「雪解け」  
 
 
楓が伊賀の里に来てから既に一年が過ぎていた。  
 
武術を嗜んでいたため「基礎」が出来ていたからか  
半蔵や師の妻であり、甲賀の「くノ一」だった綾女から忍術の指南を受け  
負けず嫌いの気性もあってか、既にそれなりの忍術を身に付けていた。  
 
最初こそは出が花街という事で周りからは疎まれていたが  
元が忍の出でないにも関わらず、短期間でくないの扱いや忍術を身に付けた事や  
学があり、三味や琴、お茶と言った芸事にも秀でた事が幸いし  
里では楓を蔑む者もまだ少なくないものの、「半蔵の伴侶」として序々に認められた  
存在へ変わりつつあった。  
 
 
半蔵がじき里に戻るという知らせを聞いたのはつい先刻のこと。  
早ければ明日の昼刻だという報告を聞き、楓の心は浮き足立っていた。  
 
もう一月も半蔵には会っていない。  
 
一緒になってから遠方でのお役目でこんなに家を空けたのは初めてであり  
乾いた心と身体をやっと潤す事ができる事を想像すると、楓の全身を熱い血が駆け巡る。  
 
「半蔵」の名を持つ者に与えられる屋敷は迷い込んだ外部の者から見れば武家屋敷そのものであり  
家族のいない半蔵は楓を娶るまで一人で暮らしていたという。  
二人で暮らしても充分過ぎる広い屋敷の中で、楓は孤独に苛まされる事も少なくなかった。  
 
翌日のために料理の下拵えを終えた後、床に入り行灯の明かりを消した時点で楓が人の気配に気付く。  
 
「あなた…?じゃないわね。どちら様かしら?」  
 
癖のある長い前髪を掻き分け、目をこらすが半蔵のように夜目は利かない。  
明かり一つない部屋の中、そっと立ち上がると集中して気配を探る。  
その一瞬の隙をつかれ、楓は何者かに後ろからはがいじめにされそのまま布団へと組み伏せられた。  
 
「一晩で良いから今晩は私と…!」  
 
何者かが寝巻きの前合わせの隙間から手を中へと滑らせ、楓の胸を乱暴に掴みあげる。  
荒い息が耳元にかかり、首筋に熱い息とぬるっとした感触を同時に感じる。  
おそらく首に吸いつかれたのだろう。  
 
「いけない人ね…。」  
 
楓は何者かの腕を掴みそのまま身体を回転させ腕に力を込めると  
「バキッ」と鈍い音ととともに何者かがうめき声をあげる。  
 
「そんな…!は、話が違う…!それに体術に長けてる話なぞ…!」  
 
楓は息を整え暗闇の中立ちあがり、手伝いに雨戸を確認すると静かに外に続く戸を開ける。  
開かれた雨戸の隙間から月の光りが差し込み、侵入者を照らしだした。  
 
三日ほど前に総帥にお役目の状況を報告しに来た、地方でお役目を担っている若い忍の男であった。  
 
「今晩の事は忘れましょう。腕を外しましたから、夫や里の者に知られたくなければ  
朝一で里の整体師に治して貰いなさい…ね。  
…先生は他言するような方ではなくてよ。」  
 
「かたじけない。今回の事は何卒お許しを…。」  
 
若い忍の男は深く一礼すると、外の闇へと消えて行く。  
 
このような事は初めてではない。  
伊賀の中では「半蔵の妻は元遊女。半蔵の留守に訪れれば誰とでも寝る。」という噂が一部で回っているという。  
楓の存在を疎ましく思う者達が流布した作り話を真に受ける者達が後を絶たない。  
そして夜這いに来る者達は逆に返り討ちに遭い、自らを恥じて口を噤むため噂だけが一人歩きする事となる。  
 
他の男に身体を許したとあれば不義密通により半蔵の妻という立場を追われる事は間違いない。  
その後添えに伊賀の娘を取り立てるという目論見もあるからであろう。  
 
里に来て「服部 半蔵」という名を継いだ者の存在の大きさと背負っているものの重さを知る事となったのだ。  
 
「消えないわ…。」  
 
昨夜、男に乱暴されかけた痕跡が昼刻になってもくっきりと首筋や胸に残っている姿が姿見に映る。  
 
自分に負い目などない。しかし、痕跡を見れば何があったかは一目瞭然。  
半蔵は有無を言わさず乱暴した男を見つけ出し、自ら闇に葬る事だろう。  
 
しかし、里の者達の結束を重視する伊賀の中で  
一々妻に手を出す者達を構っているようでは伊賀での士気が下がり「半蔵」として下の者達に示しがつかなくなるのは明白だ。  
 
里の意思に逆らってまで自分を娶り、周りから口を出させないよう  
更に危険なお役目を自ら引き受け続けている半蔵に負担をかける事だけは避けたかった。  
 
 
着物を整え、首筋の跡を隠すために髪の毛を下ろす。  
土間に降り草履を足を入れた所で視界に黒と赤の色が目に入る。  
視線をそのまま上に移すと、待ちに待った人物が玄関に佇んでいた。  
 
冬の冷たい空気が家の中へと流れていく。  
 
「今、戻った…。」  
 
最愛の人であり、夫であり、「半蔵」の名を与えられた男である。  
大きな傷を負っている様子はないものの、黒い忍装束には斬った者達の返り血がこびりついている。  
忍頭巾の隙間から見える目は通常の帰還時より酷く荒んでいるようにも見える。  
こんな時はいつもより更に多くの人を斬った後だという事を楓は薄々感づいていた。  
 
 
「あ、あなた…!おかえりなさいませ。私ったら全然あなたの気配に気づかなくて…。  
夕げの支度をしようと思っていた所だけれど、湯の準備の方がよかったかしら…?」  
 
無事に帰還した嬉しさを伝えたくとも、身体の跡が気になりぎこちない出迎えになってしまった事を楓は後悔した。  
せめて夜までは、跡が消えるまでは悟られてはならない。  
 
「湯を沸かしますから、あなたは部屋で休んでいて…。」  
 
忍頭巾と額を覆っている鉢がねが土間の床にどさりと落ちる。  
常人では想像もできないようなお役目を成し遂げた後とは思えない程に半蔵は汗の跡  
ひとつなく、髪の乱れもなく、無表情のまま楓を見つめている。  
 
「留守の間、大事なかったか?」  
 
「あなた?ええ…、いつも通りでしてよ。周りの方達からも良くしていただいているわ。」  
 
肩あてや防具が次々と床に転がり、その度半蔵は楓の前へと歩を進める。  
いつもと様子が違う半蔵に驚きを隠せない楓が後ずさると、玄関の段差につまづき床板に後ろから倒れ込む。  
 
衝撃は無い。細い腰を半蔵の右腕が支えていた。  
ゆっくりと床板に寝かせられると闇のような漆黒の瞳が楓を見つめていた。  
 
「今すぐそなたが欲しい。」  
 
そう言い終えるか否かのうちに半蔵は楓の着物の裾と引き広げ、強引に両脚を広げると  
まだ男を迎える準備の出来ていない楓の花弁に半蔵は荒々しく自身の剣をねじり込ませた。  
 
「ひぃあ…!あなた、やめ…!」  
楓の口を塞ぐように半蔵が楓の唇を貪る。  
顔は無表情だが、半蔵の舌は楓を探すかの如くうごめき絡まる。  
 
半蔵は大きなお役目を終えた後、決まって楓を激しく求める。  
それはまるで人らしからぬ事を成し遂げた後、自身が人である事を確認するかのように。  
衝動的な半蔵に驚きつつも、おそらく、夫婦になってからの一番の大仕事を成した後なのだと楓は悟った。  
 
ぬちゅり…ぬちゅり…。と  
最初こそは痛みの方が勝っていたが、何度も秘所を貫かれる度に敏感な場所を刺激され  
蜜と花弁が入口で男根を絡めとり、快楽を再度求めるために男根を締めつけては引き入れる。  
 
「あふぅ…ん、…はぁ…」  
 
いつしか口の端から漏れる声は淫靡なる歓喜の声だった。  
 
一月、この時を待ち望んでいた。  
一度ついた火はすぐに消える事はない。  
自分もずっとこの男の男根を欲していたのだから。ー  
 
打ち付けられる度に快楽が全身を支配していく。  
乱暴の跡を見られる不安な気持ちさえ忘れて、ただ、色欲を満たすために上と下、両方の口から半蔵を貪る。  
 
妻を貪っているようでいて、逆に貪られている事に半蔵も、楓自身も気がついていない。  
 
「あなた…愛して…る…わ。」  
 
楓は自ら白く長い脚を半蔵の腰に絡め、絶頂を迎えると同時に身体の中と外から半蔵を締め上げた。  
 
一瞬、視界が白くなるのと同時に中に熱いものが注がれた後、半蔵が自身を抜いたのを感じる。  
息が上がっている楓の上の半蔵の顔は涼しいままだ。  
 
「大事なかったかと問うた筈だが…?」  
半蔵の指が楓の首筋を優しく撫でる。そこは間違いなく乱暴されかけた痕跡のある場所だった。  
 
「あなた、これは…!」  
赤みを帯びた箇所を楓は慌てて押さえるが、半蔵は無言のまま楓の手を軽く払い楓の着物を勢いよく開いた。  
 
弾力のある大きく形の良い胸が勢いよく躍り出て揺れる。  
白い胸に、人の手形のような跡がくっきりと浮かび上がっていた。  
 
半蔵が大きな溜息をつき、同時に片方の眉が上がり眉間に少し皺がよる。  
「妻の異変に暫く気づけぬとは、拙者もまだ夫として至らぬという事か…。して、その跡を付けたのはどこの者だ…?」  
 
先ほどま本能の赴くままに女を抱いていたとは思えぬほどに、半蔵からは冷たい殺気が漂っていた。  
 
「あなた…聞いて…!」  
 
「拙者はそなたが男を招き入れたとは考えておらぬ。里の者とはいえ、その跡のけじめをつけさせねば。」  
これは間違いなく相手の男を闇に葬る気だろう。  
 
「乱暴されかけただけで、私は無事だったから…相手ももう二度とこんな真似はしない筈だから、この話はもう…。」  
 
「そなたの危惧している事はある程度理解しているつもりだが、  
拙者は「半蔵の伴侶」や「伊賀のくノ一」にするためにそなたをここに連れてきたわけではござらぬ。」  
楓の肩にかけた半蔵の手に力が入る。  
 
楓は半蔵の手に自分の手を添えると髪を揺らしながら静かに微笑む。  
 
「あなたの足を引っ張る真似はしたくないの…。それに、私はあなたの役に立ちたいだけ。  
今回はたまたま隙をつかれただけで、いつもは肌に触れさせる事さえなくてよ。  
 
だから…お願いします。「半蔵」たる者、この程度の事で仲間を手打ちにするのはお止めください…!」  
 
楓が真剣な眼差しで半蔵を見つめる。  
 
「そなたの根も葉もない噂の事は知らぬわけではなかったが…、ここまでとは。  
その件については拙者で対処する。しかし、そなたを手にかけようとする者は一人や二人ではなかったのだな?」  
 
半蔵の口角が少し上がり、全身から発せられていた殺気が序々に引いていく。  
 
ー妻は美しく、艶かしい。忍の道を究めんとする自分の心さえも時としてかき乱す。  
妖艶なこの女を自分の物にしたくない男なぞいるものかとさえ思ってしまう程に。ー  
 
「今回はそなたの拙者を想うてくれる気持ちに免じ相手の男を問わぬが、次回からは何か問題があれば申してくれぬか?」  
 
すぐにでも男を葬りに行くかと思ったが、予想に反して冷静な反応を見せる半蔵に楓は安堵の溜息をつく。  
 
ー夫の事を理解しているようでまだ理解していない。自分も妻としてはまだまだ至ら  
ない。ー  
 
 
「あなた…分かったわ。」  
楓は半蔵の首の後ろに手をかけ、自分へと引きよせると耳元で囁く。  
 
「早速、問題が起きたわ。…まだ、私は満足していなくてよ。」  
 
「…。」  
 
「次は…優しく抱いて…。」  
 
淫靡な笑顔に惹かれるままに、半蔵は再び楓の中へと身体を沈めていく。  
 
山道の白い地面に男と女の雪駄跡が続く。  
3月に入ったというのに珍しく雪が降り積もったのだ。  
 
半蔵の前を歩く楓の後ろ髪が大きく揺れる。  
長い間、外部と遮断された世界にいたため、積もった雪がよほど嬉しいのだろう。  
雪に足跡をつけては子供のように笑っている。  
 
「…良いのか?相談役達には拙者から申す故、無理にお役目を引き受けなくとも良いものを。」  
 
「帰ってきてまだ七日も経っていないというのに、またすぐに次のお役目…  
今回は私の方があなたよりずっと適任でしょう?…それに、一緒にいられるもの。」  
半蔵の方に振り返ると、茶色の瞳は大きく孤を描き、三日月の形に変わる。  
 
太陽の光が雪に反射し、その光りが妻の美しさをより一層際立たせた。  
その笑顔の妻とは対極に、半蔵の顔は無表情ながらいつもより曇っているようにも見える。  
妻と一緒にいられるのは喜ばしいものの、今回も仕事の内容を考えると半蔵は心底喜べなかったからである。  
 
 
夜も更けた頃に大きな街に入り、一軒の置屋へと忍び込む。  
木戸を開けると片手ほどの人数の男、二十名ほどの女達が忍装束に身を包み、肩膝を床に付け頭を垂れていた。  
半蔵の後ろに立ち尽くす楓は息を呑む。  
このような光景を目にするのは初めてではないが、「半蔵」という名を持つ者の偉大さを改めて実感する。  
 
ここは表向きは芸者を手配する「置屋」だが、中にいる者達が全員伊賀の者だという。  
花街にいる者達同様、「情報収集」が主な役目である。  
 
半蔵はこの置屋のおかみと見られる神経質そうな中年の女や番頭の男達と会話した後、直ぐに任務遂行のため発ってしまった。  
お役目の中では夫婦も恋人も関係ない。  
一旦、お役目に入ると夫ではなく伊賀頭領の「服部半蔵」に徹する事を楓はよく知っていた。  
 
奥の部屋に通され、一通りの段取りをここのおかみから説明を受けた後、一人部屋に取り残される。  
ここ最近、毎夜求めあったがため疲れているのか、心地よくうつらうつらと睡魔へと誘われる…が、  
沈黙を掻き消すかの如く「ばさり」と頭上から布のような物が落ち、楓は現実へと引き戻された。  
 
慌てて頭上の布をはぎ取ると布には立派な牡丹の刺繍が施されていた。  
目の前には楓とそう歳の変わらない忍び装束に身を包んだ年頃の女が二人。  
楓を睨みながら仁王立ちで佇んでいる。  
 
「お駒、見たか?これがあの「半蔵」殿の奥方だそうだ。」  
切れ長の目をした女が口を開いた。  
 
「お滝殿、わらわ達の気配にも気づかず、居眠りしてしまうようなこのおなごがか?」  
たれ目の女があっけにとられている楓のあごに手を添え、上へと向かせる。  
 
「髪の毛は癖がある上変わった毛色だが、なるほど。顔は男達が噂してる程の事はあるのう。」  
やっと事態を飲み込んだ楓はお駒と呼ばれた女の手を振り払う。  
 
「一体、なんの用かしら?」  
 
「私達は今回、お前と芸者として組む事になったのさ。私がお滝、そっちがお駒。  
着物を届けるついでに、「半蔵殿の伴侶」に挨拶しておこうと思ったが…」  
 
「半蔵殿がただの遊女を嫁に迎えたという噂は本当だったようじゃのう。  
しかも半蔵殿の留守時には男を招き入れている相当な好き者とか。  
伊賀最強の男も、女を見る目だけは持ち合わせていなんだか。実に口惜しい事じゃ。」  
二人のくノ一がけらけらと楓を嘲笑う。  
 
「何度か半蔵殿と大変なお役目を果たしたと聞いたが、この様子では色事しか役に立たぬだろう。  
むしろ、色事に役に立つからお前を伊賀に連れてきたのではないのか?  
それにその目…。人をまだ殺めた事がないと見える。「覚悟」さえも持てないようだな。」  
お滝が楓の瞳を覗き込む。  
 
「わらわも聞いた事がある。どこぞの貴族が企てた反幕の密書のありかを吐かせ、半蔵殿と追っ手の忍二十余を葬ったとか。  
人も殺められぬようなおなごに何ができる?どうせ身体を使って密書のありかを吐かせた後は半蔵殿の後ろに隠れていただけじゃろう?  
色事で役に立つ分、そこらの町娘よりは多少はましかもしれぬが、わらわ達の足を引っ張る真似だけは困るのう。」  
お駒が眉を八の字にひそめた。  
 
「短期間で下人程度の忍術を身につけたという噂も眉唾ものだな。  
私達は上忍だよ。忍出身でない上に下忍以下の中途半端な心意気のお前と一緒にされては困る。  
それに、半蔵殿の伴侶とは言え、お前を守る義理は私達にはない。  
何より私達はお前を半蔵殿の奥方として認めてはいないのを忘れるな。」  
 
「自分の身は自分で守るのでご心配なく。あなた達の足を引っ張るようでしたら捨て  
置いて結構でしてよ。」  
楓がお滝の瞳を真っ直ぐに見つめる。  
 
場の空気が一瞬にして凍りつくのを三人は肌で感じた。  
 
「私達の邪魔はするなよ。お前はせいぜい男を咥え込んで時間稼ぎをする事に尽力する事だ。」  
お滝とお駒は障子へと踵を返す。  
 
「ええ。自分の役目は存じ上げていてよ。…でも、あなた達は少し勘違いしているわ。  
男は咥え込まなくとも落とす事は可能なのよ。私が咥え込んで落としたのはだた一人、夫だけですもの…。」  
 
お滝とお駒が振り向くと、楓がくすりと笑う。  
その瞬間、見えない火花が空中で激しく散った。  
 
 
二人が部屋を出、襖が乱雑に閉められると再び静寂が辺りを支配する。  
 
二人のくノ一はおそらく、里が選んだ半蔵の嫁の候補だった女子達なのだろう。  
あの様子では「半蔵」という名だけではなく、二人共に男として狙っていた事は明白だ。  
女の世界で生きてきただけの事もあり、女達が自分をどれほど疎ましく思っているのかもよく分かるが  
誰とでも寝る身持ちの軽い女としての言われ様には先日の件もあり少々頭に血が上っていたようだ。  
 
一呼吸つくと、お滝の言葉が気にかかった。  
楓は亡き父が「人を殺めると人の目は鬼の目に変わる」という話をしていたのを思い出した。  
 
これまで自分が担ったお役目で何度となく忍や侍達と闘う事があったが  
結果、一度も直接的に人を殺めた事はなかった。  
 
剣の技術が無い者達の手や足をへし折り、手裏剣やくないで相手の隙をつく。  
腕のたつ侍達の相手や楓に手負いにされた敵の息の根を止めていたのは半蔵であった。  
半蔵の役に立っているつもりであったが、半蔵に護られていただけなのかもしれない。  
少しは忍らしくなった気でいたが、やはり本物の忍からしてみれば忍にはほど遠いのだろう。  
 
忍にもなりきれず、普通の女としても生きられない。  
やり場のない思いを抱きながら、楓は見事な刺繍がほどこされた着物に顔を埋めた。  
 
高級料亭で女達のけたたましい笑い声や三味の音が響く。  
料亭の入り口には煌びやかな彩色が施された籠と大勢の侍達。  
中にいるのが要人だという事が安易に想像つく。  
 
いくつかの名のある置屋から選りすぐりの芸子達が一人の中年の男を取り囲み踊っていた。  
反幕の組織を密かに編成している疑いがある大名と懇意にしている松井という家老である。  
松井が反幕に関わる内容の書かれた密書を大名から預かっているという情報が入ったのだという。  
 
今回のお役目はくの一達が芸子に扮し、松井に取り入り屋敷に招いて貰った後  
秘薬を飲ませて密書のありかを聞き出し、それを手に入れて屋敷の外に待機している仲間に密書を渡す事である。  
 
松井の屋敷は手錬の忍び達が雇われ屋敷内を取り囲んでいるため、相手の忍と鉢合わせすれば闘いは避けられない。  
万が一にも密書が存在しなければ逆に大事になってしまう。  
密書が存在するという確かな証拠がなければ伊賀忍としては堂々と力を発揮できないという。  
 
だからこそ、松井を落とし、二人きりになる必要があるのだ。  
 
「おおっ、先ほどの三味、見事であったぞ。名はなんと申す?」  
「石井屋の楓と申します。以後、ごひいきに…。」  
 
芸子髷に髪を結った楓が艶やかに微笑みながら松井の猪口に酒を注ぐ。  
「大した玉だが初めて聞く名だ。お主ほどの美貌と芸があれば少しは名を聞いていてもおかしくないのだが…。」  
 
松井の膝にそっと楓が手を添える。  
「以前は田舎街の芸子でしたの。有名になりたくて江戸に上がりましたのよ…。  
私、まだ旦那様がついておりませんの。松井様みたいな方が旦那様として力添えしてくだされば…。」  
 
上目遣いに松井を見つめると、松井は既にその気になっていた。  
「近々、儂の屋敷に呼んでやろう。お主の尽力次第では力になってやろうぞ。」  
「まあ…、楽しみですわ。」  
 
楓の白い指が松井の無骨な指を絡めた。  
 
「家老を落とすには暫くかかるかとも思うたが、花街出身の事だけはあるのう。それにあの三味、本物じゃった。」  
他の置屋の芸子達と綱引きを興じながらお駒がお滝に話し掛ける。  
 
「そのためにあの女が呼ばれたのだろ?家老はあの女に任せて私達は私達で密書を探せば良い。  
密書さえ見つかれば私達のお役目は終了だ。あの女を置いていっても責められはしない。」  
 
お滝とお駒が綱を引くと、何人かの芸子達が畳に転がる。  
「あっちは二人、こっちは六人なのに何で勝てないのかしら…?」  
 
畳に転がった芸子の目にはほくそ笑むお滝とお駒の姿が映る。  
二人の視線の先には家老にしなだれかかる一人の芸子に向けられていた。  
 
 
数日後、松井は約束通り楓達を屋敷へと招き入れた。  
お滝とお駒と共に三味を弾いた後、楓は松井の寝所へと誘われる。  
 
「あとの二人は配下達への酌の相手を申しつけた。そなたとは今後について話し合わねばならぬからな。」  
松井が楓の腰へと手を回す。  
 
「まあ、松井様ったら…夜は長いですのよ?まずはお酒を…。」  
 
酒には伊賀秘伝の特殊な薬が混ぜてあり、その薬の効果により密書のありかを吐かせる手筈となっている。  
薬の入った酒を口にしてしまえば後はこちらの思い通りである。  
 
虚ろになった家老は簡単に口を開く。大抵、大事な物は寝所に隠すものである。  
家老の懐から鍵を見つけ出すと掛け軸裏の隠し棚に入った箱に刺す。  
予想通り、中には密書の巻物が入っていた。  
後はこの巻物を屋敷の外で待機しているであろう伊賀の者に渡すのみ。  
 
楓はそっと寝所を抜け出すと音を立てずに廊下を駆けた。  
ここから外に通じる塀が一番近い場所は厠裏である。  
 
その時、楓は短い悲鳴をあげると廊下に倒れ込んだ。  
屋敷内の使用人と鉢合わせしてしまい、ぶつかってしまったのだ。  
 
「旦那様がお招きした芸子と見受けしますが、こんな夜分に何処へ?」  
人の良さそうな中年の使用人に助け起こされた楓は一瞬困ったような表情を浮かべ顔を赤らめる。  
 
「ごめんなさい。厠へと急いでいたものだから…。」  
 
つられて使用人の顔も赤くなる。  
「それは大変失礼しました。厠はこのまま真っ直ぐ行き、突き当たった所を左です。  
明かりが至る所にあるとはいえ、暗いですからね。お気をつけて…」  
 
使用人に助け起こされた楓は軽く会釈をすると再び小走りに駆け出す。  
辺りには芸子が所持する香り袋独特の残り香が漂っていた。  
 
 
厠へと続く廊下へと足を踏み出すと同時に楓の前に二人の忍が闇から姿を現す。  
剣先が楓に向けられている。  
と同時に後ろの首筋に冷たく固ものいがあてられたのを楓は感じた。  
 
「どこに行くつもりだ?さあ、密書をこちらに渡せ…。」  
後ろにももう一人。  
楓の首に剣先をあてていた。  
 
ーこういう事態を想定しての心構えや性技修行をしてきたが、実際は想像以上に屈辱的なものだ。ー  
 
松井の部下達の酒に眠り薬を混ぜ、一同が眠りについた後にお滝とお駒は密書を探しに出たまでは良かったが  
松井の雇っているお庭番の忍達に隙をつかれ捕まり、薄暗い地下牢に軟禁され陵辱の限りを尽くされていた。  
 
本来ならば松井の部下達の注意をそらせる楓の補助が任務であったが  
上忍故の誇りの高さから補助の役回りに徹せず、慢心から敵の力量を見誤った結果である。  
 
 
口には猿轡を噛まされ自害もできず、両手は後ろで荒縄できつく縛られ身動きもままならない。  
四人の男達に代わるがわる陵辱され続ける仲間の姿を向かいあって見せつけられるのは、更に二人の精神的苦痛を深めていた。  
 
顔も分からない男がお滝の中を乱暴に突き続ける。  
その度に身体と張りのある胸が揺れる。  
目の前のお駒も同じ様に敵の忍の男に突かれ続けている。  
精神的にも、体力的にも限界に近づきつつあるのはお駒も一緒のようだ。  
 
「あっちの女もお前もつまらねえ女達だな。泣くなりよがるなりして少しは反応を見せろよ。  
後で薬漬けにされて俺達の玩具になるんだしな。飽きればすぐにあの世に行けるぜ。」  
 
お滝を突いている男が髪の毛を掴んで顔を上げさせると  
敵の忍達が肌着一枚の楓を担いで地下牢に入るのが視界に入った。  
 
(任務は失敗に終わったのか…?!)  
 
お滝とお駒を陵辱している男達が男根を引き抜きぬくと、二人の股の間からはどろりと大量の白い欲望の固まりが流れ、  
冷たい石牢の床に身体と共に落ちる。  
 
男達は手早く忍袴を整えると、牢に入ってきた男の一人に跪いた。  
楓を担いでいた男が楓を床に降ろし、そのままお滝達の方に突き飛ばすと香の香りが湿った地下牢に広がり  
周りの者達の鼻をかすめていく。  
 
「頭、やはりこの女達と一緒に来たその芸子も伊賀のくノ一でしたか。」  
お駒を陵辱していた男が前に出て楓の腕を掴み、身体を起こさせる。  
 
「松井様の部屋の周辺を見張っていたら、案の定この女が密書を持って出てきてな…。  
おそらく厠付近で仲間と落ち合う手筈だったのだろう?  
残念だが周辺には誰もおらんかった。我々が動き出したのに勘づいて恐れをなして逃げたのだろう。  
任務に失敗したお前達は仲間達に見捨てられたのだ。徳川家自慢のお庭番、伊賀の忍も大した事ないものよ。」  
 
「そん…な…。」  
楓はうな垂れるとはらはらと涙を流す。  
 
(情けない…!!)  
 
任務に失敗すれば捨てられてもおかしくない。  
これ以上、醜態を晒したくないお滝とお駒は最後いかに「伊賀の誇り高き忍」として綺麗に散れるかを考えていた。  
楓の涙を見せる「弱い女」を主張する行為は二人を逆上させるには充分だった。  
 
 
「お頭、こいつら仲間割れですかね?二人してこっちの女を凄い形相で睨んでるが…。」  
お滝を陵辱していた男が三人の女の顔を交互に覗き込んだ。  
 
「お前、このくノ一達とは少々違うようだな…何者だ?」  
お頭と呼ばれた男が膝をつき、楓の顎を掴む。  
 
「私はただ、報酬を沢山くれるって言われて協力しただけ。…ねえ、お願い助けて…  
!」  
楓の白い指が「お頭」と呼ばれている男の腕を掴む。  
 
茶色の瞳が不安そうに忍頭巾の隙間から覗く大柄な男の目を見つめる。  
 
ー松井が一つも警戒せずに寝所に引き入れた事だけはある。ー  
 
「お前を助けて我々に何の得がある?」  
 
見た所、体型的にも筋肉が非常に発達した通常のくノ一達とは違う。  
目も我々のように影で生きてきた者の目とは違う花街の女達独特の目。  
薬漬けにして捨てるには少々勿体ないかもしれない。  
 
男の「敵の女は陵辱した後始末する。」という信念が揺らぎ始めていた。  
 
楓は妖艶な笑みを浮かべゆっくり立ち上がるとうなだれているお滝とお駒の間を通り過ぎる。  
そのまま地下牢の奥へと進むと七人の忍の男達が背中の忍者刀の柄に手をかけた。  
 
「お前、何をするつもりだ?下手な真似をすると…」  
男の一人が楓に向かって踏み出すと、楓は後ろ向きに立ち肌着をそっと腰まで落とす。  
 
「薬なんて使わなくても、あなた達全員を沢山楽しませてあげてよ…。伊賀最強と言われる服部半蔵でさえ私の中では只の男でしたのよ。」  
 
楓が少し振り返ると大きな二つの胸が、押さえている腕の中から窮屈そうにはみ出していた。  
くびれた腰から形の良い尻に肌着がかかり、今にも下にずり落ちそうである。  
誰かが唾を飲んだ音が地下牢に響いた。  
 
「お前、あの服部半蔵と寝たのか?!」  
服部半蔵の名は忍ならば誰もが知っているが、実際にその姿を見た者はほとんどいない。  
年齢や容姿など全てが謎に包まれている伊賀忍最強の忍、服部半蔵に興味を抱かない忍はいない。  
 
「ええ…。私の中を大層お気に召してくれたのよ。すぐに果ててしまったけれど…。  
あなた達は半蔵殿と比べてどれ位もつのかしら?」  
 
男達が次々に自らの忍袴の帯びを緩め始めた。  
 
「ここは寒いのね…。早く誰かこの身体を温めてくださらない?そこにいる筋肉だらけの堅い身体の女達には飽きたでしょう?」  
身体を少しひねると、柔らかそうな胸が大きな谷間を作る。  
 
「私…寒いわ。」  
楓は熱っぽい流し目で男達を見つめると妖しく微笑んだ。  
 
一人の男が我先にとばかり楓に飛びかかろうとするが、頭の男が腕で制する。  
「勝手に手を出すな…。我が性技が半蔵を凌駕する姿を見ているが良い…!」  
 
ーこの女は俺のものだ…!!ー  
 
頭の男が楓の肌着を剥ぎ取り、身体を掴む…が、手は空を切り、地下牢の湿った岩壁を掴む。  
足元にまだ温もりを残した肌着が舞い落ちた。  
 
「なっ…!女は…?!」  
その瞬間、後方で大きな音が二つ。  
頭の男が振り返ると仲間の忍が二人、冷たい床へと倒れ込み即座に血の水たまりを作る。  
その後ろには先ほどまで猿轡を噛まされ陵辱されていたくノ一が二人。  
一糸纏わぬ姿で忍者刀を構えていた。  
 
「いつの間に…?!」  
 
頭の男は背中の忍者刀を抜くと次は横から骨が砕けたような鈍い音が響いた。  
悲鳴をあげながら男が地面にのたうち回っている。  
その後ろには目の前にいた筈の芸子が一人。  
これまた一糸纏わぬ姿で脚を高く振り上げていた。  
 
楓は素早く振り上げた脚で更に近くにいる男を高く蹴り上げ、拳を男の顔に打ち込む。  
細い腕から繰り出されたとは思えない程に男の身体が簡単に跳ね飛ばされ、頭の男の前に転がる。  
残り二人の忍達はくノ一達と剣の小競り合いを始めていた。  
 
「お頭…,助け…!…」  
「役に立たぬ部下はいらん…。」  
頭の男の袴を掴んだものの、その頭の刀に男は胸を突かれ崩れ落ち、新たに血の水たまり作り出した。  
 
 
ーこんな筈はない…!ー  
 
自分達は伊賀の精鋭達に引けを取らないという自負があった。  
ましてやここにいる部下達はその中でも腕の立つ者ばかり。  
だが、たった一人の芸子をここに連れて来てから何かが変わった。  
いや、そもそも本当に芸子だったのか…?!  
 
「女は…どこだ…?!」  
頭の男がもどかしそうに剣を振り上げると後ろから笑い声が聞こえてくる。  
後ろで芸子が美しい裸体をさらけ出し,腕を組みながら相変わらず妖艶な笑みを浮かべていた。  
ただ、その数は二人にも、四人にもぶれて見える。  
 
「知ってるでしょう?極度の興奮は人の冷静さを失わせるのよ…。」  
楓が手を開くと砂らしきものがさらさらとこぼれ落ち、辺りに独特の香が充満する。  
 
………!!………  
そこで初めて頭の男は自分達が香を使った忍術にかかっている事に気がついた。  
 
「この香は人を極度の興奮状態に陥れ幻覚を見せるけれど効果の時間が短くて…でも、丁度良い頃合のようね。」  
その言葉通り、頭の男から見える楓の姿は一人に戻りつつある。  
 
「許さん!!」  
頭の男が楓めがけて刀を振り下ろすが、寸前の所で下から剣を弾き返される。  
男の足元には剣を構えた松井の使用人がいた。  
腰から上がまるで男の影から生えているかのように。  
 
(まだ幻術にかかっているのか…?!)  
頭の男が一歩下がると使用人が全身を現す。  
その淡い色の着物にはついたばかりと見える返り血が大きな染みを作っていた。  
 
「お前は松井の使用人ではないな…?」  
男が刀を構える。  
 
「本当の使用人は数日前から蔵の中で眠っている…拙者は…」  
使用人が着物を脱ぎ捨てると一瞬のうちに黒い忍装束に赤い首巻をした忍に姿を変える。  
 
「服部半蔵。参上仕った。」  
 
(これが伊賀の服部半蔵…?)  
変装の名人だとは聞いた事がある。確かに使用人と入れ替わっていたというのに違和感を持った者は誰もいなかった。  
しかし、何故松井の部屋から出た芸子と鉢合わせた時に何故助けに入らなかったのか?  
 
「…まさか?!」  
 
男が楓から取り上げた密書の巻物を片手で懐から取り出すと勢いよく開く。  
開いた巻物は白紙であった。  
 
芸子と鉢合わせ、ぶつかったふりをして巻物をすりかえた。  
芸子は密書が本物かを確認するための時間稼ぎのおとり…?!  
最初からそれも計画のうちだったという事に気づいた時、男の血の気が引き、額から油汗が一雫落ちる。  
 
「本物の密書は我が伊賀の精鋭部隊が既に幕府へと届けに出ている故、今更追っても無駄な事よ。」  
半蔵と名乗った男は近くに落ちていた肌着を拾いあげると後ろの芸子に投げ渡す。  
 
「我が部下達が周辺を護っている筈だが…?まさか…」  
 
「反幕の密書が実在した以上、我らが本格的に動いて問題はない。残るはお主と横にいる…」  
その瞬間、ごろりと大きな石のようなものが二個ほど石床に転がり、二人の忍の男達の身体が地面に倒れ新たな血の水たまりを作り出した。  
 
「一対一ならこんな男に負けるものか!」  
お滝が跳ねた首を素足で踏みつける。  
 
「こいつら本当に下手くそじゃったのう…!伊賀の男達の方がいくらかましじゃ!」  
お駒も跳ねた男の首に唾を吐きかけた。  
 
「残るはお主一人。覚悟されよ…!」  
半蔵が忍者刀を構える。  
 
 
楓は闘いの邪魔にならないよう、牢の端に下がる。  
先ほどまで陵辱されていたとは思えないくノ一達の気持ちの切り替えの早さと  
迷いもなく人を殺める「覚悟」に驚愕していた。  
これが「伊賀のくノ一」なのだ。  
 
ふと、足元を見ると楓にあばら骨を折られ、虫の息も絶え絶えの忍がかすかに動いている。  
この男はやがて死ぬだろう、その時、自分も鬼の目に変わるのだろうか?  
 
楓は初めて人を殺めるという事に恐怖を覚えた。  
 
 
勝負は一瞬のうちについた。  
男の剣術は半蔵の足元にも及ばず、忍術の一つも出す隙もなく一太刀浴びせられた後、  
半蔵の繰り出した爆炎龍で黒い炭へと化したのだ。  
 
男が火柱となり地下牢を照らし出した時、半蔵は隅で楓に手負いにされた虫の息の男の胸に  
ためらいもなく無言で剣を突き立てる。  
 
「これにて任務完了とする。」  
 
七人の男達の屍、血の海。  
地下牢は地獄へと変貌を遂げていた。  
立ちつくす三人の刀から血がしたたり落ち、人の燃える明かりが照らし出す影はゆらゆらと蠢く。  
振り返った半蔵と二人のくノ一の目は冷たい輝きを放っていた。  
 
ーこれが鬼の目ー  
 
伊賀の忍達がお滝とお駒を担ぎ外へと出て行く。  
ほとんど気力だけで闘っていたのだろう。  
二人は緊張の糸が切れたかのように倒れ込んだのだ。  
 
楓が外に出るとまだ辺りは夜だった。  
月明かりが庭の積もった雪の光りを反射して青白く光っている。  
所々黒く輝く染みは葬られたお庭番達の血液だろう。  
忍達の死体は既に処理されていた。跡形もない。  
 
薬で眠らされた者達が大半を占めているが、屋敷の者は誰一人起きてこない。  
夜が明けた後、松井は何が起きたのか知るだろう。  
そしてこれから先、自害しか道が残されていないという事も…。  
 
風がいつもより冷たく感じる。  
積もった雪のせいだろうか?それとも…  
 
ー本当の鬼の目を知ってしまったためだろうか…?ー  
 
屋敷の塀に手をかけた瞬間、楓の意識は途切れた意識と共に積もった雪の中へと墜ちていく。  
それと同時に腹の中で何かが大きく脈を打ったような気がした。  
 
「噂通り、美しい奥方ですな。見た目より丈夫だからと言って、今後あまり無理をさせてはなりませぬぞ。  
雪の中を肌着一枚にさせるぞもっての他!」  
伊賀者の老いた医者が侍姿の半蔵の肩を軽く叩く。  
 
「今、女達が奥方に用があると入って行ったのでもう少し経ってからの方が良いかもしれぬよ?」  
 
「楓はどこも悪くないと申すのか?」  
 
医者は満面の笑みを浮かべ右手を上げるとそのまま置屋の玄関へと向かって行ってしまった。  
半蔵は楓のいる部屋の方をちらりと見やると、脇にある小皿の上の胡麻団子に手を伸ばす。  
 
 
「今度はなんの用かしら?」  
楓が半分身を起こした布団の横にお滝とお駒が立つ。  
 
「我ら、そなたに問いたい事があってのう。」  
「武術に長けているとはいえ、その細腕であのような威力を出す事は不可能な筈。どのような術を使った?」  
お滝とお駒が不思議そうに楓を見つめる。  
最初の時のような敵意は感じられない。  
 
「身体に流れる『気』と技を上手く使うと骨を簡単に砕く大きな力を出す事が出来てよ。」  
 
「その『気』とやらは我らも修行すれば上手く使う事はできるのか?」  
 
「普通の武術家なら数十年、過酷な修行が必要と聞いたけれど…。」  
お滝とお駒は更に目を丸くする。  
 
ーつまり、この女は凡人にあらず。とんでもない才を持っていたという事か…  
それに、あの時の幻術は下忍どころか上忍の高等忍術。最初から全てにおいて敵わなかったのだな。ー  
 
二人のくノ一が楓を見つめると大きな溜息をついた。  
 
「では、本題に入る。」  
急に周りの空気が張り詰め、くノ一達の顔が険しくなる。  
 
「半蔵殿は今回の我らの失態を不問にした上、更にお役目に励むようにと申された。」  
「わらわ達はこれからも半蔵殿に従い、幕府のために命を賭けようぞ。」  
楓にはその時、お滝とお駒が少し笑ったように見えた。  
 
「まさかお前に助けられる事になるとは思わなんだ。…だが」  
二人がそのまま膝をつき、楓に対して頭を垂れる。  
 
「色仕掛けと合わせた忍術、それに体術も実に見事であった…!最初は我々も演技と知らず騙された。」  
「わらわ達はお主を服部半蔵の奥方として認めたのじゃ。」  
「…では、我らは新たなお役目を拝命している故、これにて失礼する。」  
 
再びあっけにとられている楓を残し、襖も開けずに煙と共に二人が姿を消すと  
二人の気配がなくなったのを感知したかの様に半蔵が襖を静かに開ける。  
 
「容態は?」  
半蔵が楓の傍らにそっと腰を落とす。  
 
「何も問題なくてよ。…あなたに大事な話が二つございます。」  
楓の長い前髪が揺れ、色素の薄い瞳の中心が半蔵の姿を映す。  
 
「申してみよ。」  
半蔵もわずかな笑みを浮かべると楓の瞳を真っ直ぐに見つめる。  
 
「一つ目は…今回のお役目をもって前線に出るのは最後にします。  
今まで伊賀での自分の居場所を求め、自分の力量以上に無理をしていたようです。  
 
私は忍の真似事はできても、真の忍にはなれませぬ。  
今回あなたが最後に葬った忍、私は近くにいても結局とどめを刺す事はできませんでした。  
 
私にはあなたや他の忍達のように幕府のために躊躇なく人を殺める「覚悟」がございませぬ。  
今まではそれでも上手く物事が進みましたが、今後それがあなたの足枷になる事もあるでしょう。」  
 
ーそして、自分は幕府のために命をかけ、命を奪う「覚悟」さえもないという事にも気づいてしまった。ー  
 
「…弱い妻で申し訳ございません…。」  
楓は半蔵から視線をずらすとゆっくりと頭を下げる。  
 
 
「…それで良い。」  
 
半蔵は楓の言葉を聞き、内心安堵していた。  
自分の身を護れる程度の忍術ならばと忍の技を指南したが  
剣技はからっきしだったものの、幻術系の忍術に関しては予想に反して才を開花させてしまった。  
 
試しにさほど危険を伴わないお役目に同行させた所、期待以上の働きをして見せた。  
以後、相談役達から主に色仕掛けを必要とする仕事の依頼が来るようになり、楓もそれに従っていたが  
半蔵自身は楓が「伊賀のくノ一」としてお役目を担う事を快く思っていなかった。  
 
楓の身体能力の高さと頭の回転の速さには絶大な信頼を寄せており、  
何度か一緒に組み遂行した仕事の中には、半蔵でさえ危うい所を助けられた事もある。  
だが、他の忍と違い特別な情があるが故、服部半蔵としての冷静な判断を楓によって誤ってしまう時がくるやもしれない事を心のどこかで常に危惧していたからだ。  
 
お役目とはいえ他の男が妻に触れる事は正直我慢ならなかったが  
何より、万が一お役目に失敗した際に今回のくノ一達のような目に遭わすのを避けたかったというのも理由にある。  
 
 
「ありがとうございます。今後は里の子供達に芸事などを教え、裏からあなたと伊賀を支えたいと思います。」  
 
ー自分が「覚悟」を決意できる日が来るとしたならば、決して「徳川幕府」でもなければ「服部半蔵」のためでもないだろう。  
きっと目の前にいる「夫」と、そして新たにー。  
 
「二つ目の大事な話とは…?」  
半蔵が胸元で腕を組む。  
里の事までも楓が考えていてくれた事について、感慨にひたっている最中であった。  
 
 
「…やや子を授かったようです。」  
楓が頬を少し赤らめながら、そっと自身の腹を撫でた。  
 
暫しの間沈黙が続く。  
 
その沈黙を破ったのは外から鳴り響く鶯の声であった。  
この置屋の庭にある木にでもとまったのだろう。  
そしてその鶯の声は放心していた半蔵を現実へと引き戻した。  
 
「それはまことか?」  
身に覚えはありすぎるが、半蔵は確認せずにはいられなかった。  
 
「実感はまだないけれど、早ければあと四月位…夏頃には生まれるかもしれなくてよ?」  
 
半蔵は再び驚かされ思わず楓の方に身を乗り出す。  
「四月とは…?!未だ全然腹が膨れてないではないか?」  
(確かに先月に比べ、ほんの少々肉付きがよくなったとは思ってはいたが、それにしては腹回りはくびれたままではないか。)  
 
「先ほどお医者様に診断されるまでは私も全く気づかなかったのだけれど、思い返して見ればずっと前からその兆しはありましたの。  
腹がほとんど前に付き出ない女もごく稀にいるようで、私はそれに当てはまるのではと…でも、もう少々経てば少しは腹も出るでしょう。」  
 
思い起こせば月のものが半年位来ていなかった。  
話に聞くつわりがなかったため全く自覚がなかったが  
妊娠の兆候と言われる極度の気だるさや眠気、集中力欠如などには身に覚えがあった。  
そして雪の中に落ちる時、初めて腹の中で何かが動いたのを感じた。  
 
「そうであったか…楓よ。拙者の子を宜しく頼む。」  
 
自分の血を分けた子が妻の腹の中で命を宿している。  
正直、どういう顔をすれば良いのか、どんな言葉をかければ良いのか分からない。  
 
ーだが、新しい家族が増えるとは、何とも不思議な事であり、喜ばしい事である。ー  
 
「ええ。玉の様な子を産んでみせるわ。」  
楓は自分の居場所をやっと見つけたような気がした。  
 
ーこの子のためなら、きっと私は命を賭けられる。私の「覚悟」は母としての「覚  
悟」。ー  
 
春を告げる鶯の鳴き声を聞きながら、暫しの間二人は新たなる幸せを噛み締めていた。  
 
伊賀に戻ると楓の懐妊は既に里全体に知れ渡っており、  
女性達の情報網の力故か、楓が体術に長けていた事や高等な忍術を扱える事さえも広まっていた。  
 
楓を蔑む者はもう誰もいない。  
そして何より、半蔵の留守時に楓に夜這いをかける者がいなくなったという。  
女達の噂では、半蔵が楓の話を流布した者の枕元に立ち、「恐ろしい釘」を刺したからだというが  
半蔵は多くを語らない故、真相は不明である。  
 
 
それから四月後、残暑の頃に楓に似た玉の様な男子がこの世に生を受けた。  
この子供が後に伊賀や世界を巻き込み、歴史の流れを大きく変える運命を担っている事をー  
 
ー今は誰も知る由もない。ー  
 
 
 (終)  
 
 
 
〜おまけ・後日談〜  
 
 
半蔵が無言で楓にそっと着物を差し出す。  
楓が着物を広げると、藤色の忍衣であった。  
男の忍が着用する胸元があまり開かない型と同様の旧型のくノ一用忍装束である。  
 
楓が口元に手をあて、静かに笑う。  
傍らには先程眠りについたばかりの茶色の髪の幼子が寝息をたてていた。  
 
「…その忍装束では相談役達の気が逸れ、話に集中せぬ故…。」  
 
楓は前線を退いた後、「伊賀のくノ一」の忍装束では「色気」が足りず戦場で敵の男を惑わせられないと意見し  
胸元が大きく開く忍装束を提案した結果、それは大きな成果をもたらした。  
今では年頃の娘達や前線に出るくノ一がその着物を纏っている。  
そして今も楓は大きく胸元が開いた忍衣を着用していた。  
 
大きく開いた楓の胸元からは乳を含み更に大きくなり、今にでも着物から溢れんばかりの胸が揺れていた。  
伊賀の長老会時には総帥の話ではなく、楓の胸元に集中する輩も少なくない。  
 
「この着物、気に入っていたのだけれど…いいわ。これからはこちらに袖を通しますわ。」  
楓は優しく半蔵の左の頬を撫でると、妖しく笑いかける。  
 
「本当は他の男に私の肌を見せたくない。独り占めしたい…っと顔に書いてありましてよ。」  
 
「…せっ、拙者は…。」  
表情に乏しいため一見分かり難いが、図星を付かれた半蔵が明らかに動揺している事を楓は見抜いていた。  
 
「真蔵もやっと眠りましたし、お望み通り独り占めして結構でしてよ。…今夜は上の口、下の口、どちらがよろしいのかしら?」  
 
「………。」  
 
「どちらも…と顔に書いてありましてよ。」  
半蔵は涼しい顔で平常心を保とうとしているが、耳の先は鬼灯のように赤みを帯びていた。  
楓は淫靡な笑顔を浮かべながら、自身の帯を解き始める。  
 
 
伊賀の夜は長いー  
 
 
(終)  
 

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル