道場を休みにした日の午後のこと。  
特別することもなく、伍助はぶらぶらと門前町を歩いていた。  
休みにしたのはただ何となくのことだ。最近根を詰めているなと自分でも思っていたので少々気  
を緩めてもいいかと思っただけのこと。  
珍しく、傍らに志乃はいない。  
『お散歩、アタシも一緒に行くねー。支度するから先に行ってて』  
いつものように午前中は朝早くから道場の隅々を磨き上げていた志乃は、午後になってもまめま  
めしく屋敷の掃除を続けている。額に汗の粒を光らせて律儀に手を動かしたままそう言われれば、  
無理に誘うことも出来なかった。  
だが、いつも歩く道筋は大体決まっている。  
そのうちに追いついてきてくれるだろうと期待しながら、伍助は母親に放っておかれた子供のよう  
に頼りない表情でそぞろ歩く。  
通りはいつも賑やかだ。  
様々な人間たちがそれぞれの事情を抱えて行き交う。  
「…ほう」  
ふと、伍助の目が小間物屋の店先で止まった。  
目を引くように綺麗に飾られていたのは女物の櫛やかんざしで、女であればつい手に取ってしま  
いたくなるほどにどれもこれも美しく凝った意匠だ。  
「お侍様、いかがでしょうか」  
伍助の姿を認めたらしく店の者らしき男が、腰低く寄って来る。  
「うむ、そうだな…」  
特に華やかな娘用らしい花かんざしをうっかり手に取ってしまっていた伍助は、どこか気まずい心  
持ちで言葉を濁した。  
そういえば志乃には今までこれといって何も買い与えてはいなかった。日頃から欲もなく不満も一  
切口にしないだけに、一体何をしてやればいいのかさっぱり分からない。  
一緒にいられればそれでいい。  
それは本気だが、何か形になるものがあればいい。  
最近は、そんなことも考えていた。だからこそ、かんざしに目が行ったのだろう。  
これを志乃があの緑の黒髪に挿したら、さぞかし映えて愛らしかろうと。  
 
「お侍様」  
急かすような声が、夢想を現実に返す。  
「済まんな。こういうものは妻がここにおらんとさっぱり分からん」  
「ごっちーん!」  
この時、絶妙とも言える間合いで志乃が駆け寄って来た。その姿は子うさぎのように無邪気で愛  
らしい。  
「志乃、あまり急ぐと転ぶぞ」  
「えへへー、いっぱい探したよ」  
慌てて声をかける伍助にも、この妻はいとも気楽なものだ。  
持ち合わせは給金を貰ったばかりということでそれなりにあるものの、適当に言い繕って小間物  
屋から離れるつもりだっただけにすっかりあてが外れてしまった。まだかんざしを持ったままの手  
が所在無い。  
店の男は志乃の姿に低い腰を一層低くして揉み手をする。  
「お侍様、こちらがお内儀様で」  
「…うむ」  
「ではよろしいではございませんか。どうぞ挿して御覧になってみては。可愛らしいお内儀様には  
きっとお似合いになると思いますが」  
「えー、ごめんね。アタシいらない」  
「え?」  
伍助と男が同時に言葉を返した。  
志乃は恥ずかしそうに笑いながら、伍助が持っていた花かんざしをそうっと外して棚に戻した。  
「ほら、アタシこの通りだし。綺麗なかんざしはまだ早いよ」  
「でもお内儀様」  
「ごめんね、でも欲しくなったらこのお店に来るね。きっと」  
「志乃…」  
「じゃあ、お散歩の続きしよっか。ごっちん」  
まだ何か言いたそうな男を放って、志乃はさっさと伍助の袖を引いてその場を離れた。何もかも全  
く鮮やかなもので、ぐずぐずしていた伍助はすっかり呆気に取られてしまっていた。  
 
「ねー、ごっちん」  
肩を並べて歩く道すがら、志乃は小首を傾げて尋ねてきた。  
「さっき、アタシにあのかんざしを買ってくれるつもりだった?」  
「あ、ああ…女ならああいったものは誰でも欲しがるものだろう。だから見ていた。それだけだ」  
「んー…アタシには似合わないよ」  
ちょっと拗ねたような声を出して、志乃は伍助の肩口に額を寄せた。そしてとある一点を指す。  
「ごっちん、あれ一つ買って」  
まっすぐ指した指の先にあったものは饅頭屋の店先で湯気をたてているせいろだった。  
言われた通りに蒸したてでまだ熱い饅頭を一つだけ買って与えると、志乃は物も言わずに二つに  
割って片割れを差し出してくる。  
「はい、ごっちんの分」  
「…うん」  
「お饅頭は、やっぱり熱々が美味しいよねー」  
「…そうだな」  
まるで狐にでもつままれたような気分だ。  
こんなに愛らしい妻は、身を飾る美しい櫛やかんざしに目もくれず、子供のように飴玉や饅頭を欲  
しがる。それが志乃らしいと言えるのだが。  
それでもにこにこしながら半分の饅頭を頬張る横顔を眺めていると、何に価値を感じていても別に  
構わないという気分になってくるから不思議だ。  
だが、いつかは一番似合うかんざしを選んでやろうと伍助は心を決めた。今よりも大人になって少  
し淑やかになった志乃に美しいかんざしはより映えるに違いないのだから。  
その姿を夢想して、伍助はうっかり一人でにやついてしまっていた。  
 
人気が途切れた辺りで手を握ってから、逸る気持ちが抑えられなくて路地裏に誘い込んだ。志乃  
も大人しく従う。  
別に誰に見られても構わないが、志乃のあのしどけない姿を晒したくはない。ならば屋敷に戻って  
からでもと一瞬思ったのだが、今ここでどうしても睦み合いたかった。  
そんな思いが伝わったのだろうか。  
「…ごっちんの助平」  
物影で立ったまま着物を乱されながらも、蕩けた声で志乃は妖艶に微笑む。剥き出されて薄紅色  
に染まった可愛い乳房を夢中で揉みながら、珊瑚色にぬらめく唇を伍助は狂おしいほどに貪って  
いた。  
 
何もかも、どの形も志乃を形作っているものであれば全てが愛しい。初めてこの華奢な妻の身を  
掻き抱いた夜からずっと、伍助の中には言葉にすることも憚られるほどの熱く、激しく、決して消え  
ることのない劣情が宿ったのだ。  
志乃は最初から伍助の為に生まれて添い遂げる運命だった。今はそう思っている。そんな何より  
も大事で愛しい妻をこうして求めるのは、ごく当然のことに思えた。髪から漂う椿油の匂いにすら、  
妖しい欲が掻きたてられる。  
「志乃、志乃…もっと欲しい…」  
「…ん、うん…いっぱいして、ごっちん…」  
もはや、どこにいるのかすら分からなくなった法悦の中、快楽の先で手繰るように力を失っている  
志乃の身体を強く抱き締めた。志乃も細い腕で必死に縋ってくる。  
 
飴玉も饅頭も美味しいものは半分にして、二人で喜ぶ。  
そんな可愛い妻である志乃を愛おしまずにはいられない。  
 
 
 
終わり  
 

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