二人の間に、確かな約束など一つもなかった。  
何事も程々にしておいたほうがいい。  
深みにはまって足掻いてみたところで、どうにもならないことはどうにもならない、ということは  
過去の経験から痛いほど身に染みている。  
本気になってしまう手前で止めておけば、手遅れにならずに済む。迷惑をかけずに済む。  
傷つかずに済む。  
済んでいる。うまくいっている。――きっと、これからも。  
 
 
身辺の慌ただしさにも一区切りがつき、気持ち良く酔った帰り、真っすぐ屋敷に向かう気には  
なれず、茶屋に寄った。  
ただ独り寝の身の上を慰めるだけなのならば誰でも良かったが、気心知れた女に逢いたくなった  
のは、今日が貧乏同心・摂津正雪にとって特別な日だったからだった。  
この爽朗感と寂寥感を肴に、一人酒を煽るのは侘びしすぎる。   
 
 
「なにか、ございましたの?」  
「んー?」  
「だって、めずらしいんですもの。摂津様がキチンと揚げ代払ってこんなところまでいらっしゃる  
 なんて」  
「なんだよ。悪ィかよ」  
女の名は、薄雲太夫。正雪の幼なじみにして、最高位の遊女である。  
寝間での薄雲は、昼間のきらびやかないでたちとはうって変わって、艶めく黒髪にかんざしも  
挿さず、簡素な襦袢を纏っているのみであった。  
けれども、その薄い生地の赤さが、透き通るような肌の色をより一層白く儚げに見せている。  
襟元から覗く鎖骨の美しさにぼんやり目を奪われながら、茶屋の他の女達にするように肩を抱く  
ということもなく、正雪は適当に腰掛け、ぷかりと煙管をふかす。  
「……お前さんと、二人っきりになりたかったんだよ」  
「アラアラ、それが攝津様が女を口説くときの常套句ですの?」  
冗談めかしたきざな台詞をさらりとかわし、薄雲は含み笑いをしながら徳利を傾けた。  
 
薄雲の酌を受けながら、部屋の中を見渡せば、馴染み客から贈られたと思しき夜具や着物が  
目に付いた。  
金糸や銀糸をあしらった必要以上の豪華さが、「この女は手付きだ」と牽制しているように見える。  
もちろん、貧乏侍の正雪にはそんな高価な品々など買えやしない。  
 
幼なじみが華々しく出世してゆく様は実に天晴れなものだった。  
腐っても武家の出なだけあって、遊女と身をやつしてなお、そこはかとなく漂う気品は他の女達  
とは一線を画しており、生まれ持った器量の良さも相まって、薄雲はあっという間に遊女の最高位  
・太夫となった。  
「やめてくださる? 煙草。においがつくと困るんだから」  
「男のにおいが、か?」  
「そうよ。営業妨害よ」  
艶やかな所作を身に付け、口調が変わっても、薄雲は正雪には昔と同じように憎まれ口ばかり利いた。  
けれども、それが彼女の甘え方だとわかるのは、正雪もお互い様だからである。  
早くに両親を亡くし、親代わりの道場師範も失った正雪にとって、幼い頃から見知っている薄雲は  
気を許せる数少ない相手だった。  
 
「…ん……」  
布団の上で正座している薄雲の膝の上に、正雪は頭を下ろした。  
「妹が」  
「はい?」  
「知ってるだろ? 志乃、アイツをさ、嫁に出した。今日」  
「アラアラ、それはおめでとうございました。それでお屋敷にお一人でいるのが寂しくなったってわけ」  
「まァ、そういうこったな」  
正雪は薄雲のやわらかな膝を枕に、行燈の灯りを淡く映した天井を仰ぎながら、今日の妹の祝言の  
こと、夫の宇田川伍助のことなど、とりとめのない話をした。  
薄雲は相づちを打ちながら、正雪の髪を手で梳いたりして遊んでいる。  
倣うように、正雪は顔の前に垂れる薄雲の髪を指に絡めたり、三つ編みを編んでみたりする。  
「イイ奴なんだよ、真面目で、実直で」  
「アンタと大違いじゃない」  
「悪かったな」  
「志乃ちゃんも、ロクデナシの世話から解放されて、きっと清々してるわよ」  
「うるせぇ」  
「! ……あ」  
身を起こし、じゃれるように絡んでいるうちに、正雪は四つんばいに薄雲を組み敷くかたちになった。  
「……」  
重みのかかった指が埋まるほど柔らかい赤い布団の上に、仰向けに倒れた薄雲の、長い黒髪が  
散らばる。  
鮮やかな色彩に情動をそそられ、思わず唾を飲み込んだ。  
「……済まねェ」  
そんなつもりじゃなかった、というふうに顔を逸らしながら起き上がる正雪の着物の袖を、薄雲が  
つかんで引き止めた。  
 
「抱いて」  
 
「抱いて……って、おい……」  
「だって、そういうていで来たんでしょう? 払った分は元取らないと損じゃない。ただでさえ、アンタ  
 貧乏なんだから」  
「そりゃあ、そうだけどよ」  
「だいたい、アンタがここに来て、なにもしないで帰ったことなんてないじゃないの」  
「……そりゃあ、そうだけどよ」  
 
薄雲と枕を交わしたことは、幾度かあった。  
やはり、買う、というかたちで。  
吉原に入った女は自由に外に出入りができない。まして、太夫ともなれば尚更のこと。  
今日のように二人っきりでしみじみ話がしたくなったりしたときは、金を払って部屋に行くのが手っ取り  
早いのである。  
話がしたい、顔が見たいと言ったところで、そこは妙齢の男と女。  
酒が入ってなしくずしに致してしまうこともあれば、今日のように損得の話で及んでしまうこともあった。  
遊女は色を売ることを生業としているのだから、行為自体にそれ以上の意味はない。  
言うなれば、お面屋でお面を買い、そのお面をかぶるのと同じようなもの。  
それでも、幼い頃から親しんだ女と初めて体を重ねたとき、子供の頃の思い出だとか甘酸っぱい  
感傷だとかがちらつき、言いようのない困惑を感じずにはいられなかった。  
きっと今までどおりでなどいられないだろうと、今より若い正雪は思案を巡らせた。  
が、結局、薄雲との関係も、態度も、そうなる前と後と、なにも変わらなかった。  
拍子抜けしつつ、消沈しつつ、安堵しつつ、どの気持ちが勝っていたか、もう正雪は覚えていない。  
ただ、やはり正雪にとって薄雲は、単なる快楽の対象にはなり得なかった。  
欲望の捌け口にするだけなら、思い入れもなく割り切って媾合える女の方が、なにも考えずに  
済む分よっぽど楽だった。  
 
横たわった薄雲の首筋に舌を這わせ、体を撫でまわしながら、正雪は襦袢の帯紐を解く。  
襟元を広げ、あらわになった薄雲の胸元に、誰のものとも知れぬ紅い印を見つけたとき、胸の奥が  
ちくりとした。  
――自分も散々他の女と寝ているというのに勝手なものだ。  
忌々しいそれを隠すように手のひらで覆い、そのまま片手に少し余るほどのふくらみを揉みしだく。  
そんな正雪の心情を知ってか知らずか、うっすら開いた薄雲の唇から熱い吐息が漏れた。  
薄雲が、正雪の放蕩を咎めたことは、ただの一度もなかった。  
 
ふいに、薄雲が口を開く。  
「今頃、向こうさんも新婚初夜……」  
「生々しいこと言うなよ」  
即効でいさめつつ、今現在の自分と薄雲の状況を伍助と志乃に置き換えた図が脳裏によぎり、  
正雪は自分で自分を殴りたくなった。  
実の妹の濡れ場を想像するなんて、悪趣味が過ぎる。  
 
未だ女を知らないという伍助を、からかい半分で遊郭へ連れて行こうとしたことがあった。  
先輩の誘いだというのに「つ、妻以外の女子とそういうことをする気はござらん」と一喝した伍助を、  
この男ならきっと嫁を大事にしてくれるだろうと思ったのが、妹を託せた理由の一つでもある。  
一方の志乃は、一度嫁ぐも夫に全く愛されず、生娘のまま出戻ってくるという数奇な、今思えば  
ある意味幸福な憂き目にあった。  
きっとあの夫婦は生涯、互いしか知らないのだろうと思うと、なぜだか正雪は泣きたいような  
気分になった。  
伍助との縁談がまとまってからの、志乃のしあわせそうな表情が思い出される。  
傷ついてふさぎ込んでいた心を救われた瞬間から、志乃は伍助に恋慕の情を抱いていた。  
今日の祝言で、志乃は一度めのときとは比べものにならないくらいに笑顔の花を咲かせていた。  
心底、良かったと思った。  
「やっぱ女は、惚れた男と一緒になるのが一番だな」  
妹かわいさのあまり思考をそのまま声にしてしまった正雪に、すかさず薄雲が切り返す。  
「そう思ってるんなら、さっさとアタシを身請けできるぐらいの富豪になりなさい」  
「はっ。それがお前さんが客を口説くときの常套句かい」  
「ウフフ」  
 
元々が幼なじみであるせいか、睦言にしてはどうにも色気のない雰囲気になってしまったのを  
懸念して、薄雲は枕元の、植物や海草の調合されたぬめる液体の入った小瓶に手を伸ばした。  
そういった手練手管を客にに気づかせないことも遊女のたしなみであるのだが、これをめざとく  
見つけた正雪は、薄雲の手を握ることで制した。  
そうして、指先に付着していたぬめりを舐め取り、もう一方の手を薄雲の下腹部に滑らせる。  
そのまま先の尖りをくすぐれば、無粋な小道具などいらなくなった。  
薄暗い寝間に、濡れた息づかいがこだました。  
 
「あんまり、良くねェか?」  
「っ……そんなこと、ないわよ……気持ちいい」  
「なら、いんだけどよ……さっきから顔ばっか見てると思って」  
薄雲は、他の遊女がそうするように激しく寝乱れる演技をして男を煽ることもなく、ただ静かに  
正雪を受け入れていた。  
そうして、恍惚と身をよじらせるときも、切ない嬌声を零すときも、双方の瞳は閉じられることなく、  
正雪の顔をじっと見据えていた。不自然なくらいに。  
思えば、薄雲はいつもそうしていた。  
「イヤ?」  
「イヤじゃねェけど……なんだか落ち着かねェ。まァ、それはそれで興奮するけどよ」  
「……アンタの顔、この目に焼き付けてるの」  
薄雲は両手を伸ばし、熱を持った指先で正雪の頬を包み込んだ。  
「他のお客の相手をしているときは、ね」  
媾合の最中だというのに、胸の中の秘密を恥じらいながら打ち明ける乙女のように、頬を染めて  
薄雲は微笑む。  
「目を閉じるの。そうして、こういうときのアンタの顔を目蓋の裏に思い浮かべるの。そうやって  
 しのいできたの、今まで、ずっと」  
先程までの軽口と違うとわかるのは、薄雲の長いまつ毛の先に、きらりと雫が宿っていたからだ。  
それは薄雲が瞬きをした瞬間はらりと落ち、耳を伝って、布団に小さな染みを作った。  
「これからも、ずっとよ」  
それから先に続く言葉を言わせてしまわないように、言ってしまわないように、正雪は薄雲の  
唇を自分のそれでふさいだ。  
 
――薄雲を、おキヨを、自分一人のものにしたかった。  
叶わないことと心の奥底にしまいこみ、ごまかし、気づかないふりをしてきた。  
そんな密かな願望が、薄雲の心の内では成就していたのだ。  
くすぶっていた想いを掬われたような感覚に、正雪の胸はふるえた。  
 
けれども、惚れていることを告げてしまうわけにはいかなかった。  
相思だなどと確かめ合ったところで、なにができよう。  
薄雲をこの籠の中から解き放ち、家の経済をも請け負う財力など、正雪にはない。  
「年季が明けたら」などと約束を交わし、正雪が女遊びを絶って薄雲に操を立てても、薄雲が  
客を取り続けるということは変わらない。  
たとえ正雪が「それでもいい」と許したとて、薄雲が負い目を感じないはずがない。正雪のために  
苦しまないはずがない。  
それならば、いっそ、このままの方がいい。  
男女の情など誓っても、好い人に煩いごとを増やしてしまうだけなのならば。  
 
結ばれない契りの代わりに、互いの体を深く深く繋ぎ合った。  
もどかしい気持ちをかき消すように、込み上げる愛しさに流されてしまわないように、正雪は  
ひたすら奥を貪った。  
こんなにも満たされない夜はなく、こんなにも満たされた夜もなかった。  
 
 
「ほだされて、」  
薄雲は御簾紙で戯れの残骸の後始末をしながら言った。  
「余計なこと言っちゃったわ。気にしないで」  
けだるさの残る手足を投げ出し、正雪はされるがまま薄雲の横顔を見つめていた。  
「アンタはなんにも気にしないでいいの。アタシとアンタは、今までどおりでいいのよ……」  
「……おお」  
「さ! 明日は仕事あるんでしょ、さっさと寝ちゃいなさいよ」  
そう言って、清め終えた正雪を付き離すと、薄雲は普段の勝気な表情に戻った。  
いじらしさに、正雪は薄雲を後ろからそっと抱きしめた。  
精一杯、「他の女にも、いつもこうしているのだ」というふうを装って。  
先刻の熱の名残りが、薄い布越しに伝わった。  
薄雲は、まわされた腕に手を添え、「ばか」とつぶやいた。  
 
 
翌朝、茶屋を出ると、正雪は妹の嫁ぎ先である伍助の屋敷に赴いた。  
新婚夫婦の邪魔をするつもりはないし、伍助のことも信頼しているが、やはりうまくいっているか  
気になった。  
屋敷では決して立派ではないが、なかなか手入れの行き届いていて、伍助の人柄を思わせた。  
野暮とは思いつつも、塀の上から中の様子を覗き見る。  
庭では、妻となった志乃がたらいに水を張り、所帯を持ったばかりの夫の着物を楽しそうに洗濯  
していた。  
朝焼けの光が水しぶきに反射して、志乃の笑顔も光って見えた。  
――大丈夫だ。  
人心地がついた思いで、くるりと踵を返しながら、なんとなく遠い昔を思った。  
薄雲が吉原に入ったのは、今の志乃と同じ年頃だった。  
緊張した面持ちで肌に触れ、胸を高鳴らせつつも、薄雲の慣れた仕草に一抹の寂しさと戸惑いを  
感じた日、正雪は初めて女を知ったのだった。  
 
 
 
(終)  
 
 

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