親不知神社……寂れきって廃屋と化したこの場所に血臭が漂っていた。  
冴えた月の光が木々の合間を縫って微かにその惨劇を照らし出している。しかしその月も雲間に隠れ、 
辺りに深い暗闇が訪れた。  
 
「何で……あたしが死ななきゃ……」  
 
知床総一郎の耳にそんな言葉がまとわりついた。  
つい先程までしたたかに、しかし確かに生きていた女の抜け殻が今、血と泥にまみれて足元に転がっている。  
知床は激しい息遣いを隠そうともせず、自らの傍らへ影のように近づいてきた女侍へ言葉を投げた。  
「我々は正義を行ったのだ。……そうだよな?」  
――黒生邑咲……不義を働いた許すべからざる女なのだ。  
女侍は知床の濁った目をちらと見、静かに頷いて同意してみせた。  
暗闇の中で女の表情ははっきりと確認できなかったが、微かな空気の動きと独特の気配を肌で感じ取っ 
た知床はホウと息を吐いて言う。  
「そうだよな。何も悔いることはない……何も……」  
その言葉は女侍に向けたものではない。  
そんなことは知床自身がよく分かっていた。  
 
知床と邑咲のやりとりを気怠そうに傍観し、しかし斬り合いが始まったとたん水を得た魚のように暴れ 
出したその女侍は、知床の言葉にただ惰性のように頷いただけだった。  
そんな適当な言葉に救いを感じているこの男に、女は何を思ったろう。  
 
知床は黒生邑咲の死体を目の端に捉えたまま、ゆっくりと女侍に背を向けた。  
「明日、赤玉党が高炉を襲うという情報が入った。……迎撃に参加するように」  
返事を待たずに、この血に煙ったおぞましい場所から逃れようと、知床の足は主の待つ屋敷へ向かい始める。  
しかし、不意に闇から響きだした低い笑い声にその足は止まった。  
「ク…ッフフフ……あははははは……」  
次第に高くなる笑い声はまるで童女のそれのようだ。  
「な…にが可笑しい……?」  
「フフフ……。お前、面白い男だ」  
砂利を踏みしめながら、女侍は大股に知床へと歩みを進める。  
「そんなに後味が悪いと思うなら、ハナからこの女を見逃せば良かったんだ」  
女侍は、目を剥いたまま息絶えている邑咲の顎の辺りを蹴やり、とたんに引きつった知床の顔を可笑し 
そうに眺めた。  
「ええい、痴れ者!仏となった者をそんな風に扱うとは何事か!――……それに、見逃すなど…」  
女侍の襟元を掴んで乱暴に引き寄せ、邑咲の骸から引き離す。  
そして続けた。  
「見逃すなど……、不義は許せん。ただそれだけだ」  
 
女は知床の加減を知らぬ手によって乱された襟と、その肌を隠そうともせずに再び笑い声を立てた。  
「アハハ……、それで己が辛くなっていたら世話がないだろうに?……だが」  
女の白い手が知床の頬を微かに撫でる。  
「フフフ、お前可愛いな」  
「何だと……!?――…むっ!」  
一瞬知床は、唇に感じた甘い柔らかさを理解できずに目を見開いた。  
だが、それがさっきまで自分を嘲笑するように歪んでいた女の赤い唇だということに気付くと、全力で 
抵抗をする。  
やみくもに押しやった女の体に、ぞっとするほどの柔らかさを感じて狼狽の色を強くした。  
「貴様……、何のつもりだ!?」  
「そんなに驚くな。女を知らないわけじゃないだろう?……フフ、さっきの闘いじゃ物足りないんだ。  
秘密を共有し合うついでにコッチの相手もしておくれよ」  
血臭に混ざって女の匂いが知床の鼻をつく。  
 
「どうせ、長くない命だ、楽しめるときに楽しんだ方がいい。お互いにな」  
明日には六骨峠にゴロゴロと転がる肉塊のひとつさ、と女の唇が歪んだ。  
知床は上がった息を整えながら近くの木の幹へ体を預け、愛刀”十戒丸”を腰から外すと女の顔を見る。  
「フン……かような臓物の臭いの中でも構わずに欲情するとは……外道め」  
「馬鹿だね、こんなところだからこそ興奮するのさ。そのわりにお前だって乗り気じゃないか」  
女はしなを作り、猫のように知床に擦り寄ると唇を引き寄せた。  
知床はその甘い毒のような唇を吸いつつ、女の袂へ手を伸ばしてじっとりと汗ばんだ脇の辺りをくすぐ 
るように撫でる。  
くぐもった声が女の口から漏れ、知床はそれを聞きながら女の肉感を確認するように愛撫した。  
 
「確かにそうだな……」  
知床は自分の一挙一動に過敏に反応する女を、何故だか愛しく思いながら唐突に囁く。  
「な…何が…?んっ……あぅ…」  
「さっき貴女が言ったことだ。”楽しめるときに楽しんだ方がいい”と」  
首筋に唾液の線を描き、そこに返り血だろうか、すでに乾きかけた血痕を見つけると、知床は迷わず舌 
で舐め取った。  
――誰の血だろう。邑咲様か、井ノ頭か、それとも保世……、だがそんなことはどうでも良い。  
むせ返るような血の臭いにもう鼻は利かず、確かなものといったら目の前の女の肌だけ。  
知床は心の底から湧き上がる、男の性を持て余しながら女の袴の帯に手を掛けた。  
「そう、どうせ糞みたいな命なんだ。……捨て時が来るまで、精々楽しませて貰わなきゃ損ってものさ」  
「…………」  
女の腰を抱き寄せたその時、踏みしめた足元で小さく乾いた悲鳴を上げたもの…――それが空蝉だと気 
付くと知床は微かな、そして悲しげな微笑を浮かべた。  
 
筋肉のしっかりついた腿を撫で上げ、知床の手は女を捉える。  
ビクンと戦慄いた女に視線を送り、溢れる液体をしつこく確認すると呆れたように囁いた。  
「何故こんなに濡れているのか……説明してくれると有り難いのですが」  
「何を……、っん……!刀を交える刹那が最も興奮して濡れる悦楽の時間だ、と言ったらアンタは理解 
してくれるかい?」  
当然のように首に回ってきた女の腕を、知床は心地よく感じる。  
「成る程……、ええ、よく分かりますよ」  
「そう……。じゃあ、アンタもここらで息絶えるべき古い人間だね」  
「…………」  
知床はふと、女がこの峠に侍としての死に場所を求めてやって来たような気がした。  
”黒生家”、”赤玉党”、そして”宿場”と、そのどれにも転びかねない危うく奔放な、悪く言えば主 
張のない態度の訳が納得できる。  
そう思うとこの女が今、自分の腕の中にいること自体がまるで幻のように映った。  
 
「……あんまりだらだらやってると、今にそこの仏さんが生き返っちまうよ。さァさ……」  
女が腰を擦り寄せて知床を催促する。  
知床は、確実に近づきつつある”死”を感じて萎えるどころか逆に怒張を示した己の欲望を女の前に現 
すと、それを中に沈めた。  
「ぅんんっ……!っあ……はぁっ」  
喘ぎ声を夜の闇に溶かしながら女は知床にすがりつき、腰を揺する。  
快楽を求めて必死に腰を動かす様は滑稽でもあったが、それを考える余裕などないほど互いに高まっていた。  
「っふう……、フ、フフ……流石だねぇ。上手いのは剣さばきだけじゃ……はぁんっ……!  
ア……アッアッ……!」  
――この人を布団の上で抱けたら……。  
知床はのぼせあがった鈍い頭でそんなことを考え、そしてそんな自分を嘲笑した。  
――ほんの戯れのつもりで触れた女にこんな感情を抱いてしまうことがそもそも間違っている。しかし、 
もしも生きて帰ることができるのなら……。  
戯れ言だ、とひとりごちながら、知床は女と我が身をさらなる快楽の高みへと追いやった。  
 
獣のように、ただ快楽を求め、ただ腰を突き上げ、ただ呼吸する……そんな存在となり思考も途絶えた 
ふたつの生き物が、一方の吐き出した白濁とした体液を確認すると、やがて小さく崩れ落ちる。  
そして高揚感を肉体に留めたまま互いの唇に噛みつき合い、頭が痺れるほど甘く感じる唾液を啜り合った。  
飢えた山犬が湯気の上がった生温かい臓物を夢中で食らうように。  
 
再び月明かりが辺りを照らし始めると、獣は人間へと姿を変え、両者は名残惜しそうに泣く体を持て余 
しながらゆっくりと立ち上がるのだった。  
 
「明日……ここを去りなさい」  
七三にきっちりと分けられた髪を撫でつけながら、情交のあったことなど微塵も感じさせぬ毅然とした 
態度で知床は言った。  
「…何故?」  
女侍もまた衣服を整え、直立不動の姿勢を保って問う。  
「貴女まで死ぬことはない。黒生家のために死ぬのは黒生家の人間だけで良いのだから」  
腕の立つこの女侍が欠ければ黒生家の劣勢は明らかだ。  
しかし知床は他の何を置いてもこの女だけは死なせたくない、と強く思ってしまっていた。  
一時の戯れのような情交に体は燃え上がり、心までもが冒されてしまった。しかしそれはほんの戯れに 
すぎない。数日もすればおそらく冷めてしまうような安っぽいもの。  
――分かっている。そして、そんなものを抱えながら刀を振るうのもまた一興……。  
――特に、死に臨んだ今は。  
知床は思う。  
黒生邑咲の抜け殻を血溜まりの中に認めつつ、その姿に空蝉を重ねた。  
そんな男の心中を覗き見たかのように、女侍は小さく笑った。  
「……知床、私はお前を死なせたくない」  
知床の反論を許さずに、女は続ける。  
「それに…多分、死ぬときは皆一緒さ」  
 
女は足元の木の根に転がる空蝉をひょいと拾い上げ、それを月夜に照らしながら微笑している。  
それを随分と長い間見つめていた知床は、やがて息を大きく吐き出して言った。  
「……そろそろ屋敷に帰りましょう」  
 
知床は律儀に死体のひとつひとつに手を合わせると、後ろも振り返らずに歩き出した。  
自分の後ろを影のようについてくる、ひとりの女を確かに感じながら……。  
 
  完  
 

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