物書きの仕事は休暇を賜った。道場のほうも定休日である。  
 食料の蓄えは十分ある。生活品もまだ買出しに行く必要はない。  
 よって今日は外出せず、家でのんびりする事に決めた。  
 仕事のことも道場のことも忘れ、たまには我が家で一日中くつろいでみたかったのだ。  
「ごっちーん!!」  
「む!?」  
 だがそれも志乃が居るからには叶わぬ夢で、穏やかな時の流れは正午を境に停止した。  
 元気に廊下を駆ける音と元気にオレの名を呼ぶ声が近づいてくる。  
 志乃はオレの居る部屋の前で急停止すると、「うわっとと」とか言いながらつんのめった。  
「わぶっ!」  
 そして元気な轟音が響いた。木製の床に自慢のおでこを打ち付けたのだ。  
「……大丈夫か?」  
「へーきへーき!」  
 志乃の額は思いのほか頑丈だった。  
「よいしょ」  
 着物をパンパンと払い、いつもの笑顔でオレに視線を送る。  
「あのさ、ごっちん。今日は一日お仕事ないんだよね?」  
「う、うむ」  
「あーやっぱり。それでね、ひとつオネガイがあるんだけど……」  
「オネガイ?」  
 赤みを帯びた額を摩りながら、ねだるような目で擦り寄ってくる。  
 当人に色目を使っている気はないのだろうが、見様によってはなるほど艶やかであった。  
(はて。オネガイとは一体……いや、そんな事よりも顔が近い…)  
 
 “オネガイ”とは単なる内職の手伝いの事だった。  
 明朝問屋が来るのだが、それまでにどうしても間に合いそうもないのだと言う。  
 それを聞いた俺は仕方なく了解し、こうして志乃と向かい合っている。  
「ごめんねー。でもよかった、ごっちんの仕事がお休みで」  
 休みなどではない、この日を安息に過ごすために自ら休暇を申し出たのだ。  
 それが、このままだと志乃のために丸一日潰す事になるかも知れぬ。  
 傍らに用意された山のような綿と布が皮肉にもそれを物語っている。  
(まさか、あれを全部枕にしろというのか……!?)  
 内職の内容は、布を袋にして中に綿を入れ、さらにそれを括って俵型に縫合すること。  
 要するに括り枕を作ることだ。いつも寝ている枕と似た物を作ればよい、そう思えば簡単な気もした。  
 いや、しかし。  
「……志乃よ。まさかそれは、う…うさぎではあるまいな?」  
「そう、うさぎ! かわいいでしょ。あたしも一度こんな枕で寝てみたいなぁ」  
 そんな形をした枕を問屋に渡してしまってよいものか。  
「こう、耳の部分に頭を埋めると、すっごく気持ち良さそうじゃない!?」  
「そうか? 上下逆さまにして使ったほうが良さそうな気もするが」  
「えーっ! うさぎの頭を逆さにするだなんて、ごっちん変だよ変!」  
(お主に言われとうないわ)  
 
「む」  
 糸を通した穴と穴の間の布が破れ、その部分が大きくほつれてしまった。  
「……いかんせん裁縫は経験がないもので、なかなか上手くゆかぬな」  
「最初は誰だってそうだよ。お面のときだってそうだったでしょ」  
 そう言えば、最初は木を彫るという作業自体に大変手間取った記憶がある。  
「そういうものなのか」  
「そんなもんそんなもん」  
 にかーっと笑う志乃の得意の笑顔が、この時はいつもより眩しく見えた。  
 屈託のない志乃の笑顔を見ていたら、安息を奪われた事の憂いの念もどこかへ行ってしまったのだ。  
(……ふむ)  
 先程オレは志乃のために一日を潰すと言ったか。撤回しよう。  
 多少気恥ずかしい面もあるが、嫁と並んで日がな一日を過ごすというのは中々に良いものだ。  
(これはこれでのんびりした一日なのかも知れぬな)  
 
「……痛っ」  
 突如、左手薬指に痛みを覚えた。間抜けなことに、何かの弾みで縫針を指に刺してしまったようだ。  
「ごっちん大丈夫!?」  
 大仰に心配する志乃。先ほどのお主の転倒よりは明らかに軽傷だぞ。  
「なんという事はないぞ、ちょいとしくじっただけだ」  
「なんて事なくないよ! 血! 血が出てるじゃん!」  
 そりゃ針で指を刺せば血も出よう。  
「案ずるでない。この程度、放っておけば自然に止ま……」  
 言い切る前に志乃が寄ってきたと思ったら――  
「あむ」  
 いつの間にか負傷した指をくわえられていた。  
 
(なっ!?)  
「んむ」  
(な、な、な……!)  
「ん〜っ」  
(なまあたたかいッ……!)  
「って、志乃!? 何を……」  
「んぷ。…何って、ひょうどく」  
 志乃が喋れば舌が動くわけで、オレの指は柔らかくて湿った物体に蹂躙された。  
(志乃の口の中に、オレの指が、は、入ってる)  
 うーむ……志乃は単にオレの事を心配してこうしてくれているだけなのだが、心のどこかで妙な考えを抱いてしまっている自分が後ろめたい。  
 それにしても鼓動が速い。加えて顔が異様に熱い。きっと今のオレの頬は志乃の額と同じくらい赤いはずだ。  
 幸いにも志乃は目を瞑りながら消毒行為に没頭している。顔を上げる気配もない。  
 こんな顔を見られた日には、オレの夫としての面目が……。  
「ちゅぱっ。……ふぅ、これで安心だね!」  
「わわわわっ!!」  
 突然開放された薬指。志乃の唾液で濡れそぼっていて、そこだけ風が冷たく感じた。  
 志乃は舌なめずりをすると、俯くオレの顔を上目遣いで覗いてきた。  
「あれ、どしたの? 後ろなんか向いちゃって」  
「あ…な…何か居るっ!! オレの後ろに気配を感じるのだっ!」  
「なんも居ないよー? 変なごっちん」  
(だーかーらお主にだけはッ!)  
 とはいえオレの言い逃れは相変わらず拙くて、今回は志乃もついに信じなかった。  
 恥ずかしさとくやしさで涙が出そうである。  
 
「じゃ、あたし包帯持ってくるね!」  
「たかがこの程度の怪我で包帯とは大袈裟すぎぬか?」  
「いーのいーの!」  
 とたた、と廊下を駆けていく。  
 志乃が駆け出した事で風が起こり、その風がオレの左手薬指をくすぐった。  
 志乃の唾液はまだ乾いておらず、風を冷たく感じさせるほどには濡れていた。  
(志乃が、この指を舐めたのか……)  
 ……ひどく後ろめたい事を思いついてしまった。  
 “匂いを嗅いだり、味を確かめたりしてみたい”  
(変態かオレは……)  
 体面にこだわるつもりなどないが、なんというか道徳的に許されるべき行為じゃない気がするのだ。  
 だが、今この部屋にはオレ一人しかいない。  
(いや、しかし。それを実行するのはやはり憚られる……ん?)  
 知らず知らずのうちに濡れた薬指が顔の前まで来ていた。  
(いかん! オレは何をしようとしているのだ!?)  
 ぺろり。  
 結局理性はうまく働かず、オレはその指を舐めたようである。味は……よくわからない。  
 ただ、なぜだろう。それだけの事なのに凄く興奮してしまっている自分が居る。  
 いっそ同じようにくわえてしまうのはどうだろうか。  
(これはもしかすると、間接的な接吻と言えまいか……?)  
 余計な思考がオレをますます興奮させてしまい、その指をくわえようとしたところで  
「おまたせー! 包帯見っけたよ!」  
「のわぁぁぁ!!」  
 心臓がうさぎのように跳ね上がった。  
 
「むー? 今度はどしたん?」  
「いや、志乃が急に飛び出してきたのでびっくりしてだな……」  
「あーそっか、前もそんな事あったよね。ごめんねっ」  
「あ、謝らなくとも良いのだぞ! 志乃は何も悪くない!」  
 今回に限って悪いのはオレだ。  
「そう? 良かったぁ。…はい、じゃあ指出してちょーだい」  
「あ、うむ」  
 もはや少々血が滲む程度でしかない薬指を差し出すと、志乃は笑顔で包帯を取り出した。  
「くるくる〜」  
 塩一粒分の傷口に対し、ぶっとい包帯が豪快に巻かれてゆく。  
「はいできあがり!」  
 最後に端をキュッと結び、俵のような薬指が出来上がった。  
 
 今にも日が沈もうとしている。南向きの部屋は真っ赤に染まっていた。  
 オレの休日がいよいよ終わりを告げようとしているわけだが、内職の方はまだ半分も終わっていなかった。  
 志乃はえらく頑張っている。オレはと言うと、俵状の薬指が邪魔なせいか、まるで志乃の役に立てていない。  
(この調子で明朝まで間に合うのだろうか……?)  
 気を取り直して裁縫を続けるが、やはり薬指が伸びきりだと上手いこと布と針を操れない。  
「志乃。巻いてもらっておいてなんだが、このままでは枕の出来に支障を来す。包帯を外してしまってもよいか?」  
「ん、そだね。もう血も止まってるだろうから外していーよ」  
 包帯を外してみるとやはり血は止まっていた。傷口なんてその存在すら怪しいものだ。  
「……ごっちん、その指は大切にしてね? 結婚指輪がはめられなくなっちゃう」  
(む…結婚指輪?)   
 少々真剣な物言いになったかと思えば、志乃の口から聞き馴れぬ言葉がこぼれた。  
「指輪って、あの銀製の? 結婚指輪などというものがあるのか」  
「新婚さんの間で流行ってるらしいよ。なんかねぇ、お互いの左手薬指に付けて愛を誓うんだって」  
「愛を……?」  
 ――“愛”か。そのようなものが、一体オレと志乃の間には成り立っているのだろうか。  
 未だ別々の床で眠る仲なのだ。オレたちは、単なる形だけの夫婦なのではなかろうか。  
「あたしたちもいつか立派な結婚指輪を付けるんだから、その指だけは大事にしておいてね?」  
「し、承知した」  
 志乃はあくまでも結婚指輪を付けるつもりらしい。  
(つまりは、オレとの愛を誓おうとしている……?)  
 
 はたして本当にそうなのだろうか。志乃の口から本当の事を聞きたい。  
 オレの思い込みかも知れない――そういった消極的な思考がオレの顔を熱くさせる。  
 しかし、明るさを失いつつある空がオレの羞恥心を暗闇に紛れさせてくれた。  
「…なぁ志乃よ」  
「なーに?」  
「お、お主は、オレを……オレの事を、愛してくれているか?」  
 おそらく陽が射していれば恥ずかしくて言えなかったであろう言葉。しかし今は闇がオレを守ってくれている。  
「ふぇ? どったの急に?」  
「いやだから、志乃はちゃんとオレを愛しているのかと……」  
「またまたぁ。あたし達は夫婦でしょ? 愛してるに決まってるじゃん!」  
「ちゃ、茶化さないでもらいたい」  
「むぅー……」  
 志乃は困ったように眉を寄せ、唇を突き出してオレから目を逸らした。  
 その素振りは、オレには恥じらっているように見えた。  
(志乃にも恥じらいというものがあったのか……)  
 志乃は俯きながら小さな声で言葉を紡ぎ出す。  
「茶化してなんかないんだけどなぁ……」  
 続けて志乃は言う。  
「あたしはね…ごっちんの事、愛してるよ。本当だよ」  
 
 日が沈んだ。真っ赤な空が全き闇に変わるのも時間の問題だろう。  
 実際、窓辺に座る志乃の半分は紅く染まり、もう半分は闇に熔けている。  
 その珍しく真剣な顔も、赤と黒の対比がより印象深いものへと昇華させていた。  
「ごっちんは…どうなの?」  
「む……」  
 当り前だろう、オレも志乃を愛している。  
 そうでなければ出世しようだとか道場を作ろうなどとは考えもしなかっただろうし、第一今のオレは志乃あってのオレである。  
 志乃がいなければ、オレの考えがこれ程まで変わる事は無かったであろう。  
 愛せない訳がないのだ。  
「あ、愛しているに決まっておろう」  
 …言った。オレは言ったぞ。  
「……うん、そうだよねっ!」  
 志乃の笑顔には見慣れていたが、涙の浮かんだ目がいつも以上にそれを際立たせていた。  
 お互い見つめあったまま、針と布を持つ手が止まっている。  
 こんなにもふたりが感慨深くなってしまった日には、もう〆切に間に合わせる事など不可能だろうな。  
 だからといってこれからふたりの関係に何か変化が起きるわけでもない。  
 きっと今のふたりには口頭で互いの愛を確かめられただけで十分なのだ。  
「あーもーどうしよ。好きだよごっちん。大好きだよ」  
「あ、う、もちろんオレもだが…その、やっぱり口にするのは恥ずかしいものだな」  
「ごっちんの照れ屋さん」  
「む……反論はできぬ」  
 まあ、でも。もうこれで照れ隠しをする必要は無くなったわけだ。  
 これからは思う存分志乃の言動やら行動やらに照れる事ができる。  
「さてと。あたしロウソク取ってくる!」  
「うむ」  
 気付けば部屋を闇が飲み尽くさんとしていた。  
 部屋の燭台にロウソクを立てねば互いの顔すら確認できなくなってしまうのだ。  
 それは、今のふたりにとって致命的な問題と言える。  
 もう闇は必要ないのだ。  
 
 志乃の持ってきたロウソクに小さな炎が灯った。  
「点いた点いた! あっかるーい!」  
「むぉ!?」  
 灯ってから気付いた。いつの間にやらオレと志乃はこんなにも近く寄り添っていた。  
「わっ、ごっちんが目の前にいる!」  
「す、すまぬ。暗くてよく見えなかったもので…っ」  
「待ってごっちん!」  
 オレは反射的にすぐさま距離を置こうとしたが、志乃の小さな両手がオレを掴んで引き止めた。  
「離れる必要なんかないでしょ?」  
「それも…そうだな」  
 掴まれた腕から志乃の体温を感じる。  
 そういえば、こうして互いに触れ合う事なんて今までほとんど無かったんだな。夫婦なのに。  
「ごっちん」  
「む?」  
 志乃は顔を赤らめながらも、決心したような顔でオレを見つめていた。  
「てりゃ!」  
「はぷっ!?」  
 そして突然の接吻。  
 いつも見ていた薄桃色の唇は、想像以上に柔らかかった。  
(志乃が…こんなにも近くに……)  
 驚きで瞑っていた目を開いてみると、目と鼻の先に志乃の愛らしい顔がある事実を痛感し、かつ興奮した。  
「んふぅ……」  
 志乃のかオレのかわからない鼻息の音が聞こえる。  
 お互い口からは呼吸が出来ず、そのくせ心臓が速いもんだから自然と鼻息が荒くなるのだ。  
「んむっ…ちゅぷ」  
 とりあえずオレは全神経を唇と舌に集中させた。  
 先刻わからなかった志乃の唾液の味は、今になってようやくその甘さを思い知った。  
 
 
 

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