どこからか、犬の遠吠えが聞こえてくる……。  
 
大塚町は長屋の一室。  
侍は布団も敷かずに畳に寝そべり、犬たちの狂ったように吠えるその声を聞きながら浅い  
眠りについていた。  
月夜が犬どもを狂わせるのか、その声は途絶える気配がない。  
寝静まった町に響くのは野良犬の咆吼のみ。高く低く、長く短く。遠くで聞こえたかと思えば、  
すぐそばで。  
ううう、と低い威嚇の声が耳に届いたその時、音もなく戸が開けられた。  
 
ゆらゆらと体を揺らし、殺意を身の内で踊らせながら恍惚とした表情を浮かべているもの。  
それが戸口に立っていた。  
影沼京次郎だ。  
その体から漂う血臭と殺気は、まるで煙管から上る紫煙のようにはっきりと目に見えるものだった。  
侍は大して驚いた表情も見せずに半身を起こし、京次郎の狂気を含んだ双眸を見る。  
「フフフ……アンタのことを想うと、体が疼いてきてねぇ。たまらなくなってこうして忍んできたっ  
てわけさ……」  
裏返ったような、かすれた奇妙な声が、血色の悪い唇からするするとこぼれ落ちた。  
京次郎の左手が痙攣を起こしたようにぴくりぴくりと動いている。細い筋張った指は血の匂いを渇望し、脈動する触手。いつ、愛刀”美帝骨”に伸びてもおかしくない。  
しかし侍はそれに臆せずに立ち上がると、唇に微かな笑みを貼り付けたまま京次郎に歩み寄った。すでに京次郎の間合いに踏み入っている。  
京次郎は唇を奇妙な形に歪めて、ひしゃげた、嬌声にも似た笑い声を立てて囁いた。  
「フフ、安心しな。別に艶っぽい話じゃない。分かっているだろう?」  
言いながら、わずかに首を傾ける。  
愉快そうに微笑しながらその体を一度大きく震わせると、当たり前のように京次郎の周りから血臭が漂ってきた。  
 
「親分はアンタが邪魔になったのさ。このままだと自分が……――ングッ!!?」  
京次郎の発言はそれ以上許されなかった。  
侍がその唇を、唇で塞いでいる。  
一瞬、何が起きたのか分からずに入り込んでくる舌を受け入れていた京次郎だったが、口元を濡らした唾液を感じると、犬が威嚇するときのような低い唸り声を上げながら歯を噛み合わせた。  
しかし鋭利なその牙が、口中の淫乱な舌を捉えることは出来なかった。  
「危ないな。もう少しで食いつかれるところだ」  
すんでのところで舌を唇の中に納め、侍はからかうように笑う。  
唇を濡らした不愉快な液体をそのままに、京次郎は腰の刀へと手を伸ばした。  
しかし、鞘の中を走る無骨な太刀の音は途中で止まり、再び京次郎は低い唸り声を上げる。  
侍のがっしりとした手が京次郎の鞘を掴んだ手の上に固く置かれ、行く手を阻んでいた。  
負けじと力をかち合わせても敵わない。何故なら相手は屈強な男。そして京次郎は女……。  
どうあがいても力で敵う道理ではなかった。  
「…………!」  
舌打ちをしながら後ろへ身を引こうとした京次郎の腰に、侍の腕が絡みついた。  
「離せ……っ!」  
乱暴に引き寄せられ、強い力で抱きすくめられているうちに、腰の刀が床に投げ捨てられる。  
侍はふたつに折れよと言わんばかりに京次郎を強く抱き、その喉から漏れる微かな空気の音にも、骨が悲鳴を上げているようなきしんだ音にも頓着せずに、腕の中の生き物を羽交い締めにした。  
 
京次郎が何とか逃れようと抵抗し、爪を立て、歯を立ててもそれが緩むことはない。罵りの言葉もその口から放たれることはなく、ただの空気の漏れる音ばかりで、ぐいと一層強く締めた拍子に、激しい蹴りを繰り出していた足が軽々と宙に浮いた。  
「……ぅ……ぁ……」  
侍の背に回り、きつく爪を立てていた京次郎の手がくぐもった苦痛の声と共に脱力する。  
それを確認すると、侍は犬でも撫でるような仕草で京次郎の真っ黒い髪を撫で始めた。  
その仕草は京次郎をからかっているようでもあり、また、愛情の念によるもののようでもあった。  
仮にその行為が愛などという温かな情によるものだったとしても、それは通りすがりの子犬を愛でるといった程度の気安い感情に過ぎなかったが。  
ふうふうという荒い呼吸に連動して波打つ肩に手をやり、京次郎が再び抵抗しようとする前に侍はその体をいとも簡単に畳の上に組み敷いた。  
 
「女が欲しけりゃ女郎でも買ったらいいじゃないかァ、ウゥ……よ、せ……っ!」  
侍が間違いなく自分の中の”女”を欲していると悟り、京次郎は悲鳴に近い声でそう言った。  
その間にも袂からは手が差し込まれ、裾はまくり上げられる。  
「お前を抱いてみたい」  
侍は、自分の挙動によって、普段ひた隠しにしているはずの――もしくは彼女自身、意識していないのかもしれない――”女”をさらけ出していく京次郎を、少々意地の悪い視線で見下げながらそう告げた。  
「ウウ……や、やってみなよ。噛みついて、食いちぎって……フ、フ……喰ってやるから」  
ぎらぎらと攻撃的に光る濁ったような色の瞳が、しきりに揺らめき、動揺する。剥き出しの歯がガチガチと小さな悲鳴を上げていた。  
侍はその京次郎をしっかりと押さえつけると舌を出し、京次郎の頬を舐めた。  
頬にひかれた渦巻きの紅。  
――これを描くのに一刻もかけているという噂は本当だろうか?  
侍は何度もなんどもそこに舌を這わせ、紅を舐め取り、京次郎を脱がした、……いや、「脱がす」などという表現すらこの場面においては艶っぽすぎた。抵抗を見せる京次郎を片腕と足で押さえつけ、あるいは軽く頬を張り、隙をみて着物を剥ぎ、唸り声をあげながら腕に噛みついてくる獣のような女を、侍は裸にしていったのだった。  
その過程はとてもこれから始まる快楽への前戯とは思えない。しかし侍にとっては、そんな色気のない抵抗もこの上なく愉快で、そしてどこか哀れを誘う可愛らしいものなのである。  
 
はさ、と乾いた音をたてたのは、京次郎の髪だった。  
薄暗闇のなか衣擦れの音をたてていたはずの着物は、京次郎の熱をわずかに抱いたまま畳の上に無造作に放られ、徐々に温みを失っている。  
侍は規則正しい呼吸をほんの少し荒げて、組み敷いたそれをじっと見つめた。  
着物を剥いだそこに残ったのは、”女”だった。  
乱れた黒髪の奥から覗く白目がちの瞳は依然、攻撃的な色を宿したままで、しかし恐怖とも歓喜ともとれるような、どこか不思議な輝きを内に秘めていた。  
さらしを巻かれ窮屈そうにしていた乳房が、解放されたことを喜ぶように顕著なふくらみとなって薄暗い闇に映えている。白い、を通り越して青く見える肌に、浮いた肋骨。体のそこここに散った、刀傷の鮮やかさ。  
その体はまるで、人から何も与えられずに育ち、飢えて痩せ細ってしまった野良犬のようだった。  
世辞にも美しいとは言えなかったが、かといってその体は醜悪さを感じるものでもない。  
――憐憫。  
敢えて言うのならばそれだった。  
人間としての道徳や正義、善悪、そういったものがごっそり欠如してしまっている侍の心にすらそんな気持ちを植え付けてしまうほどに、何故かその体は哀れを誘うのだ。  
 
侍は、京次郎の頬をぬぐい舌に残ったままだった紅を、京次郎の唇に塗ってみる。  
「……うん?」  
微かに紅に染まった京次郎の唇は、あまり美しくなかった。  
唇を指でなぞりながら、もっといい色があるはずだろうに、と侍は思案する。  
「厭だ、や、やめろ……アタシは”女”じゃない……!アタシをそういう目で見るな!!」  
悲鳴のような叫びが京次郎の口を突く。  
”女”として見られ、扱われることに対して激しい危機感と嫌悪を感じているのだ。  
敵わぬと知りながら隙を突いて、――あるいは思い出したように抵抗しそのまま喉笛に食らいつこうとする京次郎を、侍は難なくあしらいながら、舌に絡みついて不快感を残す紅を、今度はその骨張った体に塗りたくり始めた。  
 
「……っ!?」  
不意に胸元を襲った侍の舌と唇に、京次郎の体はひとつ大きく跳ね上がる。  
ぞくり、と腰の奥を言い得ぬ心地よい怖気が這い回り、とたん意識下で燃え上がった情欲が京次郎の胸と体を焦がし始めた。  
白い乳房の上を、侍の舌が紅をひきながら動く。  
徐々にその先端が形を作っていき、敏感さを増していった。乳房の周囲が薄紅色に染まり、その染まった色の分以上に、京次郎の体は内から熱を帯び、快楽に呻いている。  
京次郎の肌が赤みを帯びていったのは、侍のひく紅の所為だけではなかった。  
「はじめてじゃないんだろう?」  
激しい抵抗をしつつも、紛れもない”女”を京次郎の中に見つけた侍は、舌を休めて問う。  
「な……なんだって……?」  
止まってしまった心地よい動きに、京次郎の瞳が焦れたように揺れたのを侍は見た。次いで、さっきまでは頑なに閉じられていた京次郎の太腿が侍を蹴り上げるでもなしに、ふいと動いて侍の腿のあたりに触る。  
京次郎には聞こえぬように口の中で笑い声をあげてから、侍はがっちりと捕まえていた京次郎の両腕を解放し、愛撫を再開させた。  
物理的な拘束をなくしても、京次郎はさっきと変わらずに囚われたままだ。  
つまり、”肉欲”という熱い鎖に。  
 
「……イイ、……ねェ」  
その快感は京次郎に、人間を斬って返り血を浴びた瞬間の気が遠くなるような異常な悦楽を思い出させた。  
まただ。打ち震えた京次郎の体から血臭が漂う。  
顔には狂気じみた微笑が、体からは血臭が、そして心からは欲望が飽和し、したたるように溢れていた。  
 
侍はふと、この病的な女の薄気味悪い色の唇と口腔を、自らのそれで陵辱し汚してやりたいという考えを抱いた。  
しかし、  
 
『ウウ……やってみなよ。噛みついて、食いちぎって……フ、フ……喰ってやるから』  
 
――やめておこう……。  
京次郎の言葉を思い出すと、侍は即座にその考えを頭から捨てた。  
刀と同じだ。折れてしまっては……もう戻らない。  
侍は京次郎の胸に手を伸ばし、琴を弾くうら若き乙女のような繊細な指遣いで乳首を爪弾きながら、脚を割って腰を引き寄せた。  
「ぁう……」  
小さく呻くと、京次郎のそこから女のにおいが舞い始める。  
侍の腰が京次郎に擦りつけられ、幾度かの触れあいのあと、沈み込んだ。  
「ぃやあぁあぁぁぁああぁ〜ッ!!」  
押し入ってきたそれに嫌悪したのではなく、率直な快感が京次郎を叫ばせた。その声は嬌声に違いなかったが、彼女が美帝骨と共に血煙の中を舞うときの楽しげな、あの心からの叫びと大した変わりはなかった。  
「う……あっ、アァ……あ、あ……っ!」  
しかしその叫びは次第に唸り声へと姿を変える。  
次第に低い唸り声も消え、変わりに子犬のような甘ったるい鳴き声があたりに響き出した。  
 
闇がふたりを完全に包んでしまっていたとしたら、この部屋に居るものの判別はつかなかったに違いない。  
病んだ山犬のような不規則な呼吸音と、ぴちゃりと漏れる何かの音。  
「変だよ……有り得ない!人の血を浴びるより気持ちいいことがあるなんて……!!」  
ここで初めて、人間がいる、と分かる。  
動物じみた声をただ喉の奥で転がし、一定の間隔と律動を守ってそれを漏らしていた京次郎の唇が、久方振りに人間の言葉で己の思いを口にしていた。  
病的な彩色が施された京次郎の爪が、侍の背に食い込む。  
当惑したような、否定的で、しかも肯定的な、非常に微妙な感情が、京次郎を支配していた。  
「認めない……よ、アタシは……っく……ぅん!」  
白く、生々しく、京次郎は身をくねらせた。  
侍の頑健な肉体の下で悶える白い肌の女は、腹を開かれ、内臓をまき散らしながら、それでも呼吸を止めぬ巨大な蛇を思わせる。事実、侍は幼い時分にそういった子供特有の無垢な残酷さをもって、蛇の腹を裂いたものだった。  
執拗にからみつき、毒々しい視線と牙や爪を向ける、美しい死にかけの、白い蛇。鮮やかに目を燃やして、波のようにうねる、白い蛇。唯一違うのは、その心臓がひどく激しく鼓動を続けているということだけ。  
 
はあぁ、と京次郎が溜め息をひとつ漏らした。  
「このまま……逝ってしまい、たい……」  
語尾を震わせ、そう囁いた京次郎の顔は女の表情だった。眉を快感に歪め、虚ろな目で侍を見上げた。  
侍は京次郎の牙によって傷つけられた腕からつたう自らの血を指ですくい、その指で京次郎の唇をそっとなぞってみる。  
「……ああ、これだ。これが一番似合ってる」  
侍は、濡れた喘ぎ声を漏らす京次郎の真っ赤な唇を満足そうに眺め、その紅を落とさぬよう慎重に舌のみを口中に差し入れながら、再度律動を始めた。  
「っあぁ……っ!はっ……ンンッ!」  
自分自身の唇から漏れる高く切ない女そのものの嬌声を恥じるように、京次郎は口元に手をやった。  
「駄目だ。……紅が落ちてしまうだろう?」  
低く笑い、その耳元に”お京さん”と囁く。  
「いやっ……イヤだ……、あっああぁっ!っあぁッ――!!!」  
自分の中の女を潔癖に嫌いながら、一方で、女だからこその快楽を貪るように動く京次郎は、矛盾と道化のようなおかしさを感じさせた。  
侍は、すぐ脇に獣のようにうずくまった京次郎の着物――女物の深い藍染めの着物を目の端にとらえて笑う。  
「お京さんよ、これが終わったら……、やっぱり殺り合うのか?」  
しかし、喘ぐ京次郎からその答えを聞くのは、今はまだ無理のようだった。  
 
――まただ。どこからか、狂ったような犬の遠吠えが聞こえてきた……。  
 
   完  
 

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