春の月は気紛れだ。
顔を出したと思えばすぐに雲間に隠れてしまう。
「そろそろ桜も咲くかなあ」
深夜、入浴ついでに風呂場の窓から真っ黒な夜空を見上げている志乃は、所在なげにぱしゃん
と水音をたてた。
今日も一日立ち働いていたので何となく疲れたなあと思い至ったが、このぐらいは快いものだ。
日常の、炊事掃除家庭内の雑事をこなすのは別に何の苦でもない。元々実家も武家とはいえ
大した石高もないときているので、必然的に身の回りのことは自分でするのが当然という気風
になっていた。
むしろ、夫の伍助と二人だけの今の生活はかなり気楽と言っていい。
何しろ世話も面倒も二人分で済むのだ。
「あー…月だあ」
窓からは、ほんのわずかに月の姿が見え隠れしている。昨夜はぱきんと折れそうに細くて綺麗
な三日月だったから、今宵も同じような姿をしているのだろう。ただ、相変わらず朧で見えないの
だが。
その時のこと。
廊下の床板が軋む音が聞こえてきた。今日は早々と寝付いた伍助が厠にでも起き出してきた
のだろう。風呂場の戸口で尋ねる声。
「志乃、何をしておる」
「んー、お風呂だよ。こんな時間になったけどねー」
「湯はぬるくないのか?風邪をひくぞ」
「平気平気ー、アタシ体温高いし」
実際、ぬるい湯は眠くなりそうなほど気持ちが良かったのだ。本音を言えばもっと温かい方が良
かったかなとも思ったけれど。
と。
外の焚き口の辺りに何やらごそごそと人の気配がした。しきりに石を打つ音がする。
「え、何。ごっちん」
窓に身を乗り出せば、伍助は焚き口に伏せたまま細い枝に火を移しているところだった。
「ちと焚いてやるぞ。そのままでは寒かろう」
「そんなの大丈夫なのにー」
「馬鹿を言え」
伍助は顔を上げることなく、決して志乃と目を合わせることもしないで黙々と風呂焚きの作業を
こなしていく。その甲斐あって冷めかけていた湯は次第に温んでくる。わざわざこんな時間に、
手間のかかることをさせてしまったと思いながらも志乃はその心尽くしに甘えることにした。
「…ありがと、ごっちん。あったかいよ」
「そうか」
「うん、嬉しいよ」
薪一本か二本分、風呂の湯を温め直すには充分なものだけれど、それ以上に志乃の心はほか
ほかと温くなっていた。
やっぱりこの人に嫁いで良かった、兄の言うことを聞いて正しかったのだと思えるだけで満足だ
った。
「あ、月がはっきり見えた。ほらー」
何となく照れ隠しで真っ黒な夜空を指せば、窓の外の伍助も同時に見上げたようで感嘆の声を
上げる。
「ほう、今宵は朧月か」
「そうだよ、月はいつ見ても飽きないよね」
「そうだな」
窓を隔てて朧な月を見上げる二人の距離は、今宵もそれ以上に近付くことはない。けれど。日々
は確実に境界を融かしていく。
春はあやかし。
終わり