前へと傾いた。 
レラの前には、さっきまで視界の全てを覆い、力を比べていた羅刹丸の瞳はおろか、 
その姿さえ無かった。完全に消えていた。 
 
「もらったアァァァァァ!」 
 
敵の不在を視覚が情報としてレラに届けると同時に、羅刹丸の声が見えない位置から聞こえた。 
 
頭上。 
 
――しまっ……た。 
 
そう思えるのが不思議だった。後悔する余裕があるのが不自然とさえ思えた。 
この瞬間は、レラにとっておとずれるはずなど無かったのだ。 
少なくとも、この闘いにおいては。 
完全に姿勢を崩し、敵の姿を捉えられぬまま、無防備な全身をさらす瞬間など。 
即ち、紛れも無い「死」の瞬間など。 
腕力は、覆し難かった。だが技量では、こちらが勝っていた。 
それでこそ生まれた拮抗だった。 
レラは正直に認めている。 
――羅刹丸は、偽りなしに強かったわ。戦士だった。 
しかし。それでもまさか。 
戦士の中の戦士の魂、その化身とも言うべき自分が、 
全身全霊と言うまでも無く、己自身そのものが刃であるはずの自分が、 
闘いの果てに見た、自分の真の姿が―― 
 
――私は……あんな、淫らな女、いえ……「雌」だったっていうの?! 
 
背中に、思考さえかき消す激しい空圧。羅刹丸の屠痢兜が迫っているのだ。 
重く暗い魔界の霧が漂う地面に、レラは吸い込まれるように倒れた。 
 
「死にやがらあぁ……らッ?おっ、何だッ?な、て、テメェ!?」 
 
だが、地面に倒れたレラが感じたのは、背中を貫通する刃の感触でも、喉を焦がす自分の 
断末魔でもなく、羅刹丸の浮き足立った怒声だった。 
反射的にレラは横に転がって仰向けとなり、空中へ迎撃の姿勢を整えた。まだ生きている。 
――そ、そうよ!まだ終わってないわ!惑わされてはいけない!! 
ばらばらになりかけた精神を統一し、ぐっと意識を広げて森の中を見渡す。 
「テメ、この、畜生!コラーっ、放しやがれ!!」 
先ほどよりもずっと高い所から羅刹丸の叫び声が響き渡り、レラは斜め上を睨む。 
「これは一体……何事?」 
異様な光景に、レラは思わずひとり言をつぶやいていた。 
刀を振り降ろそうとしている羅刹丸が、空中に漂ったまま、落ちてこないのだ。 
あたかも見えない糸に吊られているかのように、紫の霧の中に留まってしまっている。 
さらに驚いたことには、その下の木々の間に、見たことの無い人影が立っていた。 
いつからそこにいたのだろう。伸びやかな長身を、金の刺繍が入った鼠色の晴れ着で包んだ 
その男は、金色の瞳で空中でもがく羅刹丸を見上げている。端正な顔立ちもあってか、男は、 
アイヌモシリのものとは思えない、異質な高貴さを匂わせていた。 
だが男の高貴さ以上に、レラは男の小脇に抱えられた子供に目を奪われていた。 
「り、リムルルっ?」 
「こらてめェ、シカンナカムイっ!さっさと降ろせ!!邪魔すんじゃねェぞおぉァ!」 
「シカンナカムイ……さま?!」 
羅刹丸の口から飛び出た名前に、レラは横から殴られたような衝撃を受けた。 
名前をつぶやくのが精一杯のレラに、長身の男が金の視線を向けて薄い唇を開く。 
「左様……我こそはシ」 
「降ろせこん畜生がアァァァァァ!!」 
「騒々しいっ!口を挟むでないわ」 
シカンナカムイが苛立った口調で言い、瞳の奥にぱちっと小さな光が生まれた途端、 
「うげひゃああああああッッッべべべべべ」 
羅刹丸が意味不明な言葉を発しながら、空中で妙な具合に踊り始めた。 
「びびびびぃびびぃびびびびぃ、びっ、びっ、びいびびびびー び 」 
手入れの悪い髪が逆立ち、身体の上を蛇のような電撃がのた打ち回っている。感電だ。 
「むう、口を封じようにもうるさい奴よの……加減がわからぬ。不死なればなおの事」 
「あのう……」 
「左様。あの男が言うた通りよ。我こそはシカンナカムイ。お前はレラ、だな」 
「は、はいぃ!」 
大いなる天空のカムイに名を呼ばれ、レラは慌てて正座し、地面に額を擦り付けた。 
普段から、山の尊いカムイであるシクルゥと生活を共にしているレラだが、アイヌモシリで 
人の姿をとるカムイに出会ったのはこれが初めてだった。 
「いつまで頭を下げておるつもりかの?」 
あまりの光栄と喜び、そして魔人に屈するという大失態を演じたレラは、指摘を受けても、 
座って頭を下げたまま動くことができずにいた。 
激しい鼓動に邪魔をされ、どう返事をしたら良いのかさえ分からない。 
「も……申し訳、ございませんっ」 
この一言をひねり出すのがやっとだ。 
「何を謝っておるか?」 
「そっ、その、このような神域で、私は自らの役目を果たせずっ、その男に……」 
「そうよの。我が手出しせねば……お前は羅刹丸に斬られ、今頃は屍よ」 
凄みを増したシカンナカムイの声を聞いたレラは、背が凍る思いだった。勝手に身体が 
縮こまる。ますます頭を上げられない。 
「しかしお前には、今死んでもらっては困るのだ、我は」 
「も、勿体無い……お言葉です」 
「もっとも、死んでもらって困るのはこの羅刹丸も同様である」 
「えっ?それは、どういう……」 
聞き返すと同時に、丸焦げにされた羅刹丸が、シカンナカムイとレラの間に落ちてきた。 
真っ黒な顔に引きつり笑いを浮かべたまま、ぴくぴくと痙攣している。相変わらず死んで 
いないが、闘える状況ではないのは明らかだ。 
「シカンナカムイ様、今こそ好機です!」 
レラは正座のまま顔を上げ、興奮に満ちた声でシカンナカムイに言った。 
「早く、その男に止(とど)めを!戒めの落雷を!!」 
「止め?」 
シカンナカムイが長いまつ毛をしばたかせた。 
「何故、我がこの男に止めを刺さねばならぬ?」 
「はっ、も、申し訳ございません!」 
レラはようやくシカンナカムイの意を理解した。何と慈悲深いことだと思った。 
チチウシを握り、すっくと立ち上がる。 
「魔を討つのは、アイヌの戦士の役目だとおっしゃるのですね!有難き幸せ!」 
しぼみかけていた自信が、愛するカムイ直々の命を受けて蘇るようだった。 
「今そちらに参ります!返り血を浴びましょう、お離れください!」 
「分からぬか。こやつに止めは要らぬと……殺すなと言うておるのだ、我は」 
「な、そんな……シカンナカムイ様、お戯れを!その男は魔界の刺客です!!」 
「我が盟友を、刺客呼ばわりするか?」 
「盟友?!ご冗談はおよし下さいっ!」 
シカンナカムイの口から次々と紡がれる困惑を払うように、レラが叫ぶ。 
そして自ら止めを刺そうと、黒こげの羅刹丸に近づこうとした、その時だった。 
 
じゃらっ……ぎちっ! 
 
連なるような金属音が耳元で軋み、直後、レラは後ろに首を思い切り引っ張られた。 
「――ッ!?かはっ!」 
音の正体は鎖だった。血の匂いを放つ鉄塊が首に三重にもまとわりつき、レラは細い首を 
きりきりと絞り上げられた。 
「……ぁ……ぐぁ!」 
背後からの強襲に、首と鎖の間に指を滑り込ませることも出来なかった。苦し紛れだったが 
せめて敵の姿をと、レラは後ろを振り向き、そこで絶句した。 
「――ナッ……コ……ルル……うあッ!?」 
「勝手に私の名前を呼ばないでくれるかしら。巫女の名を、何だと思っているの」 
ナコルルは両手に巻きつけた鎖をぐいと引っ張り、レラの言葉の続きを奪った。 
「戦士の皮を被った色情狂の雌犬に、そんな権利は無いわ」 
感情などというものとは、およそかけ離れた冷笑を浮かべ、ナコルルが言う。 
「汚らわしい。私の魂がこんな雌犬と一緒だったかと思うと、反吐が出るわね」 
「う……ぐ……ナコルル!あなた……!」 
「名前を呼ぶなって言ってるでしょう?ほら、雌犬は雌犬らしくなさいよ」 
ふらふら詰め寄ろうとするレラの右足元に向け、ナコルルは片手に余らせていた鎖を解き、 
びゅんと音を立てて放った。 
その攻撃は、レラが羅刹丸の旋風波で受けた深い傷をしたたかに打ち払った。 
「ぐああっ……ひぃうー」 
倒れた勢いで首が更に絞まる。レラは地面をのたうった。 
「はははは!お似合いよぉ、レラ。さあ、死ぬまで散歩なさい。犬らしく四つんばいでね」 
「これ、止めぬかナコルル。殺してはならぬ」 
ナコルルの冷笑が、シカンナカムイの一声でぴたりと止んだ。表情さえも完全に失われ、 
鎖を引く力も、すっと弱くなる。 
「――っは!げほっ、げほげほっ!」 
窒息寸前だったレラはうずくまったまま、思い切り咳き込んだ。 
もはや何が起きているのか、分からない。一体、これは現実なのだろうか? 
――羅刹丸が盟友?ナコルルが立っている?シカンナカムイ?? 
――それに……リムルル!あなた、何があったの?? 
酸欠気味の頭の中を情報が行き来するが、一向に結論は出ない。 
きりきりに締め付けられた首が痛む。全身に浮かぶ脂汗が、傷口にしみる。打ち据えられた 
右足など、既に感覚が失われ始めている。 
そんな状態のレラに出来るのは、チチウシを手放さないことだけだった。 
「何もかも、わからぬといった表情をしておるな……レラ、いや、雌犬よ」 
「あなた……何者……なのっ」 
犬と呼ばれる事に反論することも忘れ、レラは敵意の視線を男に向けた。 
「我はシカンナカムイと言うておろうが。犬の躰に鳥の頭かの?まあよい」 
嫌味なまでにしなやかな銀髪をかき上げ、シカンナカムイがひとり小さく頷く。 
「雌犬よ、お前は人間を守る最後の盾。さすれば……これよりこのアイヌモシリに起こらんと 
している事を知る権利がある」 
「何をするつもり!」 
「教えてやろう。我らカムイの崇高なる理想……」 
 
「そう……今こそ」 
 
巨木の葉が風に揺れ、そのざわめきに混じるように別な声が森の中に響く。 
 
「我らカムイの楽園を……今こそ」 
また別な方から、新たな声色。ざわめきと声は、木々の数だけ増えてゆく。 
「アイヌモシリと全ての人間は……我らが盟友たる魔界へと降らん」 
「ナコルルありし今、人間は、その役目を終えたのだ」 
「楽園だ……」 
「楽園は、すぐそこだ……!」 
「よきかな……」 「よきかな……!」 「よきかな……!!」 
 
森の中に、波のように迫る声、声、声。 
 
「心して聞くがよい、最後のアイヌの戦士よ」 
 
森中を反響する声に囲まれたレラに、シカンナカムイが静かに言った。 
「これがカムイの総意。我らの導き出だした、人間たちへの結論なのだ」 
シカンナカムイの顔は、おぞましいほどの残虐な笑みで満ちていた。 
 

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