マロがうさぎ道場に行く少し前のお話。  
 
マロが屋敷を見渡す。  
みょーんと首を伸ばすが、誰も見当たらなかった。  
とっとっとーと走って屋敷を逃げ出すと、蕎麦屋に向かった。  
どうも家の料理は合わない。  
もっと礼儀も無しにお腹いっぱいに食べたいというものだ。  
「てん・・・」  
「天蕎麦一丁!」  
なれたもので、短いマロの言葉でもわかってくれている。  
金を渡すと、蕎麦を味わう。  
これでもっとゆっくり食べれたら、と少し悲しいが、まあ蕎麦が美味しいのでいいだろう。  
「あー、また来てる」  
その声に振り向くと、年に会わず簪をつけた少女が立っていた。  
数日前から話しかけてくる不思議な少女だった。  
遊女の娘らしいが、とりわけ色気もない。  
「本間家の人がいいの?」  
ずずーと蕎麦をすすりながら少女を眺めた。  
「あー、感じ悪いんだ」  
蕎麦屋にもう一度金を出す。  
「とろ・・・」  
「とろろ蕎麦一丁!」  
差し出される一杯の蕎麦。  
無言でそれを突き出すマロ。  
むにゅーんと伸びてくる蕎麦を少女は受け取った。  
「くれんの?」  
こくりと頷く。  
少女ははれ、と不思議そうな顔をしたが、すぐに蕎麦を啜りだした。  
 
この少女と出合ったのは六日前。  
目の前で男に殴られているのを見た時だった。  
何事かと男を成敗すると、少女がその男は父親だと言った。  
複雑な事情がありそうなので去ろうとすると、名前を教えろと言われ、本名を名乗った。  
大抵はこれで相手が畏怖するなりして、そそくさと逃げていく。  
それだけ、本間家の家柄は重いものだった。  
だが、少女は満面の笑みで言った。  
「本間家なんだ、すごいね!」  
すごいね。  
そんな率直なことをいった人物なんていただろうか。  
さっきまで自分を殴っていた男に肩を貸すと、長屋に戻っていく。  
「あたしはハナってんだ、今度、お礼させてもらうよ」  
そういって、なぜか外に出るたびに出会うことが多くなった。  
 
蕎麦を食べ終えると、二人で歩く。  
マロはもちろん、少女も何も喋らなかった。  
ただ、出店の簪を眺めたり、マロが釣りをしたり。  
そして、本間家の使いがマロを回収する。  
そんな一日が続く。  
 
相変わらず説法も耳にせず、外に出ると、悠々自適に歩き回る。  
「またやってるわよ・・・」  
ひそひそと話す女中の声に耳を傾けてみると、聞き覚えのある言葉が出てきた。  
ハナという名前。  
人の噂話が濃くなるほうに歩いていくと、なにやら大声が聞こえてきた。  
酔っ払いの怒号が響く。  
声の方に向かうと、ハナが髪の毛を引っ張られ、殴られていた。  
止めるものは誰もいない。  
さすがに父親に暴行を加えるわけにも行かず、煙幕を懐から出すと放り投げた。  
あっというまに白い煙が立ち上り、視界が悪くなる。  
男がわめき散らしていたが、その隙にハナの手を掴んで裏路地に逃げ出した。  
 
神社の境内に座り込むと、ハナは息を荒げている。  
マロはいつもどおりの能面でぼーっと空を見ていた。  
「あんた息してないんじゃない?」  
何があったかと顔で催促しようとハナを見つめる。  
うっ、とばつの悪そうな顔をした後、ぽつりと話はじめた。  
 
あたしんちあんまりお金ないからさ、もう遊郭に行くのは決まってるんだ。  
だけど親父は年が行くまで待てない、酒が無いって。  
それで家に客連れ込もうとするんだけど、岡っ引きに捕まるのやだからいっつも断ってんの。  
ま、そのたびに殴られるんだけどさ。  
 
大体、こんな話だろうか。  
不運な境遇に少し心が動いたが、本間家を動かせるほどの大事でもない。  
人生において大きいが、他人から見れば小事ということになってしまう。  
「でも、ま!遊郭に行けばご飯は食べられるみたいだし、いいかなって」  
よっ、とハナが立ち上がると、着物をはたく。  
「助けてくれたお礼に、遊郭にきたらあたしが遊んであげるからさ」  
色気も無く、首筋を見せてくるがマロはボーっと見ているだけだった。  
「んじゃ、戻って親父に殴られてくるよ」  
マロが止める間も無く、去っていってしまった。  
マロは思う、なぜ本間家と肩書きを持っていながらあんな少女一人救えないのかと。  
その日は、珍しく自分の足で屋敷に帰った。  
 
雨の日、字の勉強やら稽古やらを抜け出し、部屋で外を眺める。  
すると、雨の中、門を開けられずぽつんと立っている影があった。  
傘をさしてその影の下へ急ぐ。  
やはり、その人物はハナだった。  
「・・・した」  
どうした、と問うてみると、凍えているのだろうか、ハナは小さく震えていた。  
「親父から逃げてきた」  
下を向いていた顔を上げると、頬に大きなあざがある。  
どうやら思い切り顔を殴られたらしい。  
手を握ると、空き小屋の中に入れた。  
「ごめん、いきなり来て」  
マロが首を振る。  
「今度は、ホントに殺されると思って、親父が刀出したんだよ、足を切れば逃げられない  
って」  
泣いているハナの隣に座る。  
そっと手を包むと、ハナは氷のように冷たかった。  
すると、突然ハナがマロを押し倒す。  
「ねえ、しよ?」  
「・・・!?」  
「いいでしょ、本間家に迷惑かけないから」  
だが、所詮は女、マロが力を入れると、押し倒す体制から逃げた。  
「・・・だめ」  
そういうことをしては駄目だ、と告げたのだが。  
「そうだよね・・・あたし遊女になるんだもんね、お金もちのお侍様なんかが相手してら  
んないよね・・・」  
体を引きずるように近づいてくる。  
「・・・ちがう」  
「違わないよ!だって最初助けてくれて名前教えてくれたとき、運が巡ってきたと思った  
もん、助けてもらったのに、お抱えの遊女になれればなんて・・・」  
「・・・」  
「だめかなぁ?生きるために必死になるのって、いけないのかな・・・」  
ハナの吐息が近づいてくる。  
 
不意に、マロの腰をまさぐり、男根を取り出した。  
それを口に含む。  
不器用で、痛いほどに握り、ただ口で愛撫する。  
技量もなにもない、ただの押し付けだった。  
それでも懸命に舐められ、口の中のマロの男根は大きくなっていた。  
「・・・っ!」  
マロが精を吐き出すと、ハナはむせるように精液を吐き出した。  
喉に引っかかるのか、ひどく咳き込んでいた。  
コップに雨水を入れると、差し出す。  
ハナは受け取ると、飲み干した。  
「駄目だぁ・・・あたし、遊女にもなれないかな・・・」  
「・・・」  
「あたし、帰る」  
帰る場所なんてあるのだろうか。  
外はまだ大降りの雨が続いている。  
傘を差し出すと、門まで送っていった。  
マロは口を開かなかった。  
いつものように無口だからではなく、この少女に何をしてやったらいいのかがわからなか  
った。  
「じゃあね、もう会えないかも」  
「・・・売る・・・」  
懐から出した丹塗りの印籠を取り出した。  
もしもどうしようもなく困ったならコレを売ってどうにかしろ。  
そう言ったつもりだったが、ハナには理解できただろうか。  
ハナは眼を細めて笑顔を作った。  
眼の端にたまっていた涙が一粒、こぼれた。  
「ありがとう、貰っておく。きっと売らないけどね」  
それを袖に収めると、雨の中、去っていってしまった。  
 
 
それ以来、ハナを見たことは無い。  
摂津殿に短く聞いたこともあったが言葉を理解してくれないのでやめた。  
五助師範に聞いても知らぬと言われた。  
願わくば、まだ諦めずに月まで跳ぼうとしていてほしい。  
いつか枷を契り、自由に飛べるまで。  
私・・・マロが知っている、一羽のウサギなのだから。  
 

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