「ここは・・・」  
目を覚ました俺は、一面の銀世界の只中に独り立っていた。  
空からはちらちらと粉雪が優しく舞い降り、どこを見ても、  
首を回しても、辺りの様子は変わることが無い。しかし、  
自然と不安を感じることはなかった。それどころか、  
大いなる純白に抱かれたことに、妙な安心感さえ感じる。  
「・・・」  
別に何の考えがあるわけでもなく、舞い落ちる粉雪の中、  
俺は何かに導かれるようにざく、ざくと歩を進めた。  
「ちゃんとここまで来れたのですね」  
変わらぬ白い風景の中、ふいに後ろからおっとりとした女性の声がした。  
振り返ってみると、俺の足跡の上、さっきまで何も無かった部分に、  
白い雪化粧を施された一本の背の高い樹が、ぽつんと立っていた。  
「リムルルを助けていただいて、本当に感謝しています」  
声とともに、樹の後ろからゆっくりと、樹肌に手を滑らせながら  
声の主が姿を表した。それは、背中のあたりにまで伸びた艶やかな  
銀髪を、やわらかになびかせる女性だった。見た目は俺と同い年か、  
少し年上ぐらいだろうか。背は少し高く、白く透き通るような肌を、  
これまた白い下地に水色の刺繍を施した、豪華なアイヌの晴着で包んでいる。  
背の高さを強調する流れるような体のラインには、女性らしさを  
演出する豊満な胸がたわわに実り、その胸元には、数珠状の  
ネックレスがきらりと輝いている。だが何より驚くのはその美貌だ。  
優しそうなお嬢さんといった雰囲気を漂わせる整った目鼻立ちに、  
少し太い眉。そしてその眉の下で、重たげな二重のまぶたに  
収められた青い瞳が、白い世界の中で自らの存在をさらに  
強く示すかのように、深く輝きながら俺を見つめていた。  
「あ、あなたは・・・?まさか」  
白く積もった雪の上を俺の方へと向かってくる女性に、俺は声をかけた。  
「初めまして、コンルです」  
「やっぱり・・・!は、はじめまして」  
 
おろおろとする俺を前に、女性は深く礼をした。姿勢を戻すと、  
ちょっと垂れ目気味の目を細くしてにこやかな笑みを浮かべ、  
あらためて薄紅色の唇を開いた。しゃべり方はいたってスローだが、  
独特の上品さがある。  
「驚かせてしまってごめんなさい。ここは、あなたの夢の中」  
「え、夢?しかし、コンル・・・さんも、本当は人の姿をしているのか」  
「コンル、と呼んでいただいて結構です。こうやって私本来の姿で  
あなたに会えるのは、人間の夢の中、ここだけなのです。そして、  
私の姿をちゃんと捉えることが出来るこの時代の人間も・・・」  
ここまで聞いて、リムルルの言っていたことを思い出す。  
「俺が選ばれた、ってのは・・・つまりそういうことなんですか?  
俺だけにあなたを捉えることが出来るから?しかしなんでまた・・・俺?  
霊感とか全然ないし」  
「あなたが特別な力を持っているとか、そういう理由ではないのですよ。  
あの晩・・・あなたがリムルルと出会った晩です。私は一つの賭けに出ました。  
というのも、リムルルを牢屋から助け出したことで、力が限界に  
達していたのです。こちらの世界で姿を保つことが困難になる前に・・・  
私が居ない間、リムルルを守ることが出来る人を見つけ出す必要がありました。  
「そういうことだったんですか・・・」  
「ふふ・・・大変な悪天候だったでしょう?その中を、雨具も使わずに  
走り回っていたのはあなただけでした。ありのままを受け止められる  
心を持っている証拠です」  
「え、いや・・・別にあれは。傘無かったし、バスが面倒だっただk」  
「そんなあなたを見つけ、私はあなたの目の前に落ちた。  
普通なら逃げ出すでしょうね。けど、あなたは逃げなかった。  
強い勇気を持っている証拠です」  
「う〜ん、勇気っていうか・・・あれだけ綺麗なら逃げようもn」  
「そして、臆することなく、あなたは私に触れたのです・・・この手で」  
コンルは俺の手首を握り、すっと胸元近くまで導きよせると、  
その豊かな胸に俺の手のひらを押し付けた。柔らかい弾力とともに、  
俺の手がむにゅっと埋まってゆく。  
 
「えっ、あの、ちょ・・・柔らか・・・じゃなくてそn」  
「あぁ・・・あのときと同じ。慈しみに溢れる、温かい心が  
伝わってきます・・・私の目に、狂いはなかったのですね」  
「き、聞いてます?俺の話」  
瞳を閉じて、ほう、と色っぽく白い息を漏らすコンルに、ちょっと  
恐縮しながらもすかさず俺は話しかけた。さっきから俺の言葉は  
遮られっぱなしだし、言っていることもやっていることも  
イマイチとんちんかんなコンルに、俺は何だか不安を覚えたのだ。  
「あの・・・コンル?」  
「・・・・・・」  
「・・・え?」  
「・・・・・・・・・はい、なんでしょう」  
かなりの間があって、コンルはやっとまぶたを開くと、  
首をかしげてにっこりと笑いかけてきた。  
「・・・な、何でもないんです。それより、腕を・・・」  
「あ、失礼しました」  
目を細めたまま、何事も無いように俺の腕を放すコンル。  
『こ、この人は、俗に言う天然なのか』  
俺の周りにも色々変なヤツはいるが、ここまで抜けている感じの  
人は初めてである。だが、その笑顔のあまりの罪の無さに、  
俺は自分が選ばれたことなど、もうどうでも良くなっていた。  
「・・・それで・・・何か?」  
苦笑いを浮かべて下を向く俺の顔を、コンルは覗き込んでくる。  
「はは・・・いえいえ、ホントに何でもないんですよ」  
「あらぁ、分からないことがありましたら、何でも聞いてください?  
ほら、これからあなたはどうするべきなのか、とか」  
「! 何でそれを・・・って、あれ?」  
にこやかな顔のままのコンルの口から発せられたどきりとする言葉に、  
俺は慌てて顔を上げる。すると、一面の銀世界はいつの間にか  
闇に沈む森の中へと姿を変えていた。  
 
「こっちだ、急げ」  
「はあっ、はあっ・・・うん!」  
その闇の向こうからささやき声がして、木々の間をすり抜けて  
男があっという間に俺達の前に現れた。そしてそのすぐ後ろから、  
男に離されるまいと懸命に後を追う、小さな子供がひょいと飛び出す。  
月明かりに照らされる男の顔は、何とも凛々しいものだった。  
闇の中、僅かな異変さえも見落とさんとばかりに鋭く見開かれた目。  
背は高く、その腕は丸太のように太い。肩まで無造作に伸ばした髪と  
顔の半分を覆うひげが、その雄雄しい姿にさらなる迫力をもたらしている。  
後ろから着いてきた子供は、幼稚園生ぐらいだろうか。  
声の調子からして、どうやら女の子らしい。しかし子供とは思えない  
きりりとした表情で、男と同じように辺りに目を凝らしている。  
だがおかしなことに、この二人は俺達に気付いてはいないらしい。  
「こ、コンル・・・これはどういうこと?」  
「これは、私の記憶です。リムルルに関する・・・」  
そういわれて見ると、確かに女の子はリムルルだった。  
くりくりとした眼と小さな口は、この頃からあまり変わって  
いないような印象を受ける。だが、頭に巻いた鉢巻の結び目で  
揺れるリボンは、子供らしく今よりもずっと大きくて可愛らしい。  
そしてその傍らには、氷の姿のコンルがふわりふわりと揺れていた。  
「こんな小さな頃から、一緒だったんだ・・・」  
俺の問いかけに、自分と小さなリムルルを懐かしそうに  
見つめるコンルが黙って頷いた。  
「とうさま、あいつらずっと遠くだよ?追いつけないよね!」  
そのリムルルが、小さな声で男にささやく。  
「え、とうさま・・・って」  
「えぇ。あれが、リムルルのお父様です。素敵な方でしょう?」  
驚く俺に、コンルは平然とした口調で付け加えた。  
 
父親がしゃがみこみ、大きな手をリムルルの両肩に乗せる。  
「リムルル、いいな?お前はカムイコタンへ行くんだ。  
行き方はわかるだろう?」  
「うん!」  
「そしてこの夜盗の事を誰でもいい、伝えるんだ。助けに来てもらえ。  
俺は先に戻って皆を叩き起こす。いいな?」  
「うん、とうさま、気をつけてね!」  
「コンル、リムルルを頼んだぞ」  
コンルが、きらりと月の光を返した。  
「さぁ、急げ!」  
「はい!コンル、行くよ!!」  
リムルルは立ち上がり、ぽんと父親にお尻を押されると、  
抜けてきた方向とは別な向きへと駆け出した。  
「急がなきゃ!急がなきゃ!!」  
カムイコタンを目指し、リムルルは驚くほどの速さで駆けて行く。  
朽木を飛び越え小川を飛び越え、道なき道を行くリムルルの瞳は、  
まさしく使命に燃えていた。  
「え、けど待てよ?リムルルの故郷はカムイコタンで、  
親父さんが戻っていったのは・・・?」  
「リムルルとお父様は、様々なコタンを転々としていました。  
言わば放浪の生活を送っていたのです」  
「ほうろう・・・」  
「はい。お父様の話では、リムルルが生まれた頃に住んでいたコタンは、  
疫病で全滅してしまったのだそうです。残念なことに、その時に奥様も・・・。  
その後移住しようとした周辺のコタンも、すでに病魔に蝕まれた後だったそうですよ」  
「その中で生き残ったのが、リムルルと親父さんてわけか」  
コンルは、深々と頷いた。昔はよく疫病とかがあったらしいが・・・  
「お父様は、持ち前の腕力と狩りの才能、そして人望があったのですね、  
どんなコタンへ行っても、人々に温かく迎えられたようです」  
「確かに・・・あの一瞬でも、すごい感じがしたよ」  
 
「そんな放浪生活をしばらく続けていたそうなのですが・・・成長した  
リムルルのために、腰を落ち着けることにしたのだそうです」  
「それが、カムイコタンのすぐ近くだった、と」  
「はい。私がリムルルに出会ったのもこの場所です。森の中で迷子になって  
泣いているリムルルを、コタンまで導いてあげたのが始まりでした。  
片親のリムルルの、母親にでもなったような気持ちとでも言いましょうか・・・」  
少し遠い目をしながら、コンルは淡々と話した。  
もう何分も走り続けているが、息を切らす気配さえないリムルルが  
急に向きを変え、ずぼっと草むらの中に入った。すると、  
ふいにぱあっと景色が広がった。森を抜け、高台に出たのだ。  
なだらかに続く長い崖の下には、月明かりに照らされた集落が見える。  
「あ、見えたよ、コンル!お―――い!大変だよぉー!!」  
あたりに響き渡る大声を張り上げると、かなりの落差があるにも  
かかわらず、リムルルはためらいもなく崖へとジャンプした。  
それに続くコンルがばきばきっと音を立て、一瞬で簡単なそりの  
形へと早変わりし、リムルルの足元に滑り込む。  
「よいしょ!いっけー!コンル!!」  
シャアァァァッと気持ちの良い音を立て、リムルルを乗せたコンルは  
あっという間に崖を下りきった。大声を聞きつけ、崖のふもとには  
すでに大人達が集まっている。その目の前にリムルルは駆け寄った。  
「どうした?ん、嬢ちゃんは確か・・・」  
「リムルルだよ!そ、それより大変たいへん!『やとう』だよ!」  
「何!」 「夜盗だと・・・」 「例の奴らか・・・?」  
程なくして、ざわざわと騒ぐ人垣が割れ、ひときわたくましい男が現れた。  
その後ろからは、杖を突く老人がゆったりと男の後に続く。  
「夜盗が来たのだな?ついにこんなところまで・・・」  
「うん、とうさまは先にコタンへ戻りました。あたし、  
助けを呼べって言われて来たんです!はやくはやく!」  
全てを知っているかのような大男に、リムルルはコタンに迫る危機を  
慌てた表情で伝えた。  
 
「そうか。リムルルよく頑張ったな・・・首長?」  
「うむ」  
首長と呼ばれた老人が頷くのを確認すると、男は身をひるがえし  
大声を張り上げた。  
「川下のコタンに夜盗だ!男衆は全員、応援の準備!!急げ!!」  
わっと人垣が散り散りになり、にわかにコタンが騒がしくなった。  
だが、こんな真夜中だというのに統率が取れている。  
あっという間に、思い思いの武装をした男たちが集まった。  
その男たちが輪になり、何やら話し合う。  
「うむ、よし・・・では手はず通りに。行くぞ」  
ぞろぞろと、いくつかのグループに分かれた男たちが闇夜に  
吸い込まれていった。その後姿を見送っていたリーダーと  
おぼしき男が、長の老人に話しかける。  
「では、俺も行って参ります。この子をお願い・・・」  
「やだっ!あたしも行くよ!!」  
「リムルル、戦いは危険だぞ?」  
「とうさまが闘ってるんだもん!それに、コンルがいるもん!」  
「だがなぁ、しかし・・・」  
「連れていってやりなさい」  
老人が男をいなした。頑として聞かなかったリムルルの顔が明るくなる。  
「仕方の無い・・・よし、遅れるなよ!」  
「うん!おじいちゃん、ありがとう!!」  
ひらひらとリムルルは手を振ると、疾風のごとく駆けてゆく  
男の後を追った。大きな河川沿いに音もなく行軍する一行  
の背中が近づいてくる。どうやらこの行き方が最短のようだ。  
「皆、無事だと良いが・・・!」  
男の一人がつぶやく。  
「とうさまがいるから!ぜったい、ぜったいに平気だよ!」  
「お、おぉ、嬢ちゃんか。うむ、そうだな」  
突然後ろから響いてきたリムルルの自信たっぷりな言葉に、  
男が笑いながら相槌を打った。  
 
「なぁ、コンル?さっきあの人が『ついに来たか』みたいなことを  
言ってたけど・・・」  
俺は、リーダーを指差しながらコンルに尋ねた。  
「はい。この頃、周辺のコタンが次々に襲われる事件があったのです。  
どのコタンも皆殺しにされ、金品や食料を荒らされていました。  
その侵攻の向きが、徐々にこちらへ向かっていたということで、  
皆、警戒を強めていたのです。カムイコタンの周りで、こんなことは  
今まで起きたことが無かったのですが・・・」  
「よし、止まれ」  
先頭を切っていたリーダー格の男が、制止をかける。  
「この林を抜ければすぐそこだ。散開し、一気に包囲・・・んむ?!」  
指差す林の向こうから、一筋の光が空に向けて輝く。そして。  
「きゃ!」  
「うおぉぉっ?!」  
強烈な閃光がほとばしり、辺りが光に染まった。眼がつぶれるほどの光に、  
全員が身をかがめ顔を覆った。程なくして辺りは何事も無かったかの  
ような元の静寂に包まれたが、あまりの出来事に誰一人動き出すことが  
出来ない。その中で、先陣を切ったのは他でもないリムルルだった。  
それに、リーダーの男が続く。  
「とうさまー!」  
「動けるものはリムルルに続け!」  
走り抜ける木々の向こうに、コタンが見えてくる。  
「とうさまー!・・・え、な・・・なに、なにこれ・・・!」  
 
林を抜けた先。そこに、リムルルが愛するいつものコタンの姿は無かった。  
点在する家々からは、見たことも無い不気味な白い火の手が上がり、  
もうもうと煙を上げて炎上している。そしてその明かりに照らされ  
暗闇に浮かび上がるのは、地に伏せ動かなくなった、焼け焦げた人々の姿。  
「や、いやぁぁ・・・なんで、なんでぇ!とうさまー!!」  
泣きながら父を呼ぶその声に返事をするのは、黒焦げになった木材の  
ぱち、ぱちと爆ぜる音だけだ。  
「この僅かな間に、こんな馬鹿なことが?!」  
男が叫ぶ。そうだ。まだ山の中にいたリムルルが、カムイコタンを  
経由してここまで来るのに30分とかかっていないはずだ。  
にもかかわらず、火災に備え各家の距離は十分に設けられている  
というのに、ここから見える全ての家に、火の手が回っているのである。  
「しかも・・・なんだこの炎は・・・ん、リムルル?」  
「とうさまぁ〜!!うぐっ、とうさまぁ!とうさまぁ!!」  
「あっ、こら!リムルル!戻れ!!」  
燃え盛る炎はリムルルの理性をも消し炭へと変えていた。  
男の腕を振り払い、リムルルはコタンの中心へと走り出した。  
ばらばらと飛んでくる火の粉を払い、無我夢中で父の姿を探す。  
むごたらしい風景と臭いにむせながらも、その足が止まることはない。  
「・・・! ・・・!!」  
ふいに、汗が吹き出そうに熱い風に乗せて、誰かが叫ぶ声が聞こえた。  
「はっ、と、とうさま?!」  
誰のものかも分からない声を父のものと信じて疑わないリムルルは、  
その声の方、まだ火の手が回っていない首長の家へと向きを変えると、  
再び走り出した。家の横手から覗き見るリムルルの視界に  
飛び込んできたのは、乾いた金属音を響かせ、火花を散らしながら  
刃を交える二人の男の姿だった。  
 
「とうさま!」  
つばぜり合う男の片方は、確かにリムルルの父親だった。  
娘の声に気付いたか、死闘の最中だというのに一瞬こちらを振り返る。  
「リムルル、リムルルか?!来るなー!来るんじゃない・・・ぞッ!」  
父親は大声で怒鳴ると、夜盗に向かってぐっと刀を押し付け、  
よろめいた所を横から切りかかったが、その攻撃は夜盗の胸元をかすめ、  
だぶつく服をびっと切り裂いただけであった。しかしその軽い攻撃に  
反して、男は地面にぐしゃっと潰れるように倒れこんでしまった。  
「はぁ・・・はぁ・・・」  
間合いが開いたのを確認し、父親は肩で息をしながら  
重そうに刀を構え直した。  
「ウェンカムイなんぞに・・・魅せられおってぇ・・・」  
ぜえぜえと息をしながら吐き捨てる言葉。当然ながら  
その言葉の矛先は、倒れたままの夜盗と思しき男に向けられていた。  
盗人のススだらけになった粗末な服が、ばたばたと風に揺れている。  
別段おかしなところはない。だが、その獲物だけが不可思議な  
形状をしていた。血塗れの刃。反りの無い直剣の類のようだが、  
切っ先が無い。まるで、途中で折れているかのようだった。  
視線を、二人の男の間を行ったり来たりさせていたリムルルだが、  
父の闘いを前に長老の家の横で立ちすくんでいた。  
その父が、再びリムルルに顔を向けて叫ぶ。  
「まだいたのか!早く!早く逃げろ!!」  
だが、その声に反応したのは倒れていた夜盗の方であった。  
操り人形のように四肢をずるっと地面に引きずりながら立ち上がり、  
いや、立たされているのか、その刀をリムルルの方へと思い切り  
投げつけたのだ。ガスッという音とともに、刀が家の屋根に突き刺さる。  
「リムルル!家から離れなさい!!」  
父の声にリムルルが振り返ったときには、既に長老の家は轟々と  
音を立て、屋根のほうからさっきと同じ白色の火の手が回っていた。  
 
「え・・・や・・・やぁ・・・うわ〜ん」  
度重なる恐ろしい光景が、リムルルの幼い心を踏みにじる。  
リムルルは力が抜けたようにへたんとその場に座り込むと、  
天を仰いで泣き出してしまった。  
「リムルル!逃げろ!!」  
「うぅ〜、怖いよぉ、とうさまぁ〜」  
もはや、父親の声さえ届かない。燃え盛る白い炎が、木造の家を  
あっという間に包み込む。尋常ではない火の手の速さだ。  
がらがらと屋根と壁が崩れ落ち、煙の向こうへとリムルルが霞んでゆく。  
「リムルル――――――!」  
娘がもう動けない状態にある。そう悟った父親は刀を放り出し、  
その身さえ捨てんとばかりに煙の中へと飛び込んだ。がらがらと  
柱が燃え落ち、家が倒れる間一髪のところで、リムルルを抱きかかえた  
父親が煙の中から再び現れた。二人とも無事のようである。  
「リムルル・・・大丈夫か」  
「うぐっ、ひうっ、とうさまぁ〜〜っ」  
「すまなかった、コンル。ありがとう」  
コンルが二人の服に薄い霜を張っていたおかげで、燃え移ることは  
なかったようだ。父親は娘をもう一度ぎゅっと抱きしめると、  
地面に降ろし背中を押す。  
「さぁ、先に行きなさい」  
「うん・・・ごめんなさい・・・」  
とぼとぼと、コタンのはずれの方へとリムルルは歩いていった。  
「走れ!ほら、はやく・・・っ・・・!?」  
だが、背中から急かす父の声が、急に止まる。  
「とうさま?」  
「リムッ・・・・・・ル・・・ぐはぁ」  
リムルルが声の異変に振り向くと同時に、父親は口から鮮血を吐いた。  
少女の背中に戦慄が走る。  
「うぬ・・・ぐ・・・お・・・」  
父親が両手で押さえる自らの胸元には、先ほど家を焼き尽くしたばかりの  
刀が深々と突き抜け、血がだらだらとその刀身を伝い、地面に真紅の池が湧いてゆく。  
 
「リムゥ・・・ル・・・ル・・・!」  
「いや、いや・・・とうさま・・・」  
光を失ってゆく瞳に吸い寄せられるかのように、  
リムルルは膝を落とした父親の元へ再び駆け戻った。  
幼い少女にでも、体に大きな穴が開いてはどうなるかは分かっている。  
父の罠にかかり矢で射抜かれた鹿が、息をしなくなるように。  
モリで突かれた魚が、だらりとその身を動かさなくなるように。  
そして、刃で体を引き裂かれた父が・・・  
「死んじゃやだぁ!とうさま、とうさ・・・ま・・・うわぁ〜!」  
太い腕にしがみ付き、わんわんと泣き声を立てる。  
「ぐずっ、とうさま、とっ、とうさまぁ・・・やだ・・・やだよぉ・・・」  
絶望という名の墨で、リムルルの心は黒く、黒く塗り潰されてゆく。  
溢れかえる涙でびしゃびしゃになった瞳に映るのは、いつでも  
そばに居た父親の顔だけであった。もちろん、父に傷を負わせた者の  
存在にさえ気付くことは無い。ガチャリという、刀剣類独特の  
金属音がリムルルの耳に届くまでは。  
「うっ・・・うぅ・・・??」  
音の方、父の真後ろにリムルルは目をやった。そこには、  
確かにさっきまで倒れていたはずの夜盗が突っ立っていた。  
ぼろぼろの服。やせ細った腕。血と傷にまみれた体。そして、  
ぐらりぐらりと揺れるその土色の顔は、すでに死人のものであった。  
髪はところどころ抜け落ち、頬はこけ、眼球は腐り落ちている。  
動きそうにも無いその骨と皮だけの手が、父をえぐる刀を  
震えながら強く握りしめ、徐々に引き抜いてゆく。  
「あ・・・うぁ・・・や・・・やめ・・・」  
生きている父の命が、死んでいる人間の手で奪われてゆく。  
恐怖と混乱で放心するリムルルの目の前で刀がぐっと抜かれると同時に、  
父親の傷口から血が噴き出し、支えを失った大きな体が、そのまま  
ぐしゃりと血の海にに突っ伏した。真っ青なリムルルの顔に、  
泥が跳ねたようにぱっと鮮血が飛び散る。  
生暖かい感触。そして、力なくリムルルの腕からすり抜ける、父の体。  
 
「・・・・・・・・・」  
もう、リムルルの見開かれた瞳には、何も映ってはいなかった。  
傷口から炎を上げ、白く明るく燃え盛り始める父の体も。  
斬りつけたもの全てを焼き尽くす、やせ細った屍が振り上げる刀も。  
滅びゆくコタンの真ん中で、少女もまた、滅びを待つのみであった。  
父の命を奪った、おぞましい血塗れの刃で。  
「リムルル、何をしているのだ」  
だがその時。聞き覚えのある声が、リムルルの下で響く。  
「ウェンカムイに負けるような、弱い子に育てた覚えは無いぞ」  
白く輝く大きな体が、そびえるようにリムルルと屍の間に立ちはだかり、  
節くれだったたくましい手が、屍の枝のような腕をぼくりと折った。  
おかしな方向へと折れ曲がった腕から、ガラァンと刀が転げ落ちる。  
そう、倒れたはずの父が、再び立ち上がったのだ。  
「俺の娘に手を出そうとした事、悔いるがいい」  
深く低音の効いた声で吐き捨てると、父の手から燃え移った炎が、  
屍の体を一瞬で灰へと変えた。  
「と・・・うさ・・・ま・・・」  
炎に包まれた後姿が振り向き、頼もしい笑顔がリムルルに向けられる。  
だが、リムルルと目が合うと、父は悲しそうにすぐ再び背を向けた。  
「リムルル、すまない」  
その身を焼き尽くそうとした刀を拾い上げると、父は残念そうに言った。  
「コタンは滅び・・・俺に守れたのは、お前だけだった・・・  
すべては、この刀の仕業・・・すべては・・・」  
「・・・・・・」  
「だが、お前を守ることが出来て、俺は幸せだ」  
「とうさまぁ〜・・・あたし・・・独りじゃ・・・独りはやだぁ!」  
「コンルがいるだろう?それに、カムイコタンの人たちがいる」  
「やだっ!やだやだ!!とうさまと一緒じゃなきゃ!!」  
「わがままを言うな!」  
「!!」  
優しい父の声が、一変して怒声へと切り替わる。  
たまらずリムルルは黙ってしまった。  
 
「とうさまは、最後の仕事をする。だから、ここでリムルルとは  
お別れだ・・・そしてお前の仕事は、カムイモシリへと旅立った  
コタンの人々を、ちゃんとした葬式で送ることだ。わかるな?」  
「うぐっ・・・やだよ・・・やだよぉ〜」  
そう言いながらも、もう手の届かない場所へと旅立ってゆく父を止める  
すべを持たないリムルルは、その背中を眺めることしか出来なかった。  
「いい子だ。きっと、母さんのような良い奥さんになるだろう」  
「・・・・・・」  
「リムルル、もう泣くなよ。さらばだ」  
「! とっ、とうさま、とうさまっ!?」  
背を向けたまま立ち去ろうとする父を、リムルルは慌てて  
追いかけようとした。だが、ぐいっとその体が釘付けになる。  
いつの間にかやって来ていたカムイコタンの男衆に、リムルルは  
うしろから押さえつけられていたのだった。  
「離して、離してよぉ!とうさまっ、待って、待ってぇ!!」  
もがき、わめくリムルルの叫びも空しく、父は刀と共に光となった。  
煌々と燃える姿が形を失い、やがてその身体全てが煙となって  
空へと消えゆく頃、焼け跡と人々の亡骸が朝日に染まった。  
「あぁ〜・・・うっ、うぅ・・・とうさま・・・とぉさまあぁぁぁぁ!!」  
地面に突っ伏し、リムルルは悲鳴にも近い泣き声を上げると、  
逃げるように森の中へと走っていった。  
 
あれほどの大惨事の後だというのに、森の中は残酷なほどに静かだ。  
早朝の木漏れ日が新緑を柔らかく照らし、鳥のさえずりが聞こえ、  
よどみの無い澄み切った空気が心地よかった。しかしその風景の中、  
大木の下でリムルルはうなだれていた。泣きはらした眼は真っ赤で、  
苦しそうに胸をつかえながら息をしている。血と煤で真っ黒に汚れた  
顔に浮かぶのは、疲れと絶望だけだ。  
「はぅ・・・ひぐ・・・うっ、うぅ・・・とうさま・・・とうさま・・・」  
小さな口が、うわごとのように父を求めては震えている。  
コンルが心配そうにその周りを回っているが、リムルルの  
目に留まることは無い。膝を抱え込むと、リムルルはもう一度  
静かに涙を流した。  
「・・・・・・・・・」  
父がいない。帰る家も無い。友達も、近所のおばさんも、誰も。何も。  
「もう・・・だめだよ・・・なにもない・・・」  
文字通り全てを失ったリムルルは、その心さえも失おうとしていた。  
「ひとり・・・独りぼっち」  
誰よりも大きく、素直に開け放たれていたリムルルの心の扉が、  
ゆっくりと閉ざされてゆく。無表情な顔はそのまま凍りつき、  
自分の周りに存在する全てと、自らの肉体が意味を失い始めた。  
「ひと・・・り・・・ひとり・・・・・・ひとり・・・」  
半開きの口で、リムルルはうわごとのようにその言葉を繰り返した。  
そうしているうちに、目の前の新緑はすでに何のことは無い、  
記号としての色へと変わった。さえずる鳥の声も、風が揺らす  
木々の音も、今となっては耳に届いていない。  
『もう、だいじょうぶ・・・かなしくない・・・くるしく・・・ない』  
あれほどの悲しみや孤独から、リムルルは既に抜け出そうとしていた。  
あらゆる苦痛からの解放。闇に沈んだ未来との決別。  
それこそが、幼い少女が望むものの全てだった。  
そして今、その願いは成就しつつある。魂という名の代償とともに。  
 
「違うわよ、リムルル」  
だがその時であった。ふいに目の前の緑色が遮られ、  
頭上から聞こえる優しい声に、塞いでいたリムルルが顔を上げる。  
「ふぇ・・・」  
「リムルルは独りなんかじゃないわ」  
黒くしっとりと輝く髪を赤いリボンでまとめた少女が、再び  
リムルルに言葉をかける。朝日に照らされる、声と違わぬ優しい笑顔。  
『なんだろ・・・あったかい・・・』  
絶望に黒く染まったはずのリムルルの心に僅かな光が差し込み、  
あれほど頑なに心の扉に鎖を巻こうとしていた手が、ぴたりと止まった。  
「ほら、元気を出して」  
どういうわけなのだろうか。黒髪の少女のさりげない一言一言が、  
リムルルの中にある「生」をぶるりと震わせる。目に光が戻り、  
心臓がとくとくと高鳴り、弛緩していた身体に再び血液がめぐり始める。  
「でもっ、でも・・・あたし、もうどこにも行けない・・・」  
しかし、突然の優しさにリムルルは戸惑った。どんなに勇気付けられようと、  
独りには変わりが無い。心が蘇り始めたばっかりに、再び突きつけられた  
残酷な現実が重くのしかかると、リムルルはもう一度頭を垂れた。  
「ひとりぼっち・・・なんだもん」  
震える小さな身体を、黒髪の少女がそっと抱きしめる。  
その抱擁が、リムルルの身体を陽だまりの中にいるような、  
柔らかな幸せで癒してゆく。  
「ううん、今日からリムルルは私の妹・・・」  
「へ・・・?」  
予想もしなかった一言に、リムルルは小さく驚いた。  
「うん。今日から私が、リムルルの姉様。ずっと一緒よ」  
「ねえ・・・さま・・・」  
いつしかリムルルの震える両手は、黒髪の少女の背中をぎゅっと  
抱きしめていた。  
「あ・・・ぁ・・・ねえさまぁ・・・」  
「リムルル・・・」  
「ねえさま!ねえさま・・・!!」  
 
大きな眼から、ぼろぼろと歓喜の涙がこぼれ、震える唇がいつまでも  
姉の存在を口にした。リムルルの身体へと怒涛のように流れ込む、  
熱い、熱い優しさの塊。その激流が、ついにリムルルの心を開け放った。  
悲しみ、苦しみ、別れ、絶望・・・避けて通ろうとしたあらゆる全てが、  
再びリムルルの心に飛び込んできた。だが、黒髪の少女から与えられた  
生への衝動が、それらさえも生きるための力へと変えてゆく。  
「リムルル、辛かったでしょう・・・だけどほら、思い出して。  
悲しい思い出はひとつだけ。あとは・・・たくさんの楽しい思い出」  
「・・・とうさまの・・・おもいで・・・」  
抱きしめ合う少女に促され、リムルルの脳裏に浮かぶ幸せな時間の数々。  
「そうだ・・・よ・・・もう、もうっ会えないけど・・・楽しかった・・・」  
「思い出した?だけど、いつまでも泣いていたら・・・」  
別れ際に父が浮かべた、悲しそうな笑顔。そして、遺された唯一の願い。  
『リムルル、もう泣くなよ・・・』  
その言葉が、リムルルの胸を突き動かした。  
「そだ・・・もう、泣かない・・・泣かないよ?」  
「うん、泣いたら幸せも逃げてしまうわ」  
「とうさまと・・・とうさまと、やっ、約束したんだもん!  
ぐすっ・・・あっあたし、泣かない!決めた!泣かないよ!」  
「リムルル、強い子ね・・・」  
「そうだよ!と、とうさまもつよかった!ウェンカムイに勝った、  
つよいつよい・・・とうさまの子なんだもん!だっだからあたしだって!!」  
「そうよ。さ、リムルル。立てるわね」  
「ぐす・・・うっ、うん」  
かなり長い間、リムルルは黒髪の少女に抱きついたまま、その温もりに  
身体を預けていた。しかし立ち上がることを促されると、リムルルは  
すくっと立ち上がり、涙を拭いた。  
「さあ、カムイコタンに行きましょう」  
「ねえさま・・・ずっと・・・いっしょ?」  
「うん、ずっと一緒・・・だから、もう泣かないで」  
「ありがとう・・・ありがとぉ・・・ねえさま、あたし、もう泣かないよ」  
立ち上がった二人はもう一度抱きしめ合うと、森の中を抜けていった。  
 

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