炎邪と共に過ごすようになってしばらくが過ぎた。彼は相変わらず何も喋らない。
大抵、葉月が起きる前に起きだして、ふらりとどこかへ出かけていく。
おそらく、本能のままに町を破壊しているのだろう。
炎邪と葉月が身を寄せている日輪の地からも、どこかしらで炎が上がっているのが見て取れた。
「…何で私…あの人と一緒にいるんだろう…」
今日もまた、東のほうに火の手が上がった。
真っ赤に燃える街の中で、獣と化した彼女の兄は灼熱の炎を身に纏い、歓喜の笑い声を上げるのだろう。
人の命を奪うということが、どんなことかわからないほど子供ではない。
人を殺すな、と説ける程、綺麗な身体ではない。
しかし…平然と人が殺されるのを黙ってみていられる程、大人ではなかったのだ。
「兄さんを…止めなくちゃ…」
固く閉じていた翡翠色の瞳を開き、煤煙にけむる空を見つめる。
悲痛な決意をあどけない顔に宿しながら…。
愛用の短刀と、着慣れた忍び装束を纏い、彼女は走る。
(…皮肉なものね…兄さんが教えてくれた技が、兄さんを止めるのに役立つなんて…)
毎日のように、兄と共に鍛錬を繰り返した身体は、足音や気配を消したまま駆けることを可能にした。
『そうそう。なるべく踵を地面に衝かねぇようにして…膝をバネみたいに使うんだ』
ふいに、かつて、走り方を教えてくれた兄の声が脳裏に響く。
曲がったことが大嫌いで…納得のいかない任務のときは、いつも長に噛み付いて…どこか詰めが甘くて……忍びとしては致命的だったかもしれないが、それでも……
「…火月兄さん…」
葉月は、兄が好きだった。あの、太陽のような笑顔も…抱きしめられた時の陽だまりのような温もりも…。
……そして……
「があぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
突如、獣のような咆哮が大地を震わせる。とっさに、そばの大木に身を潜める葉月。
焦土と化した大地と、見るも無残な姿を晒す焼け跡と…。
人の亡骸らしきものが見当たらないことが、唯一の救いであろうか。
「グルルルルル…」
獣のように、喉の奥で唸りながら、火月が、いや、炎邪が辺りを徘徊する。
破壊衝動が収まらないのだろうか。すでに炭と化した木材を手当たり次第に殴っている。
「………………………………………」
力量の差を考えると、勝負は、最初の一撃で決めなくてはならない。
…気取られてはならない…。
緊張と恐怖で震える手で、葉月は鞘を抜き払った。
「ぉおおぉおおおぉっ!!」
町のあらかたを破壊しつくした炎邪が、再び、虚空に向かって咆哮する。
―…今しか、ない…―
『ごめんなさい…兄さん、ごめんなさい…っ!!』
地を蹴って、葉月が炎邪の背後に躍り出る。
気配を感じてのか、とっさに振り向いた炎邪の胸に白刃を突き立てる。
…ズブッ…
肉を付きさす何ともいえない感触が、腕に伝わってくる。後は、刃を捻り、空気を送り込んで出血死させるだけだった。
しかし…
「う、そ…」
葉月の渾身の力を込めた刃は、確かに炎邪の身体を貫いていた。
もっとも、それは、葉月が狙った心ノ臓ではなく、そこを庇うように差し出された腕の部分だったのだが…。
「…………………………」
呻き声一つ上げることなく、炎邪が腕に刺さった刃を引き抜くと、決して薄いとはいえない刀身を、粉々に打ち砕く。
「………あ……」
粉々に砕けた刀の破片が地面に落ちるのと同時に、葉月もまた、膝から地面に崩れ落ちる。
せめて、切っ先だけでも残っていたのなら、隙をついて兄と自分の首筋を掻き切ることもできたのに…。
「…………………………」
腕からあふれる血潮を拭うこともせずに、炎邪は葉月を見つめていた。両方の目が湛えている感情は、怒りでも、憎しみでもない。
それは、はっきりとした哀しみと、悲しみ。
(…其れ程までに我が憎いか…お前の兄を奪ったこの我が…)
蹲る葉月の肩を掴み、強引に顔を上げさせる。
張り詰めていたものが切れたのだろう。人形のように、なすがままにされている葉月の瞳には、何の感情も浮かんではいない。
「…ワタシヲ、コロシテ…」
虚ろな瞳で炎邪を見つめる葉月の唇が微かに動く。
ふっくらとした頬に、驚くほど優しげな手つきで炎邪の指が触れる。
途端に。彼女の大きな瞳から、ほろりと涙が落ちた。翡翠色の瞳をいっぱいに見開いたまま、壊れた水瓶のように透明な雫を零す。
「…私を、殺して…そうすれば、兄さんのところにいけるから…」
溢れる涙を拭おうともせず、ただ、それだけを繰り返す妹に、どうすれば伝えられるのだろうか。
生きて欲しいということを。
自分のそばで、笑っていて欲しいということを。
火月が葉月を愛していたのと同様に、自分も、葉月が大切なのだということを…。
「…兄さん……火月兄さん……」
うわ言のように兄の名を繰り返す葉月。
おそらく、どんなに言葉を尽くしたとしても、今の妹の心に届くことはないのだろう。
だから。
炎邪は、葉月の唇に、己のそれを軽く重ね合わせた。
言葉が通じないのなら…心を通わせることができないのなら……せめて、身体だけでもいい。
葉月と共にありたかった。
啄ばむような口付けが、次第に深く、むさぼるような荒々しいものに変わっていく。
思っていたほどの抵抗はない。
歯列をこじ開け舌を侵入させると、柔らかな舌を絡めとる。
(…噛み付いてくるかと思ったが……心、ここにあらず、か…)
思う様口腔内を弄び、唇を離す。混ざり合った唾液が、細く糸を引いた。
口の端から溢れ出た唾液を舌先で舐め取ると、そのまま項に唇を押し付け、舌を這わせる。
(…葉月…)
「…ぁ…」
首筋を軽く吸い上げながら、そっと地面に押し倒す。微かに、葉月の口から声が漏れる。
装束はすでにはだけている。
肌にぴったりと密着するようなつくりになっている、素襖色の肌着を爪で切り裂く。
葉月は胸を隠そうとはしなかった。
幼い顔とは不釣合いなほど発達した乳房が彼女の呼吸に合わせてたゆたゆと上下に揺れる。
炎邪は、躊躇うことなくその柔らかな双球に顔を埋める。
…とくん…とくん…とくん…とくん…
規則正しい鼓動の音。熱い血流れる生命の証。
(…お前は、暖かいな…)
ふっくらとした柔らかい胸の感触を感じながら、炎邪は瞳を閉じる。
できることなら、この柔らかさに埋もれ、溶けてしまいたいと思っていた。もう二度と、離れることができないように…。