うめ、もも、さくら  
 はるのはな  
 ちる、ちる、みちる  
 はるのひび  
 「……イカン……意識が飛んでしまった」  
 捕まれてる腕に絡んでる指の先には、桜貝のように小さく薄い爪が並んでいる。  
 近頃志乃…オレの妻だが…は昼間よく寝る。  
 別に夜寝る暇が無いとかそーゆーのではない。  
 夜遅くまで内職(我が家の名誉の為に言うが別に生活に困窮しているわけじゃないぞ)していて、訳あって徹夜作業を続けたのが尾を引いているのだ。  
 「――――。」  
 暖かな手だ。世辞にも綺麗な手とは言い辛いが、良い手とは言える。  
 家での躾けがよほど良かったのだろう、家の始末も行き届いていて、とても茶や花を嗜んで精一杯という武家の娘とは思えないほど良く働く。  
 庭に甘く香る桃の花を啄ばみながら、鶯が鳴きもせず小枝に止まっている。  
 障子を開け放してももう冷たい風は吹き込まない。  
 代わりにそよぐ春の薫りに包まれ、うららかな日に差されながらじっと目を閉じた。  
 妻の寝息と、妻の手。  
 ……おかしい、顔が熱い。何故だ。  
 ひざ掛けを早く掛けてやらねば風邪を引くというのに、この掴まれた腕を振り払いたくないという欲求が勝って動けない。  
 薄く力が入っている小さな手に握られているというだけなのに、何だこの満足感は。なんだこの多幸感は。例えるなら生まれたばかりの赤子に指をぎゅっと握られるあの感じを想像してもらえればいい。  
 腰を砕く甘い香り。背筋を蕩かす暖かな日差し。思考を止める妻の寝息。  
 「……うぅ……」  
 手を引っ込めたら起きるだろうか。それとも気付かずそのまま眠っているだろうか。  
 ここが家の中でよかった。もしも往来なら、オレは完全に寝息を立てる娘に悪させんとする無粋な好色男で……いや、家の中でも、十分にそうか。  
 こめかみの辺りがビリビリ泡立っている。握られている腕が熱くて、針でも突き立てられている様だ。  
 名を呼んでみたい、と何故か思った。呼んで起こしたいのか、と問えば否。  
 では何故と問うても答えは無い。  
 短いたった二文字の名前を舌に載せる。起こさないように囁くように。  
 「……志乃」  
 
 腰の辺りがぞわぞわそそけ立つ感じがして、それが一体何なのか掴みあぐねている。なのにその名を呼んで得られる快感に抗う事が出来ない。まるで甘い菓子のような魔性の誘惑。  
 「志乃」  
 よせてはかえす波の如く強く弱く繰り返す世迷い言。熱に浮かされた童が母を呼ぶように。  
 「……志乃」  
 思わず手にぐっと力が入る。居ても立ってもいられなくなってきた。障子も開け放した昼日向に何を考えている。……不埒な。  
 だがこの名の響きなんと甘美なことか。唇に乗せるたびにジーンと頭の隅が痺れてまともに物が考えられなくなってくる。あの白く柔らかそうなふくらはぎは如何様な感触なのか……  
 「――――――呼んだ?」  
 フラフラと吸い寄せられるように志乃の寝乱れた裾元に吸い寄せられながら高鳴っていた心の臓が、確かに止まる。  
 「っ……!?」  
 ついさっきまで艶めかしいうなじと襟足をこちらに向けてぐぅぐぅ寝ていた筈の志乃が、ぼんやりした顔でオレの顔を覗き込んでいる。不覚、起きた事にも気付かず妄想に耽っていたのか。  
 「っ……………い…いや、構わん……寝ていて、いい。……寝て、なさい」  
 顔が染まるのがわかる。声が裏返ってみっともない。しどろもどろに混乱する頭がその場を何とか取り繕おうと手足に命令するので、顔を渋く歪めて言葉を濁すしかなかった。  
 「そう?」  
 素直にパタンと起こした頭を寝かせ、また目を閉じた志乃は恥かしくて逃げ出そうとつま先を立てたオレの手を取り、言った。  
 「ごっちん……あったかくてきもちーよ……」  
 それ以上は寝息に変わった何も言わない志乃に、オレはすっかり腰が抜けたようになって手を振り払う気力も失せ、掴まれた腕を支点にへたりと座り込んでしまった。  
 
 それからオレ達が目を覚ますのは夕暮れ近くになってからで、当然夕餉の支度もしてなかったので二人で蕎麦を食べ、帰りは手をつないで桃の花の咲き乱れる川べりを通って帰ることにした。  
 「アタシ桃の花ってすき」  
 「……香りがか?」  
 「ううん、木も葉っぱも全部。なんか幸せな感じがするから。あと桃の実おいしーしね」  
 言われてふと昼間の光景が頭を過ぎり、つい力んで繋いだ手に力を込めてしまった。  
 「オ、オレも……そう思う」  
 たったそれだけを言うのに顔が熱くなる。生まれて初めて宵闇に感謝の意を述べたいと思った。  
 それでも志乃は桃の花のようにほころんだ笑顔でオレの手を握り返して笑ったのがなんだか心の底から嬉しくて恥かしくて、歩調を気付かれないように緩めて、黙って歩いた。  
 

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