夕刻だというのに、大門をくぐった先は、女を買い求める客や冷やかしの男達で溢れ返り、昼間の  
ような賑やかさだった。  
表で客を待つ仲の町張りの遊女は薄闇に彩を添え、見世清掻の三味線の音色はやかましくも  
耳に心地良い。  
自然な色気と、さっぱりとした気風の良さが、いかにも通な江戸人の通う場所といった感じで、  
足を踏み入れた瞬間から、好きな街だと思った。  
正雪は興味津々に花街の雑踏をかき分け、大通りに面してずらりと立ち並ぶ茶屋の、聞き知って  
いた一軒を探した。  
 
数刻前、なんとなしに正雪は賭場へ赴いた。  
思いがけず大勝ちしたので、ぱーっと飲みに行く算段をしていたところ、同じように丁半で儲けた  
連中の「吉原へ揚がろうぜ」とはしゃぐ声が耳に入った。  
――吉原、か。  
正雪は、しばし逡巡した。  
吉原には、会えなくなって久しい、幼なじみがいた。  
こちらから出向かなければどうにもならない以上、再会は自分次第であった。  
――向こうの反応なんざ、それこそ博打みたく構えていればいいのかもしれねェな。  
いずれ、と思いながらも、なんとなく行きそびれていた正雪であったが、突如膨れ上がった財布の  
重みが、踏ん切りのつかなかった心を後押しした。  
 
茶屋に入り、中の者に既知の源氏名を尋ねると、あれよあれよという間に登楼の運びとなってしまった。  
ちょっと顔を出すだけのつもりだったが、だからといって引き止めてわざわざ訂正するのは粋じゃない。  
幸い懐には余裕があるからいいか、と張り見世の華やかな遊女達を格子越しに眺めながら、  
正雪は促されるま梯子段を上がった。  
それにしても、と正雪は辺りを見渡した。  
掛け行燈の灯りに照らされた廊下は煌々と赤めき、高く結い上げた髪に開いた胸元の眩しい遊女と、  
いかにも遊び慣れたどこぞの若旦那といった風情の男が、色めいた会話をしながら連れ立って歩いている。  
代わる代わる影を映す障子の向こうからは、どんちゃん騒ぎの音と声とが聴こえる。  
唄の文句は花や空などさして意味のないようでいて、穿った解釈を試みれば、卑猥な内容の暗喩であった。  
――噂には聞いてたが、派手な場所だな、コリャ。  
正雪は、いつか見た、すすけた武家屋敷のひび割れた壁や、蜘蛛の巣の張ったおひつを思い浮かべた。  
そして、かつてそこに暮らしていた女子のことを思った。  
 
「あら、色男のお侍様だこと」  
「ごめんなさいね、薄雲は今、贔屓客の挨拶に出ておりますの。今しばらくお待ち下さいまし」  
「お前さん方みたいな美人達と酒が飲めるんだから、待たされるのもイイもんだな」  
「まぁ、お上手」  
正雪は二階の座敷に通され、敵娼が来るまでの間、酒肴のもてなしを受けた。  
幕臣の侍がこういった場に訪れることは珍しく、まして器量も調子も良い男なのだから、遊女達にも  
ちやほやされた。  
酌をしてくれた女達相手に小噺の花を咲かせ、「また来て下さるなら、お酒のお代はよろしくてよ」と  
有難い話が持ち上がるまでに打ち解けた頃、障子が開いた。  
畳の上に、ぽすっと音を立て、見覚えのあるお手玉が二つ三つ転げ落ちる。  
持ち主の女は、正雪に気づくなり一瞬「あっ」と目を丸くしたものの、即座に媚を含んだ艶っぽい  
笑顔を作った。  
 
「アラアラ、驚きましたわ。摂津様じゃございませんか」  
 
「初めてですの?」  
「ん?」  
「吉原」  
「まァな」  
「じゃ、普段は深川の岡場所あたりで遊んでらっしゃるのね」  
正雪は答えずに、勧められた茶を啜りながら、なにげなく薄雲の部屋を眺めてみた。  
ちょっとした料理屋でも見かけないような、鮮やかな色使いの襖が目を引いた。  
床の間には花が活けてあり、花鳥画の掛け軸が掛けてある。  
袋に入れて立て掛けた琴や、源氏絵巻の屏風の他に、箪笥や鏡台など生活道具の一切が  
揃えてあり、今の薄雲の暮らしぶりがうかがえた。  
一見裕福そうに見えるが、全て見世からの借金であつらえてあることを思えば、なんとも言えなかった。  
 
茶器の乗った盆には長煙管が置いてあり、手に取ってみると妙にしっくり馴染んだ。  
「お前が呑むのか?」  
「嗜みとして教えられたけど、どうしても苦手だわ」  
薄雲は正雪の手から煙管を受け取り、唇にあててみせた。  
「だからあたくしは、かたちだけ」  
流れるような黒髪に映える鼈甲のかんざし、螺鈿の櫛、優雅に着付けた着物、前結びの帯、  
肌理の細やかな肌に白粉をはたき、紅の差した唇に煙管をくわえた薄雲の姿は、どこからどう  
見ても一端の遊女であった。  
「なかなかサマになってるじゃねェか」  
「それはどうも。あなたこそ、ちゃんとお侍さんに見えますわ。生活は大丈夫ですの?」  
「バカにすんなよ。まァ、碌は低いけど、きょうだい二人食えるぐらいはなんとか……」  
言いかけて正雪は、はっとして口ごもった。  
「……済まねェ」  
 
薄雲は五人兄弟の末っ子である。  
武士は世襲制であり、嫡男が家督を継ぐ。  
町人や農民ならば、跡継ぎでない次男以下の兄弟は、他へ奉公に出たり、職人に弟子入りすれば  
よいが、体面を重んじる武家ではそうはいかない。  
養子のあてもなく、自力で役職に付くこともできなければ、部屋住み、即ち稼ぎのない厄介ものの  
居候となってしまうのである。  
当然、分家もできない下級武士の家で子沢山では苦しく、末っ子で女子である薄雲が口減らしの  
ために女衒に売られたことは、よんどころない事情であった。  
せめて兄弟が少なかったら、薄雲が苦界に身を沈めることはなかったかもしれず、やはり  
やりきれない思いがした。  
と、同時に、自分には妹一人しかいないことが、正雪は心底ありがたくなるのであった。  
 
「いてっ」  
眼を伏せて次の言葉を探す正雪に、薄雲はお手玉を一つ投げつけた。  
正雪が顔を上げると、薄雲がしてやったりとばかりに、にんまり笑っていた。  
「なに辛気くさい顔してるの。今更そんな気ィ遣わなくて結構よ。アタシは家族が好きだし、こうして  
 役に立てるのがうれしいんだから」  
薄雲は打ち掛けの袖を得意げに持ち上げ、続けた。  
「それに、ここに来れなかったら、こんな上等な着物一生着れなかったでしょう? アタシはアタシで  
 うまくやってるの。同情なんてされたくないわよ」  
虚勢でもなんでもなく、芯からの言葉であることは、薄雲の自信に満ちた表情から見てとるまでも  
なく、長年の付き合いからわかった。  
「そうだったな」  
相変わらず大したタマだ、と正雪は安堵の息をついた。  
 
名前や身なりが変わっても、薄雲の気概は全く変わっていなかった。  
むしろ、遊女らしい張りを備え、婀娜っぽい魅力を増したように思える。  
幼い頃から親しんでいた薄雲が、境遇の変わった今でも元気にしているか、ずっと気懸かりだった。  
これまで訪ねるのに二の足を踏んでいたのは、金銭的な理由の他に、武家の女から遊女という  
全く違う身柄への転身によって薄雲が人変わりしていたら、という不安が隅にあったからなのだが、  
杞憂に過ぎなかったことが、正雪はうれしかった。  
 
「なんとかきょうだい二人食べられるぐらいなのに、こんなところで散財して良いのかしら? アタシ、  
 意外と高くつくのよ」  
「いんだよ、振って沸いた金なんだし、もともと無いようなもんだからな」  
「だったら、志乃ちゃんに着物の一つでも買ってあげなさいよ」  
「なんだよ、来たらダメだったのか?」  
「そんなこと言ってないじゃない。……うれしいわよ、会えて」  
薄雲は少し間をおいた後、やや上目遣いに流し目をくれた。  
「お、おう……。どうした? やけに素直じゃねェか」  
「嘘でも気を引く言葉の一つも吐けないと、太夫になんかなれないでしょ」  
一転して、薄雲は両手で口元を覆い、くすくす笑った。  
「てめ……」  
だまされたことに表向きは腹を立てながら、正雪は内心、不思議な安らぎを感じていた。  
すっかり昔の調子で語らううちに、行燈の残り油も少なくなっていった。  
 
「ねぇ、アンタ本当はなにしに来たの?」  
薄雲はあくびをしながら、打ち掛けを脱いで衣桁に掛け、かんざしを外した。  
「なにって……、ちょっと様子見に来ただけだよ。なんだかよくわかんねェうちに乗せられて部屋  
 まで通されちまったけどよ」  
それでも、気がねなく軽口を叩き合うにつれ、やはりこうして二人っきりで話すことができてよかった、  
と正雪は思い直していた。  
先の座敷で同席したところで、人目のある手前、薄雲は他人行儀な振る舞いをしていたのだろうし、  
懐かしい感慨になど浸れなかったかもしれない。  
「そうよね、変だと思ったのよ」  
「あ? なにがだよ」  
問いながら、ちらりと薄雲の視線の先をたどると、屏風の向こうに、三段重ねの紅い布団に箱枕の  
二つ並んでいるのが見えた。  
遊女屋に揚がる、ということの本来の意味を今更のようにあらためて理解し、正雪は即答した。  
「無ェだろ。オレとお前だぜ?」  
 
今日の今日まで、正雪は女を買ったことがなかった。  
ただ、それは単に機会や金がなかっただけのことであって、女の肌が欲しくなったら買う、という  
意識は当たり前のように正雪の中にもあった。  
身分に関係なく、世間一般の男としてそれが普通の感覚であったし、いずれは自分もそうして筆を  
卸すのだろうと思っていた。  
だからといって、なにもその相手が薄雲でなくてよかった。  
確かに成り行き上、買うというかたちにはなってしまったものの、正雪にとって薄雲は、男心を  
満たしてくれる遊女である前に、共に育った幼なじみであった。  
そして、薄雲にとっての自分も同じであると、酒の相手をしてくれた他の遊女達の態度とは全く違う  
不躾な物言いから、感じ取っていた。  
 
「どっちでもいいけど、布団、一つしかないのよ」  
言いながら、薄雲はするすると小袖を脱いで長襦袢一枚になり、すっかり寝支度を整えていた。  
 
 
夜四つ(午後十時)ともなれば吉原の大門も閉じ、帰ることもできず、仕方なく床に就いた。  
道場で会っていた頃には隣で昼寝をしたこともあるし、今更二人で枕を並べたところで、窮屈という  
他は、どうということもない。  
なかなか寝つけないのは、寝慣れたウチのせんべい布団と違って、やけにふかふかしているうえに、  
三枚も重ねてえらい高さになっているせいで落ち着かないからだ。  
――そもそも、重ねているのをばらせば、一枚に悠々と寝られるんじゃねェか?   
ひとりごちて悶々としているうちに、正雪は背中越しに聴こえる規則正しい寝息が憎らしくなった。  
鼻でもつまんでやろうかと、悪戯を仕掛ける少年の面持ちで、正雪は薄雲の方に寝返りを打った。  
 
「!」  
正雪は動転した。  
子供の頃と変わらないあどけない寝顔の下にあった、子供の頃とは確実に変わっていたものが、  
正雪の目を釘付けにした。  
「……」  
薄雲の肌蹴た襟元から、ふっくらとした胸のまるみがのぞいていた。  
咄嗟に罪悪感を覚えたが、それは正雪の目を捉えて離さなかった。  
寝息に合わせてふるりと揺れるふくらみは、汁気をたっぷり含んだ果実を思わせた。  
思わず息を飲み込んだ。  
引き寄せられるようにじりじりと手を伸ばし、指先でそっと突いてみる。  
――やわらかい。  
壊れそうなほどやわらかいのに、吸いつくような弾力で指に寄り添い、押し戻ってくる。  
そのまま先端の薄い樺色に触れると、薄雲のからだが跳ねた。  
「んっ」  
目を覚ました薄雲は、状況を確認するように、二、三度瞬きをした。  
「え? ああ……」  
「わ、悪かった、つい魔が差し……」  
正雪が弁解し終わらないうちに、薄雲の腕が伸びてきて、ずり下がった袖口から、ほど良く肉の  
ついた二の腕までもがあらわになった。  
平手が飛ぶかと思い、反射的にぎゅっと閉じた目蓋の裏に、大胆に露出された腕の内側の、淡雪の  
色が焼きついてい、正雪は思わぬ動悸を覚えた。  
 
危惧していた衝撃は、ついに訪れなかった。  
薄雲は、するりと正雪の懐に滑り込んできた。  
薄雲が着物の内側に焚きしめていたらしい、麝香の香が近く匂った。  
恐る恐る目を開けると、薄雲の頭が目下にあり、鼻先を掠める黒髪が、息をする度に揺れた。  
密着して押し潰された薄雲の胸乳が、呼吸に合わせて僅かに上下し、その度に擦れる天辺の蕾が、  
正雪の胸板をくすぐった。  
薄雲は正雪の首筋のあたりに顔を埋めたまま、なにも言わず、なにもしなかった。  
沈黙の中、互いの押し殺した吐息が生温かい感触を伴って響く。  
瞬きをする薄雲のまつ毛の先端が、羽根のような微量な力で正雪の素肌を撫でる。  
むず痒い刺激を受ける度、鳥肌の立つような熱気が全身を駆け抜け、やがてそれは自我の預かり  
知らぬところで独立したかたちを作った。  
急かすように速まる鼓動が、思考の隙を与えないほどにうるさくからだ全体に共鳴する。  
全身が、脈打っているようだった。  
「……ちくしょう」  
 
なんに対しての憤りなのか、正雪は自分でもわからなかった。  
 
正雪は体勢を入れ換え、薄雲を仰向けに寝かせた。  
薄雲が抵抗しないのを確認する間もなく、緋色の長襦袢の裾を割り、二布を捲くり上げる。  
剥き出しになった脚に手を掛け、折り曲げながら開けば、立ち込める女の匂いに、正雪の頭は  
痺れたようになった。  
瑞々しく張った内腿は眩しいほどに白く、陶器が肉になったようななめらかな手触りがした。  
蠱惑的な二本の付け根には、朝露を宿した露草の花が咲いているようだった。  
正雪が女のそれを見るのは、初めてではなかった。  
ずっと昔、年の離れた妹のを、風呂や、おしめを換える際に、目にしたことがある。  
しかし、目の前にあるそれは、見てくれこそ記憶のものと同じようでも、成熟しつつある女の妖しさに  
満ちており、谷間にぬらめく雫も、晒し木綿を濡らした赤子の小水とは違う性質のものであった。  
 
正雪は、開いた脚の間に割り入り、下帯を外した。  
読み漁っていた春本や好色本で、閨の首尾は凡そ心得ていたつもりだったが、いざ本番となると、  
そう滞りなくゆくものではなかった。  
思いのほか手間取りまごついていると、そぞろに薄雲が腰を捩じらせて、結合へと導いた。  
開き、添え、端的に動く細指の、爪紅の色が、いやに鮮やかに映った。  
 
ちくしょう、と今度は心の中でつぶやいた。  
自らの意思で行為に及んでいるはずが、そうなるように仕向けられているような、本能ゆえの淫心を  
見透かされ、泳がされつつ手玉に取られているような、妙な苛立たしさを覚え、正雪は薄雲の方に  
顔を向けることすら憚られた。  
そんな複雑な心地も、纏わりつくやわらかな快感に包み込まれた瞬間、煙のように立ち消えた。  
もう、なにもかもがどうでもよくなってしまうほど、それは圧倒的だった。  
ひたすら夢中で貪った。  
 
溺れるような陶酔の中で正雪は唐突に、そういえば子供の頃、自分達は将来夫婦になるのだろうと、  
漠然と考えていたことを思い出した。  
はっきりとした恋心を抱いていたわけではない。  
自分みたいな下級武士じゃ良家の娘との縁談は有り得ないし、身分や家柄から考えておキヨが  
オレの嫁になるんだろう、武士の結婚なんてそんなもんだし仕方ねェな、などと勝手に妥協し、  
一人で納得していたのだった。  
男と女の摂理などなにも知らなかった頃の戯言であるし、薄雲の身売りが決まり、行く末の相容れない  
ことがわかってくるにつれ、自然に忘れていった未来絵図であったけれども。  
――もしも、薄雲が武家の娘として真っ当な道を歩めていたなら、今頃は二人で所帯を持って  
いたんだろうか。  
そしたらまさに今頃、ここじゃなくて自分の屋敷でこれをしていたんだろう。  
人生ってのはわからねェもんだな、と正雪は込み上げる可笑しさに哀切な色を重ねた。  
 
喘ぎに交じり、ふいに名前を呼ばれた気がして、正雪は定まってなかった視線を移した。  
薄雲の顔をうかがうのは、これが始まってから初めてであった。  
が、薄雲は淡く汗をかいて肌に湿り気を帯びてい、途切れ途切れに嗚咽を零す唇の他は、額から  
貼り付いている黒髪に隠されていた。  
払いのければ、潤んだ黒目がちの瞳と、緩いハの字形に整った眉のひくひくと歪むのが見えた。  
それでも、正雪と視線が合わさった瞬間、薄雲は口角を持ち上げ、健気に微笑のかたちを作った。  
――ぞくりとした。  
こんな状況に似つかわしくないほど、愛くるしく感じられたのは、紅の剥げかけた唇が、少女の頃を  
思わせたからかもしれない。  
かろうじてこびりついていた色が血痕――清らかさを失ったときの痕跡に見え、正雪は指の腹で  
薄雲の唇を拭った。  
はずみで口内に滑り込んだ指を、薄雲はやわらかく咥え、付着した紅を舐め取り、爪の生え際から  
関節の皺、指の付け根へと、舌を這わせた。  
少女から娼妓へと一変した薄雲の顔を直視するゆとりは、既に正雪にはなかった。  
 
「お、キヨ……っ…」  
終わりの気配が込み上げ、思わず呻きを漏らす正雪の口から、薄雲のまことの名前が零れ出た。  
間合いを計っていたらしい薄雲の脚が宙に浮き、正雪の腰を抱いた。  
ぐいと引き寄せられるままに奥深くまでいざなわれ、挿し込んだ、というより、飲み込まれたともいう  
べきその甘美な刺激に、正雪がいよいよ意識を手放さんとする間際、巾着袋の紐を引いたような  
締め付けの感触と、一際悩ましい薄雲の声に包まれた。  
「ん、ああっ……!」  
 
どこかの部屋で酒宴でも開いているのか、三味線の音色と幇間の唄う声が、遠く聴こえた。  
 
昏々と白濁した意識の狭間で、ふと疑問が浮かび、正雪は口を開いた。  
「ややこが出来たりはしねェのか?」  
言いながら、間抜けなことを聞いたものだと正雪は自分でも苦笑した。  
そんな根本的な対策が、なされてないわけがない。  
「お客さんがそんなこと心配するのは野暮っていうのよ」  
「……客か、違いねェ」  
ふてくされた笑いを浮かべ、正雪はごろりと薄雲に背を向けた。  
虚脱感と倦怠感とが押し寄せ、頭がうまく回らなかった。  
だから、薄雲が、客との交合で達してはならないという禁忌を犯してしまった動揺を悟られまいと、  
必死に気丈な声色を作ってみせていたことに、気づかなかった。  
猛烈な眠気に襲われて、正雪は目蓋を閉じていた。  
だから、薄雲が、初めて味わった悦びの余韻に戸惑いながら、のぼせたように緩んでしまう表情を  
見られまいと襦袢の袂で顔を覆っていたことにも、気づけなかった。  
無性に疲れていた。  
今しがたの出来ごとが、ずいぶん長い間のことのようにも、あっという間のことのようにも思えた。  
まどろみのなかで、薄雲のすすり泣く声が聴こえたような気がしたが、目を開けられなかった。  
 
 
翌朝、正雪は目を覚ますなり、がばっと身を起こし、頭を抱え込んだ。  
――いや、あの状況でああならない男はいねェだろ。あれは仕方ねェ。  
必死に正当化してみたところで、一時の欲望に押し流されてしまった自分が情けないことに変わり  
なく、拒むことなく応えた薄雲を恨みたいような感謝したいような、わけのわからぬ感情が入り乱れ、  
しばらく顔が上げられなかった。  
身の置きどころがない思いに途方に暮れながら、なぜか後悔の念がないのは、けだるい甘さの  
名残りに、未だ酔っているせいかもしれなかった。  
 
伏せた顔を覆った指のすき間から自分の胴体が目に入り、半脱ぎに乱れたまま眠ったはずが、  
床に就く前と同じ格好だということに気がついた。  
念のため下の方を探ると、そちらもしっかり身に付けていた。  
事態をうまく飲みい込めないまま、とりあえず布団から出ようとして、隣で寝ていたはずの薄雲の  
姿が見当たらないことに、どこかほっとした。  
相見えたところで、どんな顔をすればいいかわからない。  
まずは、謝ろうか。それとも、と正雪は思った。  
――めんどくせェ。この隙に帰っちまうか……。  
差し当たり袴を穿こうと、辺りを漁っていたところで、突然、布団を囲っていた屏風が畳まれた。  
「アラアラ、もう起きたの?」  
「お、おう……」  
物音から起床を察し、屏風の陰から顔を出した薄雲の手に、正雪の袴が握られてあった。  
 
「裾がほつれてたから繕ってるの。もう少し待ってて」  
正雪の狼狽をよそに、薄雲は二人の間にまるでなにごともなかったような素振りで、裁縫を続けた。  
正雪は困惑した。  
――夕べのあれは、夢だったんだろうか。  
記憶をめぐらせば、からだの方々に残る生々しい感触がまざまざとよみがえり、身悶えしそうになった。  
それに比べて、同じ夜を過ごしたはずの薄雲の顔のなんと涼しげなことか。  
しょうばいなんだからそういうもんか、と正雪は確かにこの目見た、着物の下に隠されていた肌の  
色や、ほっそりとしたくびれと腰から太股にかけてのゆたかな肉付きを打ち消すように、薄雲が  
縫いものをする様子を見遣った。  
器用に針と糸を扱う様は、さすが貧乏育ちといった見事さで、玉結びの終えた縫い目に唇を寄せ、  
余り糸を糸切り歯で噛み切る仕草は、所帯じみつつもほんのりした色香があった。  
「はい、できたわ」  
「……あんがとよ」  
「それにしてもアンタ、昔からずっと同じ着物着てるのね」  
「ほっとけよ」  
――やっぱり、夢だ。  
繕い終えた袴に足を通しながら、正雪は思い直した。  
もともと、廓なんていうところは、男が夢を見に来る場所なのだ。  
 
一方で、女にとっては現実だった。  
好き好んで淫蕩の世界に身を落とす女などここにはおらず、一見きらびやかな衣装や装飾品は、  
ただ貧しい家に生まれついたという不運と、親に売られた身を男に売るという因果な身過ぎの  
立て方とへの、せめてもの慰めのように思えた。  
己の不遇さを嘆くことなく、しなやかに受け入れ、どうせなら一番になろうという当座の希望を胸に  
生きる薄雲の心意気は小気味良かった。  
が、その生業に自分も一枚噛んでしまうと、金銭を介せば知った顔にまで身をひさいでしまえる  
ほどの見上げた玄人根性に感服すると共に、その割り切ったたくましさに打ちひしがれる思いがした。  
正雪は、なにか大切なものを喪失したような気がしていたが、なんの根拠もなく、こんな気分も  
じきに慣れるのだろうと思った。  
 
「また来るぜ」  
普段の調子の良さと、その気があろうがなかろうが別れ際にはこう言うのが粋でいなせな男だろう  
という見栄から、正雪はうそぶいた。  
「アンタそんなお金ないでしょ」  
「ひでェな。それが後朝で言う台詞かよ」  
冗談めいたやり取りの後、薄雲は見世を後にしようとする正雪の袖をつかみ、蛇の目傘を差し出した。  
「……こんなところまで来なくていいわよ。でも、これは返しに来て。その時はお酒ぐらいおごるから」  
 
――そんなに降ってねェじゃねェか。  
外は傘など差さずに済むような、音もなくしっとり肌を湿らすだけの小糠雨だった。  
つまり薄雲は、また会いに来るきっかけを作ってよこしたのだ、と正雪は思った。  
相変わらず自分の心の内を見通したような薄雲の機転が、悔しくもありがたかった。  
朝の吉原は夜とはまた違った趣があり、ぼんやり眺めながら歩いた。  
心は失恋の痛みに似た感傷に浸る一方で、からだの方は、覚えた女の味に早くも疼きだしており、そう遠くないうちに  
色街に繰り出して一夜妻を求める自分の姿は、想像に難くなかった。  
雨というほどもない雨はまもなくあがり、濡れてもいない傘が手に余った。  
大門のところで、夕べ座敷で酌をしてくれた遊女が、あの後に枕を交わしたらしい客を見送って  
いる姿が見えた。  
帰れない日々へ手を振るように、見返り柳が揺れた。  
 
家路に向かう道すがら、正雪は煙管屋で煙管を一本買った。  
初めて吸った煙草の味は苦かったが、じきに慣れるだろうと思った。  
 
 
(終)  
 

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