軒先に吊るした風鈴が、ちりんと涼やかに鳴った。  
「…ふうっ」  
雨戸を一枚分余計に開けた後、夜風があまりにも心地良くて伍助は思わず感嘆のような声を漏  
らす。  
さすがにこの時期は雨戸を閉め切ったまま睦んでいると蒸し暑くて困る。そんな伍助の様子がお  
かしいのか、寝床に寝そべっている志乃はくすくすと笑っている。  
「ごっちん、子供みたーい」  
「む…暑いから仕方なかろう。志乃もそうではないか」  
「アタシ?んー…」  
志乃はどうした訳かしばらく考え事をするように小首を傾げた後、奇妙なことを言ってのけた。  
「そういえば暑いかも。なんか良く分かんなかったけど」  
だが、伍助は志乃のことならばいつものことだと流した。志乃の方でもそれ以上考えることもない  
ようで、ころころと寝床に転がっている。  
「ねー、ごっちん。涼しくなったことだし、も一回しよっ」  
「…う、うむ。そうだな」  
わざと不承不承、という面持ちを繕って愛妻の待つ寝床に歩を進める伍助はほとんど何も知らな  
い。今はこうして幸せそうにしている愛らしく志乃にどんな壮絶な過去があったのかを。だが、既  
に過ぎ去ったことでしかない。新たに記憶に刻む必要もない。  
現在の生活に満たされきっているせいで、当の志乃ですらもう忘れかけている出来事だ。人は  
そうして嫌なことを少しずつ忘れていく。  
新たな日々を生きていく為に。  
 
松山家に嫁入りして以来一年このかた、ぱたりと便りの絶えていた妹志乃が駆け込み寺に逃げ  
込んだという知らせが摂津正雪の許に突如として届いたのは春まだ淡い頃。  
長年慈しんできた可愛い妹がてっきり幸せに暮らしているものと思い込んでいたので、訳も分か  
らぬままに鎌倉の寺に出向いてみれば、初老ながらも品のある庵主が案内をしながらもふっと  
俯く。  
「このようにお若い方は当方でも初めてですので」  
「…そうでしょうね」  
「志乃さん、お兄様がおいでになりましたよ」  
案内された部屋の隅で、志乃はぼんやりと視線を宙に泳がせていた。まるで魂が抜けた人形の  
ようで、これがあの溌剌とした妹かと思わざるを得ない。一体、一年の間に何があったのか。  
「志乃」  
薄暗い室内で声をかけると、志乃は茫洋とした表情から一転、怖いものでも目の前に現れたよう  
に目玉が零れ落ちそうなほど目を見張った。  
身に着けている着物こそ婚家を伺わせる金糸縫い取りの豪華なものだが、それだけに不憫さが  
いや増す。  
「お、にいちゃん」  
「松山家で何があった、志乃」  
「お願い、何も言わないで。みんなアタシが悪いの。我慢が足りなくて浅はかで何もかも投げちゃ  
ったアタシが悪いの。まっつんはアタシを武家の妻としてふさわしいようにしようと…」  
まるで出来の悪いからくり人形のように、以前なら決して言わなかったことをうわ言のように繰り  
返す志乃は確かにどこかが壊れていた。恐らくまともな結婚生活ではなかったのだとそんなこと  
でも思い知らされる。  
「でも嫌だから逃げて来たんだろ」  
同じことばかりを繰り返す志乃の言葉を切るようにそれだけ言うと、何かの糸がぷつりと切れたよ  
うに志乃がわあっと泣き出した。  
「アタシ嫌、こんなアタシは嫌ああ…」  
錯乱しながらも泣き続ける志乃の背中をさすっていると、部屋の入り口で佇んでいた庵主がいざ  
り寄って来た。  
 
「摂津様、御相談がございます」  
「…何でしょうか」  
「当方では縁切り希望の女人には尼となって頂き、三年間の修行をさせる決まりになっておりま  
すが…この御様子から致しますに志乃さんはあまりにも年若く不憫に思います。どう致しましょう  
か、決まりに従って髪は下ろしますか?それとも例外として摂津家預かりと処理した上でお返し  
致しますか?」  
この寺に例外などというものがあるとは思わなかったが、縁を切りたがる女たちの事情も様々に  
ある以上、柔軟に対応することも必要なのかも知れない。  
「それではお言葉に甘えまして、志乃は連れ帰ることにします。縁切りの始末の方は何卒よろし  
くお願いします」  
摂津の言葉に、庵主は何故かほっとしたような顔になった。  
「ええ、ええ。それはもちろんきちんと切らせましょう。それが当方の役目ですから」  
二人がそんな遣り取りをしている間も、志乃はずっと堰を切ったように泣き続けていた。  
 
 
志乃の最初の夫、松山桐之進は高禄の身にも関わらず身分に拘ることのない優しい男だった。  
それは人前でだけの顔で、本性は全く別だったのだが。  
襖の内側、二人きりになった途端に凄まじいばかりの豹変をする性質と知ったのは不幸にも初夜  
の閨だった。  
和やかな雰囲気の婚礼がそろそろ終わる頃、酒の入った松山は軽やかに笑いながら手を差し伸  
べてきた。  
「さあ、志乃。慣れぬことばかりで疲れただろう。休むとするか」  
「え…でも」  
「構うことはない。頃合に引き上げるのも良かろうて」  
確かに、飲める訳でもないのに既に酒宴と化している場にいつまでもいても仕方がない。そう思い  
直して肩を抱かれるままに寝間に向かうまでは志乃は幸せだった。松山のような男に見初められ  
たことを誇りにも思っていた。  
 
後ろ手で寝間の襖を閉めた松山は、にやりと笑ったような気がした。  
「…ふん、くだらねーな。何が婚礼だ」  
頭をがりがりと掻きながら吐き捨てるように呟く口が歪む。  
「志乃、お前は俺がわざわざ見初めてやったんだからな。一生感謝しろ」  
これまでの気さくな物腰から一転した乱暴な態度に、最初は何を言われているのか分からず言葉  
を返すことが出来なかった。そんな志乃に苛ついたのか、松山は畳に座り込んでいる志乃の髪を  
掴んでぐいっと引き上げる。  
「い、たっ…」  
突然の仕打ちに痛みも忘れて身が竦む、心が萎縮する。  
「御主人様の話ぐらいちゃんと聞け」  
「ひぇ…で、もっ…」  
「お前の意見なんざ聞く必要ねーんだよ!」  
ばさりと投げ出された床の上で、志乃はただ子うさぎのように視線を不安げに彷徨わせては震え  
ているしか出来なかった。  
婚礼を済ませたこともある。身分の差もある。今更ここを逃げられないと、どんどん考えが追い詰  
められていった。  
 
「まさか逃げようなんて考えてねーよな」  
「そんな…アタシそんな…」  
「そうだよな、お前の兄貴はどう頑張っても一生うだつの上がらん奴だ。この上、身内のお前が浅  
はかな考えから面倒を起こして、せっかくのお勤めに無用な支障なぞ来たさせたくはないよなあ、  
志乃よう」  
小動物を死ぬまで嬲り抜く獣のようにぎらぎらした目で、松山は志乃の着物に手をかけた。その  
癖、残酷な口調はやたらと嬉しそうだ。  
「ひっ…」  
無意識に逃れようとするのを咎めるように、後ろから抱き寄せる腕がきつく締まる。情など欠片も  
感じられない力の強さにどうすることも出来ない。  
「許して、許してえっ…」  
嬲るように耳を噛み、襟元を割って乳房を握りながら、囁く声はあくまでもぞっとするほど冷たい。  
「勘違いをするな。『お許し下さい』と言え。ま、当然許す気もないがな」  
耳を舐めるような笑いがねっとりと響く。  
「やぁぁ…」  
「せっかくの縁だ、仲良くしようじゃないか。志乃」  
その時だけ、声はひどく優しくなった。  
貧しくとも、人の悪意に晒されたことのない志乃にとっては何がどうなっているのか、一体どちらが  
夫の本質なのか全く分からなくなっていた。  
「じゃあ、脚を開け」  
「…えっ」  
「御主人様の言うことが聞けないのか、脚を開け。さっさとしないと斬り捨てるぞ」  
これっぽっちも優しくない言葉が、志乃の心をざくりと刺した。少しでも逆らえば、きっとこの男はわ  
ずかもためらうことなく斬るに違いない。そう思うと、ただ言うなりになるしか今の志乃には選択肢  
がない。元より、松山は志乃のそういう立場を十分に分かっていたのだろう。  
「早くしろ」  
「…はい」  
言われるまま、恐怖と羞恥を堪えて開いた脚を更に無理やり限界まで広げられて、声すらも出なく  
なった。松山はそんな志乃の様子を眺めて面白そうににやにやと笑いながら、部屋の隅から何か  
を取り出した。  
「いいものをくれてやろうか、志乃」  
志乃には分からなかったが、それは男女が戯れごとに使う張形だった。  
 
「生娘は大して具合が良くないからな。せいぜいこれでたっぷりと慣らしてやる」  
「ひゃっ…」  
そこで初めて、その異物で貫かれるのだと察して恐怖が爆発した。なのに足掻くことすらも出来な  
い。夫である松山の手に握られている大きなそれは、ぬらぬらと忌まわしく濡れて光っていた。恐  
らくは女体に良ろしきと言われる随喜でも巻きつけてあるのだろう。  
「さあ、志乃」  
「いや、やだあぁ…」  
「違うだろう志乃、そこは『どうぞ御存分にお楽しみ下さい、桐之進様』だ。忘れるな。さあ言え」  
「ふ、ふぇ…」  
床の上で脚を開いたまま、志乃はただもう訳が分からずに涙を零していた。だが、それで松山が  
引き下がる筈もない。  
「言え」  
「ぁ、あ…ど、どうぞごぞんぶんにお、おたのしみください…きりの、しんさま」  
必死になって切れ切れに言った言葉に返すように、ようやく機嫌を直したらしい松山が触りも慣ら  
しもしていない女陰にぐりっと冷たい張形を押し付けた。  
「う…」  
「どうだ、いいだろう志乃…しばらくはこれで楽しませてやる」  
巻きつけられた随喜のぬめりのせいか、誰にも触れられていない志乃のとばりは呆気なく破られ  
て傍若無人なまでに突き入れられる。労わりのない行為は、切れて血の滲む内部以上に怯える  
心を散々に切り裂く。  
「やあぁ…痛いよおっ…」  
弱い粘膜を強引に擦り上げる張形の感触はおぞましかった。何もかも忘れて泣きじゃくり、叫ぶ志  
乃の耳元で、それでも残酷な声がたちまちのうちに即死させる毒のように吹き込まれた。  
「お前に拒否する権利はねーよ。『これほどまでにされて嬉しく思います』と言え」  
この恐ろしい夫に対して嫌だなどと、決して言えなかった。教え込まれるままに、志乃は壊れたか  
らくり人形のようにぎこちなく鸚鵡返しをする。  
「あぁ…うれしく、おもいますきりのしんさま…」  
「そうだ、それでいい。お前はそうやって一生言うなりになってりゃいいんだ」  
何でも思う存分いたぶれる玩具を手に入れた、とばかりに嬉しそうに高笑いする松山が心底恐ろ  
しかった。決して逆らえないと自ら心に枷をかけてしまったことすら気付かず、ただ志乃はおぞまし  
い道具に犯されるばかりだった。  
しかし、志乃の本当の地獄はまだ始まったばかりだった。  
 
 
続く  
 

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