弥生の空は薄雲の彼方、途方もなく高くて泣き出しそうになるほど綺麗だった。  
「ひゃあっ」  
時刻はまだ早いが夕餉の食材を買いに行った帰り道、一瞬強い風が吹き抜けていって呑気に  
鼻歌を歌っていた志乃の着物の裾を揺らした。  
「春先は風が強いなあ」  
さして不快げでもなく、空を見上げた目はあくまで丸く澄んでいる。  
陰りのない、少女の目。  
だが、志乃はこれでも暦とした人妻であった。  
いまだ夫となった伍助は朴念仁そのもので手も触れないときているので、弥生の空のように一  
切の穢れを知らないままでいる。だが、まあそれでもいいかと思っていた。  
どのみち、いずれ捧げる時が来るのだしと日々呑気に構えて家事と内職に精を出すのが日課  
になっていた。  
この間、夫婦になったばかりの二人だ。お互いにゆっくりと絆を深めていければそれが何よりの  
こと。そのうちに少しずつ夫婦らしくなるだろう。  
それでいいのではないか。  
そう考えて、志乃は抱えていた大根をよいしょと抱き直す。  
「全部煮物にしよっかな。それとも半分残して切干に…」  
ふんふんと再び鼻歌を歌いながら、可憐な乙女妻は頭に面妖なうさぎ面をつけた姿で軽やかに  
そぞろ歩いていく。  
その姿は、傍目にも楽しげだった。  
 
「志乃か?」  
後ろから、最近ようやく聞き慣れてきた声がした。夫の伍助だった。  
「あ、ごっちん。おかえりー」  
剣術道場を開いたばかりの伍助は、このところ毎日のように出歩いては道場の宣伝をしている  
ようだ。これといって理念のない道場なのでまだ弟子も少ないが、そういう頑張りを見せるとこ  
ろが志乃は大好きだった。男女間の感情とは多少違うのかも知れないが。  
「夕餉は大根か」  
「うん、ごっちん好きだよね。何でも言って。あたし頑張る」  
「そうだなあ、では…」  
志乃が年齢的に子供なら、伍助も似たり寄ったりだ。夫婦というよりはまるで兄妹のような風情  
に時折通りすがる通行人がふふと微笑む。  
「夕刻になるとまだ冷えるのでな。熱々の風呂吹きがいいな」  
「うん、分かった。美味しいの作るね」  
特別何があった訳でもない日のこと。ただ肩を並べて家路につく二人の姿は、一人一人ではと  
ても生きていけない寂しがりのうさぎに重なっていた。  
 
 
 
終わり  
 

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